第四話 韓流時代小説 夢の途中【秘苑の蝶】 後編
~王と世子(コン)の間で揺れる雪鈴の心。そんな中、承恩尚宮ソン氏の懐妊が発覚し~
国王陽祖に召し上げられた雪鈴は、後宮入りし、承恩尚宮となった。21歳も若い娘のような雪鈴を熱愛する陽祖。
一方、文陽君ことコンは愛する想い人を突然、王に奪われ、嫉妬で鬱々とした日々を送る。そんな中、世子冊封の儀式が行われ、コンはついに正式な東宮となった。
コンはまだ雪鈴が一方的に別離を告げたのは、自分の前途を思い身をひいたのだと考え、何とか雪鈴の本心を確かめたいと思っている。しかし、「王の女」である雪鈴と世子であるコンが二人きりになれる機会など、あるはずもなかった。
だが、秘苑と呼ばれる王宮庭園の奥深く、二人は運命的かつ皮肉な再会を果たす。
更に、導きの蝶である銀蝶が雪鈴を導いたのは王妃の居所とされる中宮殿だった。
ー今でさえ正式な側室でもないのに、私が王妃になるなんてあり得ない。
やはり、銀蝶が未来を告げるというのは自分の思い違いにすぎないと苦笑する雪鈴だったが。
嵐の王宮編、怒濤の展開、後編。
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同月十五日、吉日を卜して文陽君ことイ・コンの世子冊封の儀式が厳粛かつ盛大に行われた。掌楽院の楽師たちが奏でる荘厳な楽の中、威儀を正した正装に身を包んだコンは、正殿前へと至る道をゆっくりと進む。
国王陽祖がコンを世子に立てることを高らかに宣言するや、一堂に会した百官が一斉に尺を持ち上げ唱和した。
「世子邸下、千歳(チヨンセ)、万歳(バンセ)」
「世子邸下、千歳、万歳、千々歳(チョンチョンセ)」
居並ぶ廷臣一同も皆、それぞれ正装であり、彼らの繰り返す叫びはその日、天をも揺るがすかのようであったと当時の史官の記録には残されている。
その場にいた誰もが新しい時代の足音を聞いていた。時代の潮流は渦を巻いて流れ始めている。廷臣たちの心からの叫びは、英明なる新たな王の出現を待ち望んでいることを物語っていたのかもしれない。
立太子礼の日、雪鈴もまた儀式の末席に連なっていた。承恩尚宮は正式な王族ではないけれど、王族に準ずる扱いを受ける。ゆえに、彼女の席は王室の一員が陣取る一角に設けられた。むろん、雪鈴ははるか下座にすぎない。王族席の上座には今日の晴れの主役コンの実父である綾徳君、その夫人も着飾って連なっていた。もちろん、コンの継母には頬を打たれた経緯もあり、あの貌は忘れようとしても忘れられるものではない。
コンの父は小柄で痩せており、正直、息子とは似ても似つかない風采の上がらない中年男性にすぎなかった。まだしも男前の国王の方がコンと似ていると言って良い。
綾徳君は息子が思いがけず世継ぎの君に指名されるという僥倖に、浮かれっ放しのようだ。
「世子邸下、千歳、万歳」
「世子邸下、千歳、万歳、千々歳」
文武百官たちが新しい世継ぎの君の永の弥栄(いやさか)を願う声は今や天まで届かんばかりに響き渡る。
雪鈴は固く眼を瞑り、その天をも揺るがさんばかりの声を聞いていた。
これで、あの方は本当に遠い人になってしまったー。眼を開いて、せめてコンの晴れ姿を眼に記憶に焼き付けておきたいと思うけれど、彼を見ただけで泣いてしまいそうだ。だから、眼を開けずに耳に刻み込んだ。
雪鈴に与えられたのは本当に片隅であるため、彼女が淋しげに眼を伏せていたのを幸いにも見とがめられることはなかったのであるー。
月が中天に昇る刻限、大殿の秘められた空間ー王の寝所にひそやかな衣擦れの音とあえかな声が妖しく響いていた。
大きな寝台の周囲は純白の紗で覆われ、中でどのような秘め事が行われているか知る由はない。
「うぅっ、ああっ、あーぁ」
桜色の唇からは絶え間なく切なげな声が花びらのごとく零れ落ち、雪鈴は声だけでなく形の良い眉もキュツと切なげに寄せていた。
「ーあぁ」
王もまた心地よさげに息を吐き出した。
王は寛いだ様子でくったりとくずおれた雪鈴を抱きかかえ、優しく膝に乗せる。
「どうだ、今夜も満足できたか?」
王の手が愛しげに雪鈴の髪を梳く。雪鈴はまだ果ての無い絶頂を極めさせられた名残で、話す気力もない有り様だ。
ー私は自分が怖ろしい。
この頃、雪鈴は本気で自分自身が怖くなっていた。あろうことか、我が身は王に抱かれた初めての夜以来、抱かれる度に凄まじい快感を感じるのだ。
ー殿下の唯一の特技は夜毎、寝所で披露される。
臣下たちから揶揄されるほど、王の女好きと絶倫は有名だ。どちらかといえば虚弱体質なのに、何故か閨事にかけては旺盛な王である。初めて夜伽を務めた夜以来、雪鈴は数日に一度は王の閨に呼ばれた。
その度に、雪鈴はついには泣いて許しを請うほど責め立てられ、甘く狂おしい快楽地獄に陥落する。
自分の愛する男はコンだけだと信じていたから、よもや王に抱かれて悦がり狂うとは考えもしなかった。だが、現実はどうだろう、身体はことごとく心を裏切り、抱かれる度に雪鈴はあられもない声を上げて乱れる。
ー今夜は感じまい。
固く心に決めて寝所に入るにも拘わらず、いざ王に触れられただけで身体はしっとりと露を帯びた花びらのようにほころび、歓んで王を迎え入れる。
どれだけ心を保とうとしても、いつしか巧みな愛撫に翻弄され、身体は屈服しているのだった。その夜も悲壮な覚悟はどこへやら、雪鈴は男の腕の中で数え切れないほどの絶頂を極めさせられた。
まだ絶頂の余韻も冷めやらぬ中、王が雪鈴を膝に乗せたまま、顎を掬い上げる。仰のけられ、唇を荒々しく塞がれた。深く唇を結び合わせながら、またしても褥に押し倒されたときだった。
胃の腑の底から烈しい吐き気がせり上がってきて、雪鈴は王の胸板に手を突っ張った。
流石に異変を感じた王が離れ、訝しげに雪鈴を見やる。
雪鈴はその間も止まらない嘔吐感に苛まれ、口許を掌で覆い咳き込み続けた。あまりに咳くので、涙目になってしまう。
王は透徹な瞳で一部始終を眺めていた。ややあって頑固な吐き気が漸くひとまず治まった時、王が静かな声音で問うた。
「身籠もっているのか?」
その瞬間、雪鈴の棗型の瞳が王を射るように見開かれた。