これまでの執筆&講演活動をまとめました。

(新聞などメディア情報も追加しました)

 

■執筆記録

 

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柴田昌彦(2026)「太田氏による岩槻城(岩付城)築城説の再考 前編」、埼玉史談 第71巻 第2号

 

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柴田昌彦(2026)「「岩槻城を築いたのは誰か」を再考する 〜 成田氏か太田氏か」、NPO法人 太田道灌顕彰会編(2026)『太田道灌公 五百四十回忌記念誌 太田道灌』収録

 

 

<9>

柴田昌彦(2026)「太田道灌は主家超えを企図したか ー漢詩文に記された自画像から考える」、NPO法人 太田道灌顕彰会編(2026)『太田道灌公 五百四十回忌記念誌 太田道灌』収録

 

 

 

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柴田昌彦(2026)「岩付城主•渋江氏は古河公方奉公衆であったか 後編」、埼玉史談 第70巻 第3号

 

<7>

柴田昌彦(2025)「梶原政景はなぜ父太田資正を裏切ったのか」、ゆうゆうさんらく太田ZLNE茜音号(同人誌)

 

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柴田昌彦(2025)「岩付城主•渋江氏は古河公方奉公衆であったか 中編」、埼玉史談 第70巻 第1号

 

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柴田昌彦(2024)「岩付城主•渋江氏は古河公方奉公衆であったか 前編」、埼玉史談 第69巻 第2号

 

<4>

柴田昌彦(2023)「太田道灌死後の父道真政治的位置 後編」、埼玉史談 第67巻 第3号

 

<3>

柴田昌彦(2022)「太田道灌死後の父道真政治的位置 前編」、埼玉史談 第67巻 第2号

 

<2>

柴田昌彦(2021)『玉隠と岩付城築城者の謎』(まつやま書房)

 

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中世太田領研究会(2019)『太田資正と戦国武州大乱』(まつやま書房)

共著、第二章「太田資正と武州大乱」を担当

 

■新聞•メディア

 

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毎日新聞埼玉県版 2022年2月21日

「資正公500年祭に200人」

(登壇者として紹介)

 

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毎日新聞埼玉県版 2021年10月10日

「太田資正公 実像に迫る」

(学習会講演者として紹介)

 

■講演記録

 

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2024年5月19日

埼玉県郷土文化会

第七二九回 定期総会・記念講演

「道灌死後の太田氏分裂に迫るー漢詩「郭公稀」が示唆する後継ぎ争いの痕跡」

@さいたま文学館(桶川市若宮1-5-8)

 

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2023年10月22日

公益財団法人さいたま市文化振興事業団

「岩槻の歴史を学ぶ講演会」

@市民会館いわつき(さいたま市岩槻区太田3-1-1)

講演レジュメ

 

 

 

 

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2023年6月11日

NPO法人越谷郷土研究会

戦国武将・太田資正の生涯と中世太田領における越ケ谷

@ 男女共同参画支援センター「ほっと越谷」(越谷市大沢3-6-1)

講演パワポ

 

 

 

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2023年1月25日

道灌びいきの会講演会

「岩付城(岩槻城)太田氏築城説を再考する後編」

@千代田区かがやきプラザ(千代田区九段南1-6-10)

 

<9>

2022年12月17日

道灌びいきの会講演会

「岩付城(岩槻城)太田氏築城説を再考する中編」

@千代田区かがやきプラザ(千代田区九段南1-6-10)

 

<8>

2022年11月27日

歴史教養講演会 上杉謙信公越山の集い

今福匡先生講演「越山Etsuzan-上杉謙信襲来と武蔵武士たち」の質問コーナー司会

@さいたま文学館(桶川市若宮1-5-8)

 

<7>

2022年8月27日

歴史教養講座

「岩付城築城者の謎」

@岩槻水野書店(さいたま市岩槻区本町4-2-10)

 

<6>

2022年6月25日

道灌びいきの会講演会

「岩付城(岩槻城)太田氏築城説を再考する前編」

@千代田区かがやきプラザ(千代田区九段南1-6-10)

講演レジュメ

 

 

 

 

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2022年2月20日

岩付城主太田資正公 生誕500年祭

パネルトーク「太田資正公の魅力」

@市民会館いわつき(さいたま市岩槻区太田3-1-1)

 

<4>

2021年10月3日

岩付太田氏の史跡を歩く

「太田資正と息子・氏資の岩槻」

@岩槻本町公民館(さいたま市岩槻区本町4-2-25)

 

 

<3>

2021年7月18日

岩槻城主太田資正公 生誕500年学習会

午前「太田資正公の人物像について」

午後「太田資正とさいたま市の史跡」

@シーノ大宮生涯学習総合センター(さいたま市大宮区桜町1-10-18)

講演パワポ「太田資正とさいたま市の史跡」

 

 

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2020年11月15日

岩付城主太田資正公生誕500年祭学習会

戦国時代の関東の名将 太田資正(三楽斎)を知ろう第1回

「岩付城主太田資正と上杉謙信」

@岩槻駅東口コミュニティセンター(さいたま市岩槻区本町3-1-1)

 

<1>

2019年8月3日

いわつきの魅力さがし講座

「太田資正公とその時代へのアプローチ」

@さいたま商工会議所岩槻支所(さいたま市岩槻区本町5-6-44)

 

 

NPO法人 太田道灌顕彰会さまから、2026年4月に刊行された『太田道灌公 五百四十回忌記念誌 太田道灌』では、先日アップした岩槻城の築城者論に加え、太田道灌に関する小論考も掲載いただきました。それが、今回のご紹介する「太田道灌は主家超えを企図したか ー漢詩文に記された自画像から考える」です。

主君・扇谷上杉氏に誅殺された太田道灌。その最後は、「謀殺」「非業の死」とされますが、この希代の名将には本当に主家超えの企図は無かったと言えるのでしょうか? この問いへの答えを、道灌が自身を称揚するために書かれた漢詩文に探ります。

(4年前のこの気づきを形にしたものと言えます)

 

本稿の当ブログへの転載は、NPO法人 太田道灌顕彰会会長の太田資暁さまにご承諾いただきました。この場を借りて御礼申し上げます。

 

 ※ ※ ※ ※ ※

 

太田道灌は主家超えを企図したか ー漢詩文に記された自画像から考える

(NPO法人 太田道灌顕彰会編(2026)『太田道灌公 五百四十回忌記念誌 太田道灌』より転載)

太田道灌が、京都五山や鎌倉五山の高僧たちに自身を称える壮麗な漢詩文を書かせたこと、そしてそれらを扁額に刻ませて江戸城内の邸宅に飾ったことは有名である。しかし、これらの漢詩文は、道灌の事績や人物像を探る材料としてあまり重視されていない。同時代に当事者が記した一次史料(書状や日記類)を重視する実証研究が、今日の史学の主流。道灌が五山僧に作成させた漢詩文は二次史料に分類され、一段低い扱いを受けている。
だが、道灌の狙いと高僧らの忖度、そしてそれらを誇大かつ壮麗に文章化したこれらの漢詩文は、道灌が何を目指し、自身をどのような存在として位置付けようとしたかを知るには、最善のテキストではないか。本稿では、こうした見地から、道灌が五山僧に作成させた漢詩文を時代別に検討し、この人物の自己像とその変化を考える。そしてこの人物に、主家を彫刻する下剋上の発想があったかについての考察を加えたい。

関東に並ぶ者なき英雄
 

道灌を称揚した漢詩文としてまず挙げられるのは、文明八年(一四七六)に、京都南禅寺の蕭庵龍統が記した「寄題江戸城静勝軒詩序」である。冒頭を引用したい(下線は筆者が施した)。

武州江戸城者、太田左金吾道灌源公所肇築也、①自関以東、与公差肩者鮮矣、固一世之雄也、威愛相兼、風流籍甚、②比年騒乱以来、欽承王命者、八州内才三州、三州之安危、系干武之一州、武之安危、系干公之一城、可謂二十四郡唯一人

龍統による道灌称賛は壮麗である。江戸城が道灌築城によるものと記した直後から、この五山僧は、関東において道灌公に比肩する者は少なく、まさに一代の英雄である(下線①)と称える。

道灌ら関東における幕府方が、天子の御旗を掲げて享徳の乱を戦ったことは有名であるが、これについても、あたかも道灌一人が王命を受けた存在であり、幕府陣営の統率者であったかのような叙述がなされている(下線②)。そもそも関東の幕府側の統率者は、上野国の山内上杉氏である。錦の御旗も同氏に下賜された。一方、道灌の政治的な立場は、山内上杉氏を補佐す扇谷上杉氏の家宰にすぎない。山内上杉氏から見た道灌は舎弟の臣下だったのだ。その道灌をして王命を受けて武蔵国を起点に三州の安全保障を支えた英雄とする称賛は、いささか度を越えている。

扇谷上杉氏家宰・道灌の権勢
 

道灌にこのような称賛(自賛)が許されたのは、当時の情勢故であろう。
文明八年(一四七六)は、関東を二分して展開された享徳の乱の最中にあった。同乱は、京都の室町将軍と対立する関東公方(鎌倉公方。古河に移った後は古河公方)の足利氏と、室町将軍から公方を掣肘することを期待され任命された関東管領上杉氏(山内上杉氏・扇谷上杉氏)が激突した抗争であった。しかし、享徳三年(一四五四)に始まった同乱は、文明年間には膠着状態に至る。利根川を境界として、東の公方陣営、西の幕府ー上杉陣営という棲み分けが固定化したのだ。

この膠着の中で、頭ひとつ抜ける存在となったのが太田道灌である。

主人の扇谷上杉氏やその上位者の山内上杉氏が、本拠五十子陣を襲われる事態に陥ったのと比べれば、道灌が支配した江戸周年は相対的に安定していた。それは、他ならぬ「寄題江戸城静勝軒詩序」において活写された、江戸城下の経済的な繁栄からもうかがわれる。
加えて、道灌が仕えた扇谷上杉氏は、乱の過程で度々当主が斃れた。その結果、傍系であった若き定正が当主に就任したが、この人物は家宰道灌の指揮下にいたこともある人物だ。新当主・定正は、年齢的にも戦績的にも上の道灌には頭が上がらなかった可能性がある。道灌がm家宰の立場ながら、あたかも扇谷上杉氏陣営のトップであるかのように振舞えたのは、そのためだろう。
この頃の道灌の権勢を示すのが、文明六年(一四七四)に江戸城に高名な連歌師心敬を招いて開催された、大規模な歌合の会である。心敬が扇谷上杉定正のために同じような歌会を開いた記録は無く、道灌の権勢の大きさが窺われる。二年後の文明八年に道灌が「寄題江戸城静勝軒詩序」を作成させた時も、同じような立場にあったとみてよいだろう。

潮目の変化:漢詩文に登場する扇谷上杉氏
 

ところが、その九年後の文明十七年(一四八五)に作成された「静勝軒銘詩幷序」(以下、銘詩と略)になると変化が生じる。
この作品は、当時最高の漢詩人とされた万里集九が序文を書き、集九および鎌倉五山の高僧・玉隠英璵と竺雲顕騰が詩を寄せたものである。ここでも「寄題江戸城静勝軒詩序」(以下、寄題と略す)と同様、道灌による江戸築城の事績が称揚されているが、そのトーンは大きく変化している。

公規武蔵豊島江戸之地築城塁、従京師蓮府之命、為主君、而割拠

ここでは、道灌(公)の江戸築城(江戸之地築城塁)が京の将軍もしくは幕府(京師蓮府)の命令であったことや、その後の江戸城に在城しての活躍が主君のため(為主君、而割拠)であったことが触れられている。「為主君」には「修理大夫、号扇谷、即定正」と付記があり、この主君が扇谷上杉定正だとわかる。
「寄題」では、道灌の江戸築城とその後の同城在城は、王命(天皇の命令)によって道灌が独自に取った行動であったかのように記されていたのであるから、大きな変化である。
 

誌面の都合からまとまった引用は省略するが、「銘詩」では、関東公方(古河公方)が道灌の敵長尾景春を助ける「東兵」という形で登場し、道灌の父・道真も「公之父耶道真」として登場する点が興味深い。
総括すれば、「寄題」では京の天皇とその命を受ける道灌という極めて単純な構図が採用されたのに対し、「銘詩」では両者の間、あるいは周辺に、
(ア)道灌に命を下す京の将軍もしくは幕府
(イ)道灌の主君たる扇谷上杉定正
(ウ)道灌の敵に味方する関東公方(古河公方)
(エ)道灌の父道真
など、多様な人物・勢力がいたことが明示されている。この変化は何に起因するのか。

都鄙和睦後の秩序再構築
 

「銘詩」が書かれた文明十七年は、道灌が長尾景春の乱を鎮圧した文明十二年の五年後にあたる。西関東の幕府ー上杉陣営を大混乱に陥れたこの内乱を制圧した道灌の威勢は、山内上杉氏すら脅かすまでになった。そう考えれば、「銘詩」の時の道灌は、「寄題」時代よりも、その権勢において勝っていた可能性が高い。ではなぜ、「銘詩」時代の道灌は、「寄題」時代のように、自身を王命を受ける関東に比肩者無き英雄と単純な構図で打ち出すことができなかったのか。
それは、文明十四年(一四八二)に公方陣営と幕府ー上杉陣営の和睦がなったためであろう。二十八年間続いた享徳の乱はここに終結し、関東は再び、公方を頂点として上杉氏がこれを補佐する本来の秩序に戻ることになった。
これにより道灌は難しい立場に追い込まれたのではないか。

そもそも道灌の江戸築城は、扇谷上杉氏陣営の勢力圏防衛のために実施された。しかし幾多の争乱を果て、江戸を維持した道灌は独立領主に近い存在となっていった。「寄題」に描かれた道灌像がこれである。
しかし、伝統秩序が再構築されることになれば、そうした地位も見直される。道灌による江戸在城と周辺支配は、扇谷上杉当主のための取組みに過ぎなかった、という本義に立ち返った整理が行われる。
また、扇谷上杉定正も、文明十七年には既に当主就任から十二年目である。十分な戦績や貫禄を有した定正に対して、道灌も臣下の立場を明確にせざるを得なかったのではないか。
ここで「銘詩」で、道灌の江戸在城が「為主君、而割拠」と記されたことに着目したい。「割拠」とは、土地を分かち分立することである。道灌は江戸周辺の支配を主君の為であったと弁明している。もはや王者然としていられなくなった道灌の状況が、ここに透けて見える。

公方に近づく道灌
 

しかし、道灌が自身を大英雄として描かせたのは「銘詩」でも変わらない。中盤に現れる「関以東之八州、大半属指呼矣」という一節がその代表である。
「寄題」では道灌が安全保障を担ったのは西関東の三州(上野・武蔵・相模)のみであったが「銘詩」では関東八州の大半が道灌の指呼に属すとされた。実際、文明十七年の道灌は、和睦した東関東の公方と結び、下総の千葉氏攻めを進めていた。その影響力は東関東にも及び始めていたのだ。
公方と道灌の接近については、『赤城神社年代記録』が文明十七年に道灌実子資康が古河に出仕したと記すことからも窺われる。伝統秩序が再構築されていく中、道灌は自覚していたのではないか。自身が争乱の中で築き上げた巨大な権限は、もはや扇谷上杉氏の家宰という枠組みに納まりきらないことを。それ故、公方の直臣となることでその保持・拡大を目指していたのではないだろうか。

劉裕と楊素による称賛
 

扇谷上杉氏家宰という枠を超克せんとする志向性は、実は「銘詩」の中に見出せる。主君のために江戸割拠を行ったとの殊勝な記載がなされた「銘詩」であるが、実はやや不穏な称賛があるのだ。それは道灌が自身の軒号にも用いた「静勝」(兵は静を以て勝つ)という思想に関する一節である。

劉裕攻海塩也、寂若無人、楊素将隋也、馭戒厳整、各以静而勝也、

劉裕は南朝宋を建国した英雄である。万里集九は、この人物が海塩という地の城を攻めた際には、ひっそりとして人がいないようであったと記す。楊素は、隋の初代皇帝楊堅に仕え、その天下統一を支えた名将。集九は、この人物の軍隊統制が厳格であったと述べ、そして劉裕も楊素も「静を以て勝った」と結論づける。静勝軒を名乗る道灌を、中国の二人の名将に比して称賛の修辞に用いているのである。

注目されるのは、劉裕と楊素が名将ではあったが、必ずしも忠臣ではなかったことである。
劉裕は、東晋の将軍として国難を救う活躍を見せたが、最後は東晋皇帝に禅譲させて自身の王朝を立ち上げた。しかも退位した先帝を殺害している。楊素は隋建国に大いに貢献したが、二代目皇帝の選出において自身が推す次男楊広(後の煬帝)が選ばれるよう策略を巡らせた逸話が残る。また、初代皇帝楊堅が楊広(煬帝)の素養に疑念を抱き廃嫡した嫡男を呼び戻そうとすると、楊素はこれを楊広に知らせ楊堅を毒殺したとされる(『隋書』列伝)。に記されている。すなわち、劉裕も楊素も主君殺しと関わりのある人物なのだ。

道灌は主家超え企図したか

なぜ万里集九は、このような不穏な逸話のある人物を持ち出して、道灌称賛に用いたのか。
筆者はここに、道灌の意図を感じる。主君や父の存在を明記する「銘詩」の道灌は、天皇以外に上位者を持たないがごとく描かれた「寄題」の道灌に比べ、小さな存在である。そう書かせざるを得なかった道灌であったが、この人物像の自尊心はそれを許さなかった。主人に臣従する今の自身は、やがてそれを超克するまでの途上の姿だと示したかったのではないだろうか。自身の軒号である「静勝」の理念を実現した劉裕や楊素を引き合いに出すことによって。

もちろん、道灌が扇谷上杉氏に対して下剋上を挑む覚悟があったかは分からない。試みとして、道灌が公方の直臣となり、扇谷上杉氏から与えられた訳ではない新たな領地を下総千葉氏を倒して手に入れた未来を仮定する。その場合の道灌は扇谷上杉氏を超える新勢力として、同氏と互角以上の存在になることができる。公方が、道灌を両上杉から独立した存在として認め、両上杉当主らがそれを受け入れたならば、道灌としてもそれで十分だったかもしれない。もっとも、それは道灌その人にしかわからない想いであり、当の道灌もその立場を得る前に弑された以上、単なる空想に留まる他ない。


おわりに
 

本稿では、太田道灌がパトロンとなり作成された漢詩文から、この人物が志向した自身の理想像を探り、政治的な方向性について検討を加えた。
いささか想像を逞しくし過ぎた感はあるが、文明八年と同十七年の漢詩文の間に大きな相違が生じていることや、後者において主人を殺害した人物が道灌称賛に持ち出されたことは事実である。その不穏さには、やはり、道灌に芽生えていた一種の独立志向が隠されていたように思える。

 

(静勝寺・太田道灌像、筆者撮影)

NPO法人 太田道灌顕彰会さまから、2026年4月に刊行された『太田道灌公 五百四十回忌記念誌 太田道灌』にて、拙稿「『岩槻城を築いたのは誰か』を再考する 〜 成田氏か太田氏か」を掲載いただきました。

現在、埼玉史談で連載中の「太田氏による岩付城(岩槻城)築城説」は、この原稿を書いたことが契機となり、“岩付築城者論は書籍だけでなく、論考の形で書いておかねば”と思うようになり、作成に至りました。その意味で、思い出深い原稿です。(この原稿自体は、前半は論考スタイルですが、後半は随筆的にしています)


此度、同会会長の太田資暁さまよりご承諾をいただき、こちらのブログに転載にさせていただくことになりました。

なお、この原稿は、拙著『玉隠と岩付城築城者の謎』(二〇二一年刊、まつやま書房)以降の研究成果を盛り込んでいます。

岩槻城(岩付城)の築城者に関する議論にご関心のある方に、読んでいただけたなら幸甚です。

 

 ※ ※ ※ ※ ※

 

「岩槻城を築いたのは誰か」を再考する 〜 成田氏か太田氏か
(NPO法人 太田道灌顕彰会編(2026)『太田道灌公 五百四十回忌記念誌 太田道灌』より転載)


はじめに 岩槻城と築城者問題
 

岩槻城(さいたま市岩槻区)は、戦国期には「岩付城」と記された。当時の関東の二大大河である荒川と利根川の渡河点を押さえる要衝だったこの城は、幾多の戦国争乱の舞台であった。実は、この岩付城は太田道灌と「縁」がある。同城の築城は、太田道灌あるいはその父道真によるもの、と長く信じられてきたのだ。
 

時は長禄元年(一四五七)。

享徳の乱(一四五五〜一四八三)が勃発して三年目のこの年、利根川以東を掌握した古河公方が、西の関東管領上杉氏陣営に攻勢を加えていた。これに対抗せんとしたのが、上杉陣営の一翼たる扇谷上杉氏とその家宰の太田氏であり、両者は河越•岩付•江戸の三城を築いて古河公方の攻勢を食い止めた。軍記物『鎌倉大草紙』(1)や、太田氏の系譜史料である『太田家記』•『太田家譜』(2)が記すそうした記述が、広く受け入れられたのだ。
 

ところが近年、忍(行田市)の成田氏が築城したとの説が提唱され、有力となった。同説が根拠とした史料「自耕斎詩軸併序」は、同時代の鎌倉五山の高僧による漢詩文であり、軍記物よりも遥かに信頼度が高いとされた。太田氏による築城説は、定説の座を退いた。同説は、今も岩付築城に関する諸説の一つとされているものの(3)、積極的に支持する学術研究者は見られず、有力説とは呼び難い状況にある。しかし、この状況は妥当なのだろうか。
 

本稿では、太田氏による築城説(以下、太田説)および同説を定説の座から追った成田氏による築城説(成田説)の蓋然性を改めて検討し、「岩槻城を築いたのは誰か」を再考したい。

 

(1)『北区史資料編古代中世2』二四一頁
(2)『岩槻市史古代中世史料編II』二〇五頁、三八七頁
(3)『埼玉県史料叢書12』訂正紙

 

 

 

根本史料「自耕斎詩軸并序」とは
 

まず、岩付築城に関する根本史料「自耕斎詩軸并序」(以下、詩軸)を確認する。同史料は、鎌倉五山の高僧•玉隠英璵(一四三二〜一五二四)が明応六年(一四九七)に作成した漢詩文である。以前から存在は知られていたが、岩付築城に関する記載が見出されたのは一九九〇年代に入ってからである。以下に、『信濃史料』巻十の翻刻を掲載する。

疇昔、①耕田之絵、置之左右、念農之歌、置之坐側、是無往而不在農也、②真宗製珍農夫吟、置念農歌、紹興年中、上曰、朕聞、民間令牛皆耕田、其労可閲、令画以耕田之象、庶不忘稼穡之艱難也、民未知養苗、則教之養苗(中略)、武州崎西郡有村、曰岩付、又曰中扇、附者傅也、③岩付左衛門丞顕泰公父故金吾、法諱正等、挟武略之名翼、有門闌之輝、築一城、通南北衝、寔国之喉襟也、④白羽扇指揮三軍守其中、曰中扇亦宜也、⑤収取功名退者天之道也、⑥一家機軸、百畝郷田、付之於苗裔顕泰也、一区宅、二頃田、⑦自得逍遙、東郊有作、不過設供帳、以為国林游禾之挙、朝耕暮耕、早稲晩稲、垂々捧八月露、加之、黄蕪青花在野者、荊公詩云、花気時度谷、耕鋤聊效顰矣、正等游息斎、⑧自顔曰自耕、而絵以求詩、有聴松住持 龍華翁詩、懶菴亦其員而、詩序贅之、岩付自耕、考絵事、則高宗夢得傅説、物色以求于天下、説築傅岩之野惟肖、用為相云、若済巨川、用汝作舟楫、若歳大旱、用汝作霖雨、⑨父子豈不傅岩賢佐之再世乎、大舜自耕稼於歴山、以至為帝也、耕易言、自難言、⑩詩云、雨我公田、遂及我私、由此観之、先公而後私、周亦用助也、如正等、手不秉犁鋤、而謂自耕何哉(中略)、⑪平生参洞下明識月江老、聞新豊之唱、有所得乎、洒々楽々、胸無町畔、本分閑田地、養以自受用他受用、不堕青苗凞寧途轍、川党洛党之羽翼、亦斂袵矣、四方雲従、躬耕隴畝臥龍、亦外物、非自耕底田、廬傍若有龍蟠之逸士、為予指迷、
⑫粒々養成躬可知犂鋤不是効顰為旱天霖雨傅岩野一片心田得我私
時明応丁巳一夏強半懶菴野釈英璵序


一読すれば、「岩付左衛門丞顕泰」なる人物の亡父「正等」(号は自耕斎)を顕彰した詩文とわかる。正等の賞揚には、宋の皇帝真宗や名宰相王安石(荊公)、三国志の諸葛孔明(白羽扇)、古代の聖帝舜や周王朝高宗を支えた宰相傅説が引き合いに出されており、なかなか豪華な作品である。岩付城の築城は、この正等の生前の事績として登場する(傍線③)。
築城者の息子が存命の内に書かれた本詩文は、信頼度において鎌倉大草紙などの後世編纂史料を寄せ付けない。詩軸は岩付築城者論の根本史料となり、ここに、正等と顕泰を誰に比定するかという問題が生じたのである。

 

 

成田説の登場と受容
 

現在、岩付築城者論の最有力は、黒田基樹氏が提唱した成田説である。黒田氏は、一九九四年に発表した論文「扇谷上杉氏と渋江氏ー岩付城の問題を中心に」(4)において、詩軸の岩付左衛門丞顕泰を、実名が一致する成田顕泰に比定し、その父正等もまた成田氏であったとしたのだ。
実名の一致は、人物比定の有力な根拠である。成田説は他の学術研究者に受け入れられるところとなり(5)、黒田氏も複数の自著で同説を断定調の叙述を展開した(6)。埼玉県教育委員会編纂の『埼玉県史料叢書12』でも、史実として採用されるに至った。
 

(4) 黒田基樹(二〇〇一)『戦国期東国の大名と国衆』(岩田書院)に収録
(5) 則竹雄一(二〇一二)『古河公方と伊勢宗瑞』(吉川弘文館)
(6) 二〇〇四年『扇谷上杉氏と太田道灌』(岩田書院)、二〇〇九年『図説太田道灌』(戎光祥出版)、二〇一二年『シリーズ中世関東武士の研究第五巻扇谷上杉氏』(戎光祥出版)収録の「扇谷上杉氏の政治的位置」、後傾の註12・註13収録の総論、二〇二〇年『太田道灌と長尾景春』(戎光祥出版)

 

 

成田説の課題① 人物比定
 

しかし、批判がなかった訳ではない。同説の根幹となる岩付顕泰=成田顕泰という人物比定について、黒田氏は一九九四年論文で「岩付左衛門丞顕泰すなわち成田顕泰」と述べた以上の検討をしていない。この点について、元埼玉県立文書館長の梅沢太久夫氏は「短絡的であり、根拠が示されていない」と批判した(7)。さいたま市文化財課の青木文彦氏(当時)も同様の批判を行った(8)。
もっとも、戦国期の武将が近隣領主と同じ実名を名乗ることは稀であり、黒田氏が詳細な検討は不要と考えたのも無理はない。しかし、その後、成田顕泰は明応六年(一四九七)時点では、顕泰ではなかった可能性が浮上する。この人物は少なくとも明応二年には「景泰」を名乗っていた可能性が高いと判明したのだ(9)。山内上杉顕定からの偏諱と考えられる顕泰の名乗りはいつから確認されるかというと、永正六年(一五〇九)以前には遡れない(10)。すなわち、この人物が、明応六年時点で顕泰を名乗っていたかは、定かではないのだ。
 正等の人物比定にも課題がある。黒田氏は、一九九四年論において、正等を『成田系図』(11)の顕泰とした。しかし、二〇一二年に書いた成田氏に関する総論(12)では、正等にあたる当主を同系図に見出せないとして、この人物を同系図に記載の無い当主と位置付け直した。この判断は重要である。成田系図に存在しない当主を想定しなければ成田説は成立しない。提唱者自身がそう認めたことになるためだ。
 

(7) 梅沢太久夫(二〇一八)『埼玉の城』(まつやま書房)
(8) 青木文彦(二〇一五)「戦国時代の岩付とその周辺」、嵐山史跡の博物館編『平成26年度シンポジウム戦国時代は関東から始まった講演資料』
(9)『埼玉県史料叢書11』は明応二年に比定される六一六号史料の「新左衛門尉景泰」を成田顕泰の前身とする。黒田基樹氏も二〇一二年の成田氏総論でこれを採用する
(10)連歌師宗祇の『東路つと』に永正六年に「成田下総守顕泰亭」に立ち寄った記載がみえる
(11) 『鷲宮町史史料四』六五三頁
(12) 黒田基樹(二〇一二)「総論戦国期成田氏の系譜と動向」、『論集戦国大名と国衆7 武蔵成田氏』(岩田書院)に収録

 

 

成田説の課題② 築城時期
 

二つ目の課題は、築城時期比定の困難性だ。
黒田氏は一九九四年論文において、築城時期を文明十一年(一四七九)以降とした。同年まで成田氏の忍在所が確認されること、正等に比定された系図上の人物が文明十八年に没したと記載されるためである。しかし、黒田氏自身が同論文で認めるように、文明十一年以降は享徳の乱の収束期にあたる。古河公方と上杉氏が和睦に動いた時期であり、境目の岩付での築城は想定し難い。
この課題を意識してか、黒田氏はその後、先に紹介した二〇一二年の成田氏総論での正等の人物比定変更に伴い、築城時期を長享元年(一四八七)〜延徳二年(一四九〇)(期間a)、あるいは明応三年七月(一四九四)〜同年十一月(期間b)に修正した。期間aおよびbは、長享元年に始まった「長享の乱」の抗争にあたる。延徳二年〜明応三年(期間c)は、長享の乱の停戦期にあたり境目での築城が想定し難いため除かれた。
ところがこの比定は、翌二〇一三年に書かれた岩付太田氏に関する総論(13)で改められた。黒田氏は前年に排除した期間を築城時期としたのだ。その理由は記されていない。想像するに、期間aは、長享の乱の抗争期ではありうものの、扇谷上杉氏と古河公方が同盟関係にあり両者の境目での築城が想定し難い。また、期間bは、扇谷上杉氏と古河公方が対立関係に入った時期であり、境目での築城を想定しやすいものの、期間があまり短すぎる。そうした点を踏まえての修正だったのかもしれない。ただしこの再度の修正を以てしても、停戦期の境目での築城想定という課題は、未解決のまま残る。

 

(13) 黒田基樹(二〇一三)「総論岩付太田氏の系譜と動向」、『論集戦国大名と国衆11 岩付成田氏』(岩田書院)に収録

 

 

成田説の課題③ 人物像
 

正等の人物像との不一致も大きな課題だ。詩軸は、正等が曹洞宗の高僧•月江正文に帰依したと記す(傍線⑪平生参洞下明識月江老)。しかし、曹洞宗の史料には成田氏と月江正文の関係はみられない。原口和子氏は『曹洞宗全書』を精査し、成田氏は曹洞宗に帰依したが、(ア)菩提寺龍淵寺の開山は月江正文と別法系の和庵清順であり(成田太平山龍淵寺開闢和庵清順禅行状)、(イ)成田顕泰は清順の弟子の龍淵寺二世旗雲旭和尚の外護者だった(龍淵二世旗雲旭和尚語録)ことを明かにした(14)。このような立場にあった成田氏が、別法系の月江正文への帰依を漢詩文に書かせることは考え難い。黒田氏は、この点に気づいていないのか、何ら見解を示していない。
人物像の不整合はこれに留まらない。詩軸は正等を岩付築城等の功績をあげた後に早めに隠居した人物とする(傍線⑤収取功名退者天之道也)。しかし、黒田氏が二〇一三年の岩付太田氏総論で最終的に示した「成田正等」は、延徳二年(一四九〇)〜明応三年(一四九四)に岩付城を築城し、明応六年(一四九七)時点では故人だった人物である。岩付築城は死去の数年前だったことになる。黒田氏は、二〇一二年の成田氏総論で、隠居後の正等が岩付築城を行った可能性も示唆したが、詩軸の記載に符合するとは言えないだろう。

 

(14) 原口和子(二〇二四)「成田正等は実在したのか」、埼玉史談第68巻第3号

 

 

成田説の課題④ 岩付移居の痕跡
 

成田説では、成田氏が当主二代にわたり、本拠を忍城から岩付城に移したことになる。しかし、これほどの大事業が、成田系図や成田記、龍淵寺年代記などの成田氏関連史料には、一切記されていない。それを示唆する断片情報も見られない。同氏が、成田郷(熊谷市)から忍城に本拠を移した事績が、成田系図に大書されている(15)ことを踏まえれば、不可解であり、不自然に思える。

 

(15)『鷲宮町史史料四』六五三頁、成田親泰の項に忍城攻略の顛末の詳述あり

 


望まれる成田説の再検討
 

このように、成田説には課題が多い。これらの課題は、同説を完全否定するまでには至らないものの、疑義を抱かせるには十分であろう。
提唱者の黒田氏も、自説に疑いを持ち始めている可能性がある。二〇二一年に刊行した『図説享徳の乱』(戎光祥出版)では、過去の書籍(註記6参照)で繰り返し展開した、享徳の乱初期の太田氏による築城説を誤りとする記述や、自身が提起した成田説を史実とする記述を行っていない。

また、享徳の乱前半期の岩付地域を上杉陣営支配下とする勢力図も掲載している。岩付を上杉陣営下とする勢力図は、享徳の乱を扱う書籍では散見されるが、黒田氏書籍での掲載は筆者の知る限り、初めてのことである。思うに、岩付地域を上杉陣営下とする一般的な勢力図を掲載すれば、太田氏築城否定論の説得力が失われる。かといって、岩付地域を上杉陣営下から外せば、利根川・荒川両河川の西側に位置した同地域を、東の公方陣営支配下とする想定の不自然さを図示することになる。そのような葛藤があり、これまで同図の掲載は避けられてきたのではないか。同図の掲載を許した黒田氏は、自説の課題を認め始めているように、筆者には思える。
しかし、書店や図書館には、今も黒田氏が成田説を史実と断定した書籍が並ぶ。この状態は放置してよいのだろうか。筆者には、成田説は、その蓋然性を再検討されるべき時期に来ているように思える

 

 

太田説の成立条件
 

ただし、成田説に課題が多いことを以て太田説の蓋然性が高まる訳では無い。太田説が、詩軸の登場により定説の座を去ったのは、単に岩付顕泰=成田顕泰という人物比定に説得力があったためだけではない。詩軸に登場する岩付顕泰とその亡父正等が太田氏らしくない人物だったことも、定説転落の理由だと考えられる。太田氏の系図は数多く存在するが、正等や顕泰の名を記したものは一つもないのだ。
太田説が成立するには、岩付顕泰と父正等を太田氏に比定し、矛盾が生じないことを示さねばならない。


正等=太田道真説
 

実は、詩軸をよく読めば、岩付築城者•正等は太田道真に似た点が多いことに気づく。
道真は、比較的信頼度の高い軍記『鎌倉大草紙』で岩付城の築城者と明記された人物。しかも同軍記が記す長禄元年の岩付築城は、当時の情勢によく整合する。古河公方足利成氏は、康正二年(一四五六)に鷲宮大明神に願文を捧げ、岩付地域が属する埼西郡や隣接する足立郡の攻略を宣言した(16)。しかも、鎌倉大草紙が岩付築城年とする翌年の長禄元年以降、埼西郡•足立郡での争乱は確認されない。岩付築城により両郡防衛が叶ったと考えることができる。
こうした前提がある以上、詩軸における正等の人物像が、道真のそれと一致するならば、両者が同一人物である可能性が浮上する。これを最初に指摘したのは、岩槻在野の史家•故小宮勝男氏である。小宮氏は書籍『岩槻城は誰が築いたか』(さきたま出版)で、正等と道真には多くの共通点があることを示し、両者を同一人物とした。小宮氏が指摘した主な共通点を以下に示す。
(ア)道真は比較的早くに引退し長い隠居生活を送った(17)。先に紹介した通り、これは詩軸の正等記載(傍線⑤収取功名退者天之道也)と符合する
(イ)詩軸の「自得逍遙」(傍線⑦)は「自得は逍遙し」とも読める。自得は道真の軒号であり、この一節は正等=道真を示唆したと考えられる
(ウ)先述の通り詩軸は正等が月江正文に帰依したことを記す(傍線⑪平生参洞下明識月江老)が、道真も隠居した龍穏寺の住持が正文の弟子であり(18)、正文と縁があった可能性が高い
(エ)詩軸は、生前の正等が鎌倉五山の複数の高僧に詩を求めた逸話を記す(傍線⑧ 自顔曰自耕、而絵以求詩、有聴松住持 龍華翁詩、懶菴亦其員而、詩序贅之)が、同時期に似た活動が確認される権力者は太田道灌のみである(19)。正等も太田氏と考えれば説明がつく


小宮氏の指摘には一部に誤認も含まれるものの(20)、頷かされる部分が多い。太田道真が、詩軸を除けば岩付築城を記す最古の史料(鎌倉大草紙)で築城者とされた人物であることをかんが踏考えれば、これらの共通点を踏まえて同一人物説が提起されるのはむしろ自然なことである。
 

(16)『新編埼玉県史資料編6』八七二号
(17) 太田道真の隠居は『香蔵院珎祐記録』によれば寛正二年(一四六一)、死没は『本土寺過去帳』よれば長享二年(一四八八)
(18)『龍穏寺縁起』に二世住持が月江正文、三世が泰叟妙康とある。『岩槻市史通史編』は泰叟妙康を月江正文の弟子とする法系譜を掲載する。
(19) 複数の五山僧が漢詩を書き、一名が序文を記す形式の漢詩作品としては、太田道灌が依頼主となって作成させた「寄題江戸城静勝軒詩序」、「静勝軒銘詩並序」や「江亭記」が知られる。この時代の関東では、武家権力がこの形式の漢詩作品を作成させた事例は、他にはみられない。
(20) 小宮氏は法名「道真」を道号と誤解。

 


道真は正文の檀那

 

最近では、原口和子氏が、(イ)について、小宮氏の研究成果を踏まえ更なる検討を進めている。

原口氏は、道真を月江正文の「檀那」と記す史料を探し出した。曹洞宗全書に収録された最英慧恵(正文の弟子一州正伊の弟子で雙林寺三世)の「雙林二世中興開山一州和尚行状記」に、道真が正文の「檀那」と記載されていることを見出したのだ(21)。これにより、道真が月江正文本人と深い関係性があったことが確認されたことになる。

 

(21)  注記(17)

 

 

詩軸の記述は鎌倉大草紙と符合
 

原口氏は、正等の活躍記述「白羽扇指揮三軍守其中」(傍線④)が、鎌倉大草紙の河越•岩付•江戸三城の築城記述と符合するとの指摘も行った(22)。三城は扇状に展開し、岩付城はその中央に位置する。「指揮三軍」「守其中」は、道真が扇谷上杉氏家宰として岩付城を築き、河越•江戸両城と合わせて扇状に広がる三城からなる防衛線を展開したことを、漢文で表現したものとみることができる。
加えて原口氏は、この詩軸記載が東晋の裴啓が記した『裴子語林』における諸葛孔明の記載「持白羽扇、指麾三軍」を踏まえたものであり、しかし裴子語林には「守其中」が無いことを指摘した。そして、このことは、玉隠が正等の事績に合わせて守其中を加えたことを示唆するものであり、鎌倉大草紙との符合説を支える材料となるだろうと、筆者に語った。説得性の高い指摘と言えるだろう。
 

(22)  原口氏自身はこの指摘を論文化していない。口頭で教示を受けた筆者が、原口氏許可の下、本稿に記載させていただいた

 

二つの法名問題
だが、正等=道真説には批判も存在する。
「道真」も法名である。正等=道真説は、この人物が二つの法名を名乗ったとの結論に帰着し、矛盾をきたす、との指摘がその一つである(23)。だが、戦国期に宗派別に異なる法名を名乗った例は存在する(24)。太田氏が外護した鎌倉五山は臨済宗に属し、月江正文は曹洞宗の僧である。「道真」は臨済宗での法名、「正等」は曹洞宗での法名と考えれば矛盾は生じない。

 

(23) 注記(8)

(24)  北条宗哲は、法名「宗哲」の他に法名「長綱」も名乗った(黒田基樹『戦国大名北条氏の領国支配』岩田書院)


 

道真は金吾か
 

もう一つの批判は、詩軸が正等を「故金吾」(傍線③)としたことが根拠となっている。金吾は、左衛門尉や右衛門尉といった官職の唐名である。備中守を名乗ったことで知られる道真が、故金吾と記載されるのは矛盾だとされたのだ(25)。
しかし、近年の研究により、道真は若き日に六郎右衛門尉を名乗った可能性が高いことが判明した(26)。また『太田家記』は道真の官途として左衛門大夫を付記している。生前の道真が右衛門尉や左衛門大夫だったなら、「故金吾」とされても不思議は無い。
以上より、筆者は正等=太田道真説には、十分な蓋然性が認められると考える。

 

(25) 注記(8)

(26)  北木下聡(二〇〇九)「結城合戦前後の扇谷上杉氏ー新出史料の紹介と検討を通じて」、『シリーズ中世武士の研究12 山内上杉氏』戎光祥出版

 


顕泰=太田六郎右衛門尉説
 

次に顕泰である。この人物に比定される太田氏は存在するか。残念ながら、小宮氏も顕泰については説得力のある人物比定を提起していない(28)。これについては、筆者が提起した岩付顕泰=太田六郎右衛門尉説が、太田説における顕泰比定論として一定の蓋然性を有する唯一の仮説と言えるだろう。
太田六郎右衛門尉は、文明十六年(一四八四)に道灌が誅殺された後に扇谷上杉氏方太田氏の惣領となり、永正二年(一五一〇)に扇谷上杉氏が同族の山内上杉氏との抗争(長享の乱)に敗北した際に、主人に誅殺された人物だ(29)。詩軸が書かれた明応六年の太田氏当主は、この人物だったことになる。岩付顕泰を扇谷上杉氏方の太田氏に求めるなら、該当するのはこの人物しかいない。
なお系譜上では、この人物は道灌の甥、つまり道真の孫にあたる可能性が高い。太田氏最古系譜史料『太田資武状』が、道灌には実子がなく、甥に家督を譲ったと記すためだ(30)。

 

(28) 小宮氏は、岩付顕泰は後に成田顕泰となった人物とする。この人物は長尾氏から成田説氏に養子入りしたことが知られる。小宮氏はそれ以前に太田道真の養子だった時期があると主張した。そして、詩軸作成時点のこの人物は、道真から資産として岩付城を相続したが、太田氏家督は継承しなかったので岩付を名字としたと想定した。しかし、成田氏以前の太田氏への養子入りとの想定には根拠が示されていない。註9で示した通り、この人物の成田氏入りは明応二年時点で果たされていた可能性が高く、小宮氏の想定は成立し難い。加えて、本稿後半で触れる通り、顕泰は正等から「一家機軸」としての「百畝郷田」を与えられており、これは家督継承の比喩とみられる。他家に養子に出される立場だったとは想定し難い

(29) 『年代記合抄』文明十八年条•永正二年条

(30) 『北区史資料編古代中世2』一二〇頁。「道灌之実子無之ニ付而、図書助ト申甥ニ候ヲ取立」、「叔悦和尚之兄是も甥ニ候故、家督ヲ被致与奪」等の記載がみられる


岩付を巡る抗争と太田六郎右衛門尉
 

六郎右衛門尉は扇谷上杉氏の重臣として長享の乱を戦う立場にあったことが一次史料から確認される(31)。明応三年(一四九四)には、それまで扇谷上杉氏に味方していた古河公方足利政氏が山内上杉氏側につく、という情勢変化があった。この時、扇谷上杉方の伊勢宗瑞が岩付城を襲い、古河公方配下の簗田氏が撃退するといった攻防もあった(32)。岩付は、扇谷上杉氏と古河公方の境目にあたるため、にわかに争奪戦の対象になったのだろう。
筆者は、岩付城を巡る抗争を最終的に制したのが扇谷上杉氏陣営の太田六郎右衛門尉であり、褒美として主人から岩付城を与えられたと考える。岩付城が道真によって築かれたとの立場を取れば、太田氏は過去に同城を領有した時期があったことになる。筆者は、六郎右衛門尉は抗争を経て岩付城を太田氏の領有下に戻したことを喜び、同城城主としての自身の正当性を示すために、詩軸の制作を企図したと想定する。なお、明応六年時点では、扇谷上杉氏は鎌倉を掌握しており、同氏配下の六郎右衛門尉は鎌倉五山への求詩できる環境にあった。

 

(31) 『新編埼玉県史資料編6』一四号に、山内上杉氏方の攻勢に対して小田原城に籠城した扇谷上杉氏勢として太田六郎右衛門尉が登場する
(32)『埼玉県史料叢書12』六一七号 



左衛門尉への改称
 

なお、岩付顕泰は詩軸において「左衛門丞(尉)」とされている(傍線③)。太田六郎衛門尉を岩付顕泰とするには、左衛門尉への改称を想定する必要がある。これを直接裏付ける史料はないが、同時代の長尾景春も最初は右衛門尉を名乗り、後に左衛門尉に改称した(33)。太田六郎右衛門尉も、岩付奪還の功績を以て左衛門尉への改称を許されたと考えることはできよう。

 

(33) 『新編埼玉県史資料編5』一〇一一号(景春が右衛門尉とされる)及び『新編埼玉県史資料編6』一四号(景春が左衛門尉とされる)


太田氏は「顕泰」を名乗るか
 

一方、顕泰という名は難題である。太田六郎右衛門尉は、実名や法名(出家したかは不明)が伝えられていない。そのため、顕泰という実名あるいは法名を名乗ったとの想定は可能である。しかし、実名なら「資」、法名なら「道」を含むのが太田氏の通例である。どちらにも該当しない「顕泰」を名乗ったとの想定は難しいと言える。ただし法名ならば、「道」を含まない「永厳」や「全鑑」等の事例がある(34)。顕泰も法名ならば太田氏が名乗った可能性は残るだろう。
筆者は、顕泰の顕は系字とする原口和子氏の見解に従いたい。顕は、竺雲顕騰や彼が属した仏国派の道庵會題の法系に受け継がれた系字であり(35)、しかも詩軸には竺雲顕騰が登場する(傍線⑧龍華翁)。これは、同じ顕を含む顕泰が顕騰の弟子という特別な立場にあることを示唆する仕掛けではないだろうか。なお、当時の顕騰は鎌倉五山第一位の建長寺の住持であった(36)。関係性を誇るに相応しい高僧と言える。
ただしこれらは検証困難な仮説である。筆者としても、太田氏が敵の惣領が偏諱に用いた顕の字を用いた名乗りをし得るかという点は、太田説成立の難所であることを認める。

 

(34) 永厳は黒田基樹(一九九三)「太田永厳とその史料」、全鑑は岩井茂(一九七五)「太田左京亮全鑑とその文書」を参照されたい。いずれも黒田基樹編著『論集戦国大名と国衆11 岩付成田氏』(岩田書院)に収録
(35)  川本慎自(二〇二一)『中世禅宗の儒学学習と科学知識』(思文閣出版)
(36) 『信濃史料』巻十に、明応四年記載に「建長寺住持顕騰竺雲」とある



六郎右衛門尉は道真の子か
 

先に述べた通り、六郎右衛門尉は道真の孫にあたる可能性が高い。これは詩軸が正等と顕泰を父子としたこと(傍線⑨父子豈不傅岩賢佐之再世乎)と矛盾するようにみえる。
しかし、道灌が主君に誅殺されたことで太田氏家督は父道真に戻り、六郎右衛門尉は道真から継承する形で同氏の家督を得たと考えれば、矛盾は生じない。系譜上は両者は父子となるためだ。
ご都合主義の恣意的想定と映るだろうか。しかし驚くべきことに祖父から孫への継承を示唆する記載が、詩軸に存在する。詩軸は顕泰を正等の「苗裔」とする(傍線⑥一家機軸、百畝郷田、付之於苗裔顕泰也)。苗裔とは末裔のことであり、通常、子には使われない。「苗裔」を用いることで、詩軸は正等と顕泰が血縁上は父子ではないことを示唆したのではないだろうか。
このように、太田六郎右衛門尉は、顕泰の名乗りに課題を残す点を除けば、詩軸の岩付顕泰だったと想定することが可能である。積極的に太田六郎右衛門尉を岩付顕泰に比定する程の材料は存在しない。しかし、説得性の高い正等=太田道真説に付随する想定としては、十分に成立し得ると筆者は考える。

 

 

太田の隠喩
 

ここまで、詩軸に見える岩付築城者「正等」とその子「岩付左衛門丞顕泰」が太田氏に比定できることを論じた。最後に、詩軸の文中に、正等•顕泰父子が太田であることを積極的に示す隠喩が見出されることを紹介したい。
詩軸は、顕泰が継承した家督を「一家機軸」たる「百畝郷田」に象徴させている(傍線⑥)。百畝郷田の意味は、中盤の傍線⑩詩云、雨我公田、遂及我私、由此観之、先公而後私、周亦用助也は、まるごと、『孟子』滕文公章句上からの引用である。孟子は滕の文公に周王朝の井田法(正方形の田を一つ百畝の九つの田に分け、中央を公田、残り八つを私田とする)を、詩経の詩(雨我公田、遂及我私)を引用しながら説く(37)。百畝郷田は八つの私田の一つにあたる。
想像を逞しくすれば、顕泰=太田六郎右衛門尉が、自身を扇谷上杉氏に臣従する数人の重臣の一人(各々が主人の直轄地周辺に私有領地を持つ)と位置付けたと解釈できよう。「雨我公田、遂及我私」という詩も、雨はまず公田を潤し、継いで私田に流れ込むという意味であるが、これも岩付地域という「私田」の領有は、公(主君)への忠勤を前提に許されたことの隠喩とみることができる。

筆者が見出した太田の隠喩はこの先にある。

筆者は、孟子が引用した私田(百畝郷田)に関する詩に惹かれた。同詩の「及我私」(我が私田に雨水が及ぶ)は、最後の漢詩(傍線⑫粒々養成躬可知犂鋤不是効顰為旱天霖雨傅岩野一片心田得我私)の「得我私」(我が私田を得た)のモチーフと考えてよいだろう。詩軸が、この詩に重きを置かれていることは明らかだ。となれば、この詩を原典に遡りたくなる。そう考えた筆者は詩の原典たる詩経にあたった。そして驚いた。なんとこの詩は、詩経では「大田」と題されていたのだ(38)。
それは、広大な百畝の私田(すなわち大田)の実りを喜び、子々孫々の繁栄を願う素朴な農業詩であった。ここに家督=百畝郷田=私田=大田が成立する。詩軸は敢えて「詩云」を残して読み手を原典である詩経へと誘う。漢籍の造詣がある読み手には、そこに「大田」の二字があると気づく。この漢詩文には、そんな仕掛けが込められているのではないだろうか。

 

(37) 『孟子』滕文公章句上
(38) 石川忠久(一九九八)『新釈漢文体系111 詩経中』(明治書院)

 


技巧と仕掛けの詩文


こんな迂遠な手法を採らずとも正等父子は太田氏だと直接記せばよい、との批判もあろう。しかし、考えていただきたい。正等父子の人物比定には成田説、太田説等が存在するが、詩軸はいずれの名字も記さない。正等父子には、地名「岩付」が冠せられるのみなのだ。
中世の武家権力者が漢詩文で自身や肉親を称賛させる際には、名字や氏を明記させることが多い。詩軸がこれを避けているのは「敢えて」のことだと考えるべきだろう。太田説であれば説明は可能だ。漢詩文に高らかに「太田」と記せば、かつて主君に肩を並べた道灌を想起させるため、六郎右衛門尉がこれを避けたとの想定ができるからだ。地名「岩付」を名字の如く冠したのも、太田氏はもはや主君に継ぐ権力者としての家宰ではなく、一重臣、一地域領主に過ぎないとの謙虚な姿勢を示すためと解釈できるだろう。
正等父子の名字を伏せた詩軸は、漢文世界だから許される一瞬の言葉遊びをした可能性が高い。ならば、文中に、正等や顕泰の正体の仄かしを探すのは、むしろこの漢詩文の正しい読み方と言えるのではないだろうか。


おわりに
 

以上の検討により、岩付城築城者論において、有力視された成田説には課題が多いこと、そして定説の座を追われた太田説に成立の余地が残ることを示せたのではないだろうか。
筆者は太田説こそが真実だと主張したい訳ではない。筆者が望み、目指すのは、同説が、十分に蓋然性のある生きた仮説として学術者や行政関係者に再認識いただくことであり、その結果として今後更なる研究が積み上げられることである。本稿がその契機となるのであれば、何よりの喜びである。
 

最後にもう一つ、太田説の立場からの詩軸の解釈を加えることをお許しいただきたい。
詩軸において、冒頭に記された「耕田之絵」を飾り、「農之歌」を念じた生前の正等の姿「耕田之絵、置之左右、念農之歌、置之坐側、是無往而不在農也」(傍線①)は、同じく「農歌」を念じて、「耕田之象」を描かせて民を思った真宗の姿「真宗製珍農夫吟、置念農歌、紹興年中、上曰、朕聞、民間令牛皆耕田、其労可閲、令画以耕田之象、庶不忘稼穡之艱難也、民未知養苗、則教之養苗」(傍線②)のそれと一致する。明らかに正等は宋の皇帝•真宗に比されている。真宗は正等を称賛するため詩軸に登場する人物群の中で、特別な地位にいると言ってよいだろう。
だが、真宗は五山文学において頻出する人物ではない。なぜ玉隠は、真宗を選んだのか。農業を重視した為政者という共通点はある。しかし農を重んじた偉人の故事は、漢籍には無数に存在する。実際、詩軸にも舜や孟子、王安石、諸葛孔明らが、農を重んじた偉人として登場する。しかし、真宗ほど正等と人類像が重なるようには描かれていない。なぜ真宗なのか、という問いは残る。
ここで筆者は、五山文学において、太田道真•道灌父子が時に「真灌」と記載された(39)ことを思い出す。「真」は、文脈によってはその一字を以て太田道真を指したのだ。ならば、真宗が選ばれたのは「真」の字故ではなかったか。すなわち、玉隠は、正等が太田道「真」であることを示唆すべく、「真」宗を持ち出したのではないか。もしそうなら、詩軸は導入部から正等=太田道真を示していたことになる。


いささか想像力を逞しくし過ぎた解釈かもしれないが、この解釈をとるなら正等と真宗がそっくりに描かれた謎は氷解する。読者諸賢はどう思われるだろうか。

 

(39) 例えば、五山禅僧詩文集に「真灌父子」がみえる(『北区史資料編古代中世2』一一三頁)

 

※ ※ ※ ※ ※

 

最後は、掲載紙の性格も考え、論考スタイルからやや逸脱し、随筆のような筆致になっています。

特に、「真宗」の考察は、論考で行うには想像力を羽ばたかせすぎかもしれません。

でも、今まで誰も指摘しなかった仮説として、なかなか面白いのではないかと思う次第です。


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2019年頃に書いたものの、そのまま公開することなく埋もれさせててしまった原稿を、“お蔵出し”で公開します。

岩槻城(岩付城)築城者を考える際の根本史料「自耕斎詩軸并序」の全文読解に取り組んだ内容です。

なお、拙著『玉隠と岩付城築城者の謎』(まつやま書房、2021年)発行前に書いた文章なので、同著がまだ世に出ていない前提で書かれています。


4. 全体を通しての気づき(続)

③ 自耕斎の人物像

本稿の検討、すなわち『自耕斎詩軸并序』の全文解釈の取り組みを経て、改めてこの詩序から読み取れる自耕斎の人物像を確認したい。

以下、
分類A:明らかな点
分類B:修辞による誇張の可能性があるものの、実像である可能性が高いと考えられる点
分類C:修辞による誇張の可能性が高いが、実像を示している可能性も残る点
分類D:読み手の印象に基づく、客観的な立証が困難な仮説
に分けて列挙する。

《分類A:①武将時代の自耕斎》
※分類A=明らかな点

  • 自耕斎が、「岩付左衛門丞顕泰」の「父」であったこと。
  • 自耕斎が『自耕斎詩軸并序』が書かれた明応六年時点で故人であること。
  • 生前の自耕号の俗世での官職が、衛門府の官途名であったこと(左(もしくは右)衛門尉、左(もしくは右)衛門大夫など)。
  • 法名が「正等」であったこと。岩付城を築城したこと。(以上は、「武州崎西郡有村、曰岩付、又曰中扇、附者傅也、岩付左衛門丞顕泰公父故金吾、法諱正等、挟武略之名翼、有門闌之輝、築一城」から。)

《分類A :②隠居後の自耕斎》

※分類A=明らかな点

  • 自耕斎が、比較的早めに隠居したこと。(「収取功名退者天之道也」から)
  • 子の顕泰に家督を譲渡したこと。
  • 顕泰との関係性は「父子」でありながら、顕泰が自耕斎の末裔(苗裔)とも表現されるものであったこと。(以上は、「一家機軸、百畝郷田、付之於苗裔顕泰也」から)
  • 斎号「自耕斎」を名乗ったこと。(「正等游息斎、自顔曰自耕」から)
  • 玉隠や「聴松住持龍華翁」など、複数の詩僧に、斎号「自耕斎」に関わる絵を示し、詩を求めたこと。そして詩には玉隠が序文を添えたこと。
  • 玉隠が、生前の自耕斎と接点があったこと。玉隠が「岩付左衛門丞顕泰」の求めに応じて『自耕斎詩軸并序』を書いたことを踏まえれば、玉隠が自耕斎とその子顕泰の二代に渡って詩文の求めに応じていること。(「自顔曰自耕、而絵以求詩、有聴松住持 龍華翁詩、懶菴亦其員而、詩序贅之」から)
  • 曹洞宗の高僧 月江正文に帰依したこと。(「平生参洞下明識月江老、聞新豊之唱」から)


《分類B:①武将時代の自耕斎》
※分類B=修辞による誇張の可能性があるものの、実像である可能性が高いと考えられる点

  • 自耕斎の武将時代に一門が繁栄期を迎えたこと。(「有門闌之輝」から)
  • 岩付城の築城により、自耕斎の味方陣営は、南北の重要拠点の通交が維持されたこと。(「通南北衝、寔国之喉襟也」から)
  • 自耕斎の武将時代の活躍が、諸葛孔明のそれに比されても、“修辞としては許される“”レベルのものであったこと、
  • 武将として味方陣営の「中」を守り、敵と戦う立場にあったこと、
  • 自耕斎が味方陣営の「中」を守った際に拠点としたのが岩付であったこと、
  • 自耕斎のその事績のために、岩付が「中扇」とも呼ばれるに至ったこと。(以上は、「白羽扇指揮三軍、守其中、曰中扇亦宜也」から)


《分類B:②隠居後の自耕斎》
※
分類B=修辞による誇張の可能性があるものの、実像である可能性が高いと考えられる点


  • 書斎「自耕斎」には、耕田の絵や念農の歌が置かれており、農業に対して関心が高かったこと。(「疇昔、耕田之絵、置之左右、念農之歌、置之坐側、是無往而不在農也」から)


《分類C:①武将時代の自耕斎》
※
分類C:修辞による誇張の可能性が高いが、実像を示している可能性も残る点


  • 自耕斎の岩付城築城により、味方陣営が荒川を渡河して敵陣営に攻め込める形勢が確保できたらしいこと。(「説築傅岩之野惟肖、用為相云、若済巨川、用汝作舟楫」から示唆させる)
  • 自耕斎が為政者として数々の農業政策(離農民の帰農、農業技術指導、灌漑・水理指導)を行ったらしいこと。(離農民の帰農は「渤海太守、勧趍田畝」から、農業技術指導は真宗の逸話「民未知養苗、則教之養苗」から、灌漑・水理指導は「南陽太守、出入阡陌」から、それぞれ示唆される。)
  • その成果として干魃時にも岩付地域の農業生産を維持させ、味方陣営を食糧面で助けたことがあったらしいこと。(「若歳大旱、用汝作霖雨、父子豈不傅岩賢佐之再来」から示唆される。)

《分類C:②隠居後の自耕斎》
※分類C:修辞による誇張の可能性が高いが、実像を示している可能性も残る点
  • 隠居後の自耕斎が、ある程度、農作業の真似事をしたらしいこと。(「自得逍遙、東郊有作、不過設供帳、以為国林游禾之挙、朝耕暮耕、早稲晩稲、垂々捧八月露」等から)
  • 隠居後の自耕斎の周りに、名士が集まったらしいこと。(「四方雲従」や「廬傍若有龍蟠之逸士、為予指迷」から)
  • 隠居後の自耕斎が、“龍”のイメージ(生きざまや住んだ場所の地名、修行に関わった寺院の名称等に“龍”の要素があったか)で語られる存在であったらしいこと。(「四方雲従」や「躬耕隴畝臥龍」、「龍蟠之逸士」から)
  • 人生の二毛作を果たし、隠居時代においても武将時代に引けをとらぬ活躍を見せたこと。(「非自耕底田」から)



《分類D:①自耕斎=大人物説》
※
分類D:読み手の印象に基づく、客観的な立証が困難な仮説


(i)“岩付自耕”の正体を隠しつつ読み手に謎解きに挑ませる詩序の構造、
(ii)書き手の玉隠が生前の自耕斎と接点のある人物であり、第一の読み手である「岩付左衛門丞顕泰」は当然、自耕斎をよく知っていたこと、
(iii)「岩付」がこの人物の真の名字ではないこと、
(iv)この時代、権力者が鎌倉五山の詩僧に書かせた漢詩文が、その権力者権勢を示す道具として客人等に披露される位置付けにあったこと、
から総合的に考えれば、書き手(玉隠)と第一の読み手(岩付顕泰とその一族、重臣達)の間には、自耕斎が実際には誰であったかの共通理解があり、敢えて謎掛けと謎解きの構成を楽しむ意図があったことが窺われる。
さらに、客人にこの詩序を披露することは、客人にもこの謎解きを行わせることを意味することから、書き手(玉隠)と第一の読み手(岩付顕泰とその一族、重臣達)以外にも自耕斎の正体がわかる仕掛けになっていたと考えられることもが窺われる。

以上より導かれるのは、自耕斎が同時代において相当に著名な人物であったとの仮説である。
また、そうした自耕斎の人物像は、

  • この人物の武将活躍が、諸葛孔明に比されたこと、
  • この人物が、太田道灌の前例しか確認されない、複数の五山僧に詩を求めて序を添えた漢詩作品を作らせており、参加した五山僧が、玉隠や竺雲顕騰と思われる「聴松住持龍華翁」等、一流の僧達であったこと、
  • 隠居後の活動が、王安石に勝ると持ち上げられたこと、
等と整合的である。

《分類D:②自耕斎=非大人物説》

※分類D:読み手の印象に基づく、客観的な立証が困難な仮説


書き手(玉隠)が、ここまで多様多彩な個人参照や古典引用を行い、謎掛けと謎解きの叙述を展開せざるを得なかったことは、「そうでもしなければ書くことが無かった」ことを示唆する。
自耕斎は、玉隠をして過剰な技巧に走らざるを得ない状況に追い込むほど、具体的事績の乏しい人物であったことが窺われるのであり、従い大人物であったとは考えにくい。

こうした自耕斎の人物像は、

  • この人物の武将としての活躍が、諸葛孔明に比されてはいるものの、具体的に描かれていないこと、
  • この人物が子の顕泰に継承した所領がわずか「百畝」の「郷田」と表現されたこと、
等と整合的である。(ただし、そのような人物が果たして複数の五山僧に求詩できたのか、については検証が必要)

※ ※ ※

以上が、『自耕斎詩軸并序』から読み取れる自耕斎像である。

分類Dはもちろんのこと、分類Cも深読みのし過ぎかもしれない。しかし、分類AおよびBに示された人物像は、蓋然性が高いと言えるのであろう。

岩付城築城者研究において、築城者自耕斎の人物像が『自耕斎詩軸并序』に求められる機会が今後もあることであろう。そのような機会には、ぜひ本稿の上記指摘についても、検討の材料としていただけることを、筆者としては期待したい。


おわりに
岩槻城(岩付城)の築城者に関する議論に関心も持つ歴史ファンの一人として、その根本史料とも言うべき『自耕斎詩軸』は、いつかきちんと読み通したい史料であった。

今回、まがりなりにも念願の想いを叶えることができ、ささやかな達成感を覚える筆者である。

しかし、『自耕斎詩軸并序』は、全文読解と解釈は簡単な仕事ではなかった。故事参照と古典引用が多く、その上、読者を惑わしつつ謎解きを促す構成を取るこの漢詩文は、実に読み解きにくい作品であった。

「自耕」の意味を、読者に想起させていきつつ、次々にそれらを否定していくこの詩序は読み解きにくい。自分は本当にこの詩序を理解しているのかが不安となり、自らの解釈に自信を持つことができない。
同じ五山文学に属する『寄題江戸城静勝軒詩序』や『静勝軒銘詩并序』が、パトロンである太田道灌の人柄や事績を素直に称えあげているのとは異なり、『自耕斎詩軸并序』は、読者を惑わす仕掛けに満ちた難物であったのだ。

今回の筆者の検討は、筆者自身の取り組みの中では、最も手応えのあるものであったが、それでも完全なる自信を持つには至っていない。それにも関わらず、このように公表したのは、筆者が厚顔であることはもちろんとして、それに加え、例え誤りがあったとしても誰かが全文解釈の叩き台を示さねば、この詩序の研究が進まないとの思いがあったためである。

今回の筆者の解釈が、どこまでこの詩序の真相に迫っているのかはわからないが、全文、全文字に解釈を施すこのような取り組みは、次なる検討の土台となるはずである。同好の士の皆様に読んでいただき、『自耕斎詩軸并序』と岩槻城築城者の研究の次なる段階への踏み台としていただければ幸いである。


(おしまい)

2019年頃に書いたものの、そのまま公開することなく埋もれさせててしまった原稿を、“お蔵出し”で公開します。

岩槻城(岩付城)築城者を考える際の根本史料「自耕斎詩軸并序」の全文読解に取り組んだ内容です。

なお、拙著『玉隠と岩付城築城者の謎』(まつやま書房、2021年)発行前に書いた文章なので、同著がまだ世に出ていない前提で書かれています。


前回(8)はこちら


今回の内容は、力み過ぎですね。2年後に出した『玉隠と岩付城築城者の謎』では、もう少し肩の力を抜いて書いています。最初に書いた時の意気込みと、うまく書き切れないもどかしさが、この力みの裏にあるのでしょう。


4. 全体を通しての気づき(続)

② 謎掛けと謎解きの詩序

多彩な故事参照や古典引用を行う『自耕斎詩軸并序』には、それと表裏をなすもう1つの大きな特徴がある。それはこの詩序が、「謎掛け」と「謎解き」を繰り返す構成を取っていることである。

そもそも、『自耕斎詩軸并序』は冒頭で名前を明かさない形で自耕斎を登場させ、読者にその正体を探らせる構成を取っている。また、自耕斎の正体が明かされて以降は、「自耕」の意味を読者に問いかけ、惑わせつつその真の意味を徐々に解き明かす展開を見せている。
大量の故事参照や古典引用は、自耕斎の正体や「自耕」の意味を読者に推測させるための手掛かりときて提供されていると言ってよいかもしれない。

以下、『自耕斎詩軸并序』に込められた謎掛けと謎解きの展開を、初めてこの詩序を読む読者の気分になって辿ってみることにしたい。(なお、段落①~⑨は、2章と3章で採用した本稿独自の『自耕斎詩軸并序』の段落分けである。)

《段落①》
段落①で示されるのは、名を明かされぬまま耕田の絵と念農の歌を置く人物の描写である。
名を明かされぬその人物が、題に現れる自耕斎であり、耕田の絵と念農の歌等から農業と関わりの深い人物であることは、読者にも察しがつくであろう。
しかしまだ確証は無い。自耕斎とは誰なのか、そして「自耕」の意味とは何なのか。読者は、その謎がすぐに解き明かされるものと思い、次の段落に進むことになる。

《段落②》
ところが次に読者が目にするのは、農業政策に心を砕いた中国の皇帝や太守達の故事である。それも、真宗、周之君臣、渤海太守に南陽太守と、故事は四例も続き、その記述量は漢字133文字にも及ぶのだ。

読者はここで意表を突かれる。というのも、通常、「◯◯斎詩序」や「◯◯之号」等と題される詩序、すなわち、ある斎号や庵号を名乗った人物を賞揚する詩序では、早い段階で、その人物の世俗での名字や出家前の官職や事績、あるいは出身地が示されることが一般的であるためだ。

例えば、玉隠と親交の深かった詩僧万里集九は、『萬秀斎詩序』という詩序を「武蔵刺史之幕府、有爪牙之英臣、是曰大石定重」という一文から始めている。萬秀斎が大石定重の書斎であり、この人物の斎号であることは、冒頭から明かされている。
玉隠が房州里見氏の当主義豊に捧げた『高厳之号』も、その最初の一文は「房州賢使君源義豊公」から始まる。「高厳」が里見義豊であることは一切隠されていない。
また、同じく玉隠が書いた『養賢之号』でも、同様である。この詩文の出だしは「駿州人佐野忠成」である。「養賢」なる人物が、世俗では駿河国出身の佐野忠成であったことは、やはり冒頭から示されているのだ。

もちろん、例外もある。
詩序の対象が元武将の出家ではなく、いわば本職の僧侶である場合は、世俗の名字を示す必要もないためか、衒学的な文章を重ねた後にその人物の斎号や庵号の意味や由来の説明が始まることも多い。万里集九であれば、自身が斎号を名付けた僧に送った『月笑斎詩序』がこれに当たる。玉隠も、僧侶間での詩文のやり取りでは、『月笑斎詩序』に類した叙述が目につく。

しかし相手が元武将の出家者の場合、名字や世俗での官職、事績は詩序の早い段階で示されることがほとんどであろう。

自耕斎の世俗での名字や出家前の官職や事績が明かされないまま、中国の故事を読まされた読者は、仕方なく参照された故事の記述から自耕斎の人物像を推測することになる。そして、真宗らの故事から、どうやら自耕斎は民を思い、農業政策に力を入れ、時に自ら耕地に足を運んだ為政者らしいとわかるのだ。

《段落③》
段落③に至り、読者は、現•岩付城主と思われる「岩付左衛門丞顕泰」とその亡父である法名「正等」を名乗った武将に遭遇する。そして、「正等」に岩付での「築一城」や「白羽扇指揮三軍」といった事績があることを知る。どうやらこの人物が「自耕斎」らしいとわかるが、この時点では確証はない。
ここで注意したいのは、明応年間の関東に、名字「岩付」を名乗った領主が存在しないことだ。
おそらく、明応年間の読者は、「岩付」が真の名字ではないことを知りつつ、そして本当は岩付を名字の如く名乗ったのが成田か太田か渋江かを知りつつ、続きを読むことになる。

《段落④⑤》
段落④では、正等の隠居後の号が「自耕斎」と明かされる。ここにおいて、ようやく読者は、この漢詩文が賞揚の対象とした人物、自耕斎に出会うのだ。

玉隠は続けて、農作業の真似事をする自耕斎の姿を描いてみせる。朝耕暮耕、早稲晩稲、垂々捧八月露・・・。
実は、段落③で為政者であったことが明かされた自耕斎(正等)であるが、農業政策に関する具体的事績は語られていない。段落②で、真宗ら中国の為政者が農政を行う様が描き出されたにも関わらず、それに対応する取組みは、現役時代の自耕斎(正等)
の事績からは、読み取れない。
だが、隠居後に、自ら農事の苦しみや楽しみを味わおうとした「自耕斎」の姿が描き出されたことで、読者は真宗らに通じる自耕斎の人物像を見出す。そして、「自耕」とは文字通り、自ら耕すとあう意味だったと得心することになる。


《段落⑥》
段落⑥で、自耕斎が傅説に比されて賞揚される際には、再度、農業政策に力を入れた為政者としての側面に焦点があたる。
「若歳大旱、用汝作霖雨」、つまり“日照りの時には長雨を降らせる”と称賛された傅説の再来だと自耕斎父子が称賛されたことは、この父子が、やはり農業政策に力を入れた為政者でもあったことを示唆する。
読者は、自耕斎は、農業政策に注力した為政者であり、そして隠居後は自ら耕した農業愛好家であったとわかり、謎のすべてが解けたと安心する。

しかし、実はこの時、玉隠は仕掛けを施している。「若歳大旱、用汝作霖雨」の紹介は、「雨」というキーワードを介して、続く段落⑦で登場する詩「雨我公田、遂及我私」への橋渡しとなっているのだ。

《段落⑦》
段落⑦に至り「自耕」の意味は、にわかに転調していく。
紹介される「雨我公田、遂及我私」という詩には、単に「自ら耕す」ことが大切なのではなく、大切なのは他者・公のために働くことなのだとの主張が込められているためだ。
農業を重視する為政者であり、「自ら耕す」を実践する農業愛好家であるからこその「自耕斎」との理解に落ち着き始めていた読者は、ここで一種の空振りを味わう。

そして、次に衝撃の一節が読者を襲う。それが「如正等、手不秉犁鋤、自謂自耕何哉」である。

ここにおいて、自耕斎(正等)は自ら農具を握って耕作をしていたわけではない、と打ち明けられる。自ら耕すから自耕斎、との理解を根本から覆された読者は、驚きつつ「ならば、なぜ自耕と名乗るのか」との問いを発することになる。
この問いは、既に玉隠によって書かれているため、読者は玉隠の問いに、そうだそうだと賛同しつつ、先に進むことになる。この時既に、読者は“叙述家”玉隠の罠に嵌まっているのだ。

謎解きはその直後になされる。
自耕斎の自耕とは、「以施求福」の精神で行われている仏教修行であった。そしてその精神は、傅説への称賛であった「若歳大旱、用汝作霖雨」から派生して紹介された「雨我公田、遂及我私」にも通じるものなのだ。

「蓋仏僧者、真世之福世田也」という高らかな仏教讃歌とともに段落⑦は終わる。しかし、その高らかさとは裏腹に、自耕とは仏教修行の比喩であり、実際の農業との関わりは無いことを突き付けられた読者は、釈然としない気分に包まれるのではないか。

《段落⑧》
段落⑧で、玉隠は、読者のフラストレーションを解消する。
玉隠は、自耕斎が高僧月江正文に帰依し、その自耕(仏教修行)によって、衆生に悟りの悦びを分け与える他受用の境地に達したことを述べる。そして、農民の自立を目指しつつもかえって彼らを借金漬けにした王安石に勝る人物として持ち上げる。

仏教修行としての自耕の果てに、農民(衆生)の救済が顔を見せることで、自耕が全く農業とは無関係である訳でないことがわかり、読者の不満はややおさまる。当初抱いた、“農業との距離が近い(為政者として、あるいは農業愛好家として)自耕斎”とのイメージが、部分的ながら肯定されるためだ。

《段落⑨》
そして、段落⑨で、自耕斎は「底田」ではないとの宣言が登場する。
これが筆者の解釈どおり、底田=低田すなわち晩稲のみをじっくり育成する耕地であり、自耕斎はこれとは異なり、早稲と麦の二毛作を行う高田であるとの宣言であるならば、最後の詩の意味が深まる。

武将(為政者)と出家の人生の二毛作をした自耕斎は、最後の詩で語られるように、
(イ)農作業の真似事(粒々養成躬可知犂鋤不是効顰)をし、
(ロ)傅岩の野に長雨を降らせた(為旱天霖雨傅岩野一片心田)がごとくの干魃に強い農業政策を打ったからこそ、
(ハ)仏教修行の「以施求福」の原理の通り、悟りを得て、それを他者に分け合う「他受用」の境地に達したのである。

この詩序の最初に示された為政者としての農業政策への注力や、途中から現れた隠居しての農業の真似事。これらがあってこそ、自耕斎が最後に挑んだ自耕=仏教修行は実を結んだことを、最後の漢詩は綴っている。


読者は理解する。
自耕斎の仏教修行としての自耕は、「以施求福」の精神で行われたのであり、その「施」こそ、為政者としての農業政策であった。そして、それ背後には自身が体験を通じて知る農業の苦労と悦びがあったのだと。
自耕はあくまでも仏教修行のメタファーであり、文字通りの「自ら耕す」ではなかったが、その修行行為は「施」であり、「施」の手段として取られたのは「自ら耕す」経験に裏打ちされた農業政策であったのだ。
ここに論理は一周し、「自耕」は文字通りの「自ら耕す」に戻るのである。

もしも読者が再び段落①に目を向ければ、そこに描かれた自耕斎が、
・自ら耕す生活をする人物、
・農業政策に意を注ぐ人物、
・仏教修行に注力する人物、
いずれの人物としても読めることに気づくことになるだろう。

自耕の意味は、この詩序の中で次々に変移転換し、読者を惑わせるのであるが、最後に至って、全ての自耕のイメージが一体となり、自耕斎という人物の悟りとして結実するのである。

実に、技巧的な展開を見せる詩序と言えよう。

《段落⑨別の視点から》
なお、段落⑨には、もう一つ別の角度からの謎解きも行われる。

隠居後の自耕斎の生活を、理念的、寓話的に描いてきた『自耕斎詩軸并序』が、この最終段落ではにわかに、自耕斎を“龍”のイメージを添えて語るようになるのだ。
「四方雲従」「躬耕隴畝臥龍」そして「龍蟠之逸士」。先に述べた通り、「龍蟠之逸士」は、「龍蟠鳳逸之士」という成句から鳳凰の要素を取り除いた表現であり、玉隠が龍の要素を打ち出していることは間違いないであろう。


この時代、岩付城を築城できるだけの力を有した「岩付氏」なる領主は存在しない。最後になって自耕斎が突然“龍の人”としてのが明かされたことは、この人物が本当は誰であるかを読者に示す謎解きであったのかもしれない。

“岩付自耕”と書かれ、『自耕斎詩軸并序』では本当の名字を明かされなかった自耕斎の正体が、この龍のイメージにあるとみるのは考え過ぎであろうか。

《謎解きの構成を取った訳》
それにしても、と疑問が浮かぶ。玉隠は、なぜ『自耕斎詩軸并序』を、これほど技巧に満ちた詩序としたのだろうか。

先に紹介した小宮氏に近い立場を取れば、自耕斎は誰もがよく知るビッグネームでありながら、『自耕斎詩軸并序』では本当は名字ではない岩付を名字のごとく付された人物ということになる。
この時、『自耕斎詩軸并序』の謎掛けと謎解きの展開は、自耕斎がやはり誰もが知る“あの人”であったことを読者に、見つけてもらうための仕掛けとして必要であったと考えららるのではないか。

繰り返しとなって恐縮であるが、自耕斎が成田氏であろうと、太田氏であろうと、渋江氏であろうと、『自耕斎詩軸并序』はその真の名字を伏せていることになる。“岩付自耕”が、この人物の真の呼び名ではなかったことは確実であり、“謎解き”は必要なのだ。

もちろん、別の考え方もできる。
先に紹介した青木氏の立場を取れば、結論は正反対となる。すなわち、玉隠が過剰なまでに故事を参照し古典を引用し、その上で読者に謎解きを強いる構成で叙述を展開したのは、そうでもしなければ長い詩序など書けなかったため、と考えられることになるのだ。
自耕斎とその子顕泰に、さしたる事績が無かったために、玉隠は、無駄に技巧的にならねばならなかった。岩付左衛門丞顕泰の望む、父自耕斎を賞揚する長い漢詩文を書き上げるためには。

いずれが正しいかを論じるのは、本稿の目的ではないため、ここでは深入りしない。

しかし、真の名ではない“岩付自耕”と呼ばれたこの人物が、その正体を読者に探らせるような構成の詩序で賞揚されていることは、改めて指摘しておきたい。

玉隠が、そのような叙述スタイルを取った理由は、『自耕斎詩軸并序』を理解するために検討が必要な論点の一つである。本稿の指摘を契機として、今後、議論が活性化することを望みたい。


2019年頃に書いたものの、そのまま公開することなく埋もれさせててしまった原稿を、“お蔵出し”で公開します。

岩槻城(岩付城)築城者を考える際の根本史料「自耕斎詩軸并序」の全文読解に取り組んだ内容です。

なお、拙著『玉隠と岩付城築城者の謎』(まつやま書房、2021年)発行前に書いた文章なので、同著がまだ世に出ていない前提で書かれています。


4. 全体を通しての気づき

『自耕斎詩軸并序』の全文解釈を終え、改めて全文を通しての気付きと考察を述べたい。

① 多彩な故事参照・古典引用

『自耕斎詩軸并序』を読んでまず気づくのは、故事の参照や古典の引用の分量が多く、その内容が多彩であることだ。

登場順に挙げれば、
  • 農夫吟を作り、耕田之象を画かせ、民に養苗を教えた宋の「真宗」、
  • ともに簑を着て農作業に励んだ「周之君臣」、
  • 離農した人々を農地に呼び戻した「渤海太守」(おそらく前漢の龔遂)、
  • 自ら田畑に入って水理を指導した「南陽太守」(おそらく前漢の召信臣)、
  • 岩付を、殷の名宰相傅説が見出だされた地である「傅岩」に比する「附者傅也」、
  • 自耕斎の武将時代の活躍を孔明に比した記述である「白羽扇指揮三軍」、
  • 『老子』からの引用である「収取功名退者天之道也」、
  • 「荊公」すなわち王安石の詩「花気時度谷…」、
  • 殷の高宗が後の名宰相「傅説」を夢に見て、探し求めて傅岩之野で見出だした故事「高宗夢得傅説、物色以求于天下、説築傅岩之野」、
  • そして高宗が傅説を宰相とした際に述べた言葉「若済巨川、用汝作舟楫、若歳大旱、用汝作霖雨」、
  • 歴山で耕作した「舜」の故事、
  • 『詩経』の詩「雨我公田、遂及我私」、
  • 『孟子』における「雨我公田、遂及我私」に対する論評である「先公而後私、周亦用助也」、
  • 『涅槃経』からの引用「如秋収冬蔵、更無所作為」、
  • 『浄明忠孝全書』からの引用と思われる「莫不有忠孝之心」、
  • 自耕斎の事績を賞揚すべく言及される王安石の青苗法「青苗凞寧」、
  • 王安石に反対した旧法党の「川党洛党」、
  • 自耕斎の生き方と異なる例として引き合いに出される諸葛孔明「躬耕隴畝臥龍」、
  • 詩において再び登場する「傅岩」の比喩、

など、十九回にのぼる故事の参照や古典の引用が、『自耕斎詩軸并序』には見られる。

玉隠の作品すべてと比較した訳ではないが、『自耕斎詩軸并序』における故事参照と古典引用は、多い部類に属するのではと感じられる。
しかも自耕斎は、

  • 武将時代においては、皇帝真宗や名宰相である傅説や諸葛孔明に比され、
  • 隠居後においては、聖人舜に比されるのみならず、王安石や諸葛孔明を越える人物として描き出されている。

些か誉めすぎであろう。

なぜ玉隠は、このように多彩な故事参照と古典引用を行い、自耕斎を賞揚したのか。

一つの考え方は、自耕斎や詩序を依頼したその息子顕泰が強い権力を有した大物政治家であったため、玉隠としても最上級の賞揚を行うべくこのような叙述スタイルを取った、というものだ。
「白羽扇指揮三軍」を引き合いに、自耕斎が「当時の武州周辺の諸葛孔明を自負するほどのビッグネームの武将」であったことがわかると論じた小宮勝男氏が取った考え方である。

先述のとおり、筆者が調べた範囲では、玉隠が武将を諸葛孔明に例えた事例は伊勢宗瑞と扇谷上杉定正しか見当たらない。そしていずれもが、“相州太守”となった大権力者であり、多くの合戦で勝利したことで知られた強き武将であった。
仮に、諸葛孔明の比喩が、こうした真に活躍した武将に対して賞揚にのみ使われるものであったならば、同じく孔明に比された自耕斎もこれらの人物に劣らぬ活躍を見せた人物である可能性がある。
ただし、玉隠の作品の全てが今日に受け継がれているとは言い切れない。失われた作品の中で、玉隠が、さして事績の無い小規模な地域領主に対しても諸葛孔明の比喩をしていた可能性も否定はできないため、確定的な議論はできない。

一方、別の考え方も存在する。
青木文彦氏は、『自耕斎詩軸并序』において、岩付が傅岩に通じ、自耕斎父子が傅説の再来とされた記述を取り上げ、こう論じている。
「玉隠英與にとって正等父子は、そうした強引ともいえる修辞の粋を尽くさねば、称揚できなかったことを示している。鎌倉五山トップに位置する玉隠英與の立場からは、正等父子はそのような存在であったのである」。
多彩な故事参照と古典引用による、過剰とも言える自耕斎に対する賞揚は、この人物が、具体的に挙げて誉めるべき事績を持たぬ人物であったことを示すとの見解である。

多彩な故事参照と古典引用、そしてそれによる自耕斎への賞揚が、この人物が大物であったことを示すのか、むしろ誉めるべき具体的事績の無い人物であったことを示すのか。それは、今後も引き続き、検討させるべきテーマであろう。


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岩槻城(岩付城)築城者を考える際の根本史料「自耕斎詩軸并序」の全文読解に取り組んだ内容です。

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3.全文解釈(続)

⑨ 序文の締めと詩

《白文》
四方雲従、躬耕隴畝臥龍、亦外物、非自耕底田、廬傍若有龍蟠之逸士、為予指迷、
粒々養成躬可知犂鋤不是効顰為旱天霖雨傅岩野一片心田得我私
時明応丁巳一夏強半懶菴野釈英璵序


《書き下し文》
四方より雲従して、躬ら隴畝の臥龍に耕すも、また外物なり。自耕底の田に非ず。廬傍に若し龍蟠の逸士あらば、予が為に指迷せよ。
粒々養成して躬ら知るべし、犁鋤はこれ効顰の為ならざることを。旱天の霖雨傅岩の野、一片の心田我が私を得たり。
時に明応丁巳一夏強半懶菴野の釈英璵序す

《語釈》
「雲従」は、「雲従龍風従虎」(雲は龍に従い、風は虎に従う)の一部引用か。「雲従龍風従虎」は、似た者同士が互いに惹かれ合うこと。
「躬」は、自ら。
「隴畝」は、うねとあぜ。
「躬耕隴畝」は、自らうねとあぜを耕す、という意味。『三国志』蜀書諸葛亮伝の冒頭の有名な一節「亮躬耕隴畝」を受けたものであろう。
「臥龍」は、隠れており、まだ世に知られていない大人物。諸葛孔明の例えでもある。
「外物」は、他の物。
「底田」は、意味・出所不明。
「廬」は、庵。
「龍蟠」は、龍がとぐろを巻いて潜むこと。
「逸士」は、隠者。
「指迷」は、指し示すこと、導くこと。
「粒々」は、穀物。
「効顰」は、顰(ひそみ)に効(なら)う。本質をとらえずに表面をなぞって真似事をすること。同じ意味で「顰效」との表現が前出している。ただし、「效」が「効」に代わり、「顰」との前後関係が入れ代わっている。
「旱天」は、日照りのこと。
「霖雨」は、長雨。
「傅岩野」は、殷代の名宰相「傅説」が高宗に見出だされた地。先に紹介した通り、『自耕斎詩軸并序』では、「岩付」が「傅岩」に例えられている。

「得我私」は、先に紹介した詩「雨我公田、遂及我私」を受けた表現であろう。
「明応丁巳」は、明応六年。

「強半」は、半ば過ぎ。
「釈」は、仏教僧が法名の上につける姓。
「序」は、序文を書くこと。

《現代語訳》
四方より、雲が龍に従う(ように人々が自耕斎のもとに集った)。(自耕斎は)自ら田畑を耕した臥龍(すなわち諸葛孔明)とも異なる他の物である。自耕(斎)は、底の田ではないのだ。もし、庵の傍に、龍がとぐろを巻いて隠れたような隠者がいたならば、私のために指し示して欲しい。

(詩)
穀物を養って育てることで、自ら知ることができる。犁鋤などの農具を使うのは、(農業の)真似事をするためではないということを。(自耕斎は)干魃のときにも傅岩の野(岩付の野)の一片の心の田において長雨を降らせ、我が私(悟り)を得たのだ。

時に明応六年、一夏を半ば過ぎた頃。懶菴野の釈英璵が序文をしたためる。

《余説》
序の締めに入ると、「臥龍」や「龍蟠」等、にわかに「龍」の語が多くなる。

◎四方雲従
語釈に示した通り、「四方雲従」の「雲従」は「雲従龍風従虎」(雲は龍に従い、風は虎に従う)の一部引用であろう。後段で、「廬傍若有龍蟠之逸士(廬傍に若し龍蟠の逸士あらば)」とあることを考えれば、隠居した自耕斎の回りには優れた人材が集まっていたことが窺える。「四方雲従」は、“龍の人”である自耕斎のもとに、四方から、似た者達が惹かれて集まった様を表していると考えてよいであろう。

◎躬耕隴畝臥龍、亦外物
『信濃史料』は、「躬耕隴畝臥龍」を「躬ら隴畝の臥龍に耕すも」と書き下すが、この書き下しでは、意味を見出し難い。
そこで筆者は「自ら田畑を耕した臥龍(すなわち諸葛孔明)」と訳すことにした。これは続く「亦外物」は、「躬耕隴畝臥龍」を主語と考えねば意味が通らないと考えての現代語訳である。

この解釈を前提とすれば、玉隠は、“自ら耕した龍の人”という点で、自耕斎は臥龍(諸葛孔明)と似ているが、しかし他の物であると主張したことになる。

おそらくは、

  • 自らの才を見出だす君主の登場を待ち、その間に文字通りの自耕(自ら耕作)を行ったら孔明、
  • 武将として活躍した後の第二の人生で仏教修行としての自耕を行い、得た悟りの悦びを衆生にも与えた自耕斎、
の二者において、自耕の意味合いが異なると考えてのことであろう。

諸葛孔明において、自耕は目的のための手段ではなく時間潰しであり、しかもその目的は自身の政治的活躍であった。対して自耕斎は、自耕は悟りを得るための手段であり、しかもその目的は自身の悟りに留まらず、衆生救済であった。
玉隠は、そのような差異を、両者の間に見ていたのではないだろうか。

◎非自耕底田
自耕斎が“それではない”とされた「底田」とは何か。残念ながら、筆者は「底田」という表現を用いた中国の古典や漢訳仏典を見出だすことができなかった。

しかし、宋代の中国では耕作地を、高田/中田/低田に分け、高田では早稲と麦(あるいは豆)の二毛作を行い、低田では晩稲のみを時間をかけて栽培し他の作物は育てなかったと言われており(註9)、筆者は「底田」が「低田」を意味する可能性をここに提起したい。

この場合、「底田」すなわち「低田」ではないとされた自耕斎は、「高田」あるいは「中田」に比される存在であったということになる。

「高田」が、早稲と麦(あるいは豆)の二毛作を行う耕地であったことを踏まえれば、玉隠は、武将としても活躍し、隠居後は仏僧として自受用他受用の働きを見せた自耕斎を、人生の二毛作を成したと見たのかもしれない。

自ら田畑を耕した臥龍、すなわち諸葛孔明は、劉玄徳を支える政治家として立ち、北伐の最中に政治家として没している。こうした生き方を、玉隠は「底田」=低田、すなわち晩稲をじっくり育て、他の作物を栽培しない耕地に例えたのではないだろうか。

玉隠は、武将時代の自耕斎の活躍を「白羽扇指揮三軍」と記して諸葛孔明に例えているが、隠居後の自耕斎が仏教修行で悟りに達したことを以て、政治家としての人生しか送らなかった孔明を越える人物として自耕斎を称えていると、解釈できるかもしれない。

◎廬傍若有龍蟠之逸士
「龍蟠之逸士」という表現は、筆者が調べた範囲では、中国の古典には見出だされなかった。しかし、「龍蟠鳳逸之士」という成句は存在する。意味は、“龍がとぐろを巻いて潜み、鳳凰が隠れているように、まだ世に出ていない優れた人物”、である。


玉隠が「龍蟠鳳逸之士」という成句から、あえて鳳(鳳凰)の要素を取り除き、「龍蟠之逸士」という表現を作り出している点は注目される。

自耕斎を“龍”のイメージで捉えており、それゆえ自耕斎の周囲に「雲従」して集まった人々もまた“龍”であると考え、「龍蟠鳳逸之士」から鳳凰の要素を削り、「龍蟠之逸士」としたのではないだろうか。

◎旱天霖雨傅岩野一片心田
傅岩の野の一片の心の田に、干魃の最中に長雨を降らせたという意味であろう。
繰り返された傅岩=岩付の関係性が再び登場する。自耕斎にとっての傅岩野とは、すなわち岩付の野と解釈することもできよう。

日照りに長雨を降らせたとする表現は、傅説の故事「若歳大旱、用汝作霖雨也」に倣っている。
干魃において長雨を降らせたとは、おそらく、先に筆者が論じた自耕斎の武将時代の農業生産維持の功績と、隠居後の「以施求福(施しを以て福を求む)」の仏教修行の成果をここに表しているのであろう。

◎得我私
語釈で示した通り、これは『詩経』の詩「雨我公田、遂及我私」を受けた表現であろう。
「旱天霖雨傅岩野」が「雨我公田」にあたる行為であり、これによって自耕斎は、己の私田も潤すことができた。すなわち、悟りに達し、自受用(己の悟りを楽しむ)と他受用(悟りの悦びを他者にも与える)の境地に至った、と解釈されるだろう。

得我私には、もう一つの解釈も可能である。得我私のモチーフとなった及我私において、「私」は「百畝」の広さの「私田」、すなわち「百畝郷田」である。得我私の「私」も私田=百畝郷田と解釈することが可能であり、その場合、この漢詩の締めの三文字は、一族の家督の象徴たる百畝郷田を継承した顕泰の喜びを表現したものと見ることもできよう。

古来、故人の顕彰は、後継者の地位や権威の向上のために行われた行為である。亡父正等(自耕斎)の顕彰自体が、その父から百畝郷田を継承した顕泰の地位と権威を確立することを目的に行われた行為であったなら、最後に顕泰自身の家督(の象徴)の継承への祝賀が述べられたとしても、おかしくは無いだろう。


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岩槻城(岩付城)築城者を考える際の根本史料「自耕斎詩軸并序」の全文読解に取り組んだ内容です。

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3.全文解釈(続)

⑦ 「自耕」の意味

自耕斎詩軸并序もいよいよ終盤。玉隠は、ここまで自耕斎と農業の関わりを強調しておきながら、登場、「自耕」とは自ら農作業を行うことではない、との驚きの記述を展開する。
(ア)~(ウ)に分割して解釈を施す。


⑦ー(ア)大舜自耕稼於歴山…

《白文》
大舜自耕稼於歴山、以至為帝也、耕易言、自難言、詩云、雨我公田、遂及我私、由此観之、先公而後私、周亦用助也、

《書き下し文》
大舜自ら歴山に耕稼して、以て帝となるに至る。耕は言ひやすく、自は言ひ難し。詩に云はく、我が公田に雨らせ、遂に我が私に及ぶと。これによってこれを観れば、公を先にして私を後にす。周もまた助を用ふるなり。

《語釈》
「大舜」は、儒教で聖人とされた古代中国の帝。
「歴山」は、舜が耕作したとされる山。山東省や山西省等に複数の候補となる山が存在する。
「耕稼」は、耕作すること。
「雨我公田、遂及我私」は、『詩経』の詩。公田に雨が降り、次いでその雨が私田にも降るという意味。公があってこそ、私があることが詠われている。『孟子』の「滕文公章句上」でも古代周王朝の農地政策を象徴する詩として引用されている。
「由此観之」は、「これによりてこれを観れば」。こういうわけであるから、という意味。
「周亦用助也」は『孟子』の「滕文公章句上」において、「雨我公田、遂及我私」を受けて述べられる考察。
「助」は、人々に皆で共有する公田と私有する私田を割り当てて耕作させた古代殷王朝の農地政策のことである。「周亦用助也」とは、孟子が、「雨我公田、遂及我私」は周代の詩であるが、ここに公田と私田が見える以上、周王朝もまた殷王朝の「助」政策を用いていることがわかると述べた際の表現である。

《現代語訳》
偉大なる舜は、歴山で自ら耕作し、遂には帝となるに至った。「耕す」は簡単に言えるが、「自ら」は簡単には言えない。(『詩経』の)詩が言うには、「公田に雨が降り、次いでその雨が私田にも降る」。こういうわけであるから、「公」が先にあってこその「私」なのである。古代の周王朝も、人々に公田と私田を割り当てる「助」の政策を用いた。

《余説》
ここから「自耕斎」の「自耕」の意味に関する説明がはじまる。

◎大舜自耕稼於歴山…
舜が歴山で自ら耕した逸話は『韓非子』等で紹介されている。『韓非子』での記載は、「歴山之農者侵畔、舜往耕焉、 期年甽畝正」( 歴山の農者、畔を侵す、舜の往きて耕すや、期年にして甽畝正す)である。
歴山で農民達が農地の境界をめぐって争いを起こしたが、舜が訪れて共に耕し始めると、一年後に農地の境界争いは無くなった、という故事である。
舜が耕すことで農地の境界争いが無くなったのは、何故であろうか。この後で紹介される「雨我公田、遂及我私」の意味を踏まえれば、舜の耕作が自分のためだけでなく、公共のためのものであったため、周囲も争いをやめて公共のために働くようになったと考えられるだろう。

◎耕易言、自難言
筆者は、「耕す」は簡単に言えるが、「自ら」は簡単には言えない、と現代語に訳した。
「自難言」の「自」を、単に「自分で耕す」と解釈すると、詩序全体の意味が通りにくい。
直前に紹介された舜の故事では、農民達による自分のために自分の私田を耕す行為が、私欲のぶつかり合いを生み、境界争いを生じさせた。単に「自分で耕す」ことはここでは称賛の対象ではなく、舜のように自ら公共のために耕すことが称賛されている。
こうした理解を踏まえて考えれば、私欲のための耕作が「耕易言」の「耕」であり、舜が歴山で行った自ら進んで公共のために働いた耕作が、「自難言」の「自」にあたると見るべきではないだろうか。


◎雨我公田、遂及我私

「公田に雨が降り、次いでその雨が私田にも降る」という解釈が一般的であるが、私より公を重んじて先にするという考え方を能動的に示す詩と解釈すれば、

・雨我公田は、「まず公田に雨の水を送る」、

・遂及我私は、「そうすれば、公田に流れた雨の水が私田にも流れてくる」、

と意訳的に理解することも可能かもしれない。



⑦ー(イ)如正等、手不秉犁鋤…

《白文》
如正等、手不秉犁鋤、自謂自耕何哉、教中云、見如来性、如秋収冬蔵、更無所作為、又曰、以施求福、如種須刈、

《書き下し文》
正等の如き、手に犁鋤を秉らずして自耕と謂ふは何ぞや。教中に云はく、如来の性を見るに、秋収め冬蔵む。更に作すところなきが如しと。また曰く、施して以て福を求むるは、種うるに刈るを須ってするが如しと。

《語釈》
「犁鋤」は、牛馬に引かせて土を掘り起こす農具(犁)と、手と足で土を掘り起こすための幅の広い刃に柄をつけた農具(鋤)のこと。
「秉」は、手に持つ、握る。
「教中云」は、仏教の教えが言うことには。
「如来」は、悟りを開いた人、仏陀のこと。
「秋収冬蔵、更無所作為」は、秋に収穫して冬に収蔵すれば、他には何もする必要が無いということ。『涅槃経』の一節であり、『涅槃経』においてはこの経典の教えを学べば他には何もする必要が無いことを示す。
「須」は、もとめること。「如種須刈」は、種を蒔いて収穫を求めるように、という意味であろう。

《現代語訳》
正等のように、犁や鋤を手に取ることなく、自耕と言うのはどういうことか。仏教の教えによれば、悟りを開く人の特性は、秋に収穫し、冬に所蔵することで、他には何もする必要がない、というものである。他人に施しをして福を求めるのは、種を蒔いて収穫を求めるようなものである。

《余説》

◎手不秉犁鋤、自謂自耕何哉

『自耕斎詩軸并序』は、ここまで「自耕斎」が農業の真似事をしていたことに触れ、この人物が真似事ながら自ら耕す好意を行っていたからこそ「自耕斎」という斎号を名乗ったことを仄めかしていた。しかし、この段に至り、「自耕斎」の「自耕」が「自ら耕作を行うこと」では無かったことが明かされる。

では、「自耕斎」が「自耕」を自称するのは何故か。玉隠はそう問いかけて、その答えを仏教の教えに求めて解説する。


◎以施求福、如種須刈

「以施求福、如種須刈」は、悟りを求める仏教の修行においても、他者への施しが自身の悟りという福として帰ってくることを述べている。
少し前に登場した「雨我公田、遂及我私」や「先公而後私」という儒教の考え方と通じる考え方と言える。 ただし、「自耕斎」の他者への施しの取り組みは、公田を耕すという現実の行為ではなく、仏教修行であったのであるが。

仏教修行を耕作に例える逸話は、初期仏教の経典である『雑阿含経』第四巻「耕田経」にも見られる。ここでは仏陀(釈迦如来)自身が、修行を農作業や農具、農地、雨、そして収穫等に例えている。
また、「自耕斎」が帰依した月江正文は曹洞宗の高僧であり、同宗では大本山総持寺を開いた瑩山禅師が「自耕自作閑田地、幾度売来買去新 無限霊苗種熟脱、法堂上見挿鍬人(自ら耕し自ら作る閑田地、幾度か売り来り買い去って新なり 限り無き霊苗の種、熟脱す法堂上に鍬を挿む人を見る)」という言葉を残している。

仏教修行を「自耕」と表現する習慣は、もともと仏教に存在し、曹洞宗においては特に濃厚であった可能性がある。
「自耕斎」の「自耕」が、他者への施しを通して自身の悟りを得んとする仏教修行のことであったとの玉隠の説明も、これらを踏まえれば、理解することができる。


◎如秋収冬蔵、更無所作為

一方で、「如秋収冬蔵、更無所作為」は、やや分かりにくい。
「他人に施しをして福を求めるのは、種を蒔いて収穫を求めるようなものである(以施求福、如種須刈)」と直前に語られていることを踏まえれば、“他人に施しをして福を求める”という行為を、悟りを得るような人は、粛々と進めていくものだ、と述べていることになろうか。

⑦ー(ウ)竊聞、士君子…

《白文》
竊聞、士君子、莫不有忠孝之心、故願祝、吾君之寿、及営其親福祉者、皆依仏僧、蓋仏僧者、真世之福世田也、

《書き下し文》
竊かに聞く、士君子は、忠孝の心あらざるはなしと。故に願はくは吾が君の寿を祝ひて、その親の福祉を営むに及ぶ者、皆仏僧に依る。蓋し仏僧は、真世の福世田なり。

《語釈》
「竊」は、ひそかに。人知れず。
「士君子」は、学問と人格にすぐれた人。
「莫不有忠孝之心」は、忠(国家や主君にまごころをこめて仕えること)と孝(父母を大切にするそと)の心が無いということはない、という意味。筆者が調べた範囲では、元代の浄明道(道教の一節)の思想家、劉玉による『浄明忠孝全書』に同じ表現が見られる。
「寿」は、長寿。「吾君之寿」は、我が主君の長寿という意味であろう。
「福祉」は、しあわせ。「其親福祉」は親のしあわせという意味であろう。
「蓋」は、考えてみるに
「真世之福世田也」は、出所、意味ともに不明。仏教用語に「福田」があり、「福徳を生じる田畑」を意味する。具体的には、仏や僧などの「敬田」、師や父母などの「恩田」、貧者や病人などの「悲田」に分類される。「真世之福世田也」はこのうち「敬田」としての仏僧を指しているのではないか。

《現代語訳》
(玉隠が)ひそかに聞くところによると、学問と道徳に優れた士君子は、忠と孝の心が無いということは無いのだそうだ。したがって、主君の長寿を願い、親のしあわせを営もうとする者は、皆、仏教の僧侶を頼りにする。考えてみるに、仏教の僧侶こそ、福徳を生み出す田畑である。

《余説》
前段で明かされた「自耕」=仏教修行を踏まえて、仏教の僧侶こそ、忠孝を含めた福徳を生み出す田畑なのだ、との主張が展開されている。


⑧ 月江正文と自耕斎

《白文》
平生参洞下明識月江老、聞新豊之唱、有所得乎、洒々楽々、胸無町畦、本分閑田地、養以自受用他受用、不堕青苗凞寧途轍、川党洛党之羽翼、亦斂袵矣、

《書き下し文》
平生洞下の明識月江老に参じて、新豊の唱を聞く。所得あるか。洒々楽々。胸に町畦なく、本分の閑田地、養ひて以て自受用他受用して青苗凞寧の途轍に堕せず。川党洛党の羽翼も、また袵を斂めん。

《語釈》
「平生」は、普段から。
「洞」は、曹洞宗のこと。
「月江老」は、曹洞宗の高僧、月江正文。
「新豊之唱」は、曹洞宗の開祖であり、中国唐代の僧侶であった洞山良价による『新豊吟』のことであろう。
「所得」は、悟りを得ること。
「洒々楽々」は、さっぱりとして物事にとらわれない様子。
「町畦」は、境界や区切りのこと。
「閑田地」は、のどかな耕田。続く「養」をあわせて考えれば、仏教修行で耕す心のことであろう。先に紹介した曹洞宗瑩山禅師の「自耕自作閑田地、幾度売来買去新 無限霊苗種熟脱、法堂上見挿鍬人」においても、「閑田地」が登場する。
「自受用」は、悟った当人がその楽しみを味わうこと。
「他受用」は、衆生に法の楽しみを与えること。
「青苗凞寧」は、凞寧年間に宋の名宰相 王安石が導入した青苗法のことであろう。青苗法は農民の自立支援策として政府が貸付を行う制度。
「途轍」は、わだち(轍)が通った跡。
「川党」は、不明。ただし、続く「洛党」が王安石に反対した旧法党の程頤を指すことを踏まえれば、「川党」もまた旧法党の一人である可能性が高い。あるいは、旧法党の一人であり「蜀党」とよばれた蘇軾を、蜀すなわち四川との論理で「川党」としたのであろうか。
「洛党」は、王安石の改革(新法)に反対した旧法党の一人、程頤のこと。
「羽翼」は、支持者。
「斂袵」は、えりを整えること。

《現代語訳》
(自耕斎は)普段から曹洞宗の名僧である月江老のもとに参じて、『新豊吟』を聞いて修行した。悟りはあったのか。さっぱりとして物事にとらわれない様子であった。
(自耕斎の)胸には境界はなく、(仏教修行で)心の田畑を耕すと、自ら悟りの境地を味わうのみならず、衆生にも法の楽しみを与えていたのであり、(王安石による)凞寧年間の青苗法の二の轍を踏むことは無かった。(王安石の改革に反対した)川党や洛党の支持者らも、(自耕斎のまえでは)えりを整えたことであろう。

《余説》
◎平生参洞下明識月江老…
先に自耕=仏教修行であることが示され、ここでは自耕斎の師が、曹洞宗の月江正文であったことが明かされる。臨済宗の玉隠が書く詩序で、他宗である曹洞宗の高僧が出てくるのは興味深い。

『本朝高僧伝』によれば、月江正文は、大本山總持寺で悟りを開き、最乗寺で開法し、尾張国の楞厳寺と武蔵国の普門院を開山したとされる。また上野国の雙林寺を開山し、一州正伊に継がせて一世住持としたとさせ、最後は寛正三年(一四六二)に尾張国の楞厳寺で没したとされる。『本朝高僧伝』が正しければ、自耕斎が月江正文に師事したのは、寛正三年(一四六二)以前ということになる。また、その場所は、岩付から近い普門院だった可能性が高いのではないか。

なお、月江正文は、武蔵国越生の龍穏寺の二世住持となったとの伝承が同寺に残されており、自耕斎=太田道真の立場を取る小宮勝男氏は、越生に隠居した道真が、龍穏寺の月江正文を訪ねる関係であったことを示唆する。
しかし、『本朝高僧伝』には龍穏寺の名は登場しない。『新編武蔵国風土記稿』の龍穏寺の項では、戦乱で焼け落ちた龍穏寺を再建しようとした月江正文が、近くの円通寺に滞在したとの逸話が記されているが、円通寺の開山は江戸時代であり、この逸話の信憑性は高いとは言いがたい。月江正文が龍穏寺の二世住持であったとの伝承は、月江正文の弟子であり三世住持として同寺を再建した泰叟妙康が、同寺の権威付けのために創作したものである可能性も考えられよう。
加えて月江正文の没年が寛正三年(一四六二)であり、その地が尾張国であったこと、そして太田道真の越生での隠居生活の開始が寛正二年(一四六一)であったことを考えると、両者の交わりを越生に求めることは難しいであろう。

、太田道真が自耕斎であったと考える場合、道真と月江正文の交わりは、道真の隠居前のことであり、その場所は龍穏寺ではなく、普門院であったと考えるべきであろう。

◎本分閑田地、養以自受用他受用
自耕斎は、「閑田地を養う」と表現された仏教修行の果てに、悟りを開いたようである。しかも、自身の悟りの境地を楽しむ「自受用」のみならず、悟りの境地を衆生にも与える「他受用」の段階に達てしていたと、玉隠は記す。
この「他受用」は、先に紹介された『詩経』の「雨我公田、遂及我私」や、歴山における舜の耕作と通じる境地とされていると見てよいであろう。

◎不堕青苗凞寧途轍、川党洛党之羽翼、亦斂袵矣、

悟りの境地を衆生にも与える「他受用」に達てしていた自耕斎は、王安石の青苗法の失敗の二の轍は踏まない、と玉隠は記述を展開する。
王安石の青苗法は、自作農の自立を促すため政府が貸付を行う制度であったが、かえって農民を借金漬けにすることがあった。
玉隠は、農民らに自立を促す王安石よりも、悟りの悦びを与えて衆生を救済する自耕斎の方が優れていると述べていることになろう。

思想による心の救済と、政治による農民の経済的自立を、同じ尺度で比べるのは無理がある。玉隠は、それをわかった上で、自耕斎賞揚のため、王安石より優れた自耕斎という主張を展開したのであろう。



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岩槻城(岩付城)築城者を考える際の根本史料「自耕斎詩軸并序」の全文読解に取り組んだ内容です。

なお、拙著『玉隠と岩付城築城者の謎』(まつやま書房、2021年)発行前に書いた文章なので、同著がまだ世に出ていない前提で書かれています。


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3.全文解釈(続)

⑥自耕斎と傅説

《白文》
岩付自耕、考絵事、則高宗夢得傅説、物色以求于天下、説築傅岩之野惟肖、用為相云、若済巨川、用汝作舟楫、若歳大旱、用汝作霖雨、父子豈不傅岩賢佐之再来、

《書き下し文》
岩付自耕、絵事を考ふれば、則ち高宗夢に傅説を得たり。物色して以て天に求む。説傅岩の野に築して惟れ肖たり。用て相となして云はく、若し巨川を済らば、汝を用て舟楫と作さん。若し歳大いに旱すれば、汝を用て霖雨と作さん。父子豈傅岩賢佐の再来ならずや。

《語釈》
「高宗」は、殷の王。「傅説」を宰相として取り立て、殷の中興を果たしたことで知られる。
「傅説」は、殷の高宗の時代の宰相。「傅巌(岩)」の地で土木工事を監督していた時に、高宗に見いだされたとの逸話がある。「傅岩翁」とも呼ばれる。
「築」は、建設工事、土木工事。
「惟肖」は、これ(惟)に似(肖)る。
「相」は、宰相のこと。
「若」は、もし。
「済」は、渡る。
「巨川」は、大きな川。
「舟楫」は、舟とその舵。
「旱」は、ひでり、干魃。
「霖雨」は、長雨。
「傅岩賢佐」は、傅説が高宗を賢く補佐した様。

《現代語訳》
岩付自耕(について)、絵の事を考えてみると、(殷の)高宗が夢で傅説を見て、天下に傅説を求めたところ、説(傅説)が傅岩の野で土木工事をしていたところを見出だしたことと似ている。(高宗は傅説を)用いて宰相として言った。もし大きな川を渡るならば、そなたを用いて(川を渡るための)舟と舵を作る。もしある歳に大きな干魃があれば、そなたを用いて長雨を降らせる。(自耕斎)父子は、傅岩(傅説)が(高宗を)賢く補佐したことの再来である。

《余説》
自耕斎と、殷の名宰相「傅説」の類似性が語られ、前段で登場した「附者傅也」(岩付(附)の附は傅である)の謎説きが行われる。

◎岩付自耕
『自耕斎詩軸并序』では、地名「岩付」を自耕斎父子の名字であるかのように両者の名前や斎号に付す。ただし、自耕斎(正等)に「岩付」が付されるのは、文中においてここのみである。自耕斎が古代中国の名宰相「傅説」に似るとする根拠の一つである「岩付」と「傅岩」と類似性を読み手に伝えるための工夫であろうか。

◎考絵事
筆者は「絵の事を考えてみるに」と現代語に訳した。
ここでの「絵」は、自耕斎が「聴松住持龍華翁」や玉隠に詩を求める際に提示した絵のことであろう。
考えた結果として、岩付自耕と古代中国の名宰相「傅説」が似ているとの結論を述べているのは、筆者である玉隠であるため、「考」の主語も玉隠と見なされるであろう。

絵の事を考えた結果、岩付自耕と「傅説」が似ているとの結論が導かれたのは、岩付に特徴的な風景が描かれていたためと考えられる。

◎則高宗夢得傅説…説築傅岩之野惟肖
高宗が傅説の夢を見て、天下に傅説を探し求めた結果、「傅岩之野」で「築」をしていた説(傅説)を見出だすことになったという有名な故事を紹介し、自耕斎と似ていると指摘する段。

自耕斎と傅説は、

  • 前者は「岩付」、後者は「傅岩」というよく似た地名の場所で、
  • ともに土木工事に取り組んでいた、
という二点において類似する。

既に紹介したとおり傅説には高宗が夢で見た傅説を遂に傅岩の野で見付けたとの有名な逸話がある。自耕斎にも、岩付城の築城によって主君に重用されることになったとの経緯があったのかもしれない。あるいは、類似性はあくまで岩付と傅岩での土木工事であり、高宗の夢に関する逸話は、単に「傅岩之野」というキーワードを出すために必要であったと考えることもできる。


どちらの見解も成立するであろう。

◎若済巨川…父子豈不傅岩賢佐之再来
「若済巨川、用汝作舟楫、若歳大旱、用汝作霖雨」は、『書経 説命上』に見える王に使える臣下のあり方を示した「若済巨川、用汝舟楫、若歳大旱、用汝作霖雨」と同じである。
また、ほぼ同じ表現が、『国語』楚語上では、高宗が傅説を宰相に任命して語った言葉として記載されている。
「昔殷武丁(中略)如是而又使以象夢求四方之賢、得傅説以来、升以為公、而使朝夕規諫、曰若金、用女作礪、若津水、用女作舟、若天旱、用女作、雨。啓乃心、沃朕心。若薬不瞑眩、厥疾不瘳、若跣不視地、厥足用傷」。

玉隠も、傅説の故事の一部としてこの言葉を紹介していると考えられる。
 
『自耕斎詩軸并序』が、これを引用した後に、「父子豈不傅岩賢佐之再来」としていることは注目される。
既に述べた通り、父自耕斎と傅説の類似性は、それぞれが岩付あるいは傅岩之野で土木工事を遂行していたことである。しかし、自耕斎の子顕泰には岩付での土木工事の事績は無く、この点において傅説との共通性は無い。

では、顕泰と傅説の共通性は何か。

ここで注目されるのは、「若済巨川、用汝作舟楫、若歳大旱、用汝作霖雨」の引用の後に、自耕斎のみならず、その子顕泰も含めて「傅岩賢佐」の再来だとしていることである。ここからは、自耕斎父子に共通した事績が「若済巨川、用汝作舟楫、若歳大旱、用汝作霖雨」によって表現されるものであった可能性が想起されるであろう。

では、この一節は、どのように解釈されるか。以下に、筆者の仮説を示したい。

◎若済巨川、用汝舟楫
「若済巨川、用汝舟楫」において傅説に期待されているのは、大きな川を渡るための舟と舵を作ることである。
岩付は、扇谷上杉氏陣営と古河公方陣営の境界をなした大河荒川(中世利根川の本流である古隅田川も岩付付近で荒川に合流していた)のほとりの地。自耕斎がここに岩付城を築き、子の顕泰がそれを受け継ぎ守ったことは、大河荒川を渡河して敵陣営に攻め込める状況をつくり、維持する功績を果たしたことになる。この功は、「若済巨川、用汝舟楫」に通じるのではないだろうか。

◎若歳大旱、用汝作霖雨
「若歳大旱、用汝作霖雨」で傅説に期待されているのは、大きな干魃があった時に、長雨を降らせることである。

人が長雨を人工的に降らせることはできない。しかし、仮に、岩付地域や周辺で干魃があったにも関わらず、自耕斎父子の農業政策によって農産物の収量が保たれたという状況があったならば、その事績は「若歳大旱、用汝作霖雨」によって表現されたかもしれない。

この後に登場する「雨我公田」という『詩経』の詩の一部も、「公田に雨の水を送る」と意訳的に理解することができる。「雨」という語に、天水を田畑に導く意味を見出だすことができるならば、この段の「霖雨」も、自耕斎父子による灌漑を指すのかもしれない。

あるいは、先に登場した真宗の逸話や、後に現れる底田の比喩(非自耕底田)が示唆する早稲の栽培と早稲の刈り取り後の麦作、すなわち二毛作の導入がなされたことを意味するのかもしれない。室町時代は、日本でも二毛作が普及し、農業生産力が上がった時代であった。

先に論じた通り、「渤海太守、勧趍田畝、南陽太守」は、自耕斎の農業政策を称賛するために引用された故事であった可能性がある。
その場合、自耕斎は、
・渤海太守が盗賊化した人々を帰農されたように、戦乱で岩付地域を逃れた農民達を再び農地に呼び戻し、
・南陽太守が自ら田畑に入って灌漑を指導したように、戻った農民達に灌漑を含めた農業指導を行った岩付城主、
ということになる。
こうした政策は子の顕泰にも受け継がれ、父子が二代に渡って岩付地域を農業収穫を保ったのであれば、それはまさに「若歳大旱、用汝作霖雨」によって称えられる功績となるであろう。

岩付地域は、武蔵国最大の沼であった見沼のほとりの台地であり、灌漑によって干魃に強い農地運営ができた可能性がある。また、台地は水捌けがよいため麦作にも適している。


さらに当時の天候を調べると、戦国時代の武蔵国はたびたび干魃に襲われたことがわかる。

『年代記配合抄』は、

•長禄二年(一四五八年)に「大干魃」

•文明四年(一四七二)に「干魃」

•文亀元年(一五〇一)に「大日旱」

があったことを記している。

また『香蔵院珎祐記録』は、寛正二年(一四六一)に「佐々目郷所務事、今年事外干魃」と記しており、佐々目郷に干魃があったことがわかる。佐々目郷は岩付地域と隣接する足立郡南部に位置している。

筆者の仮説は、直接的に検証することはできないものの、状況的には成立の余地はあると言えるのではないだろうか。


(6)に続く



2019年頃に書いたものの、そのまま公開することなく埋もれさせててしまった原稿を、“お蔵出し”で公開します。

岩槻城(岩付城)築城者を考える際の根本史料「自耕斎詩軸并序」の全文読解に取り組んだ内容です。

なお、拙著『玉隠と岩付城築城者の謎』(まつやま書房、2021年)発行前に書いた文章なので、同著がまだ世に出ていない前提で書かれています。


3.全文解釈(続)

⑤斎号「自耕斎」の登場
「自耕斎」の号が、ここに至り、ようやく登場する。

《白文》
正等游息斎、自顔曰自耕、而絵以求詩、有聴松住持龍華翁詩、懶菴亦其員而、詩序贅之、

《書き下し文》
正等游息の斎、自ら顔して自耕といふ。而して絵して以て詩を求む。聴松住持龍華翁の詩あり。懶菴もまたその員にして、詩序これを贅す。

《語釈》
「游息」は、ゆっくり静養すること。
「斎」は、書斎。
「自顔」は、自ら号す。自ら名付けるという意味。
「聴松住持龍華翁」は、聴松の住持である龍華翁。『信濃史料』は竺雲顕騰(建長寺第162世住持)とする。小宮勝男氏は、京都の聴松院を開いた希世霊彦説を提起する。
「懶菴」は、玉隠英璵の別名。
「員」は、ある組織に加わっている人、メンバー。
「詩序」は、詩の序文。
「贅」は、余計なものを付け加えること。

《現代語訳》
正等がゆっくり静養する書斎を、自ら名付けて自耕といった。そして、絵を示して詩を求めた。聴松住持の龍華翁の詩があった。懶菴(玉隠)も、詩を書いた者の一人であり、序文を書いたのであるが(龍華翁の詩の素晴らしさの前には)余計なものを付け加えただけであった。

《余説》
全679文字から成る『自耕斎詩軸并序』の475文字目で、ようやく斎号「自耕斎」が登場する。「岩付左衛門丞顕泰公」の亡き父であり、岩付城を築城した人物「正等」が「自耕斎」であることが、ここに至って明示された。

◎自顔曰自耕、而絵以求詩
自耕斎は、自らの書斎を「自耕斎」と名付け、絵を示して、「聴松住持龍華翁」や玉隠らに詩を求めている。
この時の絵について『信濃史料』は、書斎「自耕斎」の絵とするが、『自耕斎詩軸并序』の冒頭で「耕田之絵」が登場していることを踏まえると、詩を求めるために提示された絵はこの「耕田之絵」であった可能性が高い。田畑を耕す様子の絵であれば、書斎を「自耕」と名付けた際に求めた詩の題材としてふさわしいであろう。あるいは、田畑と書斎が共に描かれていたのかもしれない。

後述するが、この解釈は、後段において作者玉隠が、“絵”を契機に、岩付と自耕斎の関係が傅岩と傅説の関係に似ていることを想起する、以下の記述とも整合する。


「岩付自耕、考絵事、則高宗夢得傅説、物色以求于天下、説築傅岩之野惟肖、用為相云、若済巨川、用汝作舟楫、若歳大旱、用汝作霖雨、父子豈不傅岩賢佐之再来」

◎聴松住持龍華翁
「聴松住持龍華翁」については、

  • 『信濃史料』による竺雲顕騰説、
  • 小宮勝男氏による希世霊彦説、
の二説が存在するが、筆者は、竺雲顕騰説を採用する。

理由は、①建長寺内には「聴松軒」と呼ばれる住持のための居所があり、同寺住持であれば「聴松住持」と呼ばれ得たこと、②『自耕斎詩軸并序』が書かれた明応六年時点で、竺雲顕騰が建長寺住持であったこと、の二点である。


①については、青木文彦氏から以下の教示をいただいた。
・応永三十年に建長寺住持竺西等梵が同寺に施入した『牧谿筆猿猴図』には、等梵による「福山聴松軒公用」との銘が記されている。ここから「聴松軒」が住持直轄の場であった可能性が示唆される。
・明応八年八月に建長寺第一六四世の住持となった玉隠英璵は、同年十月に『巣雪斎図』に題詩と序を記しているが、そこには「住山建長老衲英璵書于聴松軒下」とある(『信濃史料』十巻九八頁)。
・その後住持から退いた英璵は、翌年五月、「喜江禅師頂相」に著賛して「前建長玉隠叟英璵書于懶菴」と記しており(『信濃史料』十巻一〇五頁)、「聴松軒」が記されていない。玉隠が建長寺住持であった期間のみ「聴松軒」を名乗ったことは、「聴松軒」が建長寺住持直轄の場であったとの考え方と符号する。

また筆者が確認したことであるが、竺雲顕騰は玉隠によって「龍華東堂」と呼ばれている(『信濃史料』十巻七二頁)


②については、『信濃史料』十巻一六頁の明応四年の記録として竺雲顕騰が、建長寺住持であったことが見える。竺雲顕騰の次に同寺住持にとなった玉隠の補任が明応八年であったことを踏まえると、顕騰は明応六年にもこの地位にあったと考えて良いだろう。


小宮氏が提起した希世霊彦説は、この人物が京都に聴松院を開いたことを根拠としている。希世霊彦説は先に紹介した『寄題江戸城静勝軒詩序』において登場しており、「聴松村菴翁」と呼ばれている。ただし、希世霊彦が「龍華翁」を自称した、あるい他称されたとの記録はない。「聴松」と「龍華翁」の二要素を説明できる竺雲顕騰説が、蓋然性において勝っていると言えるであろう。


◎懶菴亦其員而、詩序贅之
「懶菴亦其員而」との記述からは、自耕斎の求めに応じて詩を書いた人物が複数いたことがわかる。龍華翁と玉隠以外にも、詩を寄せた五山僧がいた可能性がある。「詩序贅之」は、玉隠が序文を書いたことを示している。すなわち、生前の自耕斎は、ある題材に対して複数の詩僧が詩を寄せ、その内誰かが序文を書くというスタイルの漢詩作品を作らせていたのである。

こうしたスタイルの漢詩作品としては、太田道灌が作らせた以下の三作品が有名である。
・『寄題江戸城静勝軒詩序』(蕭庵龍統が詩序、希世霊彦ら四人の詩僧が詩を寄せた作品)
・『左金吾源太夫江亭記』(暮樵得公が本文を書き、武陵興徳ら四人の詩僧が詩を寄せた作品)
・『静勝軒銘詩并序』(万里集九が詩序を書き、玉隠英璵、竺雲顕騰、万里集九ら三人の詩僧が詩を寄せる構成)

小宮勝男氏は、生前の自耕斎が作らせた漢詩作品と道灌の三作品の類似性を指摘し、自耕斎が「道灌と同レベルの権力と文人性を兼ね揃えた武将であった」と論じる。
筆者が調べた範囲でも、室町・戦国時代において、こうしたスタイルの漢詩作品を五山僧に依頼した事例は、太田道灌の三作品しか見当たらない。道灌の上位権力者であった扇谷上杉氏や山内上杉氏、道灌と対等の立場にあった山内上杉氏家宰の長尾氏も、こうした作品を作らせたことが確認されない。

太田道灌がこれを為せたのは、この人物が、鎌倉五山を直接外護する相模国守護代の地位にあったためと考えられる。

同じことを為せた「自耕斎」も、相応の権力者であった可能性が指摘されよう。


(5)に続く