氏邦鉢形領紀行、一か月かかりましたが、ようやく鉢形城へと辿りつきました。
永禄6年(1562)には一乱は終結し、日尾城周辺のみならず、鉢形領域全域において軍勢・知行の再編が行われる。そして氏邦に付属されていた小田原北条直臣たちが氏邦家臣へと直り、知行宛行の権限が小田原北条当主から氏邦に委譲されていく。 (伊藤 2011,pp.5-6)
一乱を経て鉢形領を制圧・掌握した氏邦は、国人藤田氏統治機構による支配体制から氏邦を領主とし小田原北条勢力を背景にした統治機構へと再編する。
氏邦の鉢形領・鉢形衆は永禄6年2月~翌7年6月に成立した。
氏邦の鉢形入城以前、鉢形城付近には新井氏が勢力を持っていたが、山内上杉氏が鉢形城から去って後は城郭として使用してはいなかったようだ。
氏邦鉢形領を取り巻く情勢が大きく変わる。
甲相同盟の破綻(永禄11年(1568))、越相同盟の成立(永禄12年)、越相同盟の破綻・甲相同盟の成立(元亀二年(1571))。
氏邦の鉢形領は、同盟関係から一転し敵対することになった西上野・信濃を勢力下におく武田勢との最前線、また敵対関係から一転し同盟関係となった上杉家との交渉口となる。
氏邦の鉢形入城の時期は諸説あり断定できないが、永禄5年8月4日以降、同12年2月以前の間と考えられる。初めての入部先が鉢形であった可能性も比定しきれない。(伊藤 2011,pp.4-5)
黒田は永禄12年(11年?)12月の氏邦駿河出陣時まで、氏邦の本拠を花園城とし、12年2月までの間に本拠を鉢形城に移したとしている。氏邦出陣前であったか留守中であったか確定できないが、武田との対戦に備えてのものであったとしている。(黒田 2014,p.56)
氏邦が居城とするのは藤田本城花園城でもよかったようなものだが、花園城は荒川北岸にあり、上野からの上杉の侵攻、後に同盟関係から一転し敵対することになった西上野・信濃を勢力下におく武田勢からの侵攻に対しては、鉢形領は北条の最前線になる。荒川北岸の近く御嶽城は争奪の的となり、敵方となることもあった。
永禄12年2月20日には武田勢により鉢形城が攻撃され、鉢形衆が迎撃している。武田との同盟が復活する元亀二年末まで、氏邦の鉢形領内は、再三にわたる武田勢の襲撃により「人民断絶」と評されるほどの侵攻を受けた。
武田に抗するには、花園城よりも荒川南岸の鉢形のほうが有利であろう。そういった防衛上の事情と、新統治機構の秩序の体現のためには鉢形城居城は有効であったと思う。
前置きが長くなりました。
氏邦が翕邦挹福を実行する居城・鉢形城を いきましょう。
現地説明板鉢形城跡曲輪配置図
鉢形城を攻囲し攻城戦を行うとなれば、敵は荒川を渡河し、小田原方向を背に鉢形城に寄せることになる。
頑強に抗戦して最中に後詰が来援すれば、寄せ手の背後から包囲、鉢形城籠城勢とで挟み撃ちにできる。
挟撃されるを避け、撤退するには荒川を渡河しなければならない。退却する敵を荒川渡河時に襲撃、その断崖と急流に追い落とすことができれば、敵に多大な損害を与えることができるであろう。
後詰が来援する前に城を落そうとすれば猛攻となろう。後詰が駆け付けるまで猛攻を凌ぎ城を維持するための防御ラインは、堀により三重構想に構えられていたのではないだろうか。(注:あくまで私の愚考です)
荒川の断崖を背に、御殿曲輪を主郭にその前に堀ア・イで構成された第3防御ライン。
その外郭に二の曲輪・御殿下曲輪・笹曲輪を配し、前に深沢川と堀ウ・三の曲輪と二の曲輪を隔てる堀で構成された第二防御防御ライン。
その外に三の曲輪・外曲輪を配し、その前に堀を巡らした第1線防御ライン。
(もっと外に惣構え的な堀があったかもしれませんが)
搦手は荒川と深沢川の合流点方向に搦手を置き、といっても合流点付近の断崖は、敵前にとても攻め寄せることなどできない。対極の三の曲輪西に大手を置いていた。
また第一防御線出入口、第二防御線出入口には郭馬出を設けている。
その1では、三重の防御ラインを、その2で居城としての曲輪をテーマにまとめてみます。
背後は御殿曲輪背後は荒川の断崖
深沢川と荒川の合流点近く、深沢川に架かる搦手橋
といってもここを架橋し城外と接続していたわけではないようだ。
深沢川に架かる搦手橋上から、荒川合流地点
一筋、道はあったそうだが、こんな崖を敵前に登り降りできないだろう。
氏邦の力量が見える気がする
搦手橋の城外がわ横に搦手馬出がある
馬出しには見えない。
お祭りの基地になっているようだ。
外曲輪に鉢形城歴史館
寄居町公民館長の御厚情により、郷土史家、学芸員の先生をご紹介いただき、懇切丁寧なご教示を頂くことができました。お名前は伏せますが、ここに感謝申し上げます。
鉢形城歴史館の南西、外曲輪前の堀エ(第一防御ライン)
連雀小路と鍛冶小路の間にあたる。
堀向うに後述する良秀寺(写真には写っていません)。
堀幅が花園城、天神山城の比ではない。
武田、上杉に対した永禄・元亀以降も、天正18年の豊臣勢の来寇まで改修増強がされたことであろう。
大手付近の堀
威容もある。
出入口には北条の郭馬出が設けられている。
このへんも花園城、天神山城とは次元が異なる。
鉢形城大手馬出
氏邦居城の玄関口。
大手馬出
郭ってて土橋で接続。
馬出を守る堀
堀と土塁で囲われた大手馬出内 諏訪神社が鎮座。
城内・三の曲輪への入口でだけでなく、社殿右奥にもう一つ接続口がある。
本殿脇、北西にもう一郭
大手馬出の堀が囲い込む
城内・三の曲輪への接続口
土橋で、三の曲輪城門へ接続する。
曲輪についてはその2でまとめます。
第二防御ラインは深沢川と堀ウ、三の曲輪と二の曲輪を隔てる堀で構成されている。
搦手橋から城内側の深沢川
鉢形城歴史館北西背後付近の二の曲輪と外曲輪を隔てる深沢川
城内に取り込んでるってのが凄い。
現在は鉢形城歴史館に接続している。
二の曲輪側に枡形のような低い一郭があり、またサイドに馬出Aがあり、往時もこの辺で接続していたのであろうか。
枡形のような一郭
深沢川に面し、馬出A
深沢川に垂直に堀ウが接続し掘られ、第二防御ラインが折れ設けられている。
堀ウ
三の曲輪と二の曲輪を隔てる堀
発掘によると畝があり障子堀であった。
二の曲輪は堀に沿って土塁が設けられていた。
このどん詰りに三の曲輪の秩父曲輪と二の曲輪を接続する馬出Bがある。
第二防御ライン北端
三の曲輪の秩父曲輪と二の曲輪を接続する馬出B
もう一枚
小さいが堀は鋭く深く、また馬出内には西・南・東に石積補強がされ強固な石積土塁の高さが保持されている。
馬出B内
小さいが郭ってる。
左には五段の石積土塁
西面石積土塁
草でいまいちよくわかりませんでしたが、説明板では全長約17.5m、高さ約2.3m、馬踏(上幅)約2.3m、敷(下幅)約6.9mの五段の石積が施されている。
馬出Bからは土橋で二の曲輪へ接続する。
土橋左(北)は荒川の断崖
第二防御ラインの北端。
二の曲輪へのルート
二の郭北西隅の監視を受ける。
二の曲輪と御殿下曲輪との間に道路が通り、この道路が堀跡であればもう一重防御ラインがあるのことになるのですが、わからないので御殿曲輪を囲う、切岸下際の堀アと笹曲輪側の尾根を分断する堀イを第三防御ラインとしました。
城壁のような切岸下際に堀ア
氏邦の最終防御ライン
落城か、後詰が来るか、というギリギリの状況での攻防ライン。
ずいぶん埋まっているのだろうが、障子・畝の痕跡のような構造がある。
折れを伴い障子畝
参考までに山中城の障子堀写真を一枚。
山中城障子堀
鉢形城も往時は同様であったことであろう。
堀ア中を土橋で御殿曲輪の高地中ほどの上がる虎口
右(北東)に高地を分断する堀イ
堀イ
右(北東)下方に笹曲輪
その2では各曲輪内を巡ります。
参考文献 伊藤拓也(2011)「戦国期鉢形領成立過程における「一乱」」、『埼玉史談』第58巻第一号(通巻305号、埼玉県郷土分化会)
黒田基樹(2014)「北条氏邦と越相同盟」、『関東三国志-越相同盟と北条氏邦-』、寄居町教育委員会鉢形城歴史館