松倉城塁群 | えいきの修学旅行(令和編)

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松倉城(椎名時代は金山城と呼ばれていた)全景                   
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 新川郡守護代椎名氏の居城として中腹の大見城平に居館を構え、そこを中心に城下町金山谷を抱くように背後の要害金山城と周囲の山や尾根に城塁群を設け、城下町金山谷と奥の松倉金山とを守っていた。
 椎名康胤が永禄十一年(1568)一向宗ー武田と結び上杉謙信に背くと、松倉城は謙信の攻撃を受ける。魚津・天神山など海岸平野部を自由にされ金山谷に押し込めらえるが、椎名康胤が元亀四年(1573)の落城まで5年もの間勢力を維持し得たのは、この壮大な城塁群に拠るであろう。
 図の左上(北方向)武隈屋敷の奥の山地には北山城、坪野城を置き、警戒をしている。
上杉謙信が松倉城を攻め落とし椎名氏を滅亡させた際は、坪野城に本陣をおいたとする伝承がある。

 

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 設西から金山谷へ至る街道は、早月川を渡り尾根を越える地点に石の門をけ覇府の威厳を示し、その尾根には升方城、升方南城、水尾城を置き守りを固めていた。升方城は支城とはいっても、上杉景勝、佐々成政、前田によっても利用され、拠点とするに足る近代的な城郭普請がされている。 
  写真左側の尾根に備える口と写真右側の尾根・石の門側に備える口に、明確に設定されたルートに構える普請が、明瞭に見てとることができます。記事で紹介するつもりです。
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石の門

看板地点このあたりhttp://yahoo.jp/C0wrPG
 
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西から金山谷に入る山街道に構えられている
 
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門右側の石垣
 
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門左側の石垣
 
 
 
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武隈屋敷
椎名氏家老の武隈氏の屋敷
 
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虎口右側の石垣
 
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屋敷内
土塁も残るが、どのように使われていたかはわかりません。
 
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桝形虎口
 
参考文献 図説魚津の歴史 佐伯哲也著 越中中世城郭図面集Ⅱ 越中中世史の研究