金山谷からみる松倉城
![イメージ 1](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/d1/d1/j/o0314020914510043459.jpg?caw=800)
中央左、木の裏あたりが御屋敷と伝わる。
山裾が根小屋地区で、中腹に大見城(実城?)平といわれる居館、山上の尾根に要害がある。
上杉輝虎は永禄12年、武田と結んだ椎名康胤を松倉城に攻め、要害際に陣取り、根小屋を放火、巣城にし、押し詰めている。 永禄十二年八月廿三日 直江大和守 本庄美作守宛 上杉輝虎書状
「(前略)廿日越境河所々放火、堀江之地崩、廿一日石田ニ休人馬、廿ニ金山へ押詰、要害際ニ陣取り、廿ニ之暁しんしやう則、従此方堅固ニ為持、同廿三申刻金山根小屋悉自放火、無残所一変、併松倉巣城計ニ而相抱候、所々作毛打散候間、何を以末々可成功候哉(後略)」(上越市史799)
![イメージ 8](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/0b/27/j/o0314020914510043463.jpg?caw=800)
山上の主郭下、山腹の大見城平との間に駐車場があり、舗装林道が通っている。
碑の右下へ降りる道があり、大見城平へつながっています。
![イメージ 9](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/c3/12/j/o0314020914510043466.jpg?caw=800)
その1では、大見城平へ向かいます
参考文献 佐伯哲也『越中中世城郭図面集Ⅱ』
![イメージ 10](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/4d/e8/j/o0314020914510043472.jpg?caw=800)
途中、水飲み場という場所があります
![イメージ 11](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/63/63/j/o0314020914510043478.jpg?caw=800)
土塁がみえてきます
振り返ります
![イメージ 12](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/e9/a3/j/o0314020914510043482.jpg?caw=800)
下ってきた遊歩道は、城道ではなく、当時は右上の郭伝いに主郭したの郭にとりついたようです。
![イメージ 13](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/fe/d8/j/o0314020914510043490.jpg?caw=800)
急直下、大見城平へ
![イメージ 14](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/c7/26/j/o0448029914510043497.jpg?caw=800)
城主居館だけではなく、重臣の屋敷が建つこともできる広さがある
年代は特定できないが、大見城平は焼かれた痕跡があり、輝虎による放火が大見城平にまで及んでいたかもしれない。(佐々vs景勝による戦闘かもしれない)
![イメージ 15](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/db/43/j/o0448029914510043501.jpg?caw=800)
ほぼ中央部に説明版(この写真は山上方向をむいています)
この右手に城下集落から登城路を迎える石門があります。
遊歩道は写真下に向かい、切岸を抜けて城下集落からの登城路につながります。
![イメージ 2](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/f2/01/j/o0314020914510043511.jpg?caw=800)
これが城下集落からの登城路のようです
振り返ります。
![イメージ 3](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/32/16/j/o0314020914510043514.jpg?caw=800)
遊歩道は切岸を抜けていますが、この切岸は140mもあり、当時は、この切岸にあたり右に折れ、切岸下を長く通り、屈曲を経て石門にから大見城平へはいったようです。
![イメージ 17](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/64/75/j/o0314020914510043520.jpg?caw=800)
左側
塁々といった雰囲気
![イメージ 4](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/98/5a/j/o0314020914510043525.jpg?caw=800)
遊歩道の右側切岸
登城者は、ここを通ったか。
![イメージ 5](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/bf/c8/j/o0314021014510043529.jpg?caw=800)
屈曲を経て石門へ
![イメージ 16](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/5e/1d/j/o0314021014510043532.jpg?caw=800)
線なし
![イメージ 6](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/b0/96/j/o0314021014510043538.jpg?caw=800)
石門
佐伯先生は、四脚門の可能性を指摘している
![イメージ 7](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/df/b2/j/o0448029914510043541.jpg?caw=800)
石門から大見城平
門の内は、枡形になっていたようである。
佐伯先生は、登城者をこの切岸下を通し、屈曲を経て石門、桝形へ迎える設定は、織豊系武将の普請、佐々成政の構築を推定している。
その2では山上の要害、主郭へ。