色とコトバでつづるスケッチ -2ページ目

色とコトバでつづるスケッチ

色とコトバを通して、人生をスケッチするように綴っていきます。

私は、昔から朝型だ。

夜はだいたい10時頃にベッドに入り、朝は5時頃に自然と目が覚める。

無理に早起きをしているわけではなく、体のリズムで静かに目覚める感覚がある。この“自然に起きる”という感覚が、何よりも心地いい。

 

 

特に、日が長くなるいわゆる夏時間の季節は、この生活スタイルの良さをより深く感じる。

まだ街が完全には動き出していない静かな時間。

ゆっくりと一日を始めるひとときは、とても贅沢だ。そして、朝が自然とワクワクする。

 

 

白湯で起きたての身体をやさしく潤す。

内側にじんわりと温かさが広がっていくのを感じながら、呼吸を深めていく。

そこから軽くヨガをはじめる。背骨のしなやかさを確かめるように動き、胸をひらくポーズで呼吸を通す。

太陽礼拝は、太陽の方向へ身体を向けて行うことで、ただの動きではなく、どこか自然との対話のように感じられる。

 

 

 

ひと通り身体を整えたあとは、バルコニーへ出る。淹れたてのコーヒーを手に取り、立ちのぼる湯気と香りをゆっくりと味わう。その香りが体の奥へと染み渡っていくような感覚が、なんとも言えず心地いい。

 

遠くの空を眺めながら、ゆっくりと頸椎をまわす。

小さな動きの中で、身体の内側に響く音や感覚に耳を澄ませる。

今日は左側にわずかな硬さがある。まだ消化しきれていないような重さも、どこかに残っている。

そうした微細な感覚を否定せず、そのまま受け取る。深呼吸を重ねながら、胃や腸といった内臓も含めて、脊柱にやわらかな風を通していくイメージを描く。すると、少しずつ内側がほどけていくのがわかる。

 

 

極上の朝。

今日もまた、豊かな時間を感じながら、一日が静かに始まっていく。

 

前に「ステイトメントをぱくられた」というスレッズが流れてきたことがあった。
その人は、くしくも私のことばと「似ているな」と感じていた表現をしていたアーティストでもあった。

 

そのとき、改めて思ったんだよね…

完全にゼロから生まれた表現なんて、ほとんど存在しないって。

人は必ず、何かを見て、触れて、影響を受けて、その上で自分の形をつくっていく。

 

 

だから、「パクった」「パクられた」という感覚には、どこか違和感がある。
まるでそこに“所有権”があるかのように扱うことに、少し無理がある気がする。

 

もちろん、あまりにも露骨な模倣は別の話だけれど、多くの場合は、似てしまうことよりも、そのあとどう「更新」していくかの方が、ずっと重要なんじゃないかと思う。

 

 

そして思うのは、「パクられた」と言い始めた瞬間に、人は自分の表現を“過去のもの”として固定してしまうということだ。

 

本来、表現は更新され続けるものなのに、そこに境界線を引いてしまった途端、それ以上先に進めなくなる。

むしろ、「自分の表現が奪われた」と感じ続けることのほうが、創作にとっては危うい。


なぜなら、そこがその人の限界点になってしまうからだ。
そこに意識が向き続ける限り、表現は過去に縛られていく。

 

誰かに似ているかどうかではなく、
どこまで自分の深さに潜れているか。
どこまで自分の言葉で語れているか。

たぶん、本当に問われているのはそこなんだと思う。

 

 

そしてもうひとつ大事なのは、自分の環境を自分で選ぶことだ。
ノイズになるものから距離をとるのは、逃げではなく、創作を守るための選択でもある。
SNSにとどまり続ける必要もないし、必要であれば距離をとる。
ときにはブロックという手段で、自分の視界をコントロールすることも、その一部だと思っている。

 

自分の表現の深度をいかに更新できるか、そこがクリエーションでおもしろいところなんだと思う。

 

最近、Threadsをみていると、「戦争反対」というメッセージとともに、自分の作品写真を添えて投稿している人を見かける。

それを見ていて、どうしても拭えない違和感がある。



というのも、添えられている作品は、いわゆる抽象画で、そこから戦争反対や平和への願いといったメッセージが、ほとんど読み取れないことが多いからだ。



もちろん、表現は自由だし、作品に明確な意味を持たせる必要もない。でも、強めの言葉と、ほとんど結びついていないビジュアルが並んだとき、どうしても「これはインプレッション稼ぎなのでは?」と感じてしまう瞬間がある。


そういう投稿を見ると、その人のスタンスのようなものが、意図せず透けて見えてしまう気がする。そして同時に、作品そのものの軸も、少しぶれてしまっているように”私は”感じるのだ。



表現は誰にでも開かれているし、何をどう発信するかは完全に自由だ。それでも、「何を言うか」と「何を見せるか」が乖離していると、受け手としては戸惑ってしまうんだなと感じ、記しておきたくなった。



昔はよく「ブレイクスルーしたい」って言ってた。

 

なんかこう、自分の中に突破口みたいなのがあって、
そこを抜けたら一気に変われる気がしていた。

 

もっと軽く動ける自分とか、
本来の自分で何でもできる状態とか、
そういう“向こう側”がある気がしてた。

 

で、その「どこ?」っていうのをずっと探してた気がする。

 

今思うと、それって外にある壁を壊すっていうより、
自分の“見方”の話だったのかもなって思う。

もっというと「体感」なのではないかなと思ってる。

 

 

 

たとえば、他人と比べること。

これって、自分を知るうえでは必要なんだけど
ずっとそれで見てると、全部が相対的になるんだよね。

 

あの人より上とか下とか、
できてるとかできてないとか。

気づくと、なんか全部が重くなる。

 

判断するときも、
どっかに基準を探しにいっちゃう感じ。

 

たぶん自分が「突破したい」って思ってたのは、
この状態から抜けることだったのかもしれない。

 

 

誰かとの比較じゃなくて、自分の中にある感覚で動ける状態。

背骨みたいな軸が一本通る感じ。

 

それに気づいたとき、
「あ、これかも」ってちょっと思った。

 

何かを壊したわけでもないし、
どこかに行ったわけでもないんだけど、

ずっと頑張って抜けようとしてたけど、
そもそもそんなに閉じ込められてなかったんだよね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

超久しぶりの投稿。

今、私はアーティストとして活動している。

 

ここにきて、自分の人生をちゃんと残しておける「日記みたいな場所」が必要だなって思った。


作品のショーケースにしているインスタでもなく、主流のnoteでもなくて、もっと素の自分を置いておける場所。そう考えたときに、「やっぱりアメブロかな」って。

 

 

2021年3月3日、乳がんの手術。
その後、放射線治療、そしてホルモン療法を5年。

最初は「10年かも」と言われていたけど、早期発見だったことと予後が良好だったおかげで、ついにホルモン療法が終了した。

 

 

この5年、本当にいろんなことがあった。

実はその間、「筋腫分娩」という症状で、卵巣と子宮の摘出手術を勧められたこともあった。
(正直、今振り返ると“オペをしたいだけのヤブ医者だったな…”と思う。乳がんで通っていた大学病院とは別のところ。)

でも、そこから素晴らしい婦人科の先生に出会えて、転院。
結果的に手術をすることなく治療してもらえた。本当によかったと思っている。

 

 

 

 

 

当時ブログを書いていた頃を思うと、今の私はずいぶん生きやすくなった。軽くなったし、呼吸も深くなった気がする。

そして何より、創作という表現を通して、迷いながらも「満たされる場所」ができたこと。
これはただただ、ありがたいなと思う。

 

これからは、アートのことだけじゃなくて、日常で考えていることや、等身大の自分を、スケッチするみたいにここに残していきたい。

ブログタイトルは―― 「色とコトバでつづるスケッチ」にしようかな。