頸城村の山城 花ヶ崎要害と茶臼山城からご覧ください。
本記事は、2016.10.1に一部画像を入れ替え内容を修正しました。
茶臼山城
![イメージ 10](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/27/fb/j/o0314020914510064497.jpg?caw=800)
地図の茶臼山は展望台のある砦で、本記事の茶臼山城跡ではない。
堤防西端から整備された遊歩道が茶臼山城へ続く。
![イメージ 17](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/0e/ff/j/o0314020914510064502.jpg?caw=800)
堤防からは町田城が見える。
![イメージ 11](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/50/32/j/o0314020914510064511.jpg?caw=800)
ややズーム。
![イメージ 14](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/3e/3f/j/o0448029914510064516.jpg?caw=800)
堤防西端から5分、主郭東切岸が現れる。
![イメージ 1](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/14/05/j/o0314020914510064525.jpg?caw=800)
主郭東端切岸下、堀ア
構造概要
○堀ウの右(東)が主要害城域で、東の堀アとで、城域の東西を区切る。
○堀ウの左(西)の西郭郡は、要害普請はされていない。
○主郭の北、五郭下に、緩斜面に向かって低い土塁を設け胸壁とする塹壕状陣地aを設けている。(遠藤 2004,p18)。
○主要害城域中の堀イは、北からの主要登城路で、そこには高度な仕掛けが施されたルートが設定されている(遠藤 2004,pp65-6)。
○土塁が随所に幅・高さ・形状を変え施設され、機能に合わせた運用がなされている(遠藤 2004 ,p.69)。
主郭設置説明板をブログ説明用に加筆し使用
![イメージ 18](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/ee/b2/j/o0400029314510064528.jpg?caw=800)
遊歩道は主郭南東隅下から城域に入り、南から主郭へ登る。
しかしこれはルートではない(イメージが崩れるため加筆せず)。
では、まず遊歩道で主郭へ入りましょう。
![イメージ 2](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/a6/0a/j/o0314020914510064535.jpg?caw=800)
主郭南切岸に遊歩道。
木のところ、右に折れ、主郭への遊歩道が登る。
![イメージ 3](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/2d/a1/j/o0314020914510064537.jpg?caw=800)
どなかたが整備されたのであろうか、城道ではないが、雰囲気を損なわず、歩きやすくいい遊歩道である。
![イメージ 5](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/27/30/j/o0448029914510064553.jpg?caw=800)
階段上がると主郭
城歴と概念図が簡潔に記された要領のよい説明板が設置されている。
![イメージ 6](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/d6/71/j/o0448029914510064561.jpg?caw=800)
左、主郭西部
約30m×約70mの長方形で、なかなか広い。
西端(写真奥)にはL型に土塁がある。
北には一段低く五郭、さらに段郭がある。
![イメージ 19](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/16/7f/j/o0448029914510064566.jpg?caw=800)
主郭北下帯郭五郭東部とその下方塹壕陣地a
![イメージ 21](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/b0/06/j/o0448029914510064571.jpg?caw=800)
降りました
前面土塁を胸壁とする塹壕状射撃陣地と、後背の土塁のない切岸上五郭東部とセットになった防御施設。
![イメージ 20](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/c4/d4/j/o0448029914510064576.jpg?caw=800)
前面に低い土塁を設け、胸壁とする塹壕状射撃陣地a。
![イメージ 7](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/c8/6b/j/o0448029914510064581.jpg?caw=800)
五郭西端(堀イ際)は、土塁がL型に構えられている。
先に書いた堀イを通り伝い来る敵に対し、土塁が構えられている。
五郭にはちょうど木の根本あたりが井戸跡のようで、水気がある。
![イメージ 12](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/f4/c6/j/o0448029914510064584.jpg?caw=800)
五郭土塁
さらに堀イに沿って下方に土塁で守られたA区画がある。
![イメージ 13](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/6d/91/j/o0448029914510064589.jpg?caw=800)
五郭下方A区画と土塁
堀イを伝い攻め上ってくる敵に対する最前の防御拠点と思われる。
堀イは、五郭線・A区画線で堀底に段差が設けられ、堀幅が変わる。そこが城門2。
主郭に戻ります。
![イメージ 8](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/f1/c8/j/o0448029914510064595.jpg?caw=800)
主郭も同様、堀イに向かって土塁がL型に構えられている。
また南西隅は、土塁が欠けている。
これは堀イ対岸、二郭からの木橋が掛かっていた箇所であろう。
![イメージ 4](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/dd/31/j/o0314020914510064600.jpg?caw=800)
主郭南西隅
ここは土塁がなく、二郭からの木橋が掛かっていた地点と推定できる。
木橋下は、門が塞いでいたと思われる。
![イメージ 16](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/6b/62/j/o0448029914510064602.jpg?caw=800)
城門1
狭まり、城門で塞がれた敵は、城門2-1間の堀底で往生し、両側頭上から挟撃を受ける。
城門1上は、二郭と主郭を繋ぐ架橋部と想定。
門と通路が一体化していれば櫓門のような形態であったかもしれない。(そこまでは進化していないか)
![イメージ 9](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/75/2f/j/o0448029914510064605.jpg?caw=800)
五郭ライン付近からみる堀イ(登り口方向)
ここで主要登城路について遠藤論文を基に概念図でまとめます。
![イメージ 15](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/30/d7/j/o0350040214510064612.jpg?caw=800)
北から段差普請が施された堀イ底を通り、城門2に至る。次いで、主郭・二郭間を城門2-1により構成された桝形とし、ここを抜けて三郭へ出、土橋で二郭へ上がり、城門1上木橋で主郭へ至るというルートで、堀底に段差を設け、郭内土塁と相関した巧妙な仕掛けを施した高度な出入り口の工夫が施された近代的なルートである
堀イを伝い攻め上る敵に、堀底に段差を設け、城門2を構える。堀幅を変える地点にA、五郭、二郭、主郭と重層に布陣し、待ち構えている。最奥には木橋の地点に城門1が塞ぎ、城門2-1間の枡形内で往生する攻城兵は、その側面頭上の二郭、主郭から挟撃される、という極めて重厚かつ熾烈な迎撃を受けることになる。
(遠藤 2004,pp65-6)。
その2・3では、その主要登城路を辿ってみます。
参考文献 遠藤公洋(2004)「戦国期越後上杉氏の城館と権力」
上越市史中世史部会『上越の城』