真山城(長野県中野市間山馬曲) | えいきの修学旅行(令和編)

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                              真山城
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 高梨政盛が、永正7年(1510)、越後長森原で関東管領上杉顕定を討ち取った頃、間山の石動の構えを本拠としていた。その頃の要害・本城がこの真山城である可能性がある。
  高梨が中野氏を滅ぼし中野小館に本拠を移し、割ヶ岳城を本要害とした後も、武田の侵攻に備えた支城として機能したと思う。その頃の情勢は、弘治元年(1555)の第二次川中島合戦の和睦後、武田は北信の信濃武士たちに調略を伸ばし、高梨領内にまで迫る。肝腎の越後の景虎は、弘治2年、隠居宣言・出奔…、大熊の反乱…。高梨は井上の綿貫要害を攻めるなど、甲越のせめぎあいの前線になり、戦闘を行う。そして弘治3年2月の葛山城落城をうけ、高梨は中野をから飯山まで退き、第三次川中島合戦へと移る。
 位置関係は先の石動の館をご覧くださいhttps://ameblo.jp/mei881246/entry-12496894516.html

 

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ぽんぽこの湯駐車場奥から突入します。
帰りは温湯につかり、りんごのてんぷらを食しました。
 なかなか難儀な攻城で、かつ雨が本降りとなったため一城しか登れませんでしたが、きわめて至福の攻城でした。 
 
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駐車場奥の紅葉の下に遊歩道看板あり。ただし真山城への遊歩道ではありません。
 地図とカンに頼っての攻城でした。
  
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 川沿いに上流へ。
右に渡ります。 
 
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南尾根の鞍部をめざし、らんまるさん、ていびすさんの嗅覚に頼り山中へ突入。
 馬念さんと私は、躊躇しつつ…。
 
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あれが南尾根の鞍部のよう。 
 私単独なら彷徨ったであろうが、さすが信濃先方衆!らんまるさん、ていびすさんの道無き山中でのルート選定ディスカッションに感心。ああやって考えるのかぁ。
左に削平地のような段があり、居住もしくは倉庫スペースであったかもしれない。
 
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南尾根、鞍部、堀切ケ  
まず南尾根上がって左(南)、堀コを見ます。 
 
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南尾根鞍部、南を見ています。
先に堀切コ。
 ぽんぽこの湯から34分。 
 
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ていびすさんの先に堀コ
土橋状に通行でき、先に宮坂仮称坪井城に至るようだ。
  
振り返り、真山城へ。 
大きくします。 
 
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先にみた堀ケ 
堀と書きましたが尾根を削り切岸とし、ピンクライン城壁となる。 
 
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南尾根堀ケ前(南)に居ます。
真山城は山頂を主郭とし、十字四方に伸びる尾根にそれぞれ普請を施している。
 で、十字四方尾根は、ピンクラインでつないだ堀ケ(南)、堀カ(東)、堀ウ(北)、堀ク(西)で城壁を成し、防御線としている。  大手は北もしくは西尾根のようだ。
 東は二重堀切で遮断し、大手ルートがと思われる北尾根・東尾根が接続する主郭北西下には帯郭を配し、守りを固めている。(その2で)
 
  その1では南尾根から山上へ登り、東尾根を降り登り、主郭へと辿ります。
 
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堀ケうえの切岸城壁 
 
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から壁を見下ろす。
馬念さんが壁前に居ます。 
 
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山上方向 
主郭東を守る堀エと郭2に向かいます。 
 
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主郭の東を守る堀エ
両端(南北)は竪堀となる。
 郭2には主郭側に土塁がある。 
 
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堀エ南端 
うぃー 
 
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郭2 堀エ・主郭側土塁
右に東尾根
堀オが掘られ、二重堀切となっている。
 主郭へ上がる前に、東尾根を見てきます。
 十字尾根普請、見事だが、登って降りて、登って降りてを繰り返すことになる…。

 


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郭2から東尾根 
切岸下というか際に堀オ 
 
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二重目の堀オ 
 
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小気味良く、えぐい。 
 
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東尾根はエ・オの二重堀切で遮断している。
  
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ここも主郭側・堀オ側に土塁がある。 
 そういえば上越の天正期景勝に強化改修されたと推定した黒田城の遮断した尾根の堀の尾根の堀際主郭側に土塁があり、佐藤さんと「寄せ手が身を寄せてしまうが、どういうことだろうか」と考えたことがある。
 
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数段へて郭4へ 
 
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 ひだりに土塁のある小郭 
この先にピンクラインの城壁堀切岸カ 
 
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城壁堀切岸カ
写真だと落差いまいちですが、登坂はかなり困難と思います。 
 
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この写真だと落差が伝わるでしょうか。 
観察するは、ていびすさん。
この東尾根には両側に道程度の段があり、おそらくその段を観察・研究しているのでしょう。
 
 山上主郭へ登り戻ります。
  

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郭4付近から山上主郭方向
 
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郭2から堀エ際土塁・堀エ越しに主郭をみる 
左(南)、右(北)は、なかなか急。
 東面(手前)、北面(右)に低い土塁痕がある。
緩い東尾根は二重掘り切ってある。
 
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 主郭南面
急傾斜。
 
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北面は南よりもやや緩いが、急。
北面には土塁痕がある。
やや緩い分、土塁で補強したのだろうか。
尾根伝い以外には、到達は難しいだろう。
 
堀エから主郭へ
 
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東面、やや北寄りに微妙な切口がある。
南と東の尾根の城兵用が堀エ底を経由して出入りもしくは搬出入を行った口であろうか。
堀エ沿いの低い土塁越しに真山城主郭の郭1
東面(手前)、北面(右)に低い土塁痕がわかる。
 
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真山城主郭
25×7mほどの長方形(宮坂)
 奥(西)、段差があり、低く区画されている。その下に帯郭が三日月状に巻く。主郭低い区画の北西(右)に、虎口(馬念さん指摘)があり、下の三日月状帯郭に接続する。三日月状帯郭からは西と北の尾根が派生する。こちらの尾根のどちらか、もしくは時期を変えて両ルートが大手としてであったと思える。 その2で。
 
参考文献 宮坂武男(2014)『信濃の山城と館8』、戎光祥出版
 
    同行  らんまるさん、ていびすさん、馬念さん