現地設置鉢形城後曲輪配置図(ブログ説明用に白・ピンク字加筆 原図は1に掲載)
その2では、曲輪をまとめました。本曲輪区域の御殿曲輪、御殿下曲輪、笹曲輪。
二の曲輪と辿ります。
北東で荒川と深沢川が合流するため、曲輪は南西に向かって広がって設けられている。
御殿曲輪は北西に向かって高く三段に区分けされている。氏邦はどこに居たのであろうか。
中段から上段の区画をみる。
現在南西隅(写真左奥)に遊歩道が入るが、中段区画以外の方向は、土塁を巡らし荒川の断崖と切岸城壁・土塁で侵入を拒んでいたと思う。北西隅は櫓台状で、郭内下に窪地がある。
北西隅
窪は井戸?
北西隅土塁上
櫓台があがるスペースはある。
下は荒川の断崖
北西隅土塁上から御殿曲輪上段区画
御殿曲輪は北東に向かって下がって行きます。
中段区画
下段区画
荒川の断崖沿いの土塁を背に鉢形城本丸跡の碑がある。
鉢形城本丸跡
ここを中心郭としているのか。
御殿曲輪北東は、1で紹介した堀イで尾根を掘り切っている。
この下方に笹曲輪がある。
笹曲輪
笹曲輪には北条後の成瀬時代の石垣がある。
笹曲輪の石垣
北条の石垣ではなく、成瀬時代の石垣。
秩父曲輪や馬出Bに見られる石垣とは積み方が異なる。
では御殿下曲輪へ
御殿下曲輪
説明板では、ここも含め本曲輪とし、上級武士の館地区としている。
道路右(東)には寄居町シルバー人材センターがある。
御殿下曲輪に建つ寄居町シルバーセンター
立ち入れなかったが、曲輪配置図によると写真奥、深沢川に沿って土塁が設けられているようだ。
では二の曲輪へ
この段差が御殿下曲輪と二の曲輪を分けるものなのか、二の曲輪内の区分けなのかわからないが、明瞭な段差が残る。左が御殿下曲輪方向、右が二の曲輪・三郭の曲輪方向。
城外のほうが高い…。防衛上の構造ではないかも。
中ほど、通路で接続している
二の曲輪
北西隅に城山稲荷神社。
その脇から1で辿った馬出Bを経て三の曲輪の秩父曲輪へ接続する。
三の曲輪・秩父曲輪とは最大上幅約24m,深さ約12mの大規模な堀で隔てられている。
堀に沿って土塁が設けられているが、高さが不明なことから位置を示すことを目的に低く復元してある。(現地説明版)
二の曲輪からは、掘立柱建物跡・工房跡・土坑・溝などが検出されている。工房は炭や鉄滓、鞴の羽口が出土していることから、鍛冶工房と判断された。(これも現地説明版)
北西隅城山稲荷神社
この後背下で、馬出Bを経て秩父曲輪と接続する。
この北西隅高地を櫓台として秩父曲輪ー馬出Bー三の曲輪への接続口を監視していたのだろう。
馬出Bから二の曲輪と三の曲輪を隔てる最大上幅約24m,深さ約12mの堀をみる。
二の曲輪土塁と堀との間に広く長い空間は、現地説明版によると敵に攻められた際に城兵が守備につく空間と思われるとされている。 だがそこに居ては、高い三の曲輪を占拠した寄せ手に、皆殺しにされそう…。
再掲(鉢形城1)ですが、反対(東)から。
馬出Bから秩父曲輪
三の曲輪秩父曲輪・逸見曲輪は氏邦鉢形領紀行のクライマックスを兼ねて3でまとめます。
クライマックスは最終回ではありません。まだ八幡山城と上野への進出を書きます。
参考文献 現地説明版
峰岸純夫・齋藤慎一(2011) 『関東の名城を歩く 南関東編』、吉川弘文館