鴨ヶ岳城・鎌ヶ岳城全容
七面山砦から郭7を経て郭6を目指します。
ここから入山
近付近如法寺の背後一帯は根小屋小屋と考えられ、遠藤公洋は『長野の山城ベスト50を歩く』のなかで、中野小館からの出土土師皿の年代から、高梨氏が本拠を中野小館から山麓部から移動させた可能性を指摘している。
登山路、整備されていますが、息も絶え絶え、めちゃめちゃきついです。
登山路写真、省略します。
七面山砦
入山口から8分。
郭7
左から箱山峠からの道が集まる標高560m地点。
入山口から16分。
ここからきつさ、ヒートアップします。
この岩上は城域で、左先端に郭6
1では、郭6から山上を左(北)から右(南)へ郭1まで辿ります。
郭No,堀切名は宮坂武男(2014)『信濃の山城と館8』に準拠します。
遊歩道から外れますが、左に城道とみる。
ここまで31分。
右測面岩場頭上から監視
郭6
眺望○
背後が山上方向
山上方向へ
岩を縫う。
やや下り、先ほど別れた遊歩道が右から入る。
そこが堀クであろうか。
めだった強固な防御以降はみられないが、段々に伝い、登る。
この辺りから段が高くなり、やや厳しさがでる。
ルートは遊歩道ではなく、側面から縫うように入ったか。
堀エと郭3
ここから主城域か
堀エ西側
岩盤は見せているのか、たまたまか。
堀底
木戸か。
東側
通路は狭められている。
郭3
二段に造成されている。
堀エを振り返る
郭3から堀エ東側
遊歩道はルートではなく、やはり側面を回っていたと考える。
郭3の南 堀オと郭1
主郭に迫る。
堀オ
郭3南端東部(左)に土塁
郭3南端東部の土塁
郭1との架橋台か。もしくは堀底へ侵入した敵への備えか。
堀切オ底を見る
急で、遊歩道のようにはの乗り越せないであろう。
ルートは郭3を経ず、堀底を縫い通っていたことと考える。
郭1へは、この堀底を左(東)から右(西)へ抜ける。
堀オ東
堀オ底から郭1
ここを登るはないだろう。
ちょっと戻ります。
堀オ西
この上をかすめ
郭1西斜面をトラバース
踏み跡はある。
私はルートと観る。
どうでもいい写真ですが、ルート提案の重要な箇所なので掲載します。
郭1西側中央に開口した虎口(写真中央の緑)が迎える。
郭1西側中央に開口した虎口
遠藤公洋は、この虎口を『長野の山城ベスト50を歩く』のなかで、新潟県内に類例が多く、長野県内でも野尻城に明瞭なものが残る逆四角錐台形の虎口としている。
天正10年の本能寺の変後、北信に進出した景勝期上杉の手による改修であろう。
虎口直下はこう。
下からルートが入ってくることはない。
郭1内から逆四角錐台形虎口
郭内の通行を制限する竪堀ではなく、虎口であろう。
郭1南に高地
櫓台であろうか。
郭1南櫓台上
櫓台から北 郭1
櫓台から東直下
櫓台から南 堀カこし郭2
堀カは上幅20m(宮坂)
郭2とも逆四角錐台形虎口からトラバースルートで接続したのだろう。
郭1は北を堀オ、南を堀カで堀切り、東西は急傾斜の崖で独立している。高梨惣領家の孤高を想う。
接続は西側中央の逆四角錐台形虎口で出入りする。この虎口、景勝期上杉のもので間違いないであろうが、運用意図については強固な防御を意図しただけのものではないと考える。
他に遠藤先生からは雪との関連を教示いただいた。私は主要出入り口としての威厳を示す意図も感じる。虎口形態の考察については私の最終目標のため、あらためて書こうと思います。ここではここまで。
南直下 堀カ
その2へ。
参考文献 宮坂武男(2014)『信濃の山城と館8』、戎光祥出版
川西克造・三島正之・中井均編(2013)『長野の山城ベスト50を歩く』、サンライズ出版