色とコトバでつづるスケッチ

色とコトバでつづるスケッチ

色とコトバを通して、人生をスケッチするように綴っていきます。


この夏は、「季節の移ろい」を感じながら、思っていた以上にいいペースで、この季節にしか生まれない作品を発表できたと思っている。

 

最近は、20号以上の比較的大きな作品のほうが、自分が描きたい世界をのびやかに表現できるようになってきたことも感じていて。

 

 

 

一方で、小さな作品をいくつも組み合わせて空間に飾るスタイルもすごく好き。

 

一枚の大きな作品だけで空間をつくるのではなくて、色も大きさも少しずつ違う作品を自由に置いて、その人らしい景色をつくっていく~

そんな空間つくりの楽しさもあると思うので、最近は小さな作品にも取り組んでいます。

 

 

「選ばれること」が、いつの間にか目的になってしまう

 

そんな中で、最近ふと考えること

 

SNSを見ていると、アーティストが「選ばれよう」「抜きんでよう」と努力している姿をよく目にします。

 

 

コンペに入選
賞を取る
ギャラリーに選ばれる
大きな展示に出る
フォロワーを増やす

 

もちろん、どれも素晴らしいことです。

 

私自身も、展示や販売の機会をいただけることは嬉しいし、作品を評価していただけることもありがたい!

だから、「評価なんて必要ない」と言いたいわけではなくて。

 

 

ただ、少し気になるのは、

「選ばれること」が、いつの間にか創作そのものより大きな目的になってしまうこと

 

選ばれるために、自分をもっと特別に見せようとする

もっと目立たなければ
もっと評価されなければ
もっと人に知られなければ

 

そして、入選した、採用された、賞を取った、という出来事が「成功」の証になっていく

 

それ自体は決して悪いことではないのだけれど、そこに意識が集中しすぎると、いつの間にか「他人からどう見られるか」が、自分の活動を決める基準になってしまうことがある。

 

それは、少し怖いことだと思っています・・・

 

王座は、ひとつしかないのだろうか?

 

アートの世界に限らず、私たちは知らないうちに

「一番になる」
「選ばれる」
「抜きんでる」

という価値観に触れていますよね

 

まるで、どこかにひとつの王座があって、そこに座れる人だけが成功者であるかのように。

 

だから、誰かが評価されると、自分の場所がなくなったように感じる

誰かが売れると、自分は遅れているように感じる

誰かが注目されると、自分ももっと頑張らなければと思う

 

 

でも人生経験を重ねてきたからか照れ、今の私は、そこに距離を置いて見ています。

 

そもそも、パイはひとつしかないのだろうか?

 

私は、もうそうは思わなくなりました。

戦わなくていい、と言いたいわけでもなく、努力しなくていい、と言いたいわけでもありません。

 

 

作品を深めることも、発信することも、販売することも、人とつながることも、今後もやっていきたい

 

ただ、そのすべてを

「誰かより上に行くため」

という一つの方向に集約しなくてもいいと思ってます。

 

(そう、ハッピーちゃんの「無限のパイ」の考えがすごく好き)

 

 

 

同じ「活動」でも、前提が違えば、見える景色は変わる

 

たとえば、

「選ばれなければならない」

という前提で作品をつくるのと

 

 

「自分の中にあるものを、この世界に置いていこう」

という前提で作品をつくるのでは、同じように努力していても、少しずつ何かが違ってくると思うのです。

 

 

前者では、

「どうしたら評価されるだろう」が中心になる

 

後者では、

「私は今、何を感じているだろう」「何を表現したいだろう」
「この作品を通して、何をこの世界に置きたいだろう」

という問いが中心になると思うんです。

 

 

もちろん、その作品が誰かに選ばれたら嬉しいし、買っていただけたら嬉しい。

展示の機会をいただけたら嬉しい。

 

 

でも、それらは「私が価値ある人間であることを証明するためのもの」ではなく

自分がつくったものが、誰かの世界とつながった結果 として受け取りたい。

 

この違いは、私にとってとても大きいものです。

 

 

「つながること」と「つながりを利用すること」

アーティスト同士のつながりも、もちろん大切だと思っています。

 

展示で知り合った人と話したり、作品について語ったり、お互いの活動を応援したり。

そういう出会いから、新しい作品や展示が生まれることもありますよね。

 

 

でも、SNS上でのつながりが、いつの間にか「自分が必要なときに応援してもらうための関係」になってしまうと、私は違和感をおぼえます。

 

例えば、作品そのものよりも、人気や票を得るためのつながりが前面に出てくるような活動とか

 

それは、もちろん一つの戦略として存在するのだろうけど、私はそこにあまり興味が持てない

 

そこにエネルギーを使う時間を、本質的なことにもっていきたいのです。

 

私が興味を持っているのは、「共鳴が生まれること」

 

年齢を重ねるにつれて、私の人生(時間)は、自分独自の活動の方向を歩んでいくものとしています。

 

感じたものを、自分の表現で形にする

 

そして、それが誰かの心にふっと触れる

 

作品を見た人の中に、さっきまでなかった小さな感覚が生まれる

 

いつもの空間に作品を置いたことで、部屋や時間の感じ方が少し変わる

あるいは、言葉にできなかった感覚を、作品を見て初めて思い出す

 

私は、そういうことにとても興味があるんだと思います。

 

 

誰かに認めてもらうことよりも、何かを生み出すこと

誰かより上に行くことよりも、自分の中にあるものを深く掘り下げること

 

そして、その先で、

誰かの中に新しい感覚や共鳴が生まれること

 

そちらのほうが、私にはずっと広がっていく感じがするのです。

 

だから今は、

「私は、自分が感じた世界を、自分の表現でこの世界に置いていく。」

ということを、制作の意図としています。

 

そして、その作品を通して誰かの中に新しい感覚や共鳴が生まれることを、謳歌したい!

 

 

何度も言っちゃうけど、選ばれることを否定するのではなくて

「選ばれることだけが、成功や成長ではない」ということ!

 

そして、自分を深めながら、それをこの世界に広げていくのが私の道

今はそんなふうに思っています。

 

 

この夏、季節の移ろいを感じながら描いている作品たちも、その道の途中にあるもの

どこへ着くのかは、まだ分からない。

 

でも、今感じているものを、今の自分にしか描けない形で、一つずつこの世界に置いていく

 

私は、そんなふうに創作を続けていきたいと思っています。

(この記事、長くなっちゃったけど、焦りやもやもやするものを抱えている若いアーティストさんに届くといいなと思って、書いてみた)

 

 

今日は蒸し暑い。エアコンで除湿をしています雪の結晶

 

さて、5月のマーケットは、AI関連を中心に大きく動きましたね。

来月にはスペースX、その次にはOpenAI、そしてAnthropicなど、今年は大型IPOが予定されてますね。
(もしこの3つの中でひとつだけ投資するとしたら、私はAnthropicだな)

 

 

米国株式市場は、特にメモリー半導体関連が牽引

中でもマイクロン(MU)は、高いリターンを出しながらもPERは比較的割安。

そのため、下落時に買い増しを狙う投資家も多いのでしょうが、来月IPOとかかぶるとどんな動きになっていくのでしょうかね

 

 

私は、もともと米系資産運用会社で長く勤めていたこともあり、マーケットを見ることや株式投資が好きです。

 

マーケットって、人間の欲望の平均が数値化された世界だと思っていて、なんていうんでしょうか、集合意識というか。

ただ、簡単には読めないし、人間がコントロールすることは(トランプでも!)できない領域。


なんだけども、チャートや決算から「流れ」や「空気感」を読む感覚も強く、どこかアートに近い脳のエリアを使ってる気がします。

 

 

そんな中で、最近とても印象に残ったのが、NVIDIAのジェンスン・ファン氏のこの記事。

「AI時代は、日本の“侘び寂び”こそ価値を持つ」

 

 

 

 

完璧なコンテンツが大量に生成される時代だからこそ、人間が作り出す“揺らぎ”や“エラー”を含んだ不完全な美しさが、むしろ希少性として価値を持つようになる——。

 

この考え方はとても興味深く、深く共感しました。

 

昨今、「AIによって仕事が奪われる」と言われる分野も増えています。

アートについても、「もうAIが作れるじゃないか」と語られることがありますよね。

 

 

でも私は、AIがあることで人間の創造性そのものが失われるとは、あまり思っていません。

むしろAIが進化するほど、人間特有の感覚や、偶然性、感情の揺らぎのようなものが、より際立っていく気がしています。

 

 

記事の中では、ジャーナリズムやストーリーテリング、デザイン、アートなどの分野が挙げられていて。


これらは単なる技術的正確さだけでは成立せず、その場での感性や、感情のつながり、人間的な共感力が求められる領域。

 

 

自分自身も作品制作をしながら、完璧に整ったものよりも、偶然性を含んだものや、湧き上がる感覚などを抽象的に形にしていくんですよね。

 

テクノロジーが進化する時代だからこそ、人間の不完全さや、体感のようなものは、これからさらに価値を持っていくのだろうなと思うのです。

 

 

 毎年描いてるテーマ『初夏の気配(2025)』

Netflixで配信されたKylie Minogue(カイリー・ミノーグ)のドキュメンタリー全3話を見終えた。

 

 

 

もともとミュージシャンとして好きで、音楽だけでなくファッションやステージの世界観もずっと気になっていた存在だったけれど、若い頃にあれほど批判やプレッシャーの中で、自分らしさを探して追い込まれていたとは知らなかった。

 

 

特に印象的だったのは、「Spinning Around」の時代。

 

 

 

 

 

ちょうど私はその頃ヨーロッパを旅していて、街中で彼女の曲(MV)が流れていた。
あの頃のKylieは本当に圧倒的な人気だった。
 

でも今回ドキュメンタリーを見て、その時期の彼女は、ただ“売れていた”のではなく、自分自身の表現とようやく一致した瞬間だったのだと知った。

 

まさに「これが私 (This is ME!)」

 

そんな迷いのなさが、音楽やビジュアル、ステージから溢れていた。

 

人って、自分らしさと一致した時、こんなにもパワフルになるんだと改めて感じた。

 

それは今の自分にもどこか重ねてしまう。。。

会社員としての生き方から離れ、表現することを中心に生き始めている今、ようやく“素の自分”を生き始めている感覚がある。

 

もちろん、自分らしさなんて簡単に完成するものではなくて、一生問い続けるものなのかもしれない。

でも、それでも、自分の感覚を信じて生きる瞬間には、確かに強いエネルギーが宿るのだと思う。

 

 

 

そして、Kylieが乳がんを公表したニュースを聞いた時、とても心配していた。

けれど、今みたいにSNSとかから情報が多く入ってくる時代ではなく、彼女がどんな状況だったのか深く知る機会はなかった。

 

 

今回ドキュメンタリーを見て、その裏側にあった苦悩や不安、生きることへの向き合い方を知り、胸がいっぱいになった。

 

そしてコロナの頃に、まさかの私自身も乳がんが見つかり、治療していた頃を思い出した。

当時、人生とは、病気を患った意味とは、を考えていたように思う。

だから今も、闘病中に書いていたブログの記事は消さずに残しておこうとこのドキュメンタリーみて思ったな。

だって自分の人生の一部だから。

 

 

そして、闘病によって出演キャンセルとなっていたグラストンベリーのステージに、後年ようやく立った場面。あそこは本当に感動した。

 

 

 

 

まるで映画『Bohemian Rhapsody』を見ているようなストーリー展開の高揚感があった。

人生の伏線が、時間をかけて回収されていくような感覚。

 

 

さらに、おまけのように語られた「がんの再発」。

それでも彼女は、人生は全て思い通りにはならない、というようなことを穏やかに語っていた(と思う)。

 

でも、その言葉から感じたのは“諦め”ではなく、良い・悪いという単純な二極でもなく、
限りある人生の中で、自分らしく生きる瞬間そのものが、とても尊いものなのだということを言わんとしているのかな。

ほんと、どんな人も「自分らしさ」を生を通して触れようとしているんだな。

 

 

すごく「命を燃やしたい」って震えが起きる、そんなドキュメンタリーだったのでブログに記しておこう!

 

5月に入り、大好きな初夏が到来。
心地よさに浸る間もなく、昨日に続いて今日もかなりの強風。

だけどそのぶん、夕方の空は息をのむほど美しかった。




刻々と表情が変わるピンクオレンジの躍動感ある見事な夕焼け。

 

 

さて。
話題のNetflix『地獄に堕ちるわよ』

私は戸田恵梨香が、スカーレットの頃からずっと好きで、今回もかなり前から注目していた。
結果、初日にほぼオールで一気見メラメラ

 

 

今の時代、女性の生き方って本当に多様だから、“新しさ”というよりは、どこか懐かしさを感じたな。

価値観って、やっぱり時代背景に強く影響される。
当時はテレビでなんとなく見ていた出来事も、こうして改めて描かれると「こんなことがあったんだ」と輪郭を持って迫ってくる。

 

 

全体的には、主演やキャストの安定感があるから、ストーリーにしっかり没入できたな。

 

そしてラストの、あの薄気味悪い笑い。

完全に“乗り移って”いたと思う。
鳥肌が立つ、あの感じ。

 

 

さて、もうひとつ。

今回話題になっている中島歩恋の矢

 

私にとっては、伊勢谷友介が白洲次郎を演じたときの衝撃に近いものがあった。

 

英語が上手いとか、見た目がいいとか、もちろんそれもあるけど、

英語のシーンって“話せるかどうか”以上に、音を通した表現だと思う。
だからこそ、あれは完全に演技力。

 

 

どこか太宰治や三島由紀夫を彷彿とさせる空気をまとっていて
(国木田独歩の子孫らしいですね)あの時代の人物を、今の年齢のうちにもっと演じてほしいと思わせる役者だった。

今後注目だな!!

 

 

さて、GW後半。初夏の陽気を味わおう飛び出すハート

人って、自分の存在が少し不確かに感じられると、強い刺激を求めたくなりますよね。

 

食生活を例にするとわかりやすいと思うけど、私の場合、スイーツや激辛メニュー、コーヒー、ポテチ、乳製品とりすぎなどかな。

それって、刺激を受けることで、「あ、自分はいまここにいる」って実感できるから。
それ自体は、とても自然なことだと思うんです。

 

 

藤井風くん、素晴らしいアーティストですよね飛び出すハート
直近でリリースされたMV「It’s all right」については、いろんな意見があるみたいだけど、今日はそこはあえて触れません!

 

彼はヴィーガン寄りの食生活でも知られていますよね。
これは私の感じ方なんだけど、研ぎ澄まされたクリアな意識と体感覚で在りたい

そんな価値観のようなものを感じるんですよね。

 

 

これ、アーティスト活動をしている自分にとっても、とても大切にしたい視点で。
自分の“コア”は、ちゃんと感じていたいから。

 

食べ物だけじゃなくて、いまの時代で一番影響が大きいのは「情報」ですよね。
SNSや動画、音楽、マーケット、政治……

気づかないうちに、ただ“流れ”でそれらに触れ続けてしまうことってありますよね。

 


できるだけ私は、無意識に流されるような関わり方はしないようにしています。

もちろん、社会から離れて仙人みたいに暮らしたいわけじゃないんですよ


ただ、今って本当に驚くほど多くの情報を、毎日浴びていますよね。
(ここでいう「情報」は、ニュースだけじゃなくて、もっと広い意味でのすべての刺激のことです)

 

 

 

自分のコアから少しずつ離れていくと、人は外側に依存しやすくなる。
これは、生き方そのものに影響してくると思うんです。

 

 

「もっと特別でいなきゃ」
「こういう生活をして、こう見られなきゃ」

 

 

そんなふうに、今の自分に足りない何かを外側で埋めようとしてしまう。

じんわりとでも焦りや不安のような心の重さがあれば、多分、外側に意識が向かいすぎているんでしょうね。。

 

 

質素な生活が正しいとか、欲望を否定したいわけではありません。
ただ今の時代、ほんとーーーーに大事だと感じるのは、どれだけ“自分の素”で生きているか。

自分に嘘をつかず、本質のコアとちゃんと一致しているか。

何もしない、望まないんじゃなくって、どれだけ自分のコアで選択しているか。


つまり「自らに由る」と書いて“自由”に生きているかどうか。

 

 

それこそが、この時代の最大の幸福なんじゃないかなって思います。