登場人物 楊香蘭(ヤン・ヒャンラン)
→イメージ女優 キム・ユジョン 15歳 宗州島で生まれ育つ。両親を亡くし、妓房の行首に引き取られ、養われる。
崔韓秀(チェ・ハンス) イメージ俳優→ チャ・ウヌ
23歳 都生まれの都育ち。名家の貴公子、哀しい過去を持つ。
第五話 君を夢見る~Dream of you~【前編】
~遊女として女として。 18世紀朝鮮を風のように駆け抜けた少女の生涯~
2024年夏、新シリーズ始動!
新連載 韓流時代小説
春望【春を待つ】~a certain marmeid 's love~
~朝鮮王朝期、本土から遠く離れた宗州島
で繰り広げられるピュアで切なく、哀しい恋物語~
楊香蘭は15歳。 6歳で両親を失い、二歳下の妹玉蘭と共に妓房に引き取られた。 月日は流れ、美しい舞姫となった香蘭は、早くも男たちが水揚げさせて欲しいと殺到するほどの美少女に成長した。
香蘭には夢があった。 それは、いつか相惚れとなった男に晴れて嫁ぐことだ。 だが、いずれ妓生になる宿命の香蘭は、けして見てはならぬ夢であったー。
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その数日後、新しい年に変わって最初の月も終わりに近づいたある日。その日はハンスの青海楼での最後の漢詩講義になった。
ハンスはまた以前のように講義開始きっかり一刻前にやってきて、いそいそと香蘭の室を訪れるようになった。隠れて、こそこそと忍び会っていた頃が随分と過去のように思える。
祝言は来月の初め、観徳亭で行われることになっている。観徳亭は別名〝水宮(すいきゆう)〟と呼ばれる雅な四阿である。通常は役所の公の行事が行われ、婚礼が挙げられるのは両班に限っている。
花婿のハンスは両班ではあるけれど、香蘭は妓房で育った平民だ。だが、これは牧使の鶴のひと声で難なく決まった。
むろん、祝言には育ての親である青海楼の女将初め、姐香月、役場の下級役人に嫁いだ元妓生の明月も連なってくれる。仲人は牧使自らが買って出てくれた。
宗州島でいわば身内に祝福された内輪の祝言を挙げ、本土の都に行ってから落ち着いた頃、今度は牧使や亡き父の知人、下町で達者に暮らしている彼の母方の祖父を招いて二度目の祝言を行うと決めていた。
その日もハンスは早めに青海楼を訪れ、香蘭の私室で、彼女との会話を愉しんだ。荷造りが進むにつれ、手荷物が減って、室内はすっかり淋しくなった。
ガランとした室内で膝をつき合わせて話しながら、口にはしないけれど、考えるのは二人ともに同じことだ。
ーあとひと月もしない中に、私はいよいよハンスの奥さんになるのね。
ー 一ヶ月も経てば、香蘭のこの笑顔をいつも見ていられるんだな。
結ばれたといっても、二人が身体を重ねたのは柚子茶祭の夜一度きりだ。
それでも、こうして二人きりになれば、どちらからともなく手をしっかりとつなぎあわせ、別れる前には軽い口づけをし抱擁を交わすようになった。
漸く二人ともに恋人らしい雰囲気になれたといえよう。
それでもまだ、ふとした拍子に視線が合えば、互いにうす紅くなり、慌てて眼を逸らす初々しさも残っていて、そんな二人を香月は微笑ましくも思う一方で、呆れもするのだった。
講義開始少し前になり、香蘭の室にいたハンスが名残惜しげに立ち上がった。
「立つ鳥後を濁さずともいうからね。今日こそ遅れないようにしなければ」
言葉とは裏腹に、ハンスはなおも去りがたそうに香蘭を見ている。ハンスが両手をひろげ、香蘭は素直にその逞しい腕に身を預けた。
ハンスはしばし香蘭の黒檀の艶やかな髪に鼻を押し当てている。
「あと少しの辛抱だな。来月にはもう香蘭とずっと一緒にいられるんだ」
祝言から赦免船が来て島を離れるまでは十数日ある。その間だけ、香蘭は牧使が用意してくれた役宅でハンスと新婚の日々を過ごすことになっている。ハンスが現在、借りている仕舞屋は夫婦で暮らすには、あまりにも手狭だからだ。
そのときだった。香蘭が口を手のひらで押さえ、小さく呻いた。
「香蘭?」
ハンスは愕き、想い人の顔を覗き込んだ。
「大丈夫かい? どうした」
香蘭は弱々しく微笑み、ハンスを見上げた。
「何でもないの。大丈夫よ」
ハンスが躊躇する。
「でも、顔色が真っ青だ。大丈夫なはずがない」
香蘭はなおも言った。
「今日は最後の講義でしょう。あなたも今し方、言ったばかりじゃないの。遅れては駄目よ」
ハンスはまだ心残りで仕方が無いようで、気遣わしげに言った。
「君は落ち着くまで部屋で休んでいた方が良い」
香蘭は首を振った。
「あなたの最後の講義だもの。出たいわ、ね、お願いだから、もう行って」
ハンスは何度も振り向きつつ、階下へ降りていった。
一人残された香蘭はまた、しつこい吐き気が身体の奥底からせり上がってくるのを自覚した。数日前から、嘔吐感を感じるようになった。突然、気分が悪くなり、吐きそうになる。実は何度か実際に吐いてしまったこともある。厠へ駆け込んだから、誰も気づいてはいないだろうけれど。
一体、私の身体はどうしてしまったのだろうか。やっと愛するハンスと新しい人生を生きると決めたのに。
香蘭は小さな溜息をつく。突然の体調の変化が自分とハンスの未来へ翳を落とす予兆のように思えてならなかった。
結局、香蘭はハンスが青海楼の妓生たちに最後の指南をするところを見ることは叶わなかった。どうにも吐き気が去らず、ずっと室で横になっていたからである。
夕刻になり、廓の最も忙しい時間が近づいていた。階下では、そろそろ登楼する客たちの声と姐さんたちの愛想の良い声が入り交じって聞こえている。
たかが吐き気などで、吞気に寝てばかりいるのも気が引ける。香蘭は何とか床から起き出し、ゆっくりと階下へと降りていった。三階から続く螺旋階段には毛脚の長い絨毯が敷き詰められている。
途中の踊り場まで来た時、またぞろ、あの嫌な感覚が湧き上がってきた。香蘭は喉元を押さえ、その場にくずおれた。
ー駄目。
少し油断すると、この場で吐いてしまいそうだ。だが、ここは廓では天下の往来、いつ何時、客が通りかかるかは判らない。吐瀉物をまき散らすわけにはゆかないのだ。
女将は童妓たちにいつも言い聞かせていた。
ーお客の旦那衆は一夜の夢を買いにうちに来なさるんだ。旦那がお足を落とす対価として、私たちは極上の夢を提供する。
だから、客の甘い口説き文句もけして本気にしてはならない。男は廓で一夜の夢を見るにすぎないゆえ、夢の中で囁いた睦言はすべて真っ赤な嘘なのだと。
話の最後に、女将は必ず付け加えた。
ー夢の中で聞いた男の嘘を真に受ければ、女郎には地獄が待っているだけさ。
客が一歩妓楼に足を踏み入れた瞬間から、そこは〝夢〟の世界になる。それは、けして興ざめな現実が入りこんではならない空間だ。
香蘭は懸命に吐き気を堪え、口元を押さえて立ち上がるも、均衡を崩してよろめいたーその時。早く厠へ行かなければ。
傍らから聞き慣れた声が聞こえた。
「危ないッ」
咄嗟に支えて貰わなければ、香蘭は派手に転んで身体を床に打ち付けていたに相違なかった。
香蘭をしっかりと抱き留めたのは、ヨンギルであった。香蘭は緩慢な動作で頼もしい幼なじみの顔を見上げた。


