黒田基樹(2021)『図説享徳の乱』(戎光祥出版)を購入しました。


29年間にわたる享徳の乱の歴史を、第一人者の黒田先生が、最新研究を踏まえて時系列、それも月単位で進行を追う。これまで無かった素晴らしい書籍です。



 


しかし、岩付城築城者論にこだわる者としては、やはりこの問題がどう書かれているかが気になります。


かつては享徳の乱初期に太田氏が築いたとされた岩付城。黒田先生は、“岩付城の構築はこの時ではなく、しかも築城者は太田氏ではなく成田氏であった”と断言し続けてきた研究者です。


(それに対して、“太田氏築城もあり得ますよ”と論じたのが、拙著『玉隠と岩付城築城者の謎』です)


果たして、最新の著作ではこの点の記述は、どうなっているのか。さっそく読んでみました。


1.享徳の乱初期の太田氏による築城は否定


結論から言えば、「享徳の乱初期の太田氏による築城」はやはり否定されています。


実際の文章を見てみましょう。


こうして、およそ利根川を境に西側が上杉方、東側が成氏方という勢力範囲が形成するようになった。こうした状況に対応するように、上杉方では軍事拠点の構築が進められた。具体的には、扇谷上杉氏が武蔵河越庄(川越市)に河越城を、豊島郡江戸郷(千代田区)に江戸城を構築し、それぞれ崎西郡から下総国にかけての成氏方に対する前線拠点とした。」(44頁)


なお、『鎌倉大草紙』では、同時期に各地で拠点城郭が構築されていったように記されており、これまでの見解の多くも基本的に踏襲されるような状況にある。しかし、実際には築城はこれよりも時期が下る状況が相模岡崎城(伊勢原市)、武蔵松山城(吉見町)、同岩付城(さいたま市)などで確認されている。もちろん、この時期に領主の本拠を城郭化する事例もみられるが、その動向はこの時期に限られるわけではなく、これ以降も続いた事態である。」(44-45頁)


『鎌倉大草紙』が、扇谷上杉陣営によって、河越・岩付・江戸の三城が築かれたと記載することを受けて成立したのが、旧来の岩付城太田氏築城説。


これに対して黒田先生は、

  • そもそも『鎌倉大草紙』の記載には誤りが多い、
  • 扇谷上杉陣営が構築したことが確実なのは、(他史料からも確認される)河越・江戸の二城、

という従来からの主張を変えませんでした。


しかも、“岩付城だけは異なる”とする従来の叙述スタイルを発展させ、“岡崎城も松山城も岩付城もこの時の築城ではない”、と述べることで主張に説得力を与えています。  


2.享徳の乱期の岩付帰属は主張変更


しかし、黒田先生の見解が全く変わらなかったと考えるのは早計です。


『図説享徳の乱』には、以前の黒田先生の論文・著作と異なる、大きな変化があるのです。


それは、岩付地域の帰属問題です。


成田氏築城説を提起した1994年の論文「扇谷上杉氏と渋江氏 ー岩付城の問題を中心にー」において、黒田先生は、岩付地域が享徳の乱期において扇谷上杉氏の支配下にあったとする旧来説を否定しました。


扇谷上杉氏と岩付地域の関わりは、60年も時期が下る永正年間までしか遡れないと指摘し、扇谷上杉氏家宰であった太田氏による岩付築城を、根本から排除したのです。岩付地域は、古河公方の支配下にあったとされたのでした。


しかし、利根川・荒川を挟んで東西対立が行われた享徳の乱期において、この両大河の西側に位置する岩付地域が、扇谷上杉氏の支配下になく、古河公方の勢力下にあったとするのは、少々苦しい想定です。


そう考えた私は、拙著『玉隠と岩付城築城者の謎』の第三章において、金石史料に関する先行研究を援用しつつ、この点を集中的に論じました。

 

 


ところが、最新刊の『図説享徳の乱』では、当の黒田先生が、享徳の乱期の岩付地域を古河公方勢力下だと主張するのをやめているのです。


それは、「およそ利根川を境に西側が上杉方、東側が成氏方という勢力範囲が形成するようになった」(44頁)との記載だけでなく、45頁の地図において明確に岩付地域を、西の上杉陣営に色分けしていることからもわかります。


この図では、荒川(今日の元荒川)の西側はすべて上杉陣営とされています。岩付城は荒川の西側に立つ城ですので、古河公方方ではなく、上杉陣営側に分類されたことがわかります。



実はこの地図、『図説鎌倉府』でも採用されていた地図(137頁)に、非常によく似ています。おそらく、同じ図を少し修正したものでしょう。



 

 

相違点の一つが、岩付城のプロットです。

『図説鎌倉府』では、黒田先生説では享徳の乱期には無かったはずの岩付城が、享徳の乱関係図にしっかり表示されていました。


さすがに黒田先生ご自身の本ではこの点が問題視され、図から岩付城が排除されたのでしょう。


それはよいのです。


私が喜びたいのは、“享徳の乱期には岩付地域は古河公方の支配下にあった”という黒田先生が持ち込んだ無理筋の想定が、先生自身によって撤回されたこと。


“享徳の乱期の岩付地域は上杉陣営下にあった”という自然な想定での議論が、ようやく「視界の大家の説に反するが」との言い訳に無しに語れるようになったのです。


黒田先生に挑む形で、“享徳の乱期の岩付地域は上杉陣営下にあった”はずだと論じた拙著第3章は、無用となりました。

執筆の労は、ある意味で無駄となりましたが、それでもなにやら報われた気分です。


岩付城太田氏築城説の成立性を論じる上で大きな壁であった論点も、一つまるごと消え去ったことになります。


3.太田氏築城の否定と成田氏築城の断定が消えた


もう一つの大きな変化は、“黒田先生節”とも言うべき、「太田氏による岩付城の築城はなかった」・「築城者は成田氏だった」というセットの断言が姿を消したことです。


『図説享徳の乱』は、享徳の乱初期に太田氏が岩付城を築いたことを、依然否定します。

しかし否定の力点は、“享徳の乱初期”という築城時期に対して置かれており、「太田ではなく成田」という築城者問題は、少なくとも表だって書かれることはなく、伏されることになりました。


これは何を意味するのか。


自説は変えていないが、単に角が立つ物言いを抑えたのか。あるいは、先生ご自身が「成田氏による築城の断言はやはり難しいかな」と再考を始めたのか。


おそらく真相は前者なのだと思いますが、私には後者への移行もできるようにした布石のようにも思えます。


実際にどうなのかは、黒田先生の成田氏築城説が岩付城の築城時期とする延徳二年~明応三年に展開された「長享の乱」の図説が出されたときにわかるはずです。


扇谷上杉氏と古河公方との和睦期に、忍(行田市)から岩付(さいたま市岩槻区)まで出張って、両陣営の境目に城を築いた成田氏当主。

このやや奇妙な想定が、時系列の叙述に果たして無理なくおさまるのか。


果たしてどうなるか。楽しみです。 



4.享徳の乱初期の岩付築城はあり得ないと言えない


最後に、私がとても気になった一節を再掲します。


もちろん、この時期に領主の本拠を城郭化する事例もみられるが、その動向はこの時期に限られるわけではなく、これ以降も続いた事態である。」(45頁)


黒田先生は、領主の本拠の城郭化は、何も享徳の乱初期の専売特許ではない。他の時期にも起こり得たのだ、と語ります。


享徳の乱初期の岩付城築城の可能性を追究する、私のようなスタンスの人間を想定しての「まあ、落ち着け」だと思われます。


それはごもっともなのですが、私はむしろ、「もちろん、この時期に領主の本拠を城郭化する事例もみられるが」の方が気になりました。


黒田先生も、“享徳の乱初期の岩付城の築城なんて、状況として想定できないぞ”とは言えないのです。


“他の時期でもあり得る”は、“この時期ではないと断言はできない”の裏返しであります。 


先生の研究者としての良心がにじみ出た一節だと思った私でした。



さて、 書くべきことを書いたので、これからゆっくり『図説享徳の乱』の読み込みを楽しもうと思います。



《参考》


 



ここまで、岩槻城(岩付城)成田氏築城説について、以下の内容を紹介してきました。


  1. 人物比定や築城時期の比定が複数回見直されている(①と②参照)
  2. 一時は公的出版物や他の研究者の通史書に全面的に採用されたが、1.の変容と前後して、不採用や批判が生じるに至っている(③参照)

 





しかし、不採用や批判が出ようとも、同説に十分な蓋然性があるのであれば、問題はありません。

最後となる④では、現時点最終版の成田氏築城説の蓋然性について、整理します。


↓↓↓以下、「である調」に変わります↓↓↓


岩槻城 成田氏築城説の通説化とその課題④


「顕泰」を名乗った当主の存在


成田氏築城説の長所、それは「自耕斎詩軸并序」に現れる岩付城築城者「自耕斎」(法名は正等)の子「岩付左衛門丞顕泰」に比定される人物が、同氏の歴代当主に存在することである。


その人物こそ、『成田系図』や『龍淵寺年代記録』、そして『東路つと』に登場する「成田下総守顕泰」である。


この時代、「顕泰」という名を名乗ったことが確実な人物は、この成田顕泰以外に存在しない。


黒田(1994)が「『岩付左衛門丞顕泰』はすなわち成田顕泰であり」と述べ、この一文を以て、「岩付左衛門丞顕泰」=成田顕泰と断定したのも、故なきことではないと言える。


「顕」が示唆する山内上杉氏との関わり


また「顕」の字が、山内上杉顕定が配下に偏諱した事例があることも、岩付顕泰=成田顕泰説と整合的である。


岩付顕泰を、扇谷上杉氏方の太田氏に比定する場合、山内上杉氏と敵対する太田氏が「顕」の偏諱を受けたとは考えにくい。更には、自身の父を顕彰する漢詩文において、殊更に「顕」の字を取り上げることも理解し難い。


この点、成田顕泰であれば、山内上杉氏と古河公方に両属していたことが指摘されており(黒田(2012))、問題は生じない。


まとめれば、

  • 岩付城の築城者論における根本史料「自耕斎詩軸并序」の作成の依頼主と考えられる人物と、同じ名を名乗った当主が存在すること、
  • その名に含まれる「顕」の字が、成田氏の政治的位置とも整合すること、

の二点が、成田氏築城説の根拠だと総括することができる。


特に上記の一点目は、太田氏築城説や渋江氏築城説には無い要素である。成田氏築城説が他説に対して圧倒的な優位性を示す点と言えるであろう。


自耕斎詩軸以外に支持史料が無い


しかし、信頼度の高い史料である「自耕斎詩軸并序」を根拠とする成田氏築城説であるが、実は同史料以外には支持材料が存在しない。


これは、黒田(2012)の「成田正等」の項を読めば明らかである。


黒田氏は、「自耕斎詩軸并序」を根拠として、岩付城築城者「自耕斎」(法名は正等)を成田氏に比定し、「成田正等」と呼ぶ。そして黒田(2012)において、「成田正等」を歴代成田氏の系譜に位置付けることに取り組む。


ところがその結果として導き出されたのは、成田氏の系譜史料には「成田正等」に該当する当主がいない、という結論だった。成田氏側の史料・伝承には、「成田正等」の実在を裏付ける材料は、存在しなかったのである。


忍から岩付、そして忍に戻る大事業はあったか


黒田(2012)は、自耕斎(正等)の子である「岩付左衛門丞顕泰」に比定した「成田顕泰」についても、「岩付左衛門丞顕泰」に通じる事績を見出せていない。


成田氏築城説を是とすると、“成田顕泰は、自耕斎詩軸が書かれた明応六年時点では岩付城主であったが、『東路のつと』に登場する永正年間には忍城に帰還していた”との想定を置かざるを得なくなる。


そもそも忍城と岩付城は、30キロメートルほど離れている。しかも岩付城は、後世、成田氏が治めた忍周辺の支配域の外側に立地する。


現役の当主が、本来の居城である忍城を留守にして、亡き父が築いた領外の遠い岩付城で数年間を過ごし、そして再び忍城に戻る。


これが本当にあったことであれば、忍城周辺の領地の統治はどうなっていたのか。

忍城には一族か家臣の有力者が代官として入ったのだろうか。

また、当主顕泰一人が岩付城に赴く訳にはいかない。有力家臣らも、一部は当主に従って岩付に移動したと考えられる。彼らもまた、忍に残る者と岩付に向かう者で、手分けすることになったのではないか。


言うまでもなく、これは一大事業である。

顕泰は、遠く離れた岩付から忍の領地を治められたか。仮に顕泰やその家臣りが、忍領の残留組に大きな権限を与えたならば(そうせざるを得なかったのではないか)、今度は数年後に帰還した際に、その権限の取り上げが順当に進んだだろうか。


当主の遠地への本拠替えは、行きにおいて、帰りにおいて、大きな混乱を家中・配下にもたらしたことであろう。


ところが、それほどの大事業であった(ことになる)にもかかわらず、その記録、伝承は全く残されていない。


成田氏には、菩提寺に残る『龍淵寺年代記』と『成田系図』や、後世に書かれた『成田記』等の系譜史料が存在するが、これらには、当主自らが一時岩付を本拠とし、その後忍に帰還した大事業の痕跡すら見いだせないのである。


成田氏築城説は、岩付顕泰=成田顕泰の想定を基点として展開された説であるが、このようにスタート地点の想定を支持する史料がなく、その議論はスタートの想定の敷衍解釈に留まる。


先に紹介した梅沢(2018)の指摘、「黒田氏が根拠とした『[岩付左衛門丞顕泰]はすなわち成田顕泰』との比定は短絡的であり、根拠が示されていない。この前提が無ければその後の展開も全くなくなってしまう」は、まさに正鵠をを射たものと言えるのではないか。


 


少なくとも、同説が「支持的な史料が一つしこい」という脆弱性を孕んでいることは、認めざるを得ないのであろう。


自耕斎詩軸并序との不整合


しかも、成田氏築城説は、ほぼ唯一の支持材料である自耕斎詩軸并序とも整合しない点が多い。

以下、詳述したい。


不整合①正等の岩付築城と隠居の時系列

 

成田氏築城説と自耕斎詩軸并序との不整合として、最初に指摘したいのは、自耕斎(正等)による岩付城築城と隠居の時系列の問題である。


人物比定と築城時期比定の見直しによって、「成田正等」が、岩付城を築城したのは、延徳二年(1490)から明応三年(1494)とされたことは、たびたび紹介した通り。

また「成田正等」は、自耕斎詩軸并序が書かれた明応六年(1497)に故人であったことは、この漢詩文に記されている。

ならば岩付城の築城は、最大に見積もっても死没の三年~七年前のことだったことになる。


また黒田(2012)は、一次史料(鑁阿寺文書)に基づき、明応二年(1493)の時点で、成田顕泰が家督を継いで「新左衛門尉」と呼ばれていることを指摘する。「新左衛門尉」との呼び方は、この時点で成田顕泰が家督を継いでからまだ間もなかったことを窺わせる。


これらを総合すれば、「成田正等」は、

  • 延徳二年(1490)から明応三年(1494)の間に岩付に居を移して岩付城を築城した、
  • 築城の前後に、顕泰に家督を譲り、少なくとも明応二年(1493)には顕泰が成田氏当主となっていた、
  • 明応六年(1497)以前に死去した

という人生最後期を送ったことになる。


成田氏築城説の論理的帰結としてのこの「成田正等」の人物像は、果たして自耕斎詩軸并序の自耕斎(正等)のそれと合致するだろうか。


小宮勝男氏が2012年に刊行した『岩槻城は誰が築いたか』が指摘したように、自耕斎詩軸并序は自耕斎(正等)を、岩付築城等の活躍の後、程よい頃合いに隠居した人物として描いている。(収取功名退者天之道也、一家機軸、百畝郷田、付之於苗裔顕泰也)。



 


そして、その隠居後の自耕斎の日々を、詩文の冒頭で「疇昔、耕田之絵、置之左右、念農之歌、置之坐側、是無往而不在農也」と叙述する。この「疇昔」とは、“昔のある日”という意味である。


成田氏築城説の想定、すなわち、“「成田正等」が家督を譲って隠居できた期間は、明応二年の少し前から明応六年までの数年間であり、自耕斎詩軸并序が書かれる数年前のことであった”、との想定は、自耕斎詩軸并序の記載と整合するだろうか。


むろん、漢詩文が芸術作品であり、事実と異なる情景が描かれることは否定できない。しかし、筆者にはあまりにも実態と解離した記載に思える。


隠居後の日々がわずか数年しかなかった人物の引退を“程よい頃合いに隠居した”(収取功名退者天之道也)と書くだろうか。また、わずか数年前の出来事を“昔のある日”(疇昔)と書くだろうか。


自耕斎詩軸并序の記載に合うのは、引退後も長く生きた人物であろう。隠居後も長く生きたのでなければ、程よい頃に隠居したとは書かれまい。また、隠居生活の日々を昔のある日と書かれることは無いのではないか。


黒田氏もこの問題を認識していたらしく、黒田(2012)では、「正等の築城は隠居後のこととみるのが、現段階では最も可能性が高いと考えられる」と述べている。

自耕斎(正等)が早めに隠居し、長い隠居生活を送った後、最晩年に岩付築城事業を行ったとの想定を取ることで、上記の齟齬を回避しようとしたのかもしれない。

 

しかし、 この想定にも問題がある。自耕斎詩軸并序の素直な読みと矛盾を生じる。


仮に自耕斎(正等)が、隠居後に再び岩付築城という大事業を成したのであれば、「自耕斎詩軸并序」はそれを称賛しておかしくない。

自耕斎詩軸并序の主題は、父・自耕斎から子・顕泰への岩付城の継承の物語である。その岩付城が、父が隠居後に我が身に鞭打って指揮して築いた城であれば、それは同城築城に関わる重要な物語としてなったことであろう。

しかし、自耕斎詩軸并序にそのような記載は無く、自耕斎(正等)の隠居生活は、ひたすらに仏道修行と周囲への悟りの伝授に明け暮れたものであったことが示唆されているのだ。

(詳細は、拙著『玉隠と岩付城築城者の謎』第2章参照)


岩付城を築いたのは隠居前のはるか昔。自耕斎(正等)は隠居後も長く生きたから、隠居の日々も今となっては昔のこと。


自耕斎詩軸并序の自然な読みと整合する自耕斎(正等)の人物像を、成田氏築城説は示すことができない。これは同説の大きな課題と言えよう。



不整合②「成田正等」は月江正文に会えたか


2つ目の不整合は、黒田氏が想定する「成田正等」が、「月江正文」との接点を持てそうにないことである。


(なおこの議論は、小宮(2012)が初めて行ったものである。ただし小宮氏の検討は、1994年時点の成田氏築城説を題材としており、その後の2012年・2013年の同説の見直しは考慮されていない。以下の検討は、2013年以降の最新の成田氏築城説に対し、筆者が改めて小宮氏のアプローチを適用したものである。)


自耕斎詩軸并序には、「平生参洞下明識月江老、聞新豊之唱、有所得乎、洒々楽々」とある。自耕斎(正等)が曹洞宗(洞)の高僧である月江正文(月江老)のもとを、日常的に訪ねていた(平生参)ことが記されているのである。


月江正文が、どのような地理的空間と時間軸を生きた僧侶であったかは、『本朝高僧伝』から探ることができる。




『本朝高僧伝』によれば、月江正文は、

  • 尾張国で無極和尚の下で修行し、
  • 總持寺(能登国)で悟りを開き(出世總持)、
  • 最乗寺(相模国か)で法を開き(開法最乗)、
  • 尾張国の楞厳寺と武蔵国の普門院を開山し第一世の住持となり(開尾之楞厳武之普門爲第一世)、
  • 長尾景仲が開基した上野国白井の雙林寺で第一世となった弟子・一州伊公によって、同寺の開山の祖とされ(長尾左金吾俊叟居士建雙林寺於上州白井招高弟一州伊公以爲住持伊公迎文爲開山始祖)、
  • 最後は、尾張国の楞厳寺で、寛正三年正月二十二日に亡くなった(楞厳寺以寛正三年正月二十二日無病而逝)

とされている。


とりわけ、武蔵国の普門院との縁は深かったらしく、同院には「月江正文和尚頂相」や正文の木像が残され、また多くの逸話が伝承されている。近代の編纂史料『仏教信仰実話全集第九巻』には、正文が大宮氷川神社に近い普門院を気に入り、長く滞在したとの記載もある。


『本朝高僧伝』において月江正文と縁があるとして挙げられる寺院の中に、成田氏の忍領内のものは見られない。

しかも、月江正文が没したとされる寛正三年(1462)時点では、まだ成田氏は忍城(現・行田市)を攻略しておらず、現・熊谷市の成田郷のみを治める小規模領主に過ぎなかったと考えられている(黒田(2012))。


このような状況の成田氏が、領外の月江正文ゆかりの寺院、例えば普門院に「平生参」することができたであろうか。


読者諸賢には、ぜひこのことを、以下に示す普門院と忍城の位置関係を踏まえてお考えいただきたい。


図:岩付城と普門院の位置関係

図:岩付城と忍城の位置関係


しかも、黒田(2012)は、「成田正等」の父の生年を応永三十年(1423)とする。

「成田正等」が早めに生まれた嫡子だとしても、月江正文の没年である寛正三年(1462)には、二十歳そこそこである。40歳前後の父はまだ現役であり、「成田正等」は家督を継ぐ前の存在であったと想定される。

このような立場の人間が、領外の寺院にいる僧侶を日々訪ねる状況は、考えにくい。


むろん、『本朝高僧伝』は所詮は後世編纂の二次史料である。ここから漏れた月江正文ゆかりの寺院が成田郷に存在し、ここで「成田正等」が月江正文に会えた可能性は否定できない

現に、成田氏の菩提寺である成田郷の龍淵寺は、曹洞宗の寺院なのだ。


ところが、龍淵寺を開山した僧侶は「和庵清順」であり(新編武蔵風土記稿)、月江正文とは法系が異なる。加えて、和庵清順の没年は寛正五年(1465)と伝えられており、月江正文とは同世代の僧侶であった。


菩提寺の開山僧と、あえて同宗派の別の僧に深く帰依したことがあった可能性は、むろん否定はできない。しかし、それを殊更に漢詩文で描き出させたことになることも併せて考えれば、相当に奇妙な状況と言えるであろう。


「成田正等」は、こうした奇妙な想定を置かなければ、月江正文に会うことができない。

むしろ筆者は問いたい。月江正文に帰依した「成田正等」なる人物は、本当にいたのだろうか。

 

不整合③成田正等と顕泰の年齢差


最後の不整合は、 “成田正等”とその養嗣子である顕泰との年齢差である。

 

先に紹介した通り、黒田(2012)は成田氏の系図において、従来父子関係とされていた「顕泰」と「親泰」の間に新たに「正等」を新挿入した。「顕泰」は「正等」の父、「親泰」は「正等」の子、すなわち「岩付左衛門丞顕泰」とされたのである。

 

この系譜の変更は、新たに挿入した「正等」と「親泰」(実際の顕泰)の年齢差について、「それほど変わらなかった可能性も想定される」(黒田(2012))との状況をもたらすことになった。

 

この“年齢差があまりない父子関係”について、黒田(2012)は、実際の「顕泰」が足利長尾氏からの養子であることが「長林寺長尾系図」(『足利市史』)から確かめられることを受け、養父と養子の関係であるため問題無しとした。そして、年の差がない正等・顕泰の「父子」関係は、「極めて政治性の高い」(黒田(2012))養子縁組によるものとの想定も導入されたのであった。

 

ところが、ここで問題が生じる。

 

自耕斎詩軸并序は、父正等と子顕泰の関係をある段では「父子」としつつ、他の段では「苗裔」と表現しているが、「苗裔」とは末裔のことなのである。

 

 

 


顕泰が、自耕斎(正等)の「子」であり「末裔」でもあると表現されたことの不自然。岩付城の築城者を論じる者は、この不自然を説明しなければならない。

拙著の仮説はこの説明が可能である。 (詳細は『玉隠と岩付城築城者の謎』第四章をご参照いただきたい。)

しかし、年齢差があまり無い「成田正等」と成田顕泰の養父養子関係を前提とする、2012年以降の成田氏築城説は、どう説明するのだろうか。
 

この点についても、残念ながら黒田氏は、何ら説明を行っていない。


「成田正等」は本当にいたのか


本稿における成田氏築城説の課題に対する指摘は、以上である。


総括すれば、成田氏築城説には、

  • 提唱当初から築城時期の比定に課題があり、
  • 後に「成田正等」の人物比定を変更することでこの課題は克服されたが、翌年には築城時期を見直すといった検証の不十分性をうかがわれる顛末があり、
  • 「成田正等」の人物比定の変更(系図から漏れた当主との位置付け)は、すなわち「成田正等」の痕跡を成田氏の系譜史料に見いだせなかったことを意味し、
  • 「成田正等」と子の顕泰が本拠の移転と帰還という大事業を行ったことになるのに、成田氏側の史料・伝承に一切その痕跡がなく、
  • ここ数年は、他の研究者らが積極的に採用する事例は見られなくなっており、
  • 唯一の根拠とした自耕斎詩軸并序とも不整合が存在する、

といった課題が指摘されたことになる。


「顕泰」を名乗った当主が確実に存在した成田氏は、確かに自耕斎(正等)や岩付左衛門丞顕泰を輩出した可能性のある一族である。その意味で、同説には他説には無い蓋然性が認められる。


しかし、これほど多くの課題を抱えている以上、“疑いなき史実”や“揺るがない定説”と位置付けることはできないであろう。他説と併記され、相互の優劣を検討されるべき有力説の一つ、と位置付けられるべきではないだろうか。


この20年間、黒田基樹氏によって実在が揺るがないとして扱われてきた「成田正等」であるが、今一度検討すべき時期にきているのではないか。


岩槻城(岩付城)成田氏築城説は正しいのか。そして、「成田正等」は本当に実在したのか。と。

岩槻城 成田氏築城説の通説化と課題②」では、1994年に提起されて成田氏築城説が、2012年と2013年に大きな変更が加えられたことを紹介しました。

 

 

 その③となる今回は、成田氏築城説が、

  • どのように広がって通説化したか
  • どのような批判が登場したか
  • 他の研究者が通史叙述で同説をどう扱ったか

を紹介していきます。

 

↓↓↓以下、「である調」に変わります↓↓↓

 

岩槻城 成田氏築城説の通説化と課題③

 

提唱者自身による発信

 

成田氏築城説は、提唱者である黒田基樹氏による積極的な発信によって、広く認知されることになった。

 

その契機となったのが、2001年に刊行された論集『戦国期東国の大名と国衆』(黒田基樹編著、岩田書院)である。同書は、成田氏築城説を提起した1994年論文「扇谷上杉氏と渋江氏」を収録する。同書の登場により、成田氏築城説は、成書の形で世に送り出されたのである。

 

 

 

次に、成田氏築城説の通説化を大きく前進させたのは、2004年刊の『扇谷上杉氏と太田道灌』(黒田基樹著、岩田書院)である。

 

扇谷上杉氏と太田道灌に関する最新研究をまとめた同書は、研究者や一般歴史愛好者に広く読まれることになった。このことは、後に則竹雄一氏が刊行した通史書『古河公方と伊勢宗瑞』(2013年、吉川弘文館)が、『扇谷上杉氏と太田道灌』の記述を多く採用していることからも、うかがい知ることができる。

  

 


この書籍において、黒田氏は 岩付城の築城について「享徳の乱も末期の、文明十年(1478)以降のことであり、築城者も扇谷上杉氏や太田氏ではなく、古河公方足利政氏に従っていた武蔵忍城(行田市)の成田下総守(法名正等)であった」と記述した(175頁)。

 

黒田氏が、成田氏築城説を有力説ではなく、確定した史実として発信した点は注目される。

これ以降、岩付城築城者は成田氏で確定したとの認識が、研究者・歴史愛好者に広がっていくことになったのである。

 

黒田氏は、一般の歴史愛好者向けの図説でも、成田氏築城説の史実としての発信を行った。 2009年刊の『図説太田道灌』(黒田基樹著、戎光祥出版)である。

 

太田道灌研究の成果を分かりやすく解説したこの一般書において、黒田氏は、岩付城の築城について「同城は文明年間の後半に古河公方足利成氏方の成田氏によって築城されたことがわかっている」と記述した(50頁)。

 

成田氏築城説が疑いなき定説であり、史実であることは、ここでも断言された。成田氏築城説は、本書によって一般歴史ファンへも深く浸透していくことになったと見てよいであろう。

 

 

 

公的な史料集や他研究者による成田説の採用

 

2011年以降、公的な史料集や他研究者による成田氏築城説の採用が相次ぐ。

最初の事例は、埼玉県教育委員会が編纂し、2011年に刊行された『埼玉県史料叢書11』である。

 

同書は、260頁の「長享の乱の展開と武蔵」において、

・「明応二年の六一四号・六一六号にみえる、成田新左衛門尉景泰が注目される。彼は総社長尾忠景の三男で、成田左衛門尉正等の養子となってその家督を継いだ存在

・「成田氏は享徳の乱の段階では、忍城を本拠とし、山内家に従っていたが、長享の乱の展開のなかで、正等は岩付城(さいたま市)を構築して、本拠としたことが明らかになっている

等の記載を行う。

 

埼玉県教育委員会による公的な刊行物が、岩付城の築城者は「成田正等」であるとの黒田氏の主張を受け入れ、史実として採用したのである。

 

同書の「調査委員」には、黒田基樹氏が名を連ねており(554頁)、氏の見解が編纂に影響を与えたことは間違いない。

しかし、その採用には他の調査委員や編集委員らによるチェックが働く。これらのチェックを経て同書に採用されたことは、成田氏築城説が、黒田氏個人の説の域を越え、広く学術界に受け入れられた定説となったことを示す。成田氏築城説は、他の調査委員や編集委員らからも受け入れられた。 これは、同説の浸透・広がりにおいて、重要な一歩と言えるであろう。

 

ただしこの260頁の記載は、後に見直され、「訂正紙」が発行されることになる。

 

【付記】

興味深いのは、同書の「成田正等」に関する記載が、1994年時点の想定(享徳の乱期間の築城)ではなく、2012年の「総論 戦国期成田氏の系譜と動向」での新たな想定(長享の乱期の築城)に基づいている点である。

成田氏築城説の訂正の発表の場として、(論拠の詳述はなされていないものの)『埼玉県史料叢書11』が先行していたことになる。

【付記ここまで】

 

次に起こったのが、他の研究者による成田氏築城説の採用であるが、その前に黒田氏自身の発信を2件紹介したい。

 

一つ目は、2012年刊の『シリーズ・中世関東武士の研究第五巻 扇谷上杉氏』(黒田基樹編著、戎光祥出版)である。

同書冒頭の総論「扇谷上杉氏の政治的位置」では、『鎌倉大草紙』の河越・岩付・江戸の同時築城記載を紹介した上で、「このうち岩付城の構築は扇谷家によるものではなく、誤りである」との記載が行われた(36頁)。

 

 

 

もう一つは、2012年刊の『論集 戦国大名と国衆7 武蔵成田氏』(黒田基樹編著、岩田書院)である。同書に収録された黒田氏の新稿「総論 戦国期成田氏の系譜と動向」が、成田氏築城説を大きく見直すものとなったことは、先に紹介した通りである。

 

 

 

 

 

そして、2013年。遂に他の研究者が、黒田氏の成田氏築城説を受け入れた通史書の発刊を行う。則竹雄一(2013)『古河公方と伊勢宗瑞(動乱の東国史6)』(吉川弘文館)である。

 

 

 

則竹(2013)は、「岩付城は文明年間に埼西郡成田郷(熊谷市)を本拠とする成田自耕斎によって築城されたことが明らかにされている。長禄元年の太田氏による築城は無かったのである」と記述する(37頁)。

 

「自耕斎詩軸并序」にみえる正等(自耕斎)を成田氏とし、また岩付築城の時期を文明年間後期としていることから、則竹氏が黒田(1994)の議論を全面的に採用しているのは明らかであろう。成田氏築城説の受容は、他の研究者も史実として発信する段階に到達したのである。

 

ところが、皮肉なことがあった。初めて他の研究者による通史書が登場したにもかかわらず、そこで採用された成田氏築城説が、黒田氏自身が前年に否定した古いバージョン(1994年時点の説)だったのだ。

 

成田氏築城説を採用した則竹(2013)が、黒田氏による説の更新に気づけなかったのは、仕方の無いことだったかもしれない。

 

黒田氏は、2004年刊の『扇谷上杉氏と太田道灌』等の書物において、後に自身が否定することになる「文明年間後期の岩付城築城」を、史実として発信している。

黒田氏ほど業績のある研究者が史実と断言するのであれば、他の研究者がそのまま採用してもおかしくはない。その後黒田氏が、一度は史実と断言した自説を修正したとしても、それを逐一追わねばならないとするのは、些か酷であろう。
 
成田説の不採用と批判
 
これが契機となったかは定かではないが、以降、他の研究者が成田氏築城説を取り入れた通史叙述を行う事例は、見られなくなっていく。
 
太田氏が岩付城を築城したとの旧説を否定する際、黒田氏の叙述スタイルは、
  • まず『鎌倉大草紙』に記載された太田氏による河越岩付江戸の三城築城伝説を紹介した上で「岩付城は別、成田の築城」と指摘し、
  • 鎌倉大草紙より信頼度の高い『松陰私語』が、太田氏が築城した城として、河越城と江戸城の二城のみを記す点を併せて紹介する、
というものであった。
 
先に紹介した則竹(2013)はこれを踏襲した。
しかし、以降の他の研究者の書籍からは、こうしたスタイルの叙述が消えていったのだ。
 
その最初の例が、2014年に刊行された森田真一氏の『上杉顕定』(戎光祥出版)である。
 
森田(2014)は、
  • 『鎌倉大草紙』の河越岩付江戸の三城築城
  • 『松陰私語』の河越江戸の二城築城
をそれぞれ紹介するが、後者による前者の否定は行わない。
すなわち、両記載を対立させない叙述を採用したのである。 
 

 

 

山田邦明氏が2015年に刊行した『享徳の乱と太田道灌』(吉川弘文館)は、太田氏が独自の拠点として江戸城を有していたことを記載する(93頁)。しかし、もはや、河越・江戸の二城築城すら触れられていない。

 

書題に「太田道灌」を入れ、太田氏の活躍に焦点を当てる構成を取る書籍であることを踏ま

えれば、少々大胆な省略と言えるであろう。

黒田氏の岩付城築城者論が二転三転したことを受け、山田氏が同議論から距離を取ったと見るのは、穿ち過ぎだろうか。

 

 

 

また、興味深いのは、山田(2015)の図24(123頁)に、岩付城がプロットされていることである。

 

成田氏築城説では、享徳の乱期には岩付城は無かったとされているが、山田(2015)の図24(123頁)は、享徳の乱期の関係図である。この図に岩付城がプロットされていることは、山田氏が、成田氏築城説に全面的には賛同していないことを示しているのかもしれない。

 

同じ2015年には、成田氏築城説に対する“表立った批判”も登場するようになる。
 
批判の主は、さいたま市文化財保護課に所属し、永年、岩付城の発掘事業を手掛け、自身多くの論文や報告書を取りまとめてきた青木文彦氏である。
青木氏は、埼玉県立嵐山史跡の博物館主催の平成26年度シンポジウム『戦国時代は関東から始まった』において、「戦国時代の岩付とその周辺」と題する講演を行い、岩付城の築城論を取り上げた。
 
青木氏が批判したのは、黒田氏の岩付左衛門丞顕泰=成田顕泰説である。氏の批判は、「黒田説は岩付顕泰=成田顕泰を自明のこととし、その論証はなされていない」というものであった。
 
実際、黒田(1994)は「『岩付左衛門丞顕泰』はすなわち成田顕泰であり」と議論を展開するが、それ以上の論証を加えていない。本指摘は、この点を端的に指摘したものと言えよう。
 
加えて青木氏は、岩付城の築城について、新たに「渋江氏による築城説」を提起した。これにより、岩付城の築城者論は、旧説としての太田氏築城説と、新説である黒田氏の成田氏築城説という構図を脱却することになった。
 

青木氏の議論は、成田氏築城説の定説化にストップをかけた。先に紹介した通り、埼玉県教育委員会による『埼玉県史料叢書11』は、成田氏築城説を定説として採用していたが、青木氏の議論を踏まえ、“訂正紙”を出すことになったのだ。

 

以下に、訂正紙の全文を引用する。

 

本書二六〇頁の解説(四 室町時代 (四)長享の乱の展開と武蔵)は、忍城(行田市本丸)を本拠とした成田左衛門尉正等が岩付城(さいたま市岩槻区)を構築したという学説に基づいています。

岩付城の築城については、従来から太田道真・道灌父子とするのが通説で、昭和六十三年に刊行された『新編埼玉県史 通史編2 中世』に基づいて書かれています。

その後、新たな史料が発見され、成田氏によって築城されたとする説が提起されたところですが、最近では、新たに渋江氏(岩付城が存する騎西郡渋江郷を苗字とする国人級の領主)とする説も出されています。

このように、岩付城の築城者については、研究者によって諸説が並立している状況にあります。

 

青木(2015)の影響は、渋江氏築城説に言及する文面より明らかであろう。

 

青木氏の議論によって、岩付城築城者論は、少なくとも埼玉県教育委員会の判断としては、「研究者によって諸説が並立している状況にあります」と総括とされることになった。

いくつかの課題を抱えながらも進んでいた成田氏築城説の通説化は、この訂正紙によってストップが掛けかれたと言えるであろう。

  

成田氏築城説への否定的な見解は、他の研究者からも示されるようになる。

 

2018年には、元埼玉県立歴史資料館長の梅沢太久夫氏が、著作『埼玉の城』(まつやま書房)において、「黒田氏が根拠とした『[岩付左衛門丞顕泰]はすなわち成田顕泰』との比定は短絡的であり、根拠が示されていない。この前提が無ければその後の展開も全くなくなってしまう」との指摘を行った。 

青木氏による「黒田説は岩付顕泰=成田顕泰を自明のこととし、その論証はなされていない」との批判に賛意を示したものと言えよう。

 

 

  

青木氏の議論、『埼玉県史料叢書11』の訂正紙、そして梅沢氏の指摘。これら三指摘は、通説化しつつあった成田氏築城説が、実はその根拠において難を抱えていたことを複数の研究者が認識するに至ったことを示すものと言えるであろう。

 

成田説の発信の現状

 

最後に、2019年以降の最近の書籍を確認していきたい。

 

杉山一弥氏編著の『図説鎌倉府』も、山田(2015)とよく似た発信を行う。

 

先にも述べた通り、黒田氏の成田氏築城説は、享徳の乱期にはまだ岩付城は存在せず、しかも岩付地域には上杉陣営の支配は及んでいなかったとする。しかし、杉山(2019)は、享徳の乱期の関係図(137頁)において、岩付城をプロットし、同城を上杉陣営に色分けする。杉山氏もまた、同説に全面的には賛同していないのかもしれない。

 

しかし、こうした「批判」あるいは「無視」があったものの、黒田基樹氏の主張に、変化は生じなかった。 

2019年末に刊行された『太田道灌と長尾景春』(戎光祥出版)において、黒田氏は、『鎌倉大草紙』の岩付築城記述を紹介した後、「このうち岩付城については明確な誤りであり、同城は延徳二年(1490)~明応三年(1494)の間に古河公方足利方の成田正等による築城であったことがわかっている」と記述する。

 

 

 

 

黒田氏が、以前と変わらず、太田氏による岩付城築城を否定する叙述スタイルを取っていることが確認される。

 

また、成田氏による岩付城の築城を、有力説ではなく、史実と見なすスタンスも全く変わっていない。青木氏や梅沢氏からの批判への反論も、特になされていない。

 

 

最後に紹介するのは、久保健一郎氏が2020年に刊行した『享徳の乱と戦国時代』(吉川弘文館)である。

 

 

久保(2020)の叙述姿勢も、山田(2015)によく似る。

久保氏は、太田氏の河越江戸の二城築城を紹介するが、岩付城築城には言及しない。太田氏による築城にも、成田氏による築城にも触れないスタンスを貫いた。

 

ただし、享徳の乱の東西勢力図では、成田氏築城説では古河公方方とする岩付地域を上杉陣営に分類している。久保氏もまた、成田氏築城説を批判無く受け入れる立場にはいないことが示唆される。

 

成田氏築城説の20年間の受容史

 

以上、岩付城成田氏築城説の発信と受容に関する、2001年以降の20年史を振り返った。

 

黒田氏自身による積極的な発信により、成田氏築城説の認知と受容は広がり、2011年には『埼玉県史料叢書11』、2013年には則竹雄一氏の『古河公方と伊勢宗瑞』に史実として採用されるに至った。

しかし、2012年・2013年に同説が大きく見直されて以降、他の研究者の通史書等が成田氏築城説を、否定しないまでも積極的には採用しない流れが生じることになる。

 

そして、2015年以降は、青木文彦氏や梅沢太久夫氏による批判も登場することになった。

 

その結果、岩付城成田氏築城説を、史実と断定して発信しているのは、現状では黒田基樹氏のみと言える状況となっている。

 

視界の大家となった黒田氏は、専門書・論文・一般書の発信数が多く、またその影響力も大きい。一般の歴史愛好者にとっては、成田氏築城説が、この20年間変わらず定説の地位にあったように見えるであろう。

 

しかし、他の研究者の発信も視野に含めると、こうした見方には、注意が必要であることがわかる。

 

成田氏築城説の蓋然性

 

変遷を続け、受容のあり方が変化してきた岩付城成田氏築城説であるが、その蓋然性は、どう評価されるべきであろうか。

 

次回は、この点について検討と整理を行い、本稿の締めとしたい。

↓↓↓

 

岩槻城 成田氏築城説の通説化と課題①」では、1994年時点の、提起された当初の岩槻城(岩付城)成田氏築城説をご紹介しました。

 

 

1994年の時点では、岩付城築城者「自耕斎」(正等)を成田氏系譜の「成田顕泰」に比定した結果、岩付城の築城時期は文明年間後期と特定されました。しかしこの時期は、政治情勢的には岩付城築城の想定が困難。それは、提唱者である黒田先生も認めていました。
 
その②では、その後、上記の人物比定と築城時期の比定が大きく修正され、この困難が克服されたこと、を紹介します。
 
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岩槻城 成田氏築城説の通説化と課題②

 

成田氏による岩付城築城期の問題は、2012年に大転換を迎えることになる。黒田氏が以下の論考において、「成田正等」の人物比定を変更したのだ。

 

黒田基樹(2012)「戦国期成田氏の系譜と動向」、『戦国大名と国衆7 武蔵成田氏』(岩田書院)収録

 

 

 

「成田正等」の人物比定の見直し

 

黒田(2012)は、「自耕斎詩軸并序」に現れる岩付城築城者「自耕斎」(正等)と、自身がこの人物に比定した『成田系図』等における「成田顕泰」の記載を改めて照合する。

 

そして、「自耕斎」(正等)と成田氏系譜の「成田顕泰」は「官途名が異なっている」と指摘し、両者は別人物であるとした。その上で、成田氏系譜史料上の「顕泰」と「親泰」の間に、系図から漏れたが実際には存在した当主として“成田正等”が挿入されることになった。

 

すなわち、系譜史料の「顕泰」は、自耕斎詩軸并序の「自耕斎」(正等)ではなく、系図から漏れたその父であるとしたのだ。

 

これを図式化したものが、次図である。

 

 成田氏系図と自耕斎詩軸并序の対応

(1994年時点と2012年時点)

 

上記の修正を、黒田氏はさらりと記述する。

しかし、筆者はこの修正は、成田氏築城説の信頼性を揺るがすものだと考える。なぜか。それは、この修正が、岩付城築城者である自耕斎(正等)を歴代成田氏当主に求めようとした結果、そのような当主は系図上に認められなかったことを示すためである。


成田氏築城説が“、系図から漏れた当主”との想定を置かねば成立し得ないことを、他ならぬ黒田氏自身が認めたのである。

 

ただし、この修正によって、成田氏築城説の蓋然性は高まることになった。新たな人物比定により、“成田正等”による岩付城の築城時期もまた、見直されることになったためである。

 

築城時期の変更

 

自耕斎(正等)が、系図の成田顕泰でないなら、その没年である文明十六年(1484)を、築城時期の下限とする必要はなくなる。

 

黒田(2012)は、成田氏による岩付築城時期を長享の乱期(1487~1505)に移し、

(ア)長享元年(1487)~延徳二年(1490)

(イ)明応三年(1494)七月~同六年(1497)

の二説に改めた。

 

築城時期がこの(ア)(イ)に限定された理由は、黒田(2012)の以下の記載からうかがい知ることができる。

 

延徳二年十二月の両上杉氏の和睦後、その抗争が再開されるのは、明応三年七月のことであったから(中略)、その間における築城は想定しがたいであろう」。

 

すなわち黒田氏は、岩付城が古河公方と扇谷上杉氏の勢力圏の境目の城であることを踏まえ、同城が平時に築城されたとは想定し難いと考えたのだ。上記の(ア)と(イ)は、まさにそのような時期に相当するのだ。

 

明応六年が下限とされたのは、この年に「自耕斎」(正等)が既に亡くなった人物として自耕斎詩軸并序に登場するためである。

 

黒田(2012)は、上記二説のうち(イ)の可能性が高いとした。

 

再度の築城時期見直し

 

ところが築城時期の問題は、これで決着とはならなかった。

 

黒田氏は、翌2013年に発表した以下の論考において、成田氏にのる岩付城の築城時期を、再び見直したのである。

 

黒田基樹(2013)「岩付太田氏の系譜と動向」、『戦国大名と国衆12 岩付太田氏』(岩田書院)収録

 

 

 

黒田(2013)が提起した新たな築城時期は「延徳二年~明応三年」である。

 

その根拠を、黒田(2013)は次のように述べる。

 

岩付城の初見は、享徳の乱後の長享の乱における明応三年(1494)のことであり、築城者も扇谷上杉氏や太田氏ではなく、古河公方足利氏に従っていた武蔵忍城(行田市)を本拠する成田左衛門尉(法名正等)であった。正等は延徳二年(1490)までは忍城を本拠としていたとみられるから、築城は、その間のことと推測される」。

 

この築城時期は、2012年時点の議論から変化を遂げたものである。

 

文章だけでは分かりにくいため、以下に図式化する。


 成田氏築城説における築城時期の見直し

 

 

(2012年説から2013年説へ)

 

岩付築城期の下限が、2012年時点の「明応六年」(1497)から「明応三年」(1494)に改めたのは、問題はない。岩付城の存在が、新出史料である、明応三年(1494)11月の足利政氏書状(埼玉県史料叢書11 史料614号)により確認されることが新たにわかったためである。

 

しかし、黒田(2012)の段階での「可能性が高い」とした築城時期=「明応三年7月~明応三年(1497)」との検討を重ね合わせれば、岩付城の築城時期は、「明応三年7月から11月」の数ヶ月間に絞り込まれるはずである。

 

ところが、結論はそうならなかった。

黒田(2013)は、2012年段階では「その間における築城は想定しがたい」として築城時期から排除した「延徳二年~明応三年」を、新たに築城時期に加えたのである。

 

“岩付城のような境目の城であっても、和睦期に構築されたとしても不思議ではない”との再考がなされたのかもしれないが、黒田(2013)には、そうした検討の記載はない。

 

前年の想定を大きく変更した黒田(2013)であるが、残念ながら叙述の筆致は、それが変更であることが伝わり難い。読者は、気をつけて読む必要がある。

 

なお、この新たな築城時期=「延徳二年(1490)から明応三年(1494)」は、『大田道灌と長尾景春』(2019年、戎光祥出版)でも繰り返されており、その後は変更されていないようである。

 

「正等」の人物比定の見直しにより、黒田氏の成田氏築城説は、文明年間後期に岩付築城を想定する困難性から解放されることとなった。成田氏築城説は、蓋然性を高めた形で、完成を迎えたのである。

 

成田氏築城説の変遷史のまとめ

 

成田氏築城説の変遷を、築城時期に焦点を当てて整理したものが、次図である。

 

 

 成田氏築城説における築城時期の見直し

(1994年説、2012年説、2013年説)

 

成田氏築城説は、

  • 1994年に提起され、
  • 2012年に人物比定と築城時期が変更され、
  • 2013年に築城時期が再度見直されたことになる。

 

※ ※ ※

 

岩槻城 成田氏築城説の通説化と課題③」では、他の研究者から積極的に認められていた成田氏築城説が、2012年の大幅見直し以降、そのポジションが変化していったことを追っていきます。

↓↓↓

拙著『玉隠と岩付城築城者の謎』では、岩付城(岩槻城)の築城者論のうち、現在最も蓋然性が低いとされていた「太田氏築城説」の再検討を行いました。

 

 

 

実は、当初の原稿では、蓋然性が高いとされる説「成田氏築城説」や「渋江氏築城説」についても検討を加え、両説にも課題があることの指摘も行っておりました。

 

しかし、頁数が増えすぎてしまい、これらの記載は大幅に削除することに。

 

このままパソコン内で腐らせておくのも勿体ないので、これら削除部の一部を、複数のエントリーに分けてご紹介したいと思います。

 

↓↓↓文章が「である」調に変わります↓↓↓

 

岩槻城 成田氏築城説の通説化と課題①

 

成田氏築城説とは

 

現在、岩付城の築城者説として、もっとも有名且つ、最も広く受け入れられている学説は、成田氏築城説であろう。

 

黒田基樹氏が提起した同説は、自耕斎詩軸并序に登場する岩付城築城者「正等」(斎号は自耕斎)を成田氏に比定する。

自耕斎詩軸并序には「成田」の記載はないが、黒田氏はこの比定の蓋然性の高さを踏まえ、以降、「成田正等」なる人物の実在を前提に歴史記述を展開し、今日に至っている。

 

同説の強みは、一次史料や信頼度の高い二次史料(自耕斎詩軸并序など)に対する総合的な検討を踏まえて立論されている点である。その蓋然性の高さは、軍記物や系図史料を根拠とする太田氏築城説とは比較にならない。こうした評価は、同説が公的な資料集(埼玉県史料叢書11)に採用され、また他の研究者による通史書の叙述に取り入れられたことからも明らかである。

 

成田氏築城説の課題

 

しかし、この蓋然性の高い成田氏築城説にも、課題が存在する。


追って詳述するが、同説は、提唱の時点から、岩付城の築城時期の比定に課題を抱えていた。この課題は、その後「成田正等」の人物比定が見直されたことで克服されたが、見直しは一度では済まず、翌年に再度の修正が行われることになった。


筆者は、こうした議論の“揺らぎ”は、同説の信頼度に疑問を投げ掛けた可能性があるとみる。 

2011年~2013年にかけて、成田氏築城説を採用する公的な資料集や他の研究者の通史書が登場したのだが、人物比定や築城時期の比定が見直されて以降、こうした流れは止まったのだ。

他の研究者らが黒田基樹氏の成田氏説を積極的に採用する事例は見られなくなり、むしろ、同説の想定に反する記述を採用する書籍が増える。中には成田氏築城説に対する明示的に批判を行う研究者(筆者のようなアマチュア史家ではない)も登場するに至っている。


もはや、成田氏築城説を確定した史実として記述するのは、黒田氏のみの状況である。

 

加えて、拙著『玉隠と岩付城築城者の謎』でも間接的に触れたように、同説は、その立論の根拠とされた自耕斎詩軸并序と整合しない点が少なくない。

 

2004年の『扇谷上杉氏と太田道灌』(岩田書院)以降、提唱者の黒田基樹氏によって史実と断定して発信されてきた成田氏築城説。しかし、こうした周囲の議論や反応を踏まえれば、その蓋然性には今一度検討が加えられるべき時期にきているのではないだろうか。

 

以下、この問題を詳述していきたい。

 

当初の想定は文明年間後期

 

黒田氏が成田氏築城説を提起したのは、以下の1994年論文においてであった。

 

黒田基樹(1994)「扇谷上杉氏と渋江氏 ー岩付城との関係を中心にー」、『戦国期東国の大名と国衆』(岩田書院)収録

 

 

 

この論文において黒田氏は、「自耕斎詩軸并序」に現れる岩付城築城者である「自耕斎」(法名は「正等」)の息子「岩付左衛門丞顕泰」に注目する。そして、「自耕斎詩軸并序」作成の依頼主と考えられるこの人物を「成田顕泰」に比定した。

 

成田氏系譜史料は「一代ずつずれている」

 

しかし、この人物比定には、少しばかり“工夫”が必要であった。

 

成田氏の系譜を記載する『龍淵寺年代記』(龍淵寺は成田氏の菩提寺)は、「成田顕泰」が文明十六年(1484)に没したと記す。「自耕斎詩軸并序」が書かれた明応六年(1497)には、既に他界していたことになる。これでは、自耕斎詩軸并序の依頼主となることはできない。

 

これに対して、黒田(1994)は、「成田顕泰」が『東路のつと』において、明応期以降に登場することを踏まえ、成田氏の系譜史料は「一代ずつずれている」と指摘した。すなわち、系譜上の「成田顕泰」は、実際には顕泰の父であり、「自耕斎詩軸并序」に現れる自耕斎(正等)であるとしたのだ。

 

さらに黒田氏は、系譜上は顕泰の息子である「成田親泰」が、実際には成田顕泰であり、「自耕斎詩軸序」の「岩付左衛門丞顕泰」に相当する、とも論じた。

 

この検討によって、岩付左衛門尉顕泰=成田顕泰(系図では成田親泰)という人物比定は、成田氏の系譜史料とも整合するとされたのだった。

 

 成田氏系図と自耕斎詩軸并序の対応

(1994年時点)

 

 

当初の築城時期は文明年間後半

 

以上の議論を踏まえ、黒田(1994)は、

①岩付城の築城者「自耕斎」(正等)は成田氏系譜の「成田顕泰」であり、

②系譜史料がこの人物の没年を文明十六年(1484)としている以上、岩付城の築城時期は同年が下限となる、

と論じた。

 

加えて黒田氏は、足利成氏書状や太田道灌状によって、成田氏当主が、文明十一年(1479)時点では忍城(行田市)に在城していることが判明することも指摘。

結論として、成田氏による岩付城の築城時期を、文明十一年(1479)~同十六(1484)であると特定したのである。

 

黒田氏は、この結論は揺るがないと考えたのであろう。

・2004年刊の『扇谷上杉氏と太田道灌』

・2009年刊の『図説太田道灌』

では、“文明年間後期の成田氏による岩付城の築城”は、説ではなく史実として断定されることになる。

 

 

 

文明年間後期の岩付築城は想定し難い

 

しかし、この岩付築城時期には、課題があった。当時の状況と整合しないのだ。

 

利根川・荒川を挟んで東の古河公方と西の両上杉氏が戦った「享徳の乱」であるが、文明八年(1476)に「長尾景春の乱」(1476~1480)が生じると、その構図が大きく変化した。

 

上杉氏陣営の内紛であった同乱において、当初、古河公方は長尾景春を支援したものの、文明十年(1478)正月には両上杉氏との和睦を果たす。  

文明十一年(1479)には、太田道灌と古河公方が同じ陣営として長尾景春と戦っていたことは、『太田道灌状』の記載からも確かめられる。

 

図 享徳の乱前期・後期の対立構図
 
 
古河公方が上杉氏陣営内の内乱鎮圧に助力したことで、利根川・荒川を挟んだ東西対立構図は終焉を迎えたことになる。
 
利根川・荒川の東側を統べる古河公方と、西側を統べる太田道灌(扇谷上杉家宰)が協力関係にある時に、その境目に城が建てられることは、想定が難しい。
 

岩付城は、まさに関東を東西に分ける利根川・荒川の畔に立つ境目の城。この地に城が築かれたとすれば、利根川・荒川の両岸陣営の対峙下でなければ説明が困難なのだ。

 

図 中世利根川と岩付城
 

実はこのことは、黒田氏自身も認めていた。

 

黒田(1994)は、「文明十二年には長尾景春の乱が上杉氏によって平定され、同十四年には幕府=上杉方と古河公方足利成氏との和睦、いわゆる『都鄙和睦』が成立した。こうした時期に岩付城が築城されたのであるが、その理由については明確にはしえない」と述べる。

 

黒田氏によって、史実として語られた“文明年間後期の成田氏による岩付城の築城”であったが、実は提起された時点から、こうした課題を孕んでいたのである。

 

 ※ ※ ※

 

岩槻城 成田氏築城説の通説化と課題②」では、成田氏築城説が迎える大きな変遷について紹介します。

 

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上杉謙信の関東遠征は、同時代には「越山」と呼ばれました。

特に、永禄三年(1560)から同四年にかけて行われた、最初の大規模「越山」は、北条氏の関東覇権を転覆させたことで有名です。

関東の覇者北条氏を圧倒し、小田原城まで追い詰めた謙信(当時は長尾景虎)は、「関東管領」と地位と「上杉」の名字を得ることになります。

しかし、大きな成果を上げた永禄三・四年の「越山」ですが、北条氏を制圧するには至りませんでした。
新関東管領・謙信と関東諸将との関係も、一部とは決裂に至り、謙信は安定的な関東統治の形を作ることなく、越後に帰国することに。

そして、永禄四年の後半からは、謙信不在の関東で北条氏の反撃が開始されます。謙信に味方した関東諸将が、北条氏によって次々制圧され る中、ひとり気を吐いたのが岩付の太田資正でした。

…というのが、拙稿「太田資正と武州大乱」(『太田資正と戦国武州大乱』第2章)の主な内容。

この時の太田資正と北条氏康の攻防は、同時代の多数の史料から確認されますが、その代表と言えるのが、氷川女體神社(さいたま市)の大般若経真読の識語です。

氷川女體神社は、太田資正の必勝を祈願して、永禄三年から同六年にかけて度々大般若経の真読(お経を省略せずに全て読み上げること)を行いました。

その際に書かれた識語、すなわち、お経に書かれたメモ書きは、太田資正と北条陣営の攻防の貴重な証言と言えます。

その内容は拙稿でも紹介しましたが、全文をご案内することはできませんでした。

拙稿を読んでくださった方々が、さらに詳しく太田資正のことを知りたいと思われた時の足掛かりにしたい。そう思って、『岩槻市史通史編』収録の氷川女體神社大般若経真読の識語を紹介するツイートを連投したことがありました。

 

今回、その内容を改めてまとめたいと思います。


(氷川女體神社)

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・景虎越山申酉戌三年在関東武相上大乱為天下静謐 真読(巻数不明)

謙信(長尾景虎)の永禄三年の越山のことを記した識語。
「武相上大乱」は、武蔵国・相模国・上野国の三か国が大乱に見舞われたことを示します。確かに、謙信は上野国→武蔵国→相模国というルートで攻め込みました。

・永禄四年辛酉武州大乱為静謐 中院真読(巻第一六三)

翌永四年の識語の始まり。
拙稿のタイトルにも使った「武州大乱」の語がここに登場します。

・永禄四酉ノ年景虎氏康武上鉾楯

謙信(長尾景虎)と北条氏康が、「武上」すなわち武蔵国と上野国で抗争を展開したことを記しています。
謙信は、永禄四年の年初に厩橋(前橋)に関東諸将を集めて(『関東幕注文』)、同年二月には武州松山城を攻略しています(『年代記配合抄』)。
この頃のことを記しているのでしょうね。

・万民不安故真読畢 仏地院
・真読 第二度畢(巻第二五一)

万民が不安がるので真読を行ったとの記載。
依頼主は太田資正のはずですから、資正も領民の動揺を押さえようとしていたのかもしれませんね。

・辛酉年 関東大破持氏以来今度始也仍為国土安泰 真読中院(四)

「関東大破」という表現が、当時の混乱をうかがわせます。そして興味深いのは、“足利持氏以来の関東大乱”との認識です。
持氏以降も、さまざまな乱があったはずですが、殊更持氏が持ち出されたのは、将軍対関東という構図が謙信対北条で再現されたためできょうか。

・景虎氏康朝敵 酉ノ年大乱勝敗未決為天下一統真読中院(七)

氏康が朝敵と位置づけられています。
京の将軍は、義満・義持・義教と三代続いて天皇と一体化していました。謙信が頼った義輝が天皇の権威を持ち出せたのかは不勉強で存じ上げないのですが、少なくとも謙信陣営が、自分たちは官軍であると認識していたらしいことがうかがえます。

「天下一統」との語が登場するのも興味深いですね。。天下=畿内とは限らず、と言えるでしょうか。

・永禄五年壬戌正月九日真読中院
・為天下静謐也
(巻第三五六)

識語が永禄五年に入ります。
以降、謙信不在の関東で、北条氏康が太田資正の岩付領に攻勢をかけたことを記す識語が増えていきます。

・永禄五年壬戌正月二日為大乱静謐(巻第三一八)
・廿六日水判土慈眼房焼失敵動永禄五壬戌正月真読 此本悉損(二)

永禄五年正月の識語。

水判土慈眼房とは、今日のさいたま市西区の慈眼寺のこと。大宮台地の西の縁に乗る寺院であり、北条氏が岩付領に侵攻しようとすれば、その最初のアプローチ先になる場所です。
「焼失」とは、北条氏の攻撃によるものでしょうか。

・壬戌正月廿九日 氏康下足立御動岩付大切ノ間為安全 真読中院(巻第四八三)

永禄五年正月の識語はまだ続きます。
今度は北条氏康が、下足立に進軍したことを記す内容。北条氏の攻撃先が、慈眼寺付近より南に移ったことがわかります。

・永禄五年壬戌正月真読仙中竪者奝芸 氏康下足立出張美濃守対治ニテ仍祈祷(巻第四九九)

ここで真読を行った僧「奝芸」の名が登場しま「仙中」とは仙波中院のこと。
氏康が下足立郡に進撃し、資正(美濃守)が対峙したとの記述も。資正側も迎撃の動きを見せたのでしょう。

・蕨篠目二月朔日二日ニ焼失 永禄五年壬戌正月氏康御動 為天下豊穣 真読(巻第四九二)

二月に入り、蕨や佐々目(篠目)が焼失します。これは城郭か、城郭同然に使われていた寺社の焼失を伝えるものでしょうか。
佐々目は、さいたま市南区から戸田市にかけてのエリアです。

・壬戌二月二日氏康足立御動篠目放火(巻第四八九)

永禄五年二月の佐々目(篠目)焼失を繰り返し記載しています。「放火」とあり、先に書かれた寺社の焼失も、北条勢の放火によるものであったことをうかがわせます。

・戌二月峕時氏康葛西口動家中為天下安全(巻第五一二)

永禄五年二月、遂に北条氏康は、謙信勢によって奪われていた葛西城の奪還に動きます。
慈眼寺→蕨・佐々目→葛西、と抗争地が南に移っていることがわかります。

・壬戌年 管領氏康取合時真読 中院(五)

永禄五年の識語の最後がこちら↑。
「管領」すなわち謙信勢力と、北条氏の一進一退の攻防があったことをうかがわせます。

・亥ノ年 正月松山籠城 敵氏康 味方太田(巻第三九八)

亥ノ年は永禄六年です。
すでに永禄五年十月に、武田信玄と・北条氏康が同陣し、五万騎以上の大軍で、資正配下の守る武州松山城(吉見町)を包囲しています。

永禄六年二月まで続く武州松山城の攻防戦。その様子が、遠く氷川女體神社まで伝わってきたのでしょう。

・大旦那岩付 关亥ノ年正月真読(巻第三八七)

岩付=太田資正が「大旦那」であることを記す識語。

・氏康西上野張陣 越国衆上州細井楯籠 勝敗相半也仍真読如此(三)

北条氏康が西上野に進軍し、越後勢が細井に籠城して対抗したとの記載です。細井は、現在の前橋市の上細井・下細井付近でしょうか。
北条勢が上野国まで攻め込んでいるということは、武州松山城が既に陥落した後の展開に思えます。

・為大乱静謐 真読中院(巻第四九五)
・太田美濃守一門為繁昌真読奝芸
(巻第三九六)

太田美濃守(資正)の一門の繁栄を祈念する識語です。

・景虎氏康関東相論大乱日本ニ無其陰 仙波中院(巻数不明)

景虎(上杉謙信)と北条氏康の関東争奪戦は、日本中に影響の無いところはなかった、という意味でしょうか。

謙信が「管領」ではなく「景虎」とされていることから、関東管領・上杉政虎となった永禄四年閏三月以前の識語と思われます。

『岩槻市史通史編』収録の氷川女體神社大般若経真読の識語は以上です。

永禄四年・五年の識語が多いことは、まさにこの年が、氷川女體神社の大旦那であった太田資正が、北条氏と激しい抗争を展開した時期であることをうかがわせます。
また、たびたび真読を行わせられたことは、それだけの余裕が資正陣営にあったことも示唆すると言えるでしょう。

一方、永禄六年の識語が少ないのは、武州松山城の陥落によって、太田資正陣営が“死に体”となったためと考えることができます。

拙稿「太田資正と武州大乱」でも書きましたが、永禄六年の終わりには、太田資正ご兵糧を他国に頼らざるを得ない状況であったことが一次史料から窺われます。

収穫と徴収がままならないほど、自領に攻め込まれた太田資正。氷川女體神社に大般若経の真読を行わせるだけの余裕は、既に失われていても不思議ではありません。


氷川女體神社の大般若経の識語から追う、太田資正と北条氏康の攻防。いかがでしたでしょうか。

神社に残る記録から、当時の抗争の様子がここまでわかるのは凄いことだと思います。

肝心のさいたま市民にも、あまり知られていないこの史料。もっともっと多くの方々に知って欲しいと思い、連投ツイートをまとめました。

太田資正と彼が統治した岩付領を知る手がかりとして、ご活用いただけたなら幸いです。

拙著『玉隠と岩付城築城者の謎』では、地理学における中世の河川流路に関する研究成果を踏まえて、岩付城周辺の地勢を図にしました。
(NPO法人越谷郷土研究会の秦野秀明氏のご指導の賜物です!)

図2とナンバリングした岩付城周辺の拡大は、好評をいただけたようで、作図の甲斐がありました。

参照しやすいように、改めてこのアーカイブブログにもアップしたいと思います。



・利根川が古隅田川流路と古利根川流路に別れて蛇行。
・古隅田川は、岩付城付近で荒川(元荒川流路)に合流。
・綾瀬川も、当時は荒川支流の1つでした。(本流説も存在)

そして、
・古隅田川が、武蔵国と下総国の国境、
・綾瀬川が、武蔵国埼西郡と武蔵国足立郡の郡境、
でした。

岩付地域は、古隅田川と綾瀬川に挟まれた細長いエリアだったことになります。

国境と郡境に挟まれたこの地域が、下総勢力と武蔵勢力の境目として争奪の対象となったことは、地勢からも得心できます。

下総国の利根川上流勢力(古河公方や簗田氏)が、河川の流れに沿って侵攻する時、最も西側の上杉勢力圏に深く切り込める場所が岩付です。

下総勢力は、是が非でもここを取りたい。
武蔵勢力は、是が非でもここを守りたい。
 

 


拙著『玉隠と岩付城築城者の謎』のある考察のために、「長尾景春の乱」の合戦地を地図にプロットしました。

タネ本は、則竹雄一先生の『古河公方と伊勢宗瑞』。

完成は、2020年10月ですから、本作成の最終段階での作図だったのですね。
 

 


この地図は、岩付城の築城者論を越えて、長尾景春の乱の展開を考える上で役に立つのではないかと思います。


それにしても、西関東で面的に展開された長尾景春与党の一斉蜂起を、個別撃破していった道灌は凄い。軍事の天才ですね。




天文十五年年(1546)の河越合戦(いわゆる川越夜戦)は、関東における北条氏康の覇権を決定的なものとした大戦。

太田資正は敗者となりました。
しかし、ここからの復活・反撃は、資正が並の武将ではなかったことを周囲に知らしめます。

拙稿「太田資正と武州大乱」(『太田資正と戦国武州大乱』二章)で紹介した資正の逆襲。

資正の息子が書いた『太田資武状』や、黒田基樹先生によって信頼度が再評価された『年代記配合抄』は、この時の資正の活躍を鮮やかに描き出します。

2020年6月に、ツイッターのフォロワーが1546名を越えた時の記念連投ツイートをまとめます。

 




フォロワー様が遂に1546名に!

1546年は天文15年。

運命の河越合戦(川越夜戦)の年。山内上杉・扇谷上杉に古河公方が加わった旧勢力連合が、後北条氏と河越城を巡る決戦を挑み敗れます。

北条氏が関東最強者となった中、しかし太田資正は生き残り、数か月後に扇谷上杉の最後の本拠であった松山城を奪還することに成功します。

河越合戦記念ということで、
太田資武状の該当部を引用します。


河越之城ニは、箱根之源南并北条上総、為武主被籠置旨、扇谷管領方之大名共数輩令談合、天文拾四年乙巳九月ヨリ河越へ押寄、翌年四月迄取こめ候処ニ、為後巻、氏康河越え出馬、寄手還而前後ヨリ被取包、日々夜々ノ戦無滞中、親ニ候は、鑓ヲ為合候義及廿四度ニ由申候、 雖然四月廿日合戦、管領方敗北、親ニ候者も手前之人数悉討死、漸々主従九騎ニ罷成、松山へ立帰候へ共、城依難堅メ自焼仕、上野国新田へ取除、高林と申所ニ蟹居、其時分芳賀伊予と申人、北条家無双之勇者、又果報伊美敷者成故、氏康手ニ被入候城々ヘハ、先彼伊与を被移申由候、然間松山ノ城へも、芳賀伊予守ニ随一ノ者共余多指添被籠置候之処ニ、同年八月廿八日之夜、親ニ以忍入、彼城を乗取、或者追落、終ニハ遂本望、在々所々掟等平均ニ申付、二度松山ニ令在城処ニ、三楽斎兄ニ候信濃守、於岩付ニ病死、実子依無之、彼地え親ニ候者打入候砌、

河越合戦で前線指揮する若き資正。
大敗し、わずか九騎で敗走。
しかし上野国高林で再起し、松山城に忍び入って奪還に及びます。

河越合戦の大敗後、ひとり気を吐く太田資正。
資正の人生の中で、指折り数える活躍期です。

年代記配合抄の記述も引用しましょう。

乙巳秋ノ比難波田弾正以計源春氏・上杉憲正・上杉朝朝定奉、始武・上・下・常陸・下総五ケ国軍兵八千騎引卒シテ川越ヲ巻、日々責ルトモ不叶、終年ヲ越、翌年丙午平氏康為後詰三千騎ニテ四月廿日ニ彼陣際へ押寄合戦ス、春氏敗テ倉賀野参河守・小野因幡守彼等ヲ始三千余人討死、則日二松山落居、其年ノ九月資政松山ヲ忍取、翌年丁未十二月九日松山ニハ上田又次郎ヲ抜替へ、資政ハ岩付へ移ル、上田ノ企上謀叛ヲ氏康ニ一同ス、同十三日ニ氏康六千騎ニテ岩付ヲ巻、年ヲ越戌申正月十八日資政ニ氏康一同シテ陣ヲ引、

年代記配合抄の内容は、太田資武状のそれとほぼ一致。拙稿でも書きましたが、松山城を「忍取」という表現は、資武状の「忍入」とよく似ていて、ニヤリとします。

資正は、大軍を率いる大将というより、少数精鋭を率いて前線で指揮するタイプだったのだろうと思わせる内容です。

後世、道灌の再来とも言われる資正ですが、扇谷上杉の家宰として大軍を指揮した道灌とはかなりタイプが違いますよね。

ちなみに、軍記物では数万とされる公方・上杉連合が「八千」であるのも、年代記配合抄の興味深いところ。

実態に近そうな気がします。

太田資武状も、年代記配合抄も、
①河越合戦
②資正の松山奪還
③資正の岩付入城
④氏康の反撃
という流れをとても劇的に描いて、興味深いですね。

太田道灌の実子にして、江戸太田氏の始祖とされる「太田資康」。

この人物は、本当に道灌の後継者だったか。

 

新井白石の時代から繰り返されてきた、太田資康の正統性論。

(ちなみに、新井白石は『藩翰譜』において、資康は道灌実子だが嫡流ではない、と主張)

 

これについて、前島康彦先生と黒田基樹先生の新旧2説を紹介した、2019年9月の連投ツイートをまとめます。

 

 

 

■謎を呼ぶ太田資武状と梅花無尽蔵の齟齬

 

太田資康の正統性について議論があるのは、「太田資武状」(最古の太田氏系譜史料)と、『梅花無尽蔵』(道灌を敬慕した漢詩人の作品)の記載に齟齬があるため。

 

「太田資武状」(最古の太田氏系譜史料)は、太田道灌には実子が無かったので甥を後継にしたと記述します。正統な後継者は、養嗣子となった甥であり、実子資康は存在すら語られません。


道灌之実子無ニ付而、図書助ト申而甥ニ候ヲ取立、名字を被譲候…

 

(資武状の記載原文については、こちらへ)

 

 一方、『梅花無尽蔵』(道灌を敬慕した漢詩人の作品)は、道灌実子の資康が、主家・扇谷上杉氏のもとを離れ、山内上杉氏を頼った際にその陣を訪れ、資康「太田二千石公之家督源六資康」と呼んでおり、道灌の家督継承者だったとの認識を示しています。


この矛盾に向き合い、どう受け止めるべきか。


これを論じたのが、1970年代の前島康彦先生と、1990~2000年代の黒田基樹先生。 両大家の議論は非常に対照的です。

 

■前島康彦先生の太田資康論

 

前島康彦先生の1970年代の議論は、資康が道灌家督を継いだとする証言は、詩人万里集九の『梅花無尽蔵』しかなく、簡単には受け入れられないとの立場。 

 

そして資康は確かに道灌実子だが、道灌が40歳を過ぎてからの子であることを踏まえ、「当時の上層武士のならいとして、名字家督を譲られたもののみが実のあとつぎであって、直接の血のつながりとは別の問題と見る以上、少なくとも資康は跡目相続をしないうちに父を喪ったのである」との論じました。 (『太田氏の研究』226頁)

 

そして、資康は道灌実子ではあるが、太田氏直系となったのは養子の系統である岩付太田氏であるとした、新井白石の『藩翰譜』に賛意を示します。

 

 

資康誕生前に甥の後継指名があり、つまり、「太田資武状」における、道灌が実子がなかったので甥に家督を継がせたのと記述は、資康誕生前の出来事を記したものと位置付けたのです。 

 

これは、中世太田領研究会の会長の指摘ですが、実際、『太田道灌状』には道灌の弟図書助の息子(道灌の甥)らしき「六郎」が登場し、六郎は黒田先生も認める太田惣領の仮名。 資武状の記述はこれと整合的するのです。(「太田資正はどこからきたのか」(『太田資正と戦国武州大乱』第一章))

 

前島先生の議論は、 「太田資武状」の記述は正しく、 資康の道灌家督継承を記す『梅花無尽蔵』は、“本当は遅く生まれた実子を改めて後継に据え直したかった道灌の想い”を受けた詩文上の修飾、 …と総括できます。 (これは私の表現ですのでご注意を)

 

■黒田基樹先生の太田資康論

 

黒田先生の議論は、前島先生とは大きく異なります。 

1992年の論文「江戸太田氏と岩付太田氏」(『論集戦国大名と国衆12 岩付太田氏』収録)で黒田先生は、『梅花無尽蔵』の記述より資康が道灌の家督を継いだことは間違い無いと論じます。 矛盾する「太田資武状」の記載は「にわかには信用しえない」と切り捨てます。 

 

 

そのロジックは…太田資武状には鎌倉大草紙や太田道灌状の影響が認められるので、にわかには信用しえない、というもの。

 

 興味深い議論ですが、なぜか、鎌倉大草紙や道灌状からどのような影響を受けたかの具体的な指摘はありません。 前島先生説の紹介・批評はありません。

 

以降、梅花無尽蔵と太田資武状の矛盾は、資武状の誤りとして決着済扱いに。

 

『図説太田道灌』等でも、太田資康は、道灌生前から後継者に指名されていたが、長享の乱で資康が出奔し、山内上杉氏方についたことで、太田氏惣領の地位を失った、との主張を展開されます。

(『図説太田道灌』以外では、2014年の『扇谷上杉氏と太田道灌』、2019年の『太田道灌と長尾景春』でも同様)

 

太田資武状における、道灌が甥を養嗣子にしたとする記載については、相手にしないスタンスと言えるでしょうか。

 

■忘れ去られる前島先生説

 

(ア)梅花無尽蔵と太田資武状の矛盾を整合的に説明することに挑み、資武状は正しく、梅花無尽蔵は詩人の修辞とした前島康彦先生。

 

(イ)梅花無尽蔵は正しく、資武状は信用できないと論じた黒田基樹先生。

 

私はどちらかと言えば、古い前島先生の見解の方に説得力を感じますが、もちろん、黒田先生の説も蓋然性あり。

 

残念なのは、(ア)の前島先生の見解が、現在は忘れ去られていること。

 

今日、世間に流通する太田道灌論や道灌後の太田氏系譜論は、黒田先生によるものが中心。(黒田先生ご自身が、太田道灌の研究者が他にいないと、ご講演で話されています)

 

結局のところ、私たち歴史マニアは、現在流通する黒田先生の本を通じてこの分野を学ぶことになるのですが、黒田先生は、古い前島先生の見解を紹介しないので、普通は触れることもできないのです。

 

私が知っているのは、所属研究会の会長が、超絶マニアで1970年代の前島先生論文や対談集をどんどん発掘して共有してくださるから。こんな恵まれた環境にいるのは、日本に何人いることか。

 

現状ほぼ唯一の太田道灌論の発信者である黒田先生には、古い説を「紹介しない」のではなく、「紹介した上で批判する」というスタンスを取ってくださると、学ぶ我々も研究史がわかりありがたいのですが。