NPO法人 太田道灌顕彰会さまから、2026年4月に刊行された『太田道灌公 五百四十回忌記念誌 太田道灌』にて、拙稿「『岩槻城を築いたのは誰か』を再考する 〜 成田氏か太田氏か」を掲載いただきました。
現在、埼玉史談で連載中の「太田氏による岩付城(岩槻城)築城説」は、この原稿を書いたことが契機となり、“岩付築城者論は書籍だけでなく、論考の形で書いておかねば”と思うようになり、作成に至りました。その意味で、思い出深い原稿です。(この原稿自体は、前半は論考スタイルですが、後半は随筆的にしています)
此度、同会会長の太田資暁さまよりご承諾をいただき、こちらのブログに転載にさせていただくことになりました。
なお、この原稿は、拙著『玉隠と岩付城築城者の謎』(二〇二一年刊、まつやま書房)以降の研究成果を盛り込んでいます。
岩槻城(岩付城)の築城者に関する議論にご関心のある方に、読んでいただけたなら幸甚です。
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「岩槻城を築いたのは誰か」を再考する 〜 成田氏か太田氏か
(NPO法人 太田道灌顕彰会編(2026)『太田道灌公 五百四十回忌記念誌 太田道灌』より転載)
はじめに 岩槻城と築城者問題
岩槻城(さいたま市岩槻区)は、戦国期には「岩付城」と記された。当時の関東の二大大河である荒川と利根川の渡河点を押さえる要衝だったこの城は、幾多の戦国争乱の舞台であった。実は、この岩付城は太田道灌と「縁」がある。同城の築城は、太田道灌あるいはその父道真によるもの、と長く信じられてきたのだ。
時は長禄元年(一四五七)。
享徳の乱(一四五五〜一四八三)が勃発して三年目のこの年、利根川以東を掌握した古河公方が、西の関東管領上杉氏陣営に攻勢を加えていた。これに対抗せんとしたのが、上杉陣営の一翼たる扇谷上杉氏とその家宰の太田氏であり、両者は河越•岩付•江戸の三城を築いて古河公方の攻勢を食い止めた。軍記物『鎌倉大草紙』(1)や、太田氏の系譜史料である『太田家記』•『太田家譜』(2)が記すそうした記述が、広く受け入れられたのだ。
ところが近年、忍(行田市)の成田氏が築城したとの説が提唱され、有力となった。同説が根拠とした史料「自耕斎詩軸併序」は、同時代の鎌倉五山の高僧による漢詩文であり、軍記物よりも遥かに信頼度が高いとされた。太田氏による築城説は、定説の座を退いた。同説は、今も岩付築城に関する諸説の一つとされているものの(3)、積極的に支持する学術研究者は見られず、有力説とは呼び難い状況にある。しかし、この状況は妥当なのだろうか。
本稿では、太田氏による築城説(以下、太田説)および同説を定説の座から追った成田氏による築城説(成田説)の蓋然性を改めて検討し、「岩槻城を築いたのは誰か」を再考したい。
(1)『北区史資料編古代中世2』二四一頁
(2)『岩槻市史古代中世史料編II』二〇五頁、三八七頁
(3)『埼玉県史料叢書12』訂正紙
根本史料「自耕斎詩軸并序」とは
まず、岩付築城に関する根本史料「自耕斎詩軸并序」(以下、詩軸)を確認する。同史料は、鎌倉五山の高僧•玉隠英璵(一四三二〜一五二四)が明応六年(一四九七)に作成した漢詩文である。以前から存在は知られていたが、岩付築城に関する記載が見出されたのは一九九〇年代に入ってからである。以下に、『信濃史料』巻十の翻刻を掲載する。
疇昔、①耕田之絵、置之左右、念農之歌、置之坐側、是無往而不在農也、②真宗製珍農夫吟、置念農歌、紹興年中、上曰、朕聞、民間令牛皆耕田、其労可閲、令画以耕田之象、庶不忘稼穡之艱難也、民未知養苗、則教之養苗(中略)、武州崎西郡有村、曰岩付、又曰中扇、附者傅也、③岩付左衛門丞顕泰公父故金吾、法諱正等、挟武略之名翼、有門闌之輝、築一城、通南北衝、寔国之喉襟也、④白羽扇指揮三軍守其中、曰中扇亦宜也、⑤収取功名退者天之道也、⑥一家機軸、百畝郷田、付之於苗裔顕泰也、一区宅、二頃田、⑦自得逍遙、東郊有作、不過設供帳、以為国林游禾之挙、朝耕暮耕、早稲晩稲、垂々捧八月露、加之、黄蕪青花在野者、荊公詩云、花気時度谷、耕鋤聊效顰矣、正等游息斎、⑧自顔曰自耕、而絵以求詩、有聴松住持 龍華翁詩、懶菴亦其員而、詩序贅之、岩付自耕、考絵事、則高宗夢得傅説、物色以求于天下、説築傅岩之野惟肖、用為相云、若済巨川、用汝作舟楫、若歳大旱、用汝作霖雨、⑨父子豈不傅岩賢佐之再世乎、大舜自耕稼於歴山、以至為帝也、耕易言、自難言、⑩詩云、雨我公田、遂及我私、由此観之、先公而後私、周亦用助也、如正等、手不秉犁鋤、而謂自耕何哉(中略)、⑪平生参洞下明識月江老、聞新豊之唱、有所得乎、洒々楽々、胸無町畔、本分閑田地、養以自受用他受用、不堕青苗凞寧途轍、川党洛党之羽翼、亦斂袵矣、四方雲従、躬耕隴畝臥龍、亦外物、非自耕底田、廬傍若有龍蟠之逸士、為予指迷、
⑫粒々養成躬可知犂鋤不是効顰為旱天霖雨傅岩野一片心田得我私
時明応丁巳一夏強半懶菴野釈英璵序
一読すれば、「岩付左衛門丞顕泰」なる人物の亡父「正等」(号は自耕斎)を顕彰した詩文とわかる。正等の賞揚には、宋の皇帝真宗や名宰相王安石(荊公)、三国志の諸葛孔明(白羽扇)、古代の聖帝舜や周王朝高宗を支えた宰相傅説が引き合いに出されており、なかなか豪華な作品である。岩付城の築城は、この正等の生前の事績として登場する(傍線③)。
築城者の息子が存命の内に書かれた本詩文は、信頼度において鎌倉大草紙などの後世編纂史料を寄せ付けない。詩軸は岩付築城者論の根本史料となり、ここに、正等と顕泰を誰に比定するかという問題が生じたのである。
成田説の登場と受容
現在、岩付築城者論の最有力は、黒田基樹氏が提唱した成田説である。黒田氏は、一九九四年に発表した論文「扇谷上杉氏と渋江氏ー岩付城の問題を中心に」(4)において、詩軸の岩付左衛門丞顕泰を、実名が一致する成田顕泰に比定し、その父正等もまた成田氏であったとしたのだ。
実名の一致は、人物比定の有力な根拠である。成田説は他の学術研究者に受け入れられるところとなり(5)、黒田氏も複数の自著で同説を断定調の叙述を展開した(6)。埼玉県教育委員会編纂の『埼玉県史料叢書12』でも、史実として採用されるに至った。
(4) 黒田基樹(二〇〇一)『戦国期東国の大名と国衆』(岩田書院)に収録
(5) 則竹雄一(二〇一二)『古河公方と伊勢宗瑞』(吉川弘文館)
(6) 二〇〇四年『扇谷上杉氏と太田道灌』(岩田書院)、二〇〇九年『図説太田道灌』(戎光祥出版)、二〇一二年『シリーズ中世関東武士の研究第五巻扇谷上杉氏』(戎光祥出版)収録の「扇谷上杉氏の政治的位置」、後傾の註12・註13収録の総論、二〇二〇年『太田道灌と長尾景春』(戎光祥出版)
成田説の課題① 人物比定
しかし、批判がなかった訳ではない。同説の根幹となる岩付顕泰=成田顕泰という人物比定について、黒田氏は一九九四年論文で「岩付左衛門丞顕泰すなわち成田顕泰」と述べた以上の検討をしていない。この点について、元埼玉県立文書館長の梅沢太久夫氏は「短絡的であり、根拠が示されていない」と批判した(7)。さいたま市文化財課の青木文彦氏(当時)も同様の批判を行った(8)。
もっとも、戦国期の武将が近隣領主と同じ実名を名乗ることは稀であり、黒田氏が詳細な検討は不要と考えたのも無理はない。しかし、その後、成田顕泰は明応六年(一四九七)時点では、顕泰ではなかった可能性が浮上する。この人物は少なくとも明応二年には「景泰」を名乗っていた可能性が高いと判明したのだ(9)。山内上杉顕定からの偏諱と考えられる顕泰の名乗りはいつから確認されるかというと、永正六年(一五〇九)以前には遡れない(10)。すなわち、この人物が、明応六年時点で顕泰を名乗っていたかは、定かではないのだ。
正等の人物比定にも課題がある。黒田氏は、一九九四年論において、正等を『成田系図』(11)の顕泰とした。しかし、二〇一二年に書いた成田氏に関する総論(12)では、正等にあたる当主を同系図に見出せないとして、この人物を同系図に記載の無い当主と位置付け直した。この判断は重要である。成田系図に存在しない当主を想定しなければ成田説は成立しない。提唱者自身がそう認めたことになるためだ。
(7) 梅沢太久夫(二〇一八)『埼玉の城』(まつやま書房)
(8) 青木文彦(二〇一五)「戦国時代の岩付とその周辺」、嵐山史跡の博物館編『平成26年度シンポジウム戦国時代は関東から始まった講演資料』
(9)『埼玉県史料叢書11』は明応二年に比定される六一六号史料の「新左衛門尉景泰」を成田顕泰の前身とする。黒田基樹氏も二〇一二年の成田氏総論でこれを採用する
(10)連歌師宗祇の『東路つと』に永正六年に「成田下総守顕泰亭」に立ち寄った記載がみえる
(11) 『鷲宮町史史料四』六五三頁
(12) 黒田基樹(二〇一二)「総論戦国期成田氏の系譜と動向」、『論集戦国大名と国衆7 武蔵成田氏』(岩田書院)に収録
成田説の課題② 築城時期
二つ目の課題は、築城時期比定の困難性だ。
黒田氏は一九九四年論文において、築城時期を文明十一年(一四七九)以降とした。同年まで成田氏の忍在所が確認されること、正等に比定された系図上の人物が文明十八年に没したと記載されるためである。しかし、黒田氏自身が同論文で認めるように、文明十一年以降は享徳の乱の収束期にあたる。古河公方と上杉氏が和睦に動いた時期であり、境目の岩付での築城は想定し難い。
この課題を意識してか、黒田氏はその後、先に紹介した二〇一二年の成田氏総論での正等の人物比定変更に伴い、築城時期を長享元年(一四八七)〜延徳二年(一四九〇)(期間a)、あるいは明応三年七月(一四九四)〜同年十一月(期間b)に修正した。期間aおよびbは、長享元年に始まった「長享の乱」の抗争にあたる。延徳二年〜明応三年(期間c)は、長享の乱の停戦期にあたり境目での築城が想定し難いため除かれた。
ところがこの比定は、翌二〇一三年に書かれた岩付太田氏に関する総論(13)で改められた。黒田氏は前年に排除した期間を築城時期としたのだ。その理由は記されていない。想像するに、期間aは、長享の乱の抗争期ではありうものの、扇谷上杉氏と古河公方が同盟関係にあり両者の境目での築城が想定し難い。また、期間bは、扇谷上杉氏と古河公方が対立関係に入った時期であり、境目での築城を想定しやすいものの、期間があまり短すぎる。そうした点を踏まえての修正だったのかもしれない。ただしこの再度の修正を以てしても、停戦期の境目での築城想定という課題は、未解決のまま残る。
(13) 黒田基樹(二〇一三)「総論岩付太田氏の系譜と動向」、『論集戦国大名と国衆11 岩付成田氏』(岩田書院)に収録
成田説の課題③ 人物像
正等の人物像との不一致も大きな課題だ。詩軸は、正等が曹洞宗の高僧•月江正文に帰依したと記す(傍線⑪平生参洞下明識月江老)。しかし、曹洞宗の史料には成田氏と月江正文の関係はみられない。原口和子氏は『曹洞宗全書』を精査し、成田氏は曹洞宗に帰依したが、(ア)菩提寺龍淵寺の開山は月江正文と別法系の和庵清順であり(成田太平山龍淵寺開闢和庵清順禅行状)、(イ)成田顕泰は清順の弟子の龍淵寺二世旗雲旭和尚の外護者だった(龍淵二世旗雲旭和尚語録)ことを明かにした(14)。このような立場にあった成田氏が、別法系の月江正文への帰依を漢詩文に書かせることは考え難い。黒田氏は、この点に気づいていないのか、何ら見解を示していない。
人物像の不整合はこれに留まらない。詩軸は正等を岩付築城等の功績をあげた後に早めに隠居した人物とする(傍線⑤収取功名退者天之道也)。しかし、黒田氏が二〇一三年の岩付太田氏総論で最終的に示した「成田正等」は、延徳二年(一四九〇)〜明応三年(一四九四)に岩付城を築城し、明応六年(一四九七)時点では故人だった人物である。岩付築城は死去の数年前だったことになる。黒田氏は、二〇一二年の成田氏総論で、隠居後の正等が岩付築城を行った可能性も示唆したが、詩軸の記載に符合するとは言えないだろう。
(14) 原口和子(二〇二四)「成田正等は実在したのか」、埼玉史談第68巻第3号
成田説の課題④ 岩付移居の痕跡
成田説では、成田氏が当主二代にわたり、本拠を忍城から岩付城に移したことになる。しかし、これほどの大事業が、成田系図や成田記、龍淵寺年代記などの成田氏関連史料には、一切記されていない。それを示唆する断片情報も見られない。同氏が、成田郷(熊谷市)から忍城に本拠を移した事績が、成田系図に大書されている(15)ことを踏まえれば、不可解であり、不自然に思える。
(15)『鷲宮町史史料四』六五三頁、成田親泰の項に忍城攻略の顛末の詳述あり
望まれる成田説の再検討
このように、成田説には課題が多い。これらの課題は、同説を完全否定するまでには至らないものの、疑義を抱かせるには十分であろう。
提唱者の黒田氏も、自説に疑いを持ち始めている可能性がある。二〇二一年に刊行した『図説享徳の乱』(戎光祥出版)では、過去の書籍(註記6参照)で繰り返し展開した、享徳の乱初期の太田氏による築城説を誤りとする記述や、自身が提起した成田説を史実とする記述を行っていない。
また、享徳の乱前半期の岩付地域を上杉陣営支配下とする勢力図も掲載している。岩付を上杉陣営下とする勢力図は、享徳の乱を扱う書籍では散見されるが、黒田氏書籍での掲載は筆者の知る限り、初めてのことである。思うに、岩付地域を上杉陣営下とする一般的な勢力図を掲載すれば、太田氏築城否定論の説得力が失われる。かといって、岩付地域を上杉陣営下から外せば、利根川・荒川両河川の西側に位置した同地域を、東の公方陣営支配下とする想定の不自然さを図示することになる。そのような葛藤があり、これまで同図の掲載は避けられてきたのではないか。同図の掲載を許した黒田氏は、自説の課題を認め始めているように、筆者には思える。
しかし、書店や図書館には、今も黒田氏が成田説を史実と断定した書籍が並ぶ。この状態は放置してよいのだろうか。筆者には、成田説は、その蓋然性を再検討されるべき時期に来ているように思える
太田説の成立条件
ただし、成田説に課題が多いことを以て太田説の蓋然性が高まる訳では無い。太田説が、詩軸の登場により定説の座を去ったのは、単に岩付顕泰=成田顕泰という人物比定に説得力があったためだけではない。詩軸に登場する岩付顕泰とその亡父正等が太田氏らしくない人物だったことも、定説転落の理由だと考えられる。太田氏の系図は数多く存在するが、正等や顕泰の名を記したものは一つもないのだ。
太田説が成立するには、岩付顕泰と父正等を太田氏に比定し、矛盾が生じないことを示さねばならない。
正等=太田道真説
実は、詩軸をよく読めば、岩付築城者•正等は太田道真に似た点が多いことに気づく。
道真は、比較的信頼度の高い軍記『鎌倉大草紙』で岩付城の築城者と明記された人物。しかも同軍記が記す長禄元年の岩付築城は、当時の情勢によく整合する。古河公方足利成氏は、康正二年(一四五六)に鷲宮大明神に願文を捧げ、岩付地域が属する埼西郡や隣接する足立郡の攻略を宣言した(16)。しかも、鎌倉大草紙が岩付築城年とする翌年の長禄元年以降、埼西郡•足立郡での争乱は確認されない。岩付築城により両郡防衛が叶ったと考えることができる。
こうした前提がある以上、詩軸における正等の人物像が、道真のそれと一致するならば、両者が同一人物である可能性が浮上する。これを最初に指摘したのは、岩槻在野の史家•故小宮勝男氏である。小宮氏は書籍『岩槻城は誰が築いたか』(さきたま出版)で、正等と道真には多くの共通点があることを示し、両者を同一人物とした。小宮氏が指摘した主な共通点を以下に示す。
(ア)道真は比較的早くに引退し長い隠居生活を送った(17)。先に紹介した通り、これは詩軸の正等記載(傍線⑤収取功名退者天之道也)と符合する
(イ)詩軸の「自得逍遙」(傍線⑦)は「自得は逍遙し」とも読める。自得は道真の軒号であり、この一節は正等=道真を示唆したと考えられる
(ウ)先述の通り詩軸は正等が月江正文に帰依したことを記す(傍線⑪平生参洞下明識月江老)が、道真も隠居した龍穏寺の住持が正文の弟子であり(18)、正文と縁があった可能性が高い
(エ)詩軸は、生前の正等が鎌倉五山の複数の高僧に詩を求めた逸話を記す(傍線⑧ 自顔曰自耕、而絵以求詩、有聴松住持 龍華翁詩、懶菴亦其員而、詩序贅之)が、同時期に似た活動が確認される権力者は太田道灌のみである(19)。正等も太田氏と考えれば説明がつく
小宮氏の指摘には一部に誤認も含まれるものの(20)、頷かされる部分が多い。太田道真が、詩軸を除けば岩付築城を記す最古の史料(鎌倉大草紙)で築城者とされた人物であることをかんが踏考えれば、これらの共通点を踏まえて同一人物説が提起されるのはむしろ自然なことである。
(16)『新編埼玉県史資料編6』八七二号
(17) 太田道真の隠居は『香蔵院珎祐記録』によれば寛正二年(一四六一)、死没は『本土寺過去帳』よれば長享二年(一四八八)
(18)『龍穏寺縁起』に二世住持が月江正文、三世が泰叟妙康とある。『岩槻市史通史編』は泰叟妙康を月江正文の弟子とする法系譜を掲載する。
(19) 複数の五山僧が漢詩を書き、一名が序文を記す形式の漢詩作品としては、太田道灌が依頼主となって作成させた「寄題江戸城静勝軒詩序」、「静勝軒銘詩並序」や「江亭記」が知られる。この時代の関東では、武家権力がこの形式の漢詩作品を作成させた事例は、他にはみられない。
(20) 小宮氏は法名「道真」を道号と誤解。
道真は正文の檀那
最近では、原口和子氏が、(イ)について、小宮氏の研究成果を踏まえ更なる検討を進めている。
原口氏は、道真を月江正文の「檀那」と記す史料を探し出した。曹洞宗全書に収録された最英慧恵(正文の弟子一州正伊の弟子で雙林寺三世)の「雙林二世中興開山一州和尚行状記」に、道真が正文の「檀那」と記載されていることを見出したのだ(21)。これにより、道真が月江正文本人と深い関係性があったことが確認されたことになる。
(21) 注記(17)
詩軸の記述は鎌倉大草紙と符合
原口氏は、正等の活躍記述「白羽扇指揮三軍守其中」(傍線④)が、鎌倉大草紙の河越•岩付•江戸三城の築城記述と符合するとの指摘も行った(22)。三城は扇状に展開し、岩付城はその中央に位置する。「指揮三軍」「守其中」は、道真が扇谷上杉氏家宰として岩付城を築き、河越•江戸両城と合わせて扇状に広がる三城からなる防衛線を展開したことを、漢文で表現したものとみることができる。
加えて原口氏は、この詩軸記載が東晋の裴啓が記した『裴子語林』における諸葛孔明の記載「持白羽扇、指麾三軍」を踏まえたものであり、しかし裴子語林には「守其中」が無いことを指摘した。そして、このことは、玉隠が正等の事績に合わせて守其中を加えたことを示唆するものであり、鎌倉大草紙との符合説を支える材料となるだろうと、筆者に語った。説得性の高い指摘と言えるだろう。
(22) 原口氏自身はこの指摘を論文化していない。口頭で教示を受けた筆者が、原口氏許可の下、本稿に記載させていただいた
二つの法名問題
だが、正等=道真説には批判も存在する。
「道真」も法名である。正等=道真説は、この人物が二つの法名を名乗ったとの結論に帰着し、矛盾をきたす、との指摘がその一つである(23)。だが、戦国期に宗派別に異なる法名を名乗った例は存在する(24)。太田氏が外護した鎌倉五山は臨済宗に属し、月江正文は曹洞宗の僧である。「道真」は臨済宗での法名、「正等」は曹洞宗での法名と考えれば矛盾は生じない。
(23) 注記(8)
(24) 北条宗哲は、法名「宗哲」の他に法名「長綱」も名乗った(黒田基樹『戦国大名北条氏の領国支配』岩田書院)
道真は金吾か
もう一つの批判は、詩軸が正等を「故金吾」(傍線③)としたことが根拠となっている。金吾は、左衛門尉や右衛門尉といった官職の唐名である。備中守を名乗ったことで知られる道真が、故金吾と記載されるのは矛盾だとされたのだ(25)。
しかし、近年の研究により、道真は若き日に六郎右衛門尉を名乗った可能性が高いことが判明した(26)。また『太田家記』は道真の官途として左衛門大夫を付記している。生前の道真が右衛門尉や左衛門大夫だったなら、「故金吾」とされても不思議は無い。
以上より、筆者は正等=太田道真説には、十分な蓋然性が認められると考える。
(25) 注記(8)
(26) 北木下聡(二〇〇九)「結城合戦前後の扇谷上杉氏ー新出史料の紹介と検討を通じて」、『シリーズ中世武士の研究12 山内上杉氏』戎光祥出版
顕泰=太田六郎右衛門尉説
次に顕泰である。この人物に比定される太田氏は存在するか。残念ながら、小宮氏も顕泰については説得力のある人物比定を提起していない(28)。これについては、筆者が提起した岩付顕泰=太田六郎右衛門尉説が、太田説における顕泰比定論として一定の蓋然性を有する唯一の仮説と言えるだろう。
太田六郎右衛門尉は、文明十六年(一四八四)に道灌が誅殺された後に扇谷上杉氏方太田氏の惣領となり、永正二年(一五一〇)に扇谷上杉氏が同族の山内上杉氏との抗争(長享の乱)に敗北した際に、主人に誅殺された人物だ(29)。詩軸が書かれた明応六年の太田氏当主は、この人物だったことになる。岩付顕泰を扇谷上杉氏方の太田氏に求めるなら、該当するのはこの人物しかいない。
なお系譜上では、この人物は道灌の甥、つまり道真の孫にあたる可能性が高い。太田氏最古系譜史料『太田資武状』が、道灌には実子がなく、甥に家督を譲ったと記すためだ(30)。
(28) 小宮氏は、岩付顕泰は後に成田顕泰となった人物とする。この人物は長尾氏から成田説氏に養子入りしたことが知られる。小宮氏はそれ以前に太田道真の養子だった時期があると主張した。そして、詩軸作成時点のこの人物は、道真から資産として岩付城を相続したが、太田氏家督は継承しなかったので岩付を名字としたと想定した。しかし、成田氏以前の太田氏への養子入りとの想定には根拠が示されていない。註9で示した通り、この人物の成田氏入りは明応二年時点で果たされていた可能性が高く、小宮氏の想定は成立し難い。加えて、本稿後半で触れる通り、顕泰は正等から「一家機軸」としての「百畝郷田」を与えられており、これは家督継承の比喩とみられる。他家に養子に出される立場だったとは想定し難い
(29) 『年代記合抄』文明十八年条•永正二年条
(30) 『北区史資料編古代中世2』一二〇頁。「道灌之実子無之ニ付而、図書助ト申甥ニ候ヲ取立」、「叔悦和尚之兄是も甥ニ候故、家督ヲ被致与奪」等の記載がみられる
岩付を巡る抗争と太田六郎右衛門尉
六郎右衛門尉は扇谷上杉氏の重臣として長享の乱を戦う立場にあったことが一次史料から確認される(31)。明応三年(一四九四)には、それまで扇谷上杉氏に味方していた古河公方足利政氏が山内上杉氏側につく、という情勢変化があった。この時、扇谷上杉方の伊勢宗瑞が岩付城を襲い、古河公方配下の簗田氏が撃退するといった攻防もあった(32)。岩付は、扇谷上杉氏と古河公方の境目にあたるため、にわかに争奪戦の対象になったのだろう。
筆者は、岩付城を巡る抗争を最終的に制したのが扇谷上杉氏陣営の太田六郎右衛門尉であり、褒美として主人から岩付城を与えられたと考える。岩付城が道真によって築かれたとの立場を取れば、太田氏は過去に同城を領有した時期があったことになる。筆者は、六郎右衛門尉は抗争を経て岩付城を太田氏の領有下に戻したことを喜び、同城城主としての自身の正当性を示すために、詩軸の制作を企図したと想定する。なお、明応六年時点では、扇谷上杉氏は鎌倉を掌握しており、同氏配下の六郎右衛門尉は鎌倉五山への求詩できる環境にあった。
(31) 『新編埼玉県史資料編6』一四号に、山内上杉氏方の攻勢に対して小田原城に籠城した扇谷上杉氏勢として太田六郎右衛門尉が登場する
(32)『埼玉県史料叢書12』六一七号
左衛門尉への改称
なお、岩付顕泰は詩軸において「左衛門丞(尉)」とされている(傍線③)。太田六郎衛門尉を岩付顕泰とするには、左衛門尉への改称を想定する必要がある。これを直接裏付ける史料はないが、同時代の長尾景春も最初は右衛門尉を名乗り、後に左衛門尉に改称した(33)。太田六郎右衛門尉も、岩付奪還の功績を以て左衛門尉への改称を許されたと考えることはできよう。
(33) 『新編埼玉県史資料編5』一〇一一号(景春が右衛門尉とされる)及び『新編埼玉県史資料編6』一四号(景春が左衛門尉とされる)
太田氏は「顕泰」を名乗るか
一方、顕泰という名は難題である。太田六郎右衛門尉は、実名や法名(出家したかは不明)が伝えられていない。そのため、顕泰という実名あるいは法名を名乗ったとの想定は可能である。しかし、実名なら「資」、法名なら「道」を含むのが太田氏の通例である。どちらにも該当しない「顕泰」を名乗ったとの想定は難しいと言える。ただし法名ならば、「道」を含まない「永厳」や「全鑑」等の事例がある(34)。顕泰も法名ならば太田氏が名乗った可能性は残るだろう。
筆者は、顕泰の顕は系字とする原口和子氏の見解に従いたい。顕は、竺雲顕騰や彼が属した仏国派の道庵會題の法系に受け継がれた系字であり(35)、しかも詩軸には竺雲顕騰が登場する(傍線⑧龍華翁)。これは、同じ顕を含む顕泰が顕騰の弟子という特別な立場にあることを示唆する仕掛けではないだろうか。なお、当時の顕騰は鎌倉五山第一位の建長寺の住持であった(36)。関係性を誇るに相応しい高僧と言える。
ただしこれらは検証困難な仮説である。筆者としても、太田氏が敵の惣領が偏諱に用いた顕の字を用いた名乗りをし得るかという点は、太田説成立の難所であることを認める。
(34) 永厳は黒田基樹(一九九三)「太田永厳とその史料」、全鑑は岩井茂(一九七五)「太田左京亮全鑑とその文書」を参照されたい。いずれも黒田基樹編著『論集戦国大名と国衆11 岩付成田氏』(岩田書院)に収録
(35) 川本慎自(二〇二一)『中世禅宗の儒学学習と科学知識』(思文閣出版)
(36) 『信濃史料』巻十に、明応四年記載に「建長寺住持顕騰竺雲」とある
六郎右衛門尉は道真の子か
先に述べた通り、六郎右衛門尉は道真の孫にあたる可能性が高い。これは詩軸が正等と顕泰を父子としたこと(傍線⑨父子豈不傅岩賢佐之再世乎)と矛盾するようにみえる。
しかし、道灌が主君に誅殺されたことで太田氏家督は父道真に戻り、六郎右衛門尉は道真から継承する形で同氏の家督を得たと考えれば、矛盾は生じない。系譜上は両者は父子となるためだ。
ご都合主義の恣意的想定と映るだろうか。しかし驚くべきことに祖父から孫への継承を示唆する記載が、詩軸に存在する。詩軸は顕泰を正等の「苗裔」とする(傍線⑥一家機軸、百畝郷田、付之於苗裔顕泰也)。苗裔とは末裔のことであり、通常、子には使われない。「苗裔」を用いることで、詩軸は正等と顕泰が血縁上は父子ではないことを示唆したのではないだろうか。
このように、太田六郎右衛門尉は、顕泰の名乗りに課題を残す点を除けば、詩軸の岩付顕泰だったと想定することが可能である。積極的に太田六郎右衛門尉を岩付顕泰に比定する程の材料は存在しない。しかし、説得性の高い正等=太田道真説に付随する想定としては、十分に成立し得ると筆者は考える。
太田の隠喩
ここまで、詩軸に見える岩付築城者「正等」とその子「岩付左衛門丞顕泰」が太田氏に比定できることを論じた。最後に、詩軸の文中に、正等•顕泰父子が太田であることを積極的に示す隠喩が見出されることを紹介したい。
詩軸は、顕泰が継承した家督を「一家機軸」たる「百畝郷田」に象徴させている(傍線⑥)。百畝郷田の意味は、中盤の傍線⑩詩云、雨我公田、遂及我私、由此観之、先公而後私、周亦用助也は、まるごと、『孟子』滕文公章句上からの引用である。孟子は滕の文公に周王朝の井田法(正方形の田を一つ百畝の九つの田に分け、中央を公田、残り八つを私田とする)を、詩経の詩(雨我公田、遂及我私)を引用しながら説く(37)。百畝郷田は八つの私田の一つにあたる。
想像を逞しくすれば、顕泰=太田六郎右衛門尉が、自身を扇谷上杉氏に臣従する数人の重臣の一人(各々が主人の直轄地周辺に私有領地を持つ)と位置付けたと解釈できよう。「雨我公田、遂及我私」という詩も、雨はまず公田を潤し、継いで私田に流れ込むという意味であるが、これも岩付地域という「私田」の領有は、公(主君)への忠勤を前提に許されたことの隠喩とみることができる。
筆者が見出した太田の隠喩はこの先にある。
筆者は、孟子が引用した私田(百畝郷田)に関する詩に惹かれた。同詩の「及我私」(我が私田に雨水が及ぶ)は、最後の漢詩(傍線⑫粒々養成躬可知犂鋤不是効顰為旱天霖雨傅岩野一片心田得我私)の「得我私」(我が私田を得た)のモチーフと考えてよいだろう。詩軸が、この詩に重きを置かれていることは明らかだ。となれば、この詩を原典に遡りたくなる。そう考えた筆者は詩の原典たる詩経にあたった。そして驚いた。なんとこの詩は、詩経では「大田」と題されていたのだ(38)。
それは、広大な百畝の私田(すなわち大田)の実りを喜び、子々孫々の繁栄を願う素朴な農業詩であった。ここに家督=百畝郷田=私田=大田が成立する。詩軸は敢えて「詩云」を残して読み手を原典である詩経へと誘う。漢籍の造詣がある読み手には、そこに「大田」の二字があると気づく。この漢詩文には、そんな仕掛けが込められているのではないだろうか。
(37) 『孟子』滕文公章句上
(38) 石川忠久(一九九八)『新釈漢文体系111 詩経中』(明治書院)
技巧と仕掛けの詩文
こんな迂遠な手法を採らずとも正等父子は太田氏だと直接記せばよい、との批判もあろう。しかし、考えていただきたい。正等父子の人物比定には成田説、太田説等が存在するが、詩軸はいずれの名字も記さない。正等父子には、地名「岩付」が冠せられるのみなのだ。
中世の武家権力者が漢詩文で自身や肉親を称賛させる際には、名字や氏を明記させることが多い。詩軸がこれを避けているのは「敢えて」のことだと考えるべきだろう。太田説であれば説明は可能だ。漢詩文に高らかに「太田」と記せば、かつて主君に肩を並べた道灌を想起させるため、六郎右衛門尉がこれを避けたとの想定ができるからだ。地名「岩付」を名字の如く冠したのも、太田氏はもはや主君に継ぐ権力者としての家宰ではなく、一重臣、一地域領主に過ぎないとの謙虚な姿勢を示すためと解釈できるだろう。
正等父子の名字を伏せた詩軸は、漢文世界だから許される一瞬の言葉遊びをした可能性が高い。ならば、文中に、正等や顕泰の正体の仄かしを探すのは、むしろこの漢詩文の正しい読み方と言えるのではないだろうか。
おわりに
以上の検討により、岩付城築城者論において、有力視された成田説には課題が多いこと、そして定説の座を追われた太田説に成立の余地が残ることを示せたのではないだろうか。
筆者は太田説こそが真実だと主張したい訳ではない。筆者が望み、目指すのは、同説が、十分に蓋然性のある生きた仮説として学術者や行政関係者に再認識いただくことであり、その結果として今後更なる研究が積み上げられることである。本稿がその契機となるのであれば、何よりの喜びである。
最後にもう一つ、太田説の立場からの詩軸の解釈を加えることをお許しいただきたい。
詩軸において、冒頭に記された「耕田之絵」を飾り、「農之歌」を念じた生前の正等の姿「耕田之絵、置之左右、念農之歌、置之坐側、是無往而不在農也」(傍線①)は、同じく「農歌」を念じて、「耕田之象」を描かせて民を思った真宗の姿「真宗製珍農夫吟、置念農歌、紹興年中、上曰、朕聞、民間令牛皆耕田、其労可閲、令画以耕田之象、庶不忘稼穡之艱難也、民未知養苗、則教之養苗」(傍線②)のそれと一致する。明らかに正等は宋の皇帝•真宗に比されている。真宗は正等を称賛するため詩軸に登場する人物群の中で、特別な地位にいると言ってよいだろう。
だが、真宗は五山文学において頻出する人物ではない。なぜ玉隠は、真宗を選んだのか。農業を重視した為政者という共通点はある。しかし農を重んじた偉人の故事は、漢籍には無数に存在する。実際、詩軸にも舜や孟子、王安石、諸葛孔明らが、農を重んじた偉人として登場する。しかし、真宗ほど正等と人類像が重なるようには描かれていない。なぜ真宗なのか、という問いは残る。
ここで筆者は、五山文学において、太田道真•道灌父子が時に「真灌」と記載された(39)ことを思い出す。「真」は、文脈によってはその一字を以て太田道真を指したのだ。ならば、真宗が選ばれたのは「真」の字故ではなかったか。すなわち、玉隠は、正等が太田道「真」であることを示唆すべく、「真」宗を持ち出したのではないか。もしそうなら、詩軸は導入部から正等=太田道真を示していたことになる。
いささか想像力を逞しくし過ぎた解釈かもしれないが、この解釈をとるなら正等と真宗がそっくりに描かれた謎は氷解する。読者諸賢はどう思われるだろうか。
(39) 例えば、五山禅僧詩文集に「真灌父子」がみえる(『北区史資料編古代中世2』一一三頁)
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最後は、掲載紙の性格も考え、論考スタイルからやや逸脱し、随筆のような筆致になっています。
特に、「真宗」の考察は、論考で行うには想像力を羽ばたかせすぎかもしれません。
でも、今まで誰も指摘しなかった仮説として、なかなか面白いのではないかと思う次第です。
