「岩槻城 成田氏築城説の通説化と課題①」では、1994年時点の、提起された当初の岩槻城(岩付城)成田氏築城説をご紹介しました。
岩槻城 成田氏築城説の通説化と課題②
成田氏による岩付城築城期の問題は、2012年に大転換を迎えることになる。黒田氏が以下の論考において、「成田正等」の人物比定を変更したのだ。
「成田正等」の人物比定の見直し
黒田(2012)は、「自耕斎詩軸并序」に現れる岩付城築城者「自耕斎」(正等)と、自身がこの人物に比定した『成田系図』等における「成田顕泰」の記載を改めて照合する。
そして、「自耕斎」(正等)と成田氏系譜の「成田顕泰」は「官途名が異なっている」と指摘し、両者は別人物であるとした。その上で、成田氏系譜史料上の「顕泰」と「親泰」の間に、系図から漏れたが実際には存在した当主として“成田正等”が挿入されることになった。
すなわち、系譜史料の「顕泰」は、自耕斎詩軸并序の「自耕斎」(正等)ではなく、系図から漏れたその父であるとしたのだ。
これを図式化したものが、次図である。
成田氏系図と自耕斎詩軸并序の対応
(1994年時点と2012年時点)
上記の修正を、黒田氏はさらりと記述する。
しかし、筆者はこの修正は、成田氏築城説の信頼性を揺るがすものだと考える。なぜか。それは、この修正が、岩付城築城者である自耕斎(正等)を歴代成田氏当主に求めようとした結果、そのような当主は系図上に認められなかったことを示すためである。
成田氏築城説が“、系図から漏れた当主”との想定を置かねば成立し得ないことを、他ならぬ黒田氏自身が認めたのである。
ただし、この修正によって、成田氏築城説の蓋然性は高まることになった。新たな人物比定により、“成田正等”による岩付城の築城時期もまた、見直されることになったためである。
築城時期の変更
自耕斎(正等)が、系図の成田顕泰でないなら、その没年である文明十六年(1484)を、築城時期の下限とする必要はなくなる。
黒田(2012)は、成田氏による岩付築城時期を長享の乱期(1487~1505)に移し、
(ア)長享元年(1487)~延徳二年(1490)
(イ)明応三年(1494)七月~同六年(1497)
の二説に改めた。
築城時期がこの(ア)(イ)に限定された理由は、黒田(2012)の以下の記載からうかがい知ることができる。
「延徳二年十二月の両上杉氏の和睦後、その抗争が再開されるのは、明応三年七月のことであったから(中略)、その間における築城は想定しがたいであろう」。
すなわち黒田氏は、岩付城が古河公方と扇谷上杉氏の勢力圏の境目の城であることを踏まえ、同城が平時に築城されたとは想定し難いと考えたのだ。上記の(ア)と(イ)は、まさにそのような時期に相当するのだ。
明応六年が下限とされたのは、この年に「自耕斎」(正等)が既に亡くなった人物として自耕斎詩軸并序に登場するためである。
黒田(2012)は、上記二説のうち(イ)の可能性が高いとした。
再度の築城時期見直し
ところが築城時期の問題は、これで決着とはならなかった。
黒田氏は、翌2013年に発表した以下の論考において、成田氏にのる岩付城の築城時期を、再び見直したのである。
黒田基樹(2013)「岩付太田氏の系譜と動向」、『戦国大名と国衆12 岩付太田氏』(岩田書院)収録
黒田(2013)が提起した新たな築城時期は「延徳二年~明応三年」である。
その根拠を、黒田(2013)は次のように述べる。
「岩付城の初見は、享徳の乱後の長享の乱における明応三年(1494)のことであり、築城者も扇谷上杉氏や太田氏ではなく、古河公方足利氏に従っていた武蔵忍城(行田市)を本拠する成田左衛門尉(法名正等)であった。正等は延徳二年(1490)までは忍城を本拠としていたとみられるから、築城は、その間のことと推測される」。
この築城時期は、2012年時点の議論から変化を遂げたものである。
文章だけでは分かりにくいため、以下に図式化する。
岩付築城期の下限が、2012年時点の「明応六年」(1497)から「明応三年」(1494)に改めたのは、問題はない。岩付城の存在が、新出史料である、明応三年(1494)11月の足利政氏書状(埼玉県史料叢書11 史料614号)により確認されることが新たにわかったためである。
しかし、黒田(2012)の段階での「可能性が高い」とした築城時期=「明応三年7月~明応三年(1497)」との検討を重ね合わせれば、岩付城の築城時期は、「明応三年7月から11月」の数ヶ月間に絞り込まれるはずである。
ところが、結論はそうならなかった。
黒田(2013)は、2012年段階では「その間における築城は想定しがたい」として築城時期から排除した「延徳二年~明応三年」を、新たに築城時期に加えたのである。
“岩付城のような境目の城であっても、和睦期に構築されたとしても不思議ではない”との再考がなされたのかもしれないが、黒田(2013)には、そうした検討の記載はない。
前年の想定を大きく変更した黒田(2013)であるが、残念ながら叙述の筆致は、それが変更であることが伝わり難い。読者は、気をつけて読む必要がある。
なお、この新たな築城時期=「延徳二年(1490)から明応三年(1494)」は、『大田道灌と長尾景春』(2019年、戎光祥出版)でも繰り返されており、その後は変更されていないようである。
「正等」の人物比定の見直しにより、黒田氏の成田氏築城説は、文明年間後期に岩付築城を想定する困難性から解放されることとなった。成田氏築城説は、蓋然性を高めた形で、完成を迎えたのである。
成田氏築城説の変遷史のまとめ
成田氏築城説の変遷を、築城時期に焦点を当てて整理したものが、次図である。
(1994年説、2012年説、2013年説)
成田氏築城説は、
- 1994年に提起され、
- 2012年に人物比定と築城時期が変更され、
- 2013年に築城時期が再度見直されたことになる。
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「岩槻城 成田氏築城説の通説化と課題③」では、他の研究者から積極的に認められていた成田氏築城説が、2012年の大幅見直し以降、そのポジションが変化していったことを追っていきます。
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