2019年頃に書いたものの、そのまま公開することなく埋もれさせててしまった原稿を、“お蔵出し”で公開します。

岩槻城(岩付城)築城者を考える際の根本史料「自耕斎詩軸并序」の全文読解に取り組んだ内容です。

なお、拙著『玉隠と岩付城築城者の謎』(まつやま書房、2021年)発行前に書いた文章なので、同著がまだ世に出ていない前提で書かれています。


4. 全体を通しての気づき(続)

③ 自耕斎の人物像

本稿の検討、すなわち『自耕斎詩軸并序』の全文解釈の取り組みを経て、改めてこの詩序から読み取れる自耕斎の人物像を確認したい。

以下、
分類A:明らかな点
分類B:修辞による誇張の可能性があるものの、実像である可能性が高いと考えられる点
分類C:修辞による誇張の可能性が高いが、実像を示している可能性も残る点
分類D:読み手の印象に基づく、客観的な立証が困難な仮説
に分けて列挙する。

《分類A:①武将時代の自耕斎》
※分類A=明らかな点

  • 自耕斎が、「岩付左衛門丞顕泰」の「父」であったこと。
  • 自耕斎が『自耕斎詩軸并序』が書かれた明応六年時点で故人であること。
  • 生前の自耕号の俗世での官職が、衛門府の官途名であったこと(左(もしくは右)衛門尉、左(もしくは右)衛門大夫など)。
  • 法名が「正等」であったこと。岩付城を築城したこと。(以上は、「武州崎西郡有村、曰岩付、又曰中扇、附者傅也、岩付左衛門丞顕泰公父故金吾、法諱正等、挟武略之名翼、有門闌之輝、築一城」から。)

《分類A :②隠居後の自耕斎》

※分類A=明らかな点

  • 自耕斎が、比較的早めに隠居したこと。(「収取功名退者天之道也」から)
  • 子の顕泰に家督を譲渡したこと。
  • 顕泰との関係性は「父子」でありながら、顕泰が自耕斎の末裔(苗裔)とも表現されるものであったこと。(以上は、「一家機軸、百畝郷田、付之於苗裔顕泰也」から)
  • 斎号「自耕斎」を名乗ったこと。(「正等游息斎、自顔曰自耕」から)
  • 玉隠や「聴松住持龍華翁」など、複数の詩僧に、斎号「自耕斎」に関わる絵を示し、詩を求めたこと。そして詩には玉隠が序文を添えたこと。
  • 玉隠が、生前の自耕斎と接点があったこと。玉隠が「岩付左衛門丞顕泰」の求めに応じて『自耕斎詩軸并序』を書いたことを踏まえれば、玉隠が自耕斎とその子顕泰の二代に渡って詩文の求めに応じていること。(「自顔曰自耕、而絵以求詩、有聴松住持 龍華翁詩、懶菴亦其員而、詩序贅之」から)
  • 曹洞宗の高僧 月江正文に帰依したこと。(「平生参洞下明識月江老、聞新豊之唱」から)


《分類B:①武将時代の自耕斎》
※分類B=修辞による誇張の可能性があるものの、実像である可能性が高いと考えられる点

  • 自耕斎の武将時代に一門が繁栄期を迎えたこと。(「有門闌之輝」から)
  • 岩付城の築城により、自耕斎の味方陣営は、南北の重要拠点の通交が維持されたこと。(「通南北衝、寔国之喉襟也」から)
  • 自耕斎の武将時代の活躍が、諸葛孔明のそれに比されても、“修辞としては許される“”レベルのものであったこと、
  • 武将として味方陣営の「中」を守り、敵と戦う立場にあったこと、
  • 自耕斎が味方陣営の「中」を守った際に拠点としたのが岩付であったこと、
  • 自耕斎のその事績のために、岩付が「中扇」とも呼ばれるに至ったこと。(以上は、「白羽扇指揮三軍、守其中、曰中扇亦宜也」から)


《分類B:②隠居後の自耕斎》
分類B=修辞による誇張の可能性があるものの、実像である可能性が高いと考えられる点


  • 書斎「自耕斎」には、耕田の絵や念農の歌が置かれており、農業に対して関心が高かったこと。(「疇昔、耕田之絵、置之左右、念農之歌、置之坐側、是無往而不在農也」から)


《分類C:①武将時代の自耕斎》
分類C:修辞による誇張の可能性が高いが、実像を示している可能性も残る点


  • 自耕斎の岩付城築城により、味方陣営が荒川を渡河して敵陣営に攻め込める形勢が確保できたらしいこと。(「説築傅岩之野惟肖、用為相云、若済巨川、用汝作舟楫」から示唆させる)
  • 自耕斎が為政者として数々の農業政策(離農民の帰農、農業技術指導、灌漑・水理指導)を行ったらしいこと。(離農民の帰農は「渤海太守、勧趍田畝」から、農業技術指導は真宗の逸話「民未知養苗、則教之養苗」から、灌漑・水理指導は「南陽太守、出入阡陌」から、それぞれ示唆される。)
  • その成果として干魃時にも岩付地域の農業生産を維持させ、味方陣営を食糧面で助けたことがあったらしいこと。(「若歳大旱、用汝作霖雨、父子豈不傅岩賢佐之再来」から示唆される。)

《分類C:②隠居後の自耕斎》
分類C:修辞による誇張の可能性が高いが、実像を示している可能性も残る点
  • 隠居後の自耕斎が、ある程度、農作業の真似事をしたらしいこと。(「自得逍遙、東郊有作、不過設供帳、以為国林游禾之挙、朝耕暮耕、早稲晩稲、垂々捧八月露」等から)
  • 隠居後の自耕斎の周りに、名士が集まったらしいこと。(「四方雲従」や「廬傍若有龍蟠之逸士、為予指迷」から)
  • 隠居後の自耕斎が、“龍”のイメージ(生きざまや住んだ場所の地名、修行に関わった寺院の名称等に“龍”の要素があったか)で語られる存在であったらしいこと。(「四方雲従」や「躬耕隴畝臥龍」、「龍蟠之逸士」から)
  • 人生の二毛作を果たし、隠居時代においても武将時代に引けをとらぬ活躍を見せたこと。(「非自耕底田」から)



《分類D:①自耕斎=大人物説》
分類D:読み手の印象に基づく、客観的な立証が困難な仮説


(i)“岩付自耕”の正体を隠しつつ読み手に謎解きに挑ませる詩序の構造、
(ii)書き手の玉隠が生前の自耕斎と接点のある人物であり、第一の読み手である「岩付左衛門丞顕泰」は当然、自耕斎をよく知っていたこと、
(iii)「岩付」がこの人物の真の名字ではないこと、
(iv)この時代、権力者が鎌倉五山の詩僧に書かせた漢詩文が、その権力者権勢を示す道具として客人等に披露される位置付けにあったこと、
から総合的に考えれば、書き手(玉隠)と第一の読み手(岩付顕泰とその一族、重臣達)の間には、自耕斎が実際には誰であったかの共通理解があり、敢えて謎掛けと謎解きの構成を楽しむ意図があったことが窺われる。
さらに、客人にこの詩序を披露することは、客人にもこの謎解きを行わせることを意味することから、書き手(玉隠)と第一の読み手(岩付顕泰とその一族、重臣達)以外にも自耕斎の正体がわかる仕掛けになっていたと考えられることもが窺われる。

以上より導かれるのは、自耕斎が同時代において相当に著名な人物であったとの仮説である。
また、そうした自耕斎の人物像は、

  • この人物の武将活躍が、諸葛孔明に比されたこと、
  • この人物が、太田道灌の前例しか確認されない、複数の五山僧に詩を求めて序を添えた漢詩作品を作らせており、参加した五山僧が、玉隠や竺雲顕騰と思われる「聴松住持龍華翁」等、一流の僧達であったこと、
  • 隠居後の活動が、王安石に勝ると持ち上げられたこと、
等と整合的である。

《分類D:②自耕斎=非大人物説》

※分類D:読み手の印象に基づく、客観的な立証が困難な仮説


書き手(玉隠)が、ここまで多様多彩な個人参照や古典引用を行い、謎掛けと謎解きの叙述を展開せざるを得なかったことは、「そうでもしなければ書くことが無かった」ことを示唆する。
自耕斎は、玉隠をして過剰な技巧に走らざるを得ない状況に追い込むほど、具体的事績の乏しい人物であったことが窺われるのであり、従い大人物であったとは考えにくい。

こうした自耕斎の人物像は、

  • この人物の武将としての活躍が、諸葛孔明に比されてはいるものの、具体的に描かれていないこと、
  • この人物が子の顕泰に継承した所領がわずか「百畝」の「郷田」と表現されたこと、
等と整合的である。(ただし、そのような人物が果たして複数の五山僧に求詩できたのか、については検証が必要)

※ ※ ※

以上が、『自耕斎詩軸并序』から読み取れる自耕斎像である。

分類Dはもちろんのこと、分類Cも深読みのし過ぎかもしれない。しかし、分類AおよびBに示された人物像は、蓋然性が高いと言えるのであろう。

岩付城築城者研究において、築城者自耕斎の人物像が『自耕斎詩軸并序』に求められる機会が今後もあることであろう。そのような機会には、ぜひ本稿の上記指摘についても、検討の材料としていただけることを、筆者としては期待したい。


おわりに
岩槻城(岩付城)の築城者に関する議論に関心も持つ歴史ファンの一人として、その根本史料とも言うべき『自耕斎詩軸』は、いつかきちんと読み通したい史料であった。

今回、まがりなりにも念願の想いを叶えることができ、ささやかな達成感を覚える筆者である。

しかし、『自耕斎詩軸并序』は、全文読解と解釈は簡単な仕事ではなかった。故事参照と古典引用が多く、その上、読者を惑わしつつ謎解きを促す構成を取るこの漢詩文は、実に読み解きにくい作品であった。

「自耕」の意味を、読者に想起させていきつつ、次々にそれらを否定していくこの詩序は読み解きにくい。自分は本当にこの詩序を理解しているのかが不安となり、自らの解釈に自信を持つことができない。
同じ五山文学に属する『寄題江戸城静勝軒詩序』や『静勝軒銘詩并序』が、パトロンである太田道灌の人柄や事績を素直に称えあげているのとは異なり、『自耕斎詩軸并序』は、読者を惑わす仕掛けに満ちた難物であったのだ。

今回の筆者の検討は、筆者自身の取り組みの中では、最も手応えのあるものであったが、それでも完全なる自信を持つには至っていない。それにも関わらず、このように公表したのは、筆者が厚顔であることはもちろんとして、それに加え、例え誤りがあったとしても誰かが全文解釈の叩き台を示さねば、この詩序の研究が進まないとの思いがあったためである。

今回の筆者の解釈が、どこまでこの詩序の真相に迫っているのかはわからないが、全文、全文字に解釈を施すこのような取り組みは、次なる検討の土台となるはずである。同好の士の皆様に読んでいただき、『自耕斎詩軸并序』と岩槻城築城者の研究の次なる段階への踏み台としていただければ幸いである。


(おしまい)

2019年頃に書いたものの、そのまま公開することなく埋もれさせててしまった原稿を、“お蔵出し”で公開します。

岩槻城(岩付城)築城者を考える際の根本史料「自耕斎詩軸并序」の全文読解に取り組んだ内容です。

なお、拙著『玉隠と岩付城築城者の謎』(まつやま書房、2021年)発行前に書いた文章なので、同著がまだ世に出ていない前提で書かれています。


前回(8)はこちら


今回の内容は、力み過ぎですね。2年後に出した『玉隠と岩付城築城者の謎』では、もう少し肩の力を抜いて書いています。最初に書いた時の意気込みと、うまく書き切れないもどかしさが、この力みの裏にあるのでしょう。


4. 全体を通しての気づき(続)

② 謎掛けと謎解きの詩序

多彩な故事参照や古典引用を行う『自耕斎詩軸并序』には、それと表裏をなすもう1つの大きな特徴がある。それはこの詩序が、「謎掛け」と「謎解き」を繰り返す構成を取っていることである。

そもそも、『自耕斎詩軸并序』は冒頭で名前を明かさない形で自耕斎を登場させ、読者にその正体を探らせる構成を取っている。また、自耕斎の正体が明かされて以降は、「自耕」の意味を読者に問いかけ、惑わせつつその真の意味を徐々に解き明かす展開を見せている。
大量の故事参照や古典引用は、自耕斎の正体や「自耕」の意味を読者に推測させるための手掛かりときて提供されていると言ってよいかもしれない。

以下、『自耕斎詩軸并序』に込められた謎掛けと謎解きの展開を、初めてこの詩序を読む読者の気分になって辿ってみることにしたい。(なお、段落①~⑨は、2章と3章で採用した本稿独自の『自耕斎詩軸并序』の段落分けである。)

《段落①》
段落①で示されるのは、名を明かされぬまま耕田の絵と念農の歌を置く人物の描写である。
名を明かされぬその人物が、題に現れる自耕斎であり、耕田の絵と念農の歌等から農業と関わりの深い人物であることは、読者にも察しがつくであろう。
しかしまだ確証は無い。自耕斎とは誰なのか、そして「自耕」の意味とは何なのか。読者は、その謎がすぐに解き明かされるものと思い、次の段落に進むことになる。

《段落②》
ところが次に読者が目にするのは、農業政策に心を砕いた中国の皇帝や太守達の故事である。それも、真宗、周之君臣、渤海太守に南陽太守と、故事は四例も続き、その記述量は漢字133文字にも及ぶのだ。

読者はここで意表を突かれる。というのも、通常、「◯◯斎詩序」や「◯◯之号」等と題される詩序、すなわち、ある斎号や庵号を名乗った人物を賞揚する詩序では、早い段階で、その人物の世俗での名字や出家前の官職や事績、あるいは出身地が示されることが一般的であるためだ。

例えば、玉隠と親交の深かった詩僧万里集九は、『萬秀斎詩序』という詩序を「武蔵刺史之幕府、有爪牙之英臣、是曰大石定重」という一文から始めている。萬秀斎が大石定重の書斎であり、この人物の斎号であることは、冒頭から明かされている。
玉隠が房州里見氏の当主義豊に捧げた『高厳之号』も、その最初の一文は「房州賢使君源義豊公」から始まる。「高厳」が里見義豊であることは一切隠されていない。
また、同じく玉隠が書いた『養賢之号』でも、同様である。この詩文の出だしは「駿州人佐野忠成」である。「養賢」なる人物が、世俗では駿河国出身の佐野忠成であったことは、やはり冒頭から示されているのだ。

もちろん、例外もある。
詩序の対象が元武将の出家ではなく、いわば本職の僧侶である場合は、世俗の名字を示す必要もないためか、衒学的な文章を重ねた後にその人物の斎号や庵号の意味や由来の説明が始まることも多い。万里集九であれば、自身が斎号を名付けた僧に送った『月笑斎詩序』がこれに当たる。玉隠も、僧侶間での詩文のやり取りでは、『月笑斎詩序』に類した叙述が目につく。

しかし相手が元武将の出家者の場合、名字や世俗での官職、事績は詩序の早い段階で示されることがほとんどであろう。

自耕斎の世俗での名字や出家前の官職や事績が明かされないまま、中国の故事を読まされた読者は、仕方なく参照された故事の記述から自耕斎の人物像を推測することになる。そして、真宗らの故事から、どうやら自耕斎は民を思い、農業政策に力を入れ、時に自ら耕地に足を運んだ為政者らしいとわかるのだ。

《段落③》
段落③に至り、読者は、現•岩付城主と思われる「岩付左衛門顕泰」とその亡父である法名「正等」を名乗った武将に遭遇する。そして、「正等」に岩付での「築一城」や「白羽扇指揮三軍」といった事績があることを知る。どうやらこの人物が「自耕斎」らしいとわかるが、この時点では確証はない。
ここで注意したいのは、明応年間の関東に、名字「岩付」を名乗った領主が存在しないことだ。
おそらく、明応年間の読者は、「岩付」が真の名字ではないことを知りつつ、そして本当は岩付を名字の如く名乗ったのが成田か太田か渋江かを知りつつ、続きを読むことになる。

《段落④⑤》
段落④では、正等の隠居後の号が「自耕斎」と明かされる。ここにおいて、ようやく読者は、この漢詩文が賞揚の対象とした人物、自耕斎に出会うのだ。

玉隠は続けて、農作業の真似事をする自耕斎の姿を描いてみせる。朝耕暮耕、早稲晩稲、垂々捧八月露・・・。
実は、段落③で為政者であったことが明かされた自耕斎(正等)であるが、農業政策に関する具体的事績は語られていない。段落②で、真宗ら中国の為政者が農政を行う様が描き出されたにも関わらず、それに対応する取組みは、現役時代の自耕斎(正等)
の事績からは、読み取れない。
だが、隠居後に、自ら農事の苦しみや楽しみを味わおうとした「自耕斎」の姿が描き出されたことで、読者は真宗らに通じる自耕斎の人物像を見出す。そして、「自耕」とは文字通り、自ら耕すとあう意味だったと得心することになる。


《段落⑥》
段落⑥で、自耕斎が傅説に比されて賞揚される際には、再度、農業政策に力を入れた為政者としての側面に焦点があたる。
若歳大旱、用汝作霖雨」、つまり“日照りの時には長雨を降らせる”と称賛された傅説の再来だと自耕斎父子が称賛されたことは、この父子が、やはり農業政策に力を入れた為政者でもあったことを示唆する。
読者は、自耕斎は、農業政策に注力した為政者であり、そして隠居後は自ら耕した農業愛好家であったとわかり、謎のすべてが解けたと安心する。

しかし、実はこの時、玉隠は仕掛けを施している。「若歳大旱、用汝作霖雨」の紹介は、「雨」というキーワードを介して、続く段落⑦で登場する詩「雨我公田、遂及我私」への橋渡しとなっているのだ。

《段落⑦》
段落⑦に至り「自耕」の意味は、にわかに転調していく。
紹介される「雨我公田、遂及我私」という詩には、単に「自ら耕す」ことが大切なのではなく、大切なのは他者・公のために働くことなのだとの主張が込められているためだ。
農業を重視する為政者であり、「自ら耕す」を実践する農業愛好家であるからこその「自耕斎」との理解に落ち着き始めていた読者は、ここで一種の空振りを味わう。

そして、次に衝撃の一節が読者を襲う。それが「如正等、手不秉犁鋤、自謂自耕何哉」である。

ここにおいて、自耕斎(正等)は自ら農具を握って耕作をしていたわけではない、と打ち明けられる。自ら耕すから自耕斎、との理解を根本から覆された読者は、驚きつつ「ならば、なぜ自耕と名乗るのか」との問いを発することになる。
この問いは、既に玉隠によって書かれているため、読者は玉隠の問いに、そうだそうだと賛同しつつ、先に進むことになる。この時既に、読者は“叙述家”玉隠の罠に嵌まっているのだ。

謎解きはその直後になされる。
自耕斎の自耕とは、「以施求福」の精神で行われている仏教修行であった。そしてその精神は、傅説への称賛であった「若歳大旱、用汝作霖雨」から派生して紹介された「雨我公田、遂及我私」にも通じるものなのだ。

蓋仏僧者、真世之福世田也」という高らかな仏教讃歌とともに段落⑦は終わる。しかし、その高らかさとは裏腹に、自耕とは仏教修行の比喩であり、実際の農業との関わりは無いことを突き付けられた読者は、釈然としない気分に包まれるのではないか。

《段落⑧》
段落⑧で、玉隠は、読者のフラストレーションを解消する。
玉隠は、自耕斎が高僧月江正文に帰依し、その自耕(仏教修行)によって、衆生に悟りの悦びを分け与える他受用の境地に達したことを述べる。そして、農民の自立を目指しつつもかえって彼らを借金漬けにした王安石に勝る人物として持ち上げる。

仏教修行としての自耕の果てに、農民(衆生)の救済が顔を見せることで、自耕が全く農業とは無関係である訳でないことがわかり、読者の不満はややおさまる。当初抱いた、“農業との距離が近い(為政者として、あるいは農業愛好家として)自耕斎”とのイメージが、部分的ながら肯定されるためだ。

《段落⑨》
そして、段落⑨で、自耕斎は「底田」ではないとの宣言が登場する。
これが筆者の解釈どおり、底田=低田すなわち晩稲のみをじっくり育成する耕地であり、自耕斎はこれとは異なり、早稲と麦の二毛作を行う高田であるとの宣言であるならば、最後の詩の意味が深まる。

武将(為政者)と出家の人生の二毛作をした自耕斎は、最後の詩で語られるように、
(イ)農作業の真似事(粒々養成躬可知犂鋤不是効顰)をし、
(ロ)傅岩の野に長雨を降らせた(為旱天霖雨傅岩野一片心田)がごとくの干魃に強い農業政策を打ったからこそ、
(ハ)仏教修行の「以施求福」の原理の通り、悟りを得て、それを他者に分け合う「他受用」の境地に達したのである。

この詩序の最初に示された為政者としての農業政策への注力や、途中から現れた隠居しての農業の真似事。これらがあってこそ、自耕斎が最後に挑んだ自耕=仏教修行は実を結んだことを、最後の漢詩は綴っている。


読者は理解する。
自耕斎の仏教修行としての自耕は、「以施求福」の精神で行われたのであり、その「」こそ、為政者としての農業政策であった。そして、それ背後には自身が体験を通じて知る農業の苦労と悦びがあったのだと。
自耕はあくまでも仏教修行のメタファーであり、文字通りの「自ら耕す」ではなかったが、その修行行為は「」であり、「」の手段として取られたのは「自ら耕す」経験に裏打ちされた農業政策であったのだ。
ここに論理は一周し、「自耕」は文字通りの「自ら耕す」に戻るのである。

もしも読者が再び段落①に目を向ければ、そこに描かれた自耕斎が、
・自ら耕す生活をする人物、
・農業政策に意を注ぐ人物、
・仏教修行に注力する人物、
いずれの人物としても読めることに気づくことになるだろう。

自耕の意味は、この詩序の中で次々に変移転換し、読者を惑わせるのであるが、最後に至って、全ての自耕のイメージが一体となり、自耕斎という人物の悟りとして結実するのである。

実に、技巧的な展開を見せる詩序と言えよう。

《段落⑨別の視点から》
なお、段落⑨には、もう一つ別の角度からの謎解きも行われる。

隠居後の自耕斎の生活を、理念的、寓話的に描いてきた『自耕斎詩軸并序』が、この最終段落ではにわかに、自耕斎を“龍”のイメージを添えて語るようになるのだ。
四方雲従」「躬耕隴畝臥龍」そして「龍蟠之逸士」。先に述べた通り、「龍蟠之逸士」は、「龍蟠鳳逸之士」という成句から鳳凰の要素を取り除いた表現であり、玉隠が龍の要素を打ち出していることは間違いないであろう。


この時代、岩付城を築城できるだけの力を有した「岩付氏」なる領主は存在しない。最後になって自耕斎が突然“龍の人”としてのが明かされたことは、この人物が本当は誰であるかを読者に示す謎解きであったのかもしれない。

“岩付自耕”と書かれ、『自耕斎詩軸并序』では本当の名字を明かされなかった自耕斎の正体が、この龍のイメージにあるとみるのは考え過ぎであろうか。

《謎解きの構成を取った訳》
それにしても、と疑問が浮かぶ。玉隠は、なぜ『自耕斎詩軸并序』を、これほど技巧に満ちた詩序としたのだろうか。

先に紹介した小宮氏に近い立場を取れば、自耕斎は誰もがよく知るビッグネームでありながら、『自耕斎詩軸并序』では本当は名字ではない岩付を名字のごとく付された人物ということになる。
この時、『自耕斎詩軸并序』の謎掛けと謎解きの展開は、自耕斎がやはり誰もが知る“あの人”であったことを読者に、見つけてもらうための仕掛けとして必要であったと考えららるのではないか。

繰り返しとなって恐縮であるが、自耕斎が成田氏であろうと、太田氏であろうと、渋江氏であろうと、『自耕斎詩軸并序』はその真の名字を伏せていることになる。“岩付自耕”が、この人物の真の呼び名ではなかったことは確実であり、“謎解き”は必要なのだ。

もちろん、別の考え方もできる。
先に紹介した青木氏の立場を取れば、結論は正反対となる。すなわち、玉隠が過剰なまでに故事を参照し古典を引用し、その上で読者に謎解きを強いる構成で叙述を展開したのは、そうでもしなければ長い詩序など書けなかったため、と考えられることになるのだ。
自耕斎とその子顕泰に、さしたる事績が無かったために、玉隠は、無駄に技巧的にならねばならなかった。岩付左衛門丞顕泰の望む、父自耕斎を賞揚する長い漢詩文を書き上げるためには。

いずれが正しいかを論じるのは、本稿の目的ではないため、ここでは深入りしない。

しかし、真の名ではない“岩付自耕”と呼ばれたこの人物が、その正体を読者に探らせるような構成の詩序で賞揚されていることは、改めて指摘しておきたい。

玉隠が、そのような叙述スタイルを取った理由は、『自耕斎詩軸并序』を理解するために検討が必要な論点の一つである。本稿の指摘を契機として、今後、議論が活性化することを望みたい。


2019年頃に書いたものの、そのまま公開することなく埋もれさせててしまった原稿を、“お蔵出し”で公開します。

岩槻城(岩付城)築城者を考える際の根本史料「自耕斎詩軸并序」の全文読解に取り組んだ内容です。

なお、拙著『玉隠と岩付城築城者の謎』(まつやま書房、2021年)発行前に書いた文章なので、同著がまだ世に出ていない前提で書かれています。


4. 全体を通しての気づき

『自耕斎詩軸并序』の全文解釈を終え、改めて全文を通しての気付きと考察を述べたい。

① 多彩な故事参照・古典引用

『自耕斎詩軸并序』を読んでまず気づくのは、故事の参照や古典の引用の分量が多く、その内容が多彩であることだ。

登場順に挙げれば、
  • 農夫吟を作り、耕田之象を画かせ、民に養苗を教えた宋の「真宗」、
  • ともに簑を着て農作業に励んだ「周之君臣」、
  • 離農した人々を農地に呼び戻した「渤海太守」(おそらく前漢の龔遂)、
  • 自ら田畑に入って水理を指導した「南陽太守」(おそらく前漢の召信臣)、
  • 岩付を、殷の名宰相傅説が見出だされた地である「傅岩」に比する「附者傅也」、
  • 自耕斎の武将時代の活躍を孔明に比した記述である「白羽扇指揮三軍」、
  • 『老子』からの引用である「収取功名退者天之道也」、
  • 「荊公」すなわち王安石の詩「花気時度谷…」、
  • 殷の高宗が後の名宰相「傅説」を夢に見て、探し求めて傅岩之野で見出だした故事「高宗夢得傅説、物色以求于天下、説築傅岩之野」、
  • そして高宗が傅説を宰相とした際に述べた言葉「若済巨川、用汝作舟楫、若歳大旱、用汝作霖雨」、
  • 歴山で耕作した「舜」の故事、
  • 『詩経』の詩「雨我公田、遂及我私」、
  • 『孟子』における「雨我公田、遂及我私」に対する論評である「先公而後私、周亦用助也」、
  • 『涅槃経』からの引用「如秋収冬蔵、更無所作為」、
  • 『浄明忠孝全書』からの引用と思われる「莫不有忠孝之心」、
  • 自耕斎の事績を賞揚すべく言及される王安石の青苗法「青苗凞寧」、
  • 王安石に反対した旧法党の「川党洛党」、
  • 自耕斎の生き方と異なる例として引き合いに出される諸葛孔明「躬耕隴畝臥龍」、
  • 詩において再び登場する「傅岩」の比喩、

など、十九回にのぼる故事の参照や古典の引用が、『自耕斎詩軸并序』には見られる。

玉隠の作品すべてと比較した訳ではないが、『自耕斎詩軸并序』における故事参照と古典引用は、多い部類に属するのではと感じられる。
しかも自耕斎は、

  • 武将時代においては、皇帝真宗や名宰相である傅説や諸葛孔明に比され、
  • 隠居後においては、聖人舜に比されるのみならず、王安石や諸葛孔明を越える人物として描き出されている。

些か誉めすぎであろう。

なぜ玉隠は、このように多彩な故事参照と古典引用を行い、自耕斎を賞揚したのか。

一つの考え方は、自耕斎や詩序を依頼したその息子顕泰が強い権力を有した大物政治家であったため、玉隠としても最上級の賞揚を行うべくこのような叙述スタイルを取った、というものだ。
「白羽扇指揮三軍」を引き合いに、自耕斎が「当時の武州周辺の諸葛孔明を自負するほどのビッグネームの武将」であったことがわかると論じた小宮勝男氏が取った考え方である。

先述のとおり、筆者が調べた範囲では、玉隠が武将を諸葛孔明に例えた事例は伊勢宗瑞と扇谷上杉定正しか見当たらない。そしていずれもが、“相州太守”となった大権力者であり、多くの合戦で勝利したことで知られた強き武将であった。
仮に、諸葛孔明の比喩が、こうした真に活躍した武将に対して賞揚にのみ使われるものであったならば、同じく孔明に比された自耕斎もこれらの人物に劣らぬ活躍を見せた人物である可能性がある。
ただし、玉隠の作品の全てが今日に受け継がれているとは言い切れない。失われた作品の中で、玉隠が、さして事績の無い小規模な地域領主に対しても諸葛孔明の比喩をしていた可能性も否定はできないため、確定的な議論はできない。

一方、別の考え方も存在する。
青木文彦氏は、『自耕斎詩軸并序』において、岩付が傅岩に通じ、自耕斎父子が傅説の再来とされた記述を取り上げ、こう論じている。
「玉隠英與にとって正等父子は、そうした強引ともいえる修辞の粋を尽くさねば、称揚できなかったことを示している。鎌倉五山トップに位置する玉隠英與の立場からは、正等父子はそのような存在であったのである」。
多彩な故事参照と古典引用による、過剰とも言える自耕斎に対する賞揚は、この人物が、具体的に挙げて誉めるべき事績を持たぬ人物であったことを示すとの見解である。

多彩な故事参照と古典引用、そしてそれによる自耕斎への賞揚が、この人物が大物であったことを示すのか、むしろ誉めるべき具体的事績の無い人物であったことを示すのか。それは、今後も引き続き、検討させるべきテーマであろう。


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岩槻城(岩付城)築城者を考える際の根本史料「自耕斎詩軸并序」の全文読解に取り組んだ内容です。

なお、拙著『玉隠と岩付城築城者の謎』(まつやま書房、2021年)発行前に書いた文章なので、同著がまだ世に出ていない前提で書かれています。


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3.全文解釈(続)

⑨ 序文の締めと詩

《白文》
四方雲従、躬耕隴畝臥龍、亦外物、非自耕底田、廬傍若有龍蟠之逸士、為予指迷、
粒々養成躬可知犂鋤不是効顰為旱天霖雨傅岩野一片心田得我私
時明応丁巳一夏強半懶菴野釈英璵序


《書き下し文》
四方より雲従して、躬ら隴畝の臥龍に耕すも、また外物なり。自耕底の田に非ず。廬傍に若し龍蟠の逸士あらば、予が為に指迷せよ。
粒々養成して躬ら知るべし、犁鋤はこれ効顰の為ならざることを。旱天の霖雨傅岩の野、一片の心田我が私を得たり。
時に明応丁巳一夏強半懶菴野の釈英璵序す

《語釈》
「雲従」は、「雲従龍風従虎」(雲は龍に従い、風は虎に従う)の一部引用か。「雲従龍風従虎」は、似た者同士が互いに惹かれ合うこと。
「躬」は、自ら。
「隴畝」は、うねとあぜ。
「躬耕隴畝」は、自らうねとあぜを耕す、という意味。『三国志』蜀書諸葛亮伝の冒頭の有名な一節「亮躬耕隴畝」を受けたものであろう。
「臥龍」は、隠れており、まだ世に知られていない大人物。諸葛孔明の例えでもある。
「外物」は、他の物。
「底田」は、意味・出所不明。
「廬」は、庵。
「龍蟠」は、龍がとぐろを巻いて潜むこと。
「逸士」は、隠者。
「指迷」は、指し示すこと、導くこと。
「粒々」は、穀物。
「効顰」は、顰(ひそみ)に効(なら)う。本質をとらえずに表面をなぞって真似事をすること。同じ意味で「顰效」との表現が前出している。ただし、「效」が「効」に代わり、「顰」との前後関係が入れ代わっている。
旱天」は、日照りのこと。
「霖雨」は、長雨。
「傅岩野」は、殷代の名宰相「傅説」が高宗に見出だされた地。先に紹介した通り、『自耕斎詩軸并序』では、「岩付」が「傅岩」に例えられている。

「得我私」は、先に紹介した詩「雨我公田、遂及我私」を受けた表現であろう。
「明応丁巳」は、明応六年。

「強半」は、半ば過ぎ。
「釈」は、仏教僧が法名の上につける姓。
「序」は、序文を書くこと。

《現代語訳》
四方より、雲が龍に従う(ように人々が自耕斎のもとに集った)。(自耕斎は)自ら田畑を耕した臥龍(すなわち諸葛孔明)とも異なる他の物である。自耕(斎)は、底の田ではないのだ。もし、庵の傍に、龍がとぐろを巻いて隠れたような隠者がいたならば、私のために指し示して欲しい。

(詩)
穀物を養って育てることで、自ら知ることができる。犁鋤などの農具を使うのは、(農業の)真似事をするためではないということを。(自耕斎は)干魃のときにも傅岩の野(岩付の野)の一片の心の田において長雨を降らせ、我が私(悟り)を得たのだ。

時に明応六年、一夏を半ば過ぎた頃。懶菴野の釈英璵が序文をしたためる。

《余説》
序の締めに入ると、「臥龍」や「龍蟠」等、にわかに「」の語が多くなる。

四方雲従
語釈に示した通り、「四方雲従」の「雲従」は「雲従龍風従虎」(雲は龍に従い、風は虎に従う)の一部引用であろう。後段で、「廬傍若有龍蟠之逸士(廬傍に若し龍蟠の逸士あらば)」とあることを考えれば、隠居した自耕斎の回りには優れた人材が集まっていたことが窺える。「四方雲従」は、“龍の人”である自耕斎のもとに、四方から、似た者達が惹かれて集まった様を表していると考えてよいであろう。

躬耕隴畝臥龍、亦外物
『信濃史料』は、「躬耕隴畝臥龍」を「躬ら隴畝の臥龍に耕すも」と書き下すが、この書き下しでは、意味を見出し難い。
そこで筆者は「自ら田畑を耕した臥龍(すなわち諸葛孔明)」と訳すことにした。これは続く「亦外物」は、「躬耕隴畝臥龍」を主語と考えねば意味が通らないと考えての現代語訳である。

この解釈を前提とすれば、玉隠は、“自ら耕した龍の人”という点で、自耕斎は臥龍(諸葛孔明)と似ているが、しかし他の物であると主張したことになる。

おそらくは、

  • 自らの才を見出だす君主の登場を待ち、その間に文字通りの自耕(自ら耕作)を行ったら孔明、
  • 武将として活躍した後の第二の人生で仏教修行としての自耕を行い、得た悟りの悦びを衆生にも与えた自耕斎、
の二者において、自耕の意味合いが異なると考えてのことであろう。

諸葛孔明において、自耕は目的のための手段ではなく時間潰しであり、しかもその目的は自身の政治的活躍であった。対して自耕斎は、自耕は悟りを得るための手段であり、しかもその目的は自身の悟りに留まらず、衆生救済であった。
玉隠は、そのような差異を、両者の間に見ていたのではないだろうか。

非自耕底田
自耕斎が“それではない”とされた「底田」とは何か。残念ながら、筆者は「底田」という表現を用いた中国の古典や漢訳仏典を見出だすことができなかった。

しかし、宋代の中国では耕作地を、高田/中田/低田に分け、高田では早稲と麦(あるいは豆)の二毛作を行い、低田では晩稲のみを時間をかけて栽培し他の作物は育てなかったと言われており(註9)、筆者は「底田」が「低田」を意味する可能性をここに提起したい。

この場合、「底田」すなわち「低田」ではないとされた自耕斎は、「高田」あるいは「中田」に比される存在であったということになる。

「高田」が、早稲と麦(あるいは豆)の二毛作を行う耕地であったことを踏まえれば、玉隠は、武将としても活躍し、隠居後は仏僧として自受用他受用の働きを見せた自耕斎を、人生の二毛作を成したと見たのかもしれない。

自ら田畑を耕した臥龍、すなわち諸葛孔明は、劉玄徳を支える政治家として立ち、北伐の最中に政治家として没している。こうした生き方を、玉隠は「底田」=低田、すなわち晩稲をじっくり育て、他の作物を栽培しない耕地に例えたのではないだろうか。

玉隠は、武将時代の自耕斎の活躍を「白羽扇指揮三軍」と記して諸葛孔明に例えているが、隠居後の自耕斎が仏教修行で悟りに達したことを以て、政治家としての人生しか送らなかった孔明を越える人物として自耕斎を称えていると、解釈できるかもしれない。

廬傍若有龍蟠之逸士
龍蟠之逸士」という表現は、筆者が調べた範囲では、中国の古典には見出だされなかった。しかし、「龍蟠鳳逸之士」という成句は存在する。意味は、“龍がとぐろを巻いて潜み、鳳凰が隠れているように、まだ世に出ていない優れた人物”、である。


玉隠が「龍蟠鳳逸之士」という成句から、あえて鳳(鳳凰)の要素を取り除き、「龍蟠之逸士」という表現を作り出している点は注目される。

自耕斎を“龍”のイメージで捉えており、それゆえ自耕斎の周囲に「雲従」して集まった人々もまた“龍”であると考え、「龍蟠鳳逸之士」から鳳凰の要素を削り、「龍蟠之逸士」としたのではないだろうか。

旱天霖雨傅岩野一片心田
傅岩の野の一片の心の田に、干魃の最中に長雨を降らせたという意味であろう。
繰り返された傅岩=岩付の関係性が再び登場する。自耕斎にとっての傅岩野とは、すなわち岩付の野と解釈することもできよう。

日照りに長雨を降らせたとする表現は、傅説の故事「若歳大旱、用汝作霖雨也」に倣っている。
干魃において長雨を降らせたとは、おそらく、先に筆者が論じた自耕斎の武将時代の農業生産維持の功績と、隠居後の「以施求福(施しを以て福を求む)」の仏教修行の成果をここに表しているのであろう。

得我私
語釈で示した通り、これは『詩経』の詩「雨我公田、遂及我私」を受けた表現であろう。
旱天霖雨傅岩野」が「雨我公田」にあたる行為であり、これによって自耕斎は、己の私田も潤すことができた。すなわち、悟りに達し、自受用(己の悟りを楽しむ)と他受用(悟りの悦びを他者にも与える)の境地に至った、と解釈されるだろう。

得我私には、もう一つの解釈も可能である。得我私のモチーフとなった及我私において、「」は「百畝」の広さの「私田」、すなわち「百畝郷田」である。得我私の「」も私田=百畝郷田と解釈することが可能であり、その場合、この漢詩の締めの三文字は、一族の家督の象徴たる百畝郷田を継承した顕泰の喜びを表現したものと見ることもできよう。

古来、故人の顕彰は、後継者の地位や権威の向上のために行われた行為である。亡父正等(自耕斎)の顕彰自体が、その父から百畝郷田を継承した顕泰の地位と権威を確立することを目的に行われた行為であったなら、最後に顕泰自身の家督(の象徴)の継承への祝賀が述べられたとしても、おかしくは無いだろう。


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岩槻城(岩付城)築城者を考える際の根本史料「自耕斎詩軸并序」の全文読解に取り組んだ内容です。

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3.全文解釈(続)

⑦ 「自耕」の意味

自耕斎詩軸并序もいよいよ終盤。玉隠は、ここまで自耕斎と農業の関わりを強調しておきながら、登場、「自耕」とは自ら農作業を行うことではない、との驚きの記述を展開する。
(ア)~(ウ)に分割して解釈を施す。


⑦ー(ア)大舜自耕稼於歴山…

《白文》
大舜自耕稼於歴山、以至為帝也、耕易言、自難言、詩云、雨我公田、遂及我私、由此観之、先公而後私、周亦用助也、

《書き下し文》
大舜自ら歴山に耕稼して、以て帝となるに至る。耕は言ひやすく、自は言ひ難し。詩に云はく、我が公田に雨らせ、遂に我が私に及ぶと。これによってこれを観れば、公を先にして私を後にす。周もまた助を用ふるなり。

《語釈》
「大舜」は、儒教で聖人とされた古代中国の帝。
「歴山」は、舜が耕作したとされる山。山東省や山西省等に複数の候補となる山が存在する。
「耕稼」は、耕作すること。
「雨我公田、遂及我私」は、『詩経』の詩。公田に雨が降り、次いでその雨が私田にも降るという意味。公があってこそ、私があることが詠われている。『孟子』の「滕文公章句上」でも古代周王朝の農地政策を象徴する詩として引用されている。
「由此観之」は、「これによりてこれを観れば」。こういうわけであるから、という意味。
「周亦用助也」は『孟子』の「滕文公章句上」において、「雨我公田、遂及我私」を受けて述べられる考察。
「助」は、人々に皆で共有する公田と私有する私田を割り当てて耕作させた古代殷王朝の農地政策のことである。「周亦用助也」とは、孟子が、「雨我公田、遂及我私」は周代の詩であるが、ここに公田と私田が見える以上、周王朝もまた殷王朝の「助」政策を用いていることがわかると述べた際の表現である。

《現代語訳》
偉大なる舜は、歴山で自ら耕作し、遂には帝となるに至った。「耕す」は簡単に言えるが、「自ら」は簡単には言えない。(『詩経』の)詩が言うには、「公田に雨が降り、次いでその雨が私田にも降る」。こういうわけであるから、「公」が先にあってこその「私」なのである。古代の周王朝も、人々に公田と私田を割り当てる「助」の政策を用いた。

《余説》
ここから「自耕斎」の「自耕」の意味に関する説明がはじまる。

大舜自耕稼於歴山…
舜が歴山で自ら耕した逸話は『韓非子』等で紹介されている。『韓非子』での記載は、「歴山之農者侵畔、舜往耕焉、 期年甽畝正」( 歴山の農者、畔を侵す、舜の往きて耕すや、期年にして甽畝正す)である。
歴山で農民達が農地の境界をめぐって争いを起こしたが、舜が訪れて共に耕し始めると、一年後に農地の境界争いは無くなった、という故事である。
舜が耕すことで農地の境界争いが無くなったのは、何故であろうか。この後で紹介される「雨我公田、遂及我私」の意味を踏まえれば、舜の耕作が自分のためだけでなく、公共のためのものであったため、周囲も争いをやめて公共のために働くようになったと考えられるだろう。

耕易言、自難言
筆者は、「耕す」は簡単に言えるが、「自ら」は簡単には言えない、と現代語に訳した。
「自難言」の「自」を、単に「自分で耕す」と解釈すると、詩序全体の意味が通りにくい。
直前に紹介された舜の故事では、農民達による自分のために自分の私田を耕す行為が、私欲のぶつかり合いを生み、境界争いを生じさせた。単に「自分で耕す」ことはここでは称賛の対象ではなく、舜のように自ら公共のために耕すことが称賛されている。
こうした理解を踏まえて考えれば、私欲のための耕作が「耕易言」の「耕」であり、舜が歴山で行った自ら進んで公共のために働いた耕作が、「自難言」の「自」にあたると見るべきではないだろうか。


雨我公田、遂及我私

「公田に雨が降り、次いでその雨が私田にも降る」という解釈が一般的であるが、私より公を重んじて先にするという考え方を能動的に示す詩と解釈すれば、

・雨我公田は、「まず公田に雨の水を送る」、

・遂及我私は、「そうすれば、公田に流れた雨の水が私田にも流れてくる」、

と意訳的に理解することも可能かもしれない。



⑦ー(イ)如正等、手不秉犁鋤…

《白文》
如正等、手不秉犁鋤、自謂自耕何哉、教中云、見如来性、如秋収冬蔵、更無所作為、又曰、以施求福、如種須刈、

《書き下し文》
正等の如き、手に犁鋤を秉らずして自耕と謂ふは何ぞや。教中に云はく、如来の性を見るに、秋収め冬蔵む。更に作すところなきが如しと。また曰く、施して以て福を求むるは、種うるに刈るを須ってするが如しと。

《語釈》
「犁鋤」は、牛馬に引かせて土を掘り起こす農具(犁)と、手と足で土を掘り起こすための幅の広い刃に柄をつけた農具(鋤)のこと。
「秉」は、手に持つ、握る。
「教中云」は、仏教の教えが言うことには。
「如来」は、悟りを開いた人、仏陀のこと。
「秋収冬蔵、更無所作為」は、秋に収穫して冬に収蔵すれば、他には何もする必要が無いということ。『涅槃経』の一節であり、『涅槃経』においてはこの経典の教えを学べば他には何もする必要が無いことを示す。
「須」は、もとめること。「如種須刈」は、種を蒔いて収穫を求めるように、という意味であろう。

《現代語訳》
正等のように、犁や鋤を手に取ることなく、自耕と言うのはどういうことか。仏教の教えによれば、悟りを開く人の特性は、秋に収穫し、冬に所蔵することで、他には何もする必要がない、というものである。他人に施しをして福を求めるのは、種を蒔いて収穫を求めるようなものである。

《余説》

手不秉犁鋤、自謂自耕何哉

『自耕斎詩軸并序』は、ここまで「自耕斎」が農業の真似事をしていたことに触れ、この人物が真似事ながら自ら耕す好意を行っていたからこそ「自耕斎」という斎号を名乗ったことを仄めかしていた。しかし、この段に至り、「自耕斎」の「自耕」が「自ら耕作を行うこと」では無かったことが明かされる。

では、「自耕斎」が「自耕」を自称するのは何故か。玉隠はそう問いかけて、その答えを仏教の教えに求めて解説する。


以施求福、如種須刈

以施求福、如種須刈」は、悟りを求める仏教の修行においても、他者への施しが自身の悟りという福として帰ってくることを述べている。
少し前に登場した「雨我公田、遂及我私」や「先公而後私」という儒教の考え方と通じる考え方と言える。 ただし、「自耕斎」の他者への施しの取り組みは、公田を耕すという現実の行為ではなく、仏教修行であったのであるが。

仏教修行を耕作に例える逸話は、初期仏教の経典である『雑阿含経』第四巻「耕田経」にも見られる。ここでは仏陀(釈迦如来)自身が、修行を農作業や農具、農地、雨、そして収穫等に例えている。
また、「自耕斎」が帰依した月江正文は曹洞宗の高僧であり、同宗では大本山総持寺を開いた瑩山禅師が「自耕自作閑田地、幾度売来買去新 無限霊苗種熟脱、法堂上見挿鍬人(自ら耕し自ら作る閑田地、幾度か売り来り買い去って新なり 限り無き霊苗の種、熟脱す法堂上に鍬を挿む人を見る)」という言葉を残している。

仏教修行を「自耕」と表現する習慣は、もともと仏教に存在し、曹洞宗においては特に濃厚であった可能性がある。
「自耕斎」の「自耕」が、他者への施しを通して自身の悟りを得んとする仏教修行のことであったとの玉隠の説明も、これらを踏まえれば、理解することができる。


如秋収冬蔵、更無所作為

一方で、「如秋収冬蔵、更無所作為」は、やや分かりにくい。
「他人に施しをして福を求めるのは、種を蒔いて収穫を求めるようなものである(以施求福、如種須刈)」と直前に語られていることを踏まえれば、“他人に施しをして福を求める”という行為を、悟りを得るような人は、粛々と進めていくものだ、と述べていることになろうか。

⑦ー(ウ)竊聞、士君子…

《白文》
竊聞、士君子、莫不有忠孝之心、故願祝、吾君之寿、及営其親福祉者、皆依仏僧、蓋仏僧者、真世之福世田也、

《書き下し文》
竊かに聞く、士君子は、忠孝の心あらざるはなしと。故に願はくは吾が君の寿を祝ひて、その親の福祉を営むに及ぶ者、皆仏僧に依る。蓋し仏僧は、真世の福世田なり。

《語釈》
「竊」は、ひそかに。人知れず。
「士君子」は、学問と人格にすぐれた人。
「莫不有忠孝之心」は、忠(国家や主君にまごころをこめて仕えること)と孝(父母を大切にするそと)の心が無いということはない、という意味。筆者が調べた範囲では、元代の浄明道(道教の一節)の思想家、劉玉による『浄明忠孝全書』に同じ表現が見られる。
「寿」は、長寿。「吾君之寿」は、我が主君の長寿という意味であろう。
「福祉」は、しあわせ。「其親福祉」は親のしあわせという意味であろう。
「蓋」は、考えてみるに
「真世之福世田也」は、出所、意味ともに不明。仏教用語に「福田」があり、「福徳を生じる田畑」を意味する。具体的には、仏や僧などの「敬田」、師や父母などの「恩田」、貧者や病人などの「悲田」に分類される。「真世之福世田也」はこのうち「敬田」としての仏僧を指しているのではないか。

《現代語訳》
(玉隠が)ひそかに聞くところによると、学問と道徳に優れた士君子は、忠と孝の心が無いということは無いのだそうだ。したがって、主君の長寿を願い、親のしあわせを営もうとする者は、皆、仏教の僧侶を頼りにする。考えてみるに、仏教の僧侶こそ、福徳を生み出す田畑である。

《余説》
前段で明かされた「自耕」=仏教修行を踏まえて、仏教の僧侶こそ、忠孝を含めた福徳を生み出す田畑なのだ、との主張が展開されている。


⑧ 月江正文と自耕斎

《白文》
平生参洞下明識月江老、聞新豊之唱、有所得乎、洒々楽々、胸無町畦、本分閑田地、養以自受用他受用、不堕青苗凞寧途轍、川党洛党之羽翼、亦斂袵矣、

《書き下し文》
平生洞下の明識月江老に参じて、新豊の唱を聞く。所得あるか。洒々楽々。胸に町畦なく、本分の閑田地、養ひて以て自受用他受用して青苗凞寧の途轍に堕せず。川党洛党の羽翼も、また袵を斂めん。

《語釈》
「平生」は、普段から。
「洞」は、曹洞宗のこと。
「月江老」は、曹洞宗の高僧、月江正文。
「新豊之唱」は、曹洞宗の開祖であり、中国唐代の僧侶であった洞山良价による『新豊吟』のことであろう。
「所得」は、悟りを得ること。
「洒々楽々」は、さっぱりとして物事にとらわれない様子。
「町畦」は、境界や区切りのこと。
「閑田地」は、のどかな耕田。続く「養」をあわせて考えれば、仏教修行で耕す心のことであろう。先に紹介した曹洞宗瑩山禅師の「自耕自作閑田地、幾度売来買去新 無限霊苗種熟脱、法堂上見挿鍬人」においても、「閑田地」が登場する。
「自受用」は、悟った当人がその楽しみを味わうこと。
「他受用」は、衆生に法の楽しみを与えること。
「青苗凞寧」は、凞寧年間に宋の名宰相 王安石が導入した青苗法のことであろう。青苗法は農民の自立支援策として政府が貸付を行う制度。
「途轍」は、わだち(轍)が通った跡。
「川党」は、不明。ただし、続く「洛党」が王安石に反対した旧法党の程頤を指すことを踏まえれば、「川党」もまた旧法党の一人である可能性が高い。あるいは、旧法党の一人であり「蜀党」とよばれた蘇軾を、蜀すなわち四川との論理で「川党」としたのであろうか。
「洛党」は、王安石の改革(新法)に反対した旧法党の一人、程頤のこと。
「羽翼」は、支持者。
「斂袵」は、えりを整えること。

《現代語訳》
(自耕斎は)普段から曹洞宗の名僧である月江老のもとに参じて、『新豊吟』を聞いて修行した。悟りはあったのか。さっぱりとして物事にとらわれない様子であった。
(自耕斎の)胸には境界はなく、(仏教修行で)心の田畑を耕すと、自ら悟りの境地を味わうのみならず、衆生にも法の楽しみを与えていたのであり、(王安石による)凞寧年間の青苗法の二の轍を踏むことは無かった。(王安石の改革に反対した)川党や洛党の支持者らも、(自耕斎のまえでは)えりを整えたことであろう。

《余説》
平生参洞下明識月江老…
先に自耕=仏教修行であることが示され、ここでは自耕斎の師が、曹洞宗の月江正文であったことが明かされる。臨済宗の玉隠が書く詩序で、他宗である曹洞宗の高僧が出てくるのは興味深い。

『本朝高僧伝』によれば、月江正文は、大本山總持寺で悟りを開き、最乗寺で開法し、尾張国の楞厳寺と武蔵国の普門院を開山したとされる。また上野国の雙林寺を開山し、一州正伊に継がせて一世住持としたとさせ、最後は寛正三年(一四六二)に尾張国の楞厳寺で没したとされる。『本朝高僧伝』が正しければ、自耕斎が月江正文に師事したのは、寛正三年(一四六二)以前ということになる。また、その場所は、岩付から近い普門院だった可能性が高いのではないか。

なお、月江正文は、武蔵国越生の龍穏寺の二世住持となったとの伝承が同寺に残されており、自耕斎=太田道真の立場を取る小宮勝男氏は、越生に隠居した道真が、龍穏寺の月江正文を訪ねる関係であったことを示唆する。
しかし、『本朝高僧伝』には龍穏寺の名は登場しない。『新編武蔵国風土記稿』の龍穏寺の項では、戦乱で焼け落ちた龍穏寺を再建しようとした月江正文が、近くの円通寺に滞在したとの逸話が記されているが、円通寺の開山は江戸時代であり、この逸話の信憑性は高いとは言いがたい。月江正文が龍穏寺の二世住持であったとの伝承は、月江正文の弟子であり三世住持として同寺を再建した泰叟妙康が、同寺の権威付けのために創作したものである可能性も考えられよう。
加えて月江正文の没年が寛正三年(一四六二)であり、その地が尾張国であったこと、そして太田道真の越生での隠居生活の開始が寛正二年(一四六一)であったことを考えると、両者の交わりを越生に求めることは難しいであろう。

、太田道真が自耕斎であったと考える場合、道真と月江正文の交わりは、道真の隠居前のことであり、その場所は龍穏寺ではなく、普門院であったと考えるべきであろう。

本分閑田地、養以自受用他受用
自耕斎は、「閑田地を養う」と表現された仏教修行の果てに、悟りを開いたようである。しかも、自身の悟りの境地を楽しむ「自受用」のみならず、悟りの境地を衆生にも与える「他受用」の段階に達てしていたと、玉隠は記す。
この「他受用」は、先に紹介された『詩経』の「雨我公田、遂及我私」や、歴山における舜の耕作と通じる境地とされていると見てよいであろう。

不堕青苗凞寧途轍、川党洛党之羽翼、亦斂袵矣、

悟りの境地を衆生にも与える「他受用」に達てしていた自耕斎は、王安石の青苗法の失敗の二の轍は踏まない、と玉隠は記述を展開する。
王安石の青苗法は、自作農の自立を促すため政府が貸付を行う制度であったが、かえって農民を借金漬けにすることがあった。
玉隠は、農民らに自立を促す王安石よりも、悟りの悦びを与えて衆生を救済する自耕斎の方が優れていると述べていることになろう。

思想による心の救済と、政治による農民の経済的自立を、同じ尺度で比べるのは無理がある。玉隠は、それをわかった上で、自耕斎賞揚のため、王安石より優れた自耕斎という主張を展開したのであろう。



2019年頃に書いたものの、そのまま公開することなく埋もれさせててしまった原稿を、“お蔵出し”で公開します。

岩槻城(岩付城)築城者を考える際の根本史料「自耕斎詩軸并序」の全文読解に取り組んだ内容です。

なお、拙著『玉隠と岩付城築城者の謎』(まつやま書房、2021年)発行前に書いた文章なので、同著がまだ世に出ていない前提で書かれています。


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3.全文解釈(続)

⑥自耕斎と傅説

《白文》
岩付自耕、考絵事、則高宗夢得傅説、物色以求于天下、説築傅岩之野惟肖、用為相云、若済巨川、用汝作舟楫、若歳大旱、用汝作霖雨、父子豈不傅岩賢佐之再来、

《書き下し文》
岩付自耕、絵事を考ふれば、則ち高宗夢に傅説を得たり。物色して以て天に求む。説傅岩の野に築して惟れ肖たり。用て相となして云はく、若し巨川を済らば、汝を用て舟楫と作さん。若し歳大いに旱すれば、汝を用て霖雨と作さん。父子豈傅岩賢佐の再来ならずや。

《語釈》
「高宗」は、殷の王。「傅説」を宰相として取り立て、殷の中興を果たしたことで知られる。
「傅説」は、殷の高宗の時代の宰相。「傅巌(岩)」の地で土木工事を監督していた時に、高宗に見いだされたとの逸話がある。「傅岩翁」とも呼ばれる。
「築」は、建設工事、土木工事。
「惟肖」は、これ(惟)に似(肖)る。
「相」は、宰相のこと。
「若」は、もし。
「済」は、渡る。
「巨川」は、大きな川。
「舟楫」は、舟とその舵。
「旱」は、ひでり、干魃。
「霖雨」は、長雨。
「傅岩賢佐」は、傅説が高宗を賢く補佐した様。

《現代語訳》
岩付自耕(について)、絵の事を考えてみると、(殷の)高宗が夢で傅説を見て、天下に傅説を求めたところ、説(傅説)が傅岩の野で土木工事をしていたところを見出だしたことと似ている。(高宗は傅説を)用いて宰相として言った。もし大きな川を渡るならば、そなたを用いて(川を渡るための)舟と舵を作る。もしある歳に大きな干魃があれば、そなたを用いて長雨を降らせる。(自耕斎)父子は、傅岩(傅説)が(高宗を)賢く補佐したことの再来である。

《余説》
自耕斎と、殷の名宰相「傅説」の類似性が語られ、前段で登場した「附者傅也」(岩付(附)の附は傅である)の謎説きが行われる。

岩付自耕
『自耕斎詩軸并序』では、地名「岩付」を自耕斎父子の名字であるかのように両者の名前や斎号に付す。ただし、自耕斎(正等)に「岩付」が付されるのは、文中においてここのみである。自耕斎が古代中国の名宰相「傅説」に似るとする根拠の一つである「岩付」と「傅岩」と類似性を読み手に伝えるための工夫であろうか。

考絵事
筆者は「絵の事を考えてみるに」と現代語に訳した。
ここでの「」は、自耕斎が「聴松住持龍華翁」や玉隠に詩を求める際に提示した絵のことであろう。
考えた結果として、岩付自耕と古代中国の名宰相「傅説」が似ているとの結論を述べているのは、筆者である玉隠であるため、「考」の主語も玉隠と見なされるであろう。

絵の事を考えた結果、岩付自耕と「傅説」が似ているとの結論が導かれたのは、岩付に特徴的な風景が描かれていたためと考えられる。

則高宗夢得傅説…説築傅岩之野惟肖
高宗が傅説の夢を見て、天下に傅説を探し求めた結果、「傅岩之野」で「」をしていた説(傅説)を見出だすことになったという有名な故事を紹介し、自耕斎と似ていると指摘する段。

自耕斎と傅説は、

  • 前者は「岩付」、後者は「傅岩」というよく似た地名の場所で、
  • ともに土木工事に取り組んでいた、
という二点において類似する。

既に紹介したとおり傅説には高宗が夢で見た傅説を遂に傅岩の野で見付けたとの有名な逸話がある。自耕斎にも、岩付城の築城によって主君に重用されることになったとの経緯があったのかもしれない。あるいは、類似性はあくまで岩付と傅岩での土木工事であり、高宗の夢に関する逸話は、単に「傅岩之野」というキーワードを出すために必要であったと考えることもできる。


どちらの見解も成立するであろう。

若済巨川…父子豈不傅岩賢佐之再来
若済巨川、用汝作舟楫、若歳大旱、用汝作霖雨」は、『書経 説命上』に見える王に使える臣下のあり方を示した「若済巨川、用汝舟楫、若歳大旱、用汝作霖雨」と同じである。
また、ほぼ同じ表現が、『国語』楚語上では、高宗が傅説を宰相に任命して語った言葉として記載されている。
昔殷武丁(中略)如是而又使以象夢求四方之賢、得傅説以来、升以為公、而使朝夕規諫、曰若金、用女作礪、若津水、用女作舟、若天旱、用女作、雨。啓乃心、沃朕心。若薬不瞑眩、厥疾不瘳、若跣不視地、厥足用傷」。

玉隠も、傅説の故事の一部としてこの言葉を紹介していると考えられる。
 
『自耕斎詩軸并序』が、これを引用した後に、「父子豈不傅岩賢佐之再来」としていることは注目される。
既に述べた通り、父自耕斎と傅説の類似性は、それぞれが岩付あるいは傅岩之野で土木工事を遂行していたことである。しかし、自耕斎の子顕泰には岩付での土木工事の事績は無く、この点において傅説との共通性は無い。

では、顕泰と傅説の共通性は何か。

ここで注目されるのは、「若済巨川、用汝作舟楫、若歳大旱、用汝作霖雨」の引用の後に、自耕斎のみならず、その子顕泰も含めて「傅岩賢佐」の再来だとしていることである。ここからは、自耕斎父子に共通した事績が「若済巨川、用汝作舟楫、若歳大旱、用汝作霖雨」によって表現されるものであった可能性が想起されるであろう。

では、この一節は、どのように解釈されるか。以下に、筆者の仮説を示したい。

若済巨川、用汝舟楫
若済巨川、用汝舟楫」において傅説に期待されているのは、大きな川を渡るための舟と舵を作ることである。
岩付は、扇谷上杉氏陣営と古河公方陣営の境界をなした大河荒川(中世利根川の本流である古隅田川も岩付付近で荒川に合流していた)のほとりの地。自耕斎がここに岩付城を築き、子の顕泰がそれを受け継ぎ守ったことは、大河荒川を渡河して敵陣営に攻め込める状況をつくり、維持する功績を果たしたことになる。この功は、「若済巨川、用汝舟楫」に通じるのではないだろうか。

若歳大旱、用汝作霖雨
若歳大旱、用汝作霖雨」で傅説に期待されているのは、大きな干魃があった時に、長雨を降らせることである。

人が長雨を人工的に降らせることはできない。しかし、仮に、岩付地域や周辺で干魃があったにも関わらず、自耕斎父子の農業政策によって農産物の収量が保たれたという状況があったならば、その事績は「若歳大旱、用汝作霖雨」によって表現されたかもしれない。

この後に登場する「雨我公田」という『詩経』の詩の一部も、「公田に雨の水を送る」と意訳的に理解することができる。「雨」という語に、天水を田畑に導く意味を見出だすことができるならば、この段の「霖雨」も、自耕斎父子による灌漑を指すのかもしれない。

あるいは、先に登場した真宗の逸話や、後に現れる底田の比喩(非自耕底田)が示唆する早稲の栽培と早稲の刈り取り後の麦作、すなわち二毛作の導入がなされたことを意味するのかもしれない。室町時代は、日本でも二毛作が普及し、農業生産力が上がった時代であった。

先に論じた通り、「渤海太守、勧趍田畝、南陽太守」は、自耕斎の農業政策を称賛するために引用された故事であった可能性がある。
その場合、自耕斎は、
・渤海太守が盗賊化した人々を帰農されたように、戦乱で岩付地域を逃れた農民達を再び農地に呼び戻し、
・南陽太守が自ら田畑に入って灌漑を指導したように、戻った農民達に灌漑を含めた農業指導を行った岩付城主、
ということになる。
こうした政策は子の顕泰にも受け継がれ、父子が二代に渡って岩付地域を農業収穫を保ったのであれば、それはまさに「若歳大旱、用汝作霖雨」によって称えられる功績となるであろう。

岩付地域は、武蔵国最大の沼であった見沼のほとりの台地であり、灌漑によって干魃に強い農地運営ができた可能性がある。また、台地は水捌けがよいため麦作にも適している。


さらに当時の天候を調べると、戦国時代の武蔵国はたびたび干魃に襲われたことがわかる。

年代記配合抄』は、

•長禄二年(一四五八年)に「大干魃」

•文明四年(一四七二)に「干魃」

•文亀元年(一五〇一)に「大日旱」

があったことを記している。

また『香蔵院珎祐記録』は、寛正二年(一四六一)に「佐々目郷所務事、今年事外干魃」と記しており、佐々目郷に干魃があったことがわかる。佐々目郷は岩付地域と隣接する足立郡南部に位置している。

筆者の仮説は、直接的に検証することはできないものの、状況的には成立の余地はあると言えるのではないだろうか。


(6)に続く



2019年頃に書いたものの、そのまま公開することなく埋もれさせててしまった原稿を、“お蔵出し”で公開します。

岩槻城(岩付城)築城者を考える際の根本史料「自耕斎詩軸并序」の全文読解に取り組んだ内容です。

なお、拙著『玉隠と岩付城築城者の謎』(まつやま書房、2021年)発行前に書いた文章なので、同著がまだ世に出ていない前提で書かれています。


3.全文解釈(続)

⑤斎号「自耕斎」の登場
「自耕斎」の号が、ここに至り、ようやく登場する。

《白文》
正等游息斎、自顔曰自耕、而絵以求詩、有聴松住持龍華翁詩、懶菴亦其員而、詩序贅之、

《書き下し文》
正等游息の斎、自ら顔して自耕といふ。而して絵して以て詩を求む。聴松住持龍華翁の詩あり。懶菴もまたその員にして、詩序これを贅す。

《語釈》
「游息」は、ゆっくり静養すること。
「斎」は、書斎。
「自顔」は、自ら号す。自ら名付けるという意味。
「聴松住持龍華翁」は、聴松の住持である龍華翁。『信濃史料』は竺雲顕騰(建長寺第162世住持)とする。小宮勝男氏は、京都の聴松院を開いた希世霊彦説を提起する。
「懶菴」は、玉隠英璵の別名。
「員」は、ある組織に加わっている人、メンバー。
「詩序」は、詩の序文。
「贅」は、余計なものを付け加えること。

《現代語訳》
正等がゆっくり静養する書斎を、自ら名付けて自耕といった。そして、絵を示して詩を求めた。聴松住持の龍華翁の詩があった。懶菴(玉隠)も、詩を書いた者の一人であり、序文を書いたのであるが(龍華翁の詩の素晴らしさの前には)余計なものを付け加えただけであった。

《余説》
全679文字から成る『自耕斎詩軸并序』の475文字目で、ようやく斎号「自耕斎」が登場する。「岩付左衛門丞顕泰公」の亡き父であり、岩付城を築城した人物「正等」が「自耕斎」であることが、ここに至って明示された。

自顔曰自耕、而絵以求詩
自耕斎は、自らの書斎を「自耕斎」と名付け、絵を示して、「聴松住持龍華翁」や玉隠らに詩を求めている。
この時の絵について『信濃史料』は、書斎「自耕斎」の絵とするが、『自耕斎詩軸并序』の冒頭で「耕田之絵」が登場していることを踏まえると、詩を求めるために提示された絵はこの「耕田之絵」であった可能性が高い。田畑を耕す様子の絵であれば、書斎を「自耕」と名付けた際に求めた詩の題材としてふさわしいであろう。あるいは、田畑と書斎が共に描かれていたのかもしれない。

後述するが、この解釈は、後段において作者玉隠が、“絵”を契機に、岩付と自耕斎の関係が傅岩と傅説の関係に似ていることを想起する、以下の記述とも整合する。


岩付自耕、考絵事、則高宗夢得傅説、物色以求于天下、説築傅岩之野惟肖、用為相云、若済巨川、用汝作舟楫、若歳大旱、用汝作霖雨、父子豈不傅岩賢佐之再来

聴松住持龍華翁
聴松住持龍華翁」については、

  • 『信濃史料』による竺雲顕騰説、
  • 小宮勝男氏による希世霊彦説、
の二説が存在するが、筆者は、竺雲顕騰説を採用する。

理由は、①建長寺内には「聴松軒」と呼ばれる住持のための居所があり、同寺住持であれば「聴松住持」と呼ばれ得たこと、②『自耕斎詩軸并序』が書かれた明応六年時点で、竺雲顕騰が建長寺住持であったこと、の二点である。


①については、青木文彦氏から以下の教示をいただいた。
・応永三十年に建長寺住持竺西等梵が同寺に施入した『牧谿筆猿猴図』には、等梵による「福山聴松軒公用」との銘が記されている。ここから「聴松軒」が住持直轄の場であった可能性が示唆される。
・明応八年八月に建長寺第一六四世の住持となった玉隠英璵は、同年十月に『巣雪斎図』に題詩と序を記しているが、そこには「住山建長老衲英璵書于聴松軒下」とある(『信濃史料』十巻九八頁)。
・その後住持から退いた英璵は、翌年五月、「喜江禅師頂相」に著賛して「前建長玉隠叟英璵書于懶菴」と記しており(『信濃史料』十巻一〇五頁)、「聴松軒」が記されていない。玉隠が建長寺住持であった期間のみ「聴松軒」を名乗ったことは、「聴松軒」が建長寺住持直轄の場であったとの考え方と符号する。

また筆者が確認したことであるが、竺雲顕騰は玉隠によって「龍華東堂」と呼ばれている(『信濃史料』十巻七二頁)


②については、『信濃史料』十巻一六頁の明応四年の記録として竺雲顕騰が、建長寺住持であったことが見える。竺雲顕騰の次に同寺住持にとなった玉隠の補任が明応八年であったことを踏まえると、顕騰は明応六年にもこの地位にあったと考えて良いだろう。


小宮氏が提起した希世霊彦説は、この人物が京都に聴松院を開いたことを根拠としている。希世霊彦説は先に紹介した『寄題江戸城静勝軒詩序』において登場しており、「聴松村菴翁」と呼ばれている。ただし、希世霊彦が「龍華翁」を自称した、あるい他称されたとの記録はない。「聴松」と「龍華翁」の二要素を説明できる竺雲顕騰説が、蓋然性において勝っていると言えるであろう。


懶菴亦其員而、詩序贅之
懶菴亦其員而」との記述からは、自耕斎の求めに応じて詩を書いた人物が複数いたことがわかる。龍華翁と玉隠以外にも、詩を寄せた五山僧がいた可能性がある。「詩序贅」は、玉隠が序文を書いたことを示している。すなわち、生前の自耕斎は、ある題材に対して複数の詩僧が詩を寄せ、その内誰かが序文を書くというスタイルの漢詩作品を作らせていたのである。

こうしたスタイルの漢詩作品としては、太田道灌が作らせた以下の三作品が有名である。
・『寄題江戸城静勝軒詩序』(蕭庵龍統が詩序、希世霊彦ら四人の詩僧が詩を寄せた作品)
・『左金吾源太夫江亭記』(暮樵得公が本文を書き、武陵興徳ら四人の詩僧が詩を寄せた作品)
・『静勝軒銘詩并序』(万里集九が詩序を書き、玉隠英璵、竺雲顕騰、万里集九ら三人の詩僧が詩を寄せる構成)

小宮勝男氏は、生前の自耕斎が作らせた漢詩作品と道灌の三作品の類似性を指摘し、自耕斎が「道灌と同レベルの権力と文人性を兼ね揃えた武将であった」と論じる。
筆者が調べた範囲でも、室町・戦国時代において、こうしたスタイルの漢詩作品を五山僧に依頼した事例は、太田道灌の三作品しか見当たらない。道灌の上位権力者であった扇谷上杉氏や山内上杉氏、道灌と対等の立場にあった山内上杉氏家宰の長尾氏も、こうした作品を作らせたことが確認されない。

太田道灌がこれを為せたのは、この人物が、鎌倉五山を直接外護する相模国守護代の地位にあったためと考えられる。

同じことを為せた「自耕斎」も、相応の権力者であった可能性が指摘されよう。


(5)に続く



2019年頃に書いたものの、そのまま公開することなく埋もれさせててしまった原稿を、“お蔵出し”で公開します。

岩槻城(岩付城)築城者を考える際の根本史料「自耕斎詩軸并序」の全文読解に取り組んだ内容です。

なお、拙著『玉隠と岩付城築城者の謎』(まつやま書房、2021年)発行前に書いた文章なので、同著がまだ世に出ていない前提で書かれています。


前回(2)はこちら


3.全文解釈(続)

③武将時代の自耕斎
いよいよ、岩付城の築城の記述が登場する。

《白文》
武州崎西郡有村、曰岩付、又曰中扇、附者傅也、岩付左衛門丞顕泰公父故金吾、法諱正等、挟武略之名翼、有門闌之輝、築一城、通南北衝、寔国之喉襟也、白羽扇指揮三軍、守其中、曰中扇亦宜也、

《書き下し文》
武州崎西郡に村あり、岩付といひ、また中扇といふ。附は傅なり。岩付左衛門丞顕泰公の父故金吾、法諱正等、武略の名翼を挟み、門闌の輝きあり。一城を築いて、南北衝を通ず。寔に国の喉襟なり。白羽扇三軍を指揮して、その中を守る。中扇といふもまた宜なるかな。

《語釈》
「附者傅也」は、附は傅であるの意味。
「金吾」は、衛門府の唐名。隠居前の自耕斎は、左(あるいは右)衛門大夫や左(右)衛門尉であったと考えられる。
「左衛門丞」は、左衛門尉に同じ。
「法諱」は、法名のこと。
「武略」は、合戦のかけひき。軍事上の計略。
「闌」は、一番盛んな時、あるいは手すりや枠。「門闌」は、門の枠という意味で使用される例があるが、ここでは文脈上、一門が最も盛ん時、と解釈するのが妥当か。
「衝」は、要所。
「喉襟」は、要害の地。
「白羽扇」は、白い羽で作られた扇。諸葛孔明の比喩。武将時代の自耕斎が、諸葛孔明に例えられている。
「三軍」は、古代中国周王朝の兵制において、上軍・中軍・下軍それぞれ一万二千五百人、合計三万七千五百人の軍隊を指す。転じて、大軍の意味。
「宜」は、あとに述べる事柄に対して得心するさまを表す。

《現代語訳》

武州崎西郡に岩付という村がある。また、中扇とも言う。(岩付(附)の)附は傅である。岩付左衛門丞顕泰公の父である故金吾、法名は正等は、武略の名高き翼を挟み、(その時)一門には最盛期の輝きがあった。一城を築いて、南北の要所の通行を保った。(岩付は)まさに国の要害の地である。白羽扇は三軍を指揮して、その中を守った。(岩付が)中扇と呼ばれるのも、なるほどと納得できる。

《余説》
この段に入り、岩付という土地、詩序の依頼主である岩付左衛門丞顕泰、そしてその亡父である岩付城の築城者•正等の事績が語られる。後段で、この正等の隠居後の号が「自耕斎」と記されるが、当座はそれは明かされない。

附者傅也
附者傅也」については、小宮勝男氏が提唱し、青木文彦氏が賛同した以下の解釈が妥当であろう。

  • 後段において正等父子の賞揚のために、古代中国殷の名宰相「傅説」が登場するが、傅説には「傅巌」という地で土木工事をしていた際に高宗に見出だされた逸話がある。
  • 岩付は「附者傅也」(附は傅なり)、すなわち附(付)=傅を受ければ、「岩傅」と書き換えられ、これは「傅巌(岩)」に通じる。
  • 岩付で築城を指揮した正等の人物像が、傅岩において土木工事を指揮した傅説に通じる、との修辞が行われていると考えてよい。

なお、これも小宮氏が指摘したことだが、黒田基樹氏は「附者傅也」を「附者伝也」と引用している。「傅」を「傳(伝の旧字)」と誤認したのだろう。『信濃史料』は「傳」でなく、「傅」を用いているため、これは氏による引用の誤りと考えられる。

「傅」を「傳」と読んでしまうと、附者傅也」を介した岩付=傅巌という言葉遊びが消えてしまう。黒田氏は、玉隠の仕掛けには気づがなかったのだろうか。


岩付左衛門丞顕泰公
岩付左衛門丞顕泰公」については、名字「岩付」と名(実名あるいは法名)「顕泰」の両方を名乗った同時代人は確認されない。実名「顕泰」を名乗った人物としては成田顕泰が存在する。これを受け、黒田基樹氏は「岩付左衛門丞顕泰すなわち成田顕泰」と論じ、成田氏築城説を提起した。太田氏築城説、渋江氏築城説は、確実に「顕泰」を名乗った人物を太田氏内、あるいは渋江氏内に見出だすことができていない。この点において成田氏築城説の優位性は顕著である。ただし、『自耕斎詩軸并序』に「成田」の文字は見えない点には留意が必要であろう。


法諱正等

「正等」という法名を名乗った人物は、成田氏、太田氏、渋江氏のいずれの一族においても確認されない。
青木文彦氏は、「正等」の「正」の字が、『自耕斎詩軸并序』にも登場するこの人物の師 曹洞宗の高僧「月江“正”文」に由来する可能性を指摘する。月江正文の弟子の中には、「一州“正”伊」やその弟子「天倫“正”挺」や「益之“正”謙」のように「正」を受け継いだ人物が複数確認される。「正等」の正の字が月江正文に由来するとの青木氏の指摘には、一定以上の蓋然性が見出だされよう。

故金吾左衛門丞
父正等が「故金吾」(亡き金吾)、子の顕泰が「左衛門丞」(左衛門尉)とされていることからは、正等の家系が、代々衛門府の官途名を名乗ったことが推測される。
成田氏は系図において「左衛門尉」を名乗った当主が複数確認される(註6)。太田氏も多くの当主が「左衛門大夫」「左衛門尉」「右衛門尉」等を名乗ったことが系図や家記・家譜、一次史料から確認される(註7)。両氏は、代々衛門府の官途名を名乗る一族であったとみることができるであろう。
渋江氏についても、『年代記配合抄』に「渋井右衛門太夫」が登場し、正しくは渋江右衛門大夫であったと考えられる。渋江氏の場合は、代々当主が衛門府の官途名を名乗ったことは確実ではないが、その可能性を否定する史料も存在しない。

挟武略之名翼
挟武略之名翼」の解釈はやや難しい。兵法における鶴翼の陣のように、自耕斎が左右に軍勢を展開して敵を挟撃したことを表現しているのであろうか。

想像を逞しくすれば、少し後に見える「白羽扇指揮三軍、守其中」が、正等が、岩付城を中心としてそこに一軍を置き、他の2拠点にそれぞれ一軍を置いて敵と戦ったと解釈するとき、それは左右に軍勢を展開して敵を攻める形勢となったかもしれない。

有門闌之輝
有門闌之輝」は注目される表現である。《語釈》で示した筆者の解釈が正しければ、正等諸の武将時代にその一門は最盛期を迎えていたことになる。また、「門闌」を門の枠と解釈した場合でも、門の枠に輝きがあったとの表現は、やはり一門が栄えていたことを示すと考えてよであろう。賞揚のための表現であれ、正等の現役時代には、そう述べてもおかしくない繁栄が現出されたのだろう。


通南北衝、寔国之喉襟也
通南北衝、寔国之喉襟也」は、正等の岩付城築城によって味方陣営の南北の要所の通行が確保されたこと、それ故に岩付(城)は国の要害の地であることを述べている。
岩付城の存在によって通行が確保された南北の要所とは、どこか。太田氏築城説の立場からは、扇谷上杉氏の最重要拠点であった、河越城と江戸城の通行が、岩付城によって守られたことの漢文表現と考えることができる。

白羽扇指揮三軍
白羽扇指揮三軍」は、東晋の裴啓が著した『裴子語林』の以下の一節を受けたものであろう。「諸葛武侯與司馬宣王在渭濱將戰宣王戎服莅事使人視武侯素輿葛巾持白羽扇指麾三軍皆隨其進止宣王聞而歎曰可謂名士」。輿に乗り、葛巾を被り、白羽扇を持って蜀漢の軍勢を指揮して戦った諸葛孔明の様子が描かれている。武将時代の正等の活躍が、諸葛孔明のそれに比されていることは明らかである。

『自耕斎詩軸并序』が書かれた時代に、武将の活躍を諸葛孔明の比喩で賞揚した事例は、他にも存在する。

  • 『自耕斎詩軸并序』の著者である玉隠は、扇谷上杉定正の急死を「星隕夜営」、そして「則死諸葛走生仲達」と表現している(扇谷上杉持朝の三十三回忌法要での法語より)。山内上杉氏を攻めるべく北進する最中で急死して定正が、魏への北伐の途中で倒れた孔明の「星落秋風五丈原」の逸話を踏まえていると考えられる。
  • 『玉隠和尚語録』に収録された伊勢宗瑞葬儀での祭文には、生前の宗瑞の活躍を「麾三軍則、飛竜武侯飛」と表現する。「武侯」は諸葛孔明の諡であり、「麾三軍」は『裴子語林』の「白羽扇指麾三軍」を踏まえていると考えられる。
  • 玉隠と親交のあった詩僧、万里集九は、太田道灌の死後に詠んだ弔辞とも言うべき『武州江戸城祭太田春苑道灌禅定門文』において、生前の道灌の活躍を「揮羽扇戦」と表現している。万里集九の作品集『梅花無尽蔵』の注釈を行った市来武雄氏は、この「羽扇」を「羽でつくった、うちわ。諸葛孔明が用いたもの」と解説する。

以上の類例からは、当時の五山僧らが、故人となった武将に対する賛辞として諸葛孔明の比喩を用いていたことがわかる。

なお、自耕斎が諸葛孔明の比喩で称賛されたことについての解釈は、論者によって様々である。

  • 小宮勝男氏は、自耕斎が「当時の武州周辺の諸葛孔明を自負するほどのビッグネームの武将」であったことがわかるとし、自身が提起した自耕斎=太田道真説と整合的であると主張する。
  • 一方、青木文彦氏は、自耕斎を孔明に比したのはあくまでも修辞技法に過ぎず、むしろ自耕斎父子の事績として記されているのが岩付城築城のみであること、そしてその記述も抽象的な評言に留まっていることを指摘し、父子が鎌倉五山トップの玉隠に「強引ともいえる修辞の粋を尽くさねば、称揚できなかった」存在であったと論じ、小宮氏の見解に否定的な立場を取る。
  • 黒田氏は、白羽扇指揮三軍に関して、自耕斎の人物像と結びつけた解釈は披露していない。

守其中、曰中扇亦宜也
白羽扇指揮三軍」に続く、「守其中、曰中扇亦宜也」は興味深い。正等が三軍の「その中」を守ったことに由来して、岩付が「中扇」と呼ばれたのはもっともなことである、解釈される。

以下、原口和子氏の指摘を紹介したい。原口氏は、『裴子語林』には確かに「白羽扇指麾三軍」との記述があるが、そこに「守其中」は見られないことに着目する。そして、それ故に「守其中、曰中扇亦宜也」は、諸葛孔明の故事とは関係なく、純粋に自耕斎の事績を示しているとみるべきと主張する。
この場合、「三軍」とは「大軍」の意味ではなく、本当に三つに分けられた軍勢を意味し、自耕斎がその中央の部隊を率いた可能性が浮上する。すなわち、三つに分けられた軍勢の中央の部隊を指揮する立場にあった自耕斎が、岩付にいたために、岩付が「“中”扇」と呼ばれたという理解である。
太田氏による築城説の立場からは、鎌倉大草神に記された、扇谷上杉陣営の河越•岩付•江戸の三城築城(太田道真が岩付築城を担当)との類似性が見出されるところである。

いずれにせよ、正等の事績によって岩付の別名「中扇」が生まれたとの逸話は、武将時代の自耕斎の働きを考える上で重要である。しかし残念ながら、黒田氏、小宮氏、青木氏の三氏は、皆この点に関して解釈を施していない。

本稿の課題提起により、今後この点の議論が活発化することを期待したい。


④自耕斎の隠居

《白文》
収取功名退者天之道也、一家機軸、百畝郷田、付之於苗裔顕泰也、一区宅、二頃田、自得逍遙、東郊有作、不過設供帳、以為国林游禾之挙、朝耕暮耕、早稲晩稲、垂々捧八月露、加之、黄蕪青花在野者、荊公詩云、花気時度谷、耕鋤聊顰效矣、

《書き下し文》
功名を収取して退くは天の道なり。一家の機軸は、百畝の郷田なり、これを苗裔顕泰に付す。一区の宅、二頃の田、自得逍遙して、東郊に作あれども、供帳を設けて、以て国林游禾の挙となすに過ぎず。朝耕暮耕、早稲晩稲、垂々として八月の露を捧ぐ。加之黄蕪青花野にある者、荊公の詩に云はく、花気時に谷を度り、耕鋤聊か顰に效ふと。

《語釈》
「功名」は、手柄を立てること。あるいは手柄。
「天之道」は、天の道理にかなった生き方。
「機軸」は、車輪などの心棒、あるいは物事の中心。
「畝」は、土地の面積の単位。99平方メートル。約1アール。百畝は9900平方メートルであり、約100アール。約100メートル四方の土地ということになる。
「苗裔」は、末裔のこと。
「区」は、地域をいくつかに分けた一つの単位。
「頃」は、面積の単位。一頃が百畝にあたる。
「自得」は、自分の力で悟ること、あるいは自分自身で満足し安んじること。この「自得」を「自得軒道真(太田道真)」とする解釈(小宮勝男氏説)も存在する。
「逍遙」は、気ままに歩き回ること。
「郊」は、町外れ。

「東郊」は、東の町外れという意味。ただし、古代中国では、五行思想で東は春にあたり、都城の東の野で春の祭を行なったことから、「東郊」を「春の野」の意味にも用いる。
「作」は、耕作すること。
「供帳」は、幕等を宴の準備として張ること。
「国林游禾」は、何らかの成句であると考えられるが、出所や意味は不明。
「游」は、泳ぐこと。あるいはあちこち歩くこと。
「禾」は、穀物の総称。あるいは穀物の穂先の毛。
「挙」は、ふるまい。
「早稲」は、早く成熟する品種の稲。
「晩稲」は、遅く成熟する品種の稲。
「垂々」は、穏やかに、徐々に。
「加之」は、「しかのみならず」。そればかりでなく、という意味。
「蕪」は、かぶ。
「荊公」は、宋代の宰相 王安石のこと。
「耕鋤」は、農作業を行うこと。
「聊」は、いささか。あるいは、楽しむの意味。
「顰效」は、顰(ひそ)みに效(なら)う。本質をとらえず、形だけ真似をすること。絶世の美女であった西施が、病気で顔をしかめた姿(顰)がいっそう美しいとされたことを受け、醜女が真似(效)をして周囲から気味悪がられたとの故事に基づく。
「聊顰效」は、何かに取り組んでいることを、謙遜しつつ、その真似事をしていると語る際に使われる表現。

《現代語訳》
(正等が)功名を成し遂げ、隠居したのは天の道理にかなった生き方である。一家の根幹は、百畝(約9900平方メートル)の郷田である。(正等は)これを末裔である顕泰に与えた。一区を占める家、二頃の広さの田、満足した心持ちで、気ままに歩き回る。町の東の外れで耕作をしたが、宴のために幕を張り、国林游禾のふるまいをなしたに過ぎない。朝に耕し、夕暮れにも耕す。早稲を育て、晩稲も育てた。穏やかに八月の露を捧げた。
そればかりではなく、黄色い蕪や青い花の野にいる者は、王安石の詩にあるように、時に花の香りが谷を渡ってくる(のを楽しむ)ことがある。(正等はこのように)農事の真似事をしているのである。

《余説》
収取功名退者天之道也
収取功名退者天之道也」は、老子の「功遂身退天之道」(功遂げ身退くは天の道なり)に倣った表現であろう。
小宮氏の言葉を借りれば、正等は、功名を遂げて程よいところで隠居した人物、として称えられていることになる。漢文的な修辞ではあるものの、正等は、早めに引退し、悠々自適の隠居生活を送った人物との修辞を受けてもおかしくない生涯を送ったと考えられよう。

一家機軸、百畝郷田、付之於苗裔顕泰也
この表現について、小宮氏は、財産は譲渡されたが家督が継承されたことは窺われないと論じる。一方、青木氏は、「『 一家の機軸』と称される所領の譲与が家督の譲与と不可分であったことは、容易に推察される」と指摘する。
『自耕斎詩軸并序』の作者玉隠は、扇谷上杉持朝の三十三回忌法要において「国家機軸」との表現を、国家の根幹という意味で用いている。こうした玉隠の「機軸」の用例を踏まえれば、妥当性が高いのは青木氏の解釈であろう。

また青木氏は、子に譲渡された正等の所領が「百畝郷田」と表現されていることから、実際の所領の規模も「郷」レベルの広さであった可能性を指摘する。そして、自耕斎父子を、渋江“郷”を統治した渋江氏の当主二代であるとの自説の根拠とする。
ただし、青木氏自身も指摘していることであるが、『自耕斎詩軸并序』は、隠居した正等の耕地を「二頃」としている。一頃は百畝であるため、隠居後の自耕斎の耕地の広さは、二百畝であったことになる。顕泰に譲渡とした所領がそれより狭い「百畝」であるはずはなく、家督の象徴としての「百畝郷田」は、実態と離れた修辞とみるべきであろう。


筆者は、「百畝郷田」自体が、古典作品に典拠を持つ表現であった可能性を検討し、その典拠を見出した。『孟子』の「滕文公章句上」である。

孟子と滕の文公との政治についての語らいを納めた「滕文公章句上」では、儒教が理想とした古代中国の周王朝の土地制度「井田法」が説明され、そこには「百畝」や「郷田」等のキーワードが見える。また自耕斎詩軸并序の後半に登場する「詩云、雨我公田、遂及我私、由此観之、先公而後私、周亦用助也」は、『孟子』「滕文公章句上」からの引用である。玉隠が、自耕斎詩軸并序を書くにあたり、『孟子』「滕文公章句上を参照したことは疑い得ない。


「滕文公章句上」において、孟子は、滕の文公の家臣に、周の農地制度を説明する。

曰く、「方里而井、井九百畝、其中爲公田、八家皆私百畝、同養公田」(方里にして井し、井は九百畝、その中を公田となす。八家皆百畝を私し、同じく公田を養う)。
この制度では、九百畝の土地を、九つの四角(一つ一つの面積は百畝)に切り分け、その中心を公田とし、残る八百畝を八家族の私田とする。すなわち、一家の私田の面積は百畝となるのである。

孟子は、同じ「滕文公章句上」において「詩云、雨我公田、遂及我私、由此観之、先公而後私、周亦用助也と述べ、周の井田法が殷の農地制度「助」と同じであったと論じている。そして、滕の文公にもこの農地制度を採用するように勧めている。

前述の井田法の解説は、この農地制度に関心を持った滕の文公が、家臣を孟子のもとに派遣し、より詳しい説明を求めた際に述べられた内容にあたる。

また、その前段には「郷田同井(郷田井を同じくし)」とあり、「郷田」との表現も見える。

以上を考慮すれば、自耕斎が顕泰に譲渡した家督の象徴「百畝郷田」は、周の井田法の私田「百畝」を受けた表現だと見てよいだろう。
より具体的には、“国の定めた決まりの中で正当に私有を許された一家の私田(所領)”という意味が、「百畝郷田」に込められていると考えるのではないだろうか。
また、公田での働きを前提として領有が許された私田が百畝であった、との前提を踏まえれば、百畝郷田の継承には公(主君)への忠誠と奉公が前提となっていることになる。後に紹介する「雨我公田、遂及我私」(我が公田に雨らせ、遂に我が私に及ぶ)を考えても、百畝郷田の所有者は、公に尽くす存在である。
「百畝郷田」は、「岩付左衛門丞顕泰」が、公(主君)を第一の奉公先として、その上で自身の所領を営んだ忠臣であることを示した表現と解釈することも可能であろう。

この場合、百畝という具体的な面積にはあまり意味がないことになる。



苗裔顕泰
苗裔」は末裔の意味であり、数代後の子孫に対して使われる表現である。「苗裔顕泰」は、顕泰が自耕斎の末裔であると表現していることになる。
筆者が調査した限り、「苗裔」を子に対して適用した事例は、和漢の古典には見られない。なぜ、正等の子とされる顕泰が、「苗裔」と表現されるのかについては、黒田氏、小宮氏、青木氏の三氏は議論を展開していない。今後の研究課題の一つであろう。

なお筆者は、顕泰が、血縁的には正等の孫でありながら、祖父から直接家督を継承したため、系譜上はその子となったとの仮説を導入すれば、この人物が「子」とも「苗裔」とも表現されたことが説明できると考える。

太田氏の場合、道灌謀殺後に家督を継承した六郎右衛門尉は、道灌の甥(道真の孫)にあたるとされ、この仮説に符合する。


自得逍遙、東郊有作
小宮氏は、「自得逍遙」を「自得(軒)は逍遙す」と解釈する。漢文の文法上この解釈は可能であるが、青木氏が指摘する通り「自得」を自耕斎の心持ちを示す副詞と解釈することも可能である。

また、「東郊」は、都市の東側の郊外という意味とも、春の野という意味ともとれる。この後に、旧暦の収穫期である「八月」が登場するので、春の野との解釈も自然である。「東郊有作」は、正等が、春の野あるいは東の町外れで田畑を耕したという意味になろうか。

不過設供帳、以為国林游禾之挙
この部分は、解釈が難しい。自耕斎が東の町外れで田畑を耕したといっても、それは、宴のために幕を張り、“国林游禾”のふるまいをしたに過ぎない、という解釈が妥当であろうか。しかし、“国林游禾”は、何らかの成句であると考えられるものの、出所・内容ともに判然としない。“游”に「あるいはあちこち歩くこと」という意味があることから、筆者は“国林游禾”を“木々や穀物の穂を愛でて散策を楽しむ行為”と推測する。
全体としては、“耕作といっても、土地を幕で囲み、木々や穀物の穂を愛でて散策を楽しんだに過ぎない”、という意味となるのではないか。

朝耕暮耕、早稲晩稲、垂々捧八月露
旧暦の八月は収穫時期であり、早稲を刈り取り、秋に向けて麦の種を蒔く時期であった。八月の露のもと、二毛作に勤しむ様子を描いた一節とみることができよう。

荊公詩云、花気時度谷、耕鋤聊顰效矣
王安石の「花気時度谷」という詩は美しい。おそらく、「耕鋤聊顰效矣」までが詩の引用であり、農作業で足を泥まみれにし、額に汗して働いた報いとして、時折、谷を越えて漂う花の香りを楽しんだ際の報われた思いを描いているのであろう。
正等の農作業(耕鋤)も、王安石の詩のように真似事に過ぎなかった(聊顰效)かもしれないが、「花気時度谷」を楽しむ瞬間はあってのではないだろうか。

ここにおいて、正等は宗の名宰相•王安石に準えて賞揚されたいると見てよいだろう。



(4)に続く



2019年頃に書いたものの、そのまま公開することなく埋もれさせててしまった原稿を、“お蔵出し”で公開します。

岩槻城(岩付城)築城者を考える際の根本史料「自耕斎詩軸并序」の全文読解に取り組んだ内容です。

なお、拙著『玉隠と岩付城築城者の謎』(まつやま書房、2021年)発行前に書いた文章なので、同著がまだ世に出ていない前提で書かれています。


前回(1)はこちらへ


3.全文解釈

以下、前章で示した構造に沿って、『自耕斎詩軸并序』の全文解釈に取り組む。
《白文》、《書き下し文》、《語釈》、《現代語訳》、《余説》の順で、記述を展開する。

① 冒頭

《白文》
疇昔、耕田之絵、置之左右、念農之歌、置之坐側、是無往而不在農


《書き下し文》
疇昔、耕田の絵、これを左右に置き、念農の歌、これを坐側に置く。これ往くとして農ならざることなきなり。
 
《語釈》
「疇昔」は、過去のある日。
「耕田」は、耕作を行う田地。
「念」は、思う。

《現代語訳》
過去のある日、耕田の絵を左右に置き、農業を思う歌を座席側に置く。農業に関わるものが無いということが、無かった。

《余説》
主語は示されていないが、後段の記述からは、生前の自耕斎の書斎で過ごし方が、ここで述べられているとみるべきであろう。
「耕田之絵」は、後段において、自耕斎が斎号を名乗った際に、玉隠や「聴松住持龍華翁」らに詩を求める際に示した絵であろうか。
「念農之歌」は、置くことができる以上、書かれた詩であることが想定される。玉隠や「聴松住持龍華翁」らが、自耕斎が示した絵に対して供した漢詩であるのかもしれない。


②中国の農業故事

(ア)~(ウ)に分割して解釈を施す。

②ー(ア) 真宋製珍農夫吟…

《白文》
真宋製珍農夫吟、置念農歌、紹興年中、上曰、朕聞、民間令牛皆耕田、其労可閲、令画以耕田之象、庶不忘稼穡之艱難也、民未知養苗、則教之養苗、

《書き下し文》
真宗は珍農夫吟を製して、念農歌を置く。紹興年中、上曰たまわく、朕聞く、民間牛をして皆田を耕さしむ。その労閲るべし。画くに耕田の象を以てし、庶はくは稼穡の艱難を忘れざらしめん。民未だ苗を養ふを知らざれば、則ちこれに苗を養ふを教ふ。

《語釈》
「真宗」は、宋(北宋)の第三代皇帝。遊牧民族の契丹と和議(澶淵の盟)を結んだことで知られる。占城稲を導入して二期作を推奨し、農業生産力を伸ばした。その成果は、後世「蘇湖熟すれば天下足る」と評された。在位期間は、997年から1022年。
「珍」は、ここでは「珍しい」ではなく、「尊い」あるいは「貴重な」等の意味であろう。
「吟」は歌。
「紹興年中」は、紹興年間。ただし、紹興年間は、1131年から1162年であり、真宗の在位期間(997年から1022年)の約百年後である。紹興年間の皇帝は、南宋初代の高宗である。真宗の記述に時代の異なる「紹興年中」が登場するのは、玉隠の誤りか。仮に誤りでなかった場合、「紹興年中、上曰」の「上」とは、真宗ではなく高宗を指していた可能性も考えられる。
「閲」は、見て確かめること。
「象」は、目に見える姿。
「庶」は、こい願うこと。
「稼穡」は、穀物の植えつけと、取り入れ。
「艱難」は、困難に出あって苦しみ悩むこと。

《現代語訳》
真宗は、尊い農夫の歌を作り、農業を思う歌を置いた。紹興年間に皇帝は言った。朕は、民が牛を用いて田を耕していることを聞いた。その苦労を見て確かめるべきであろう。田を耕す様子を絵に描かせ、穀物の植えつけと取り入れの苦しみを忘れないようにしたい。(真宗は)民が未だに苗を養う農法を知らなかったので、これを教えた。

《余説》
真宗が「農夫吟」を作ったことや、「念農歌」を身近に置いた、あるいは「耕田之象」の絵を描かせたとの逸話は、冒頭に登場する自耕斎の「念農之歌」や「耕田之絵」との類似性が明らかである。自耕斎を真宗に比して称賛する意図が窺われる。


真宗は、早稲である占城稲を導入して、二期作や、麦・豆との二毛作を広めて農業生産を向上させ、「蘇湖熟すれば天下足る」と言われる状況を現出したことで名高い皇帝である。自耕斎にも真宗の実績と似た事績があったのかもしれない。


ただし、真宗の「農夫吟」、「念農歌」あるいは「耕田之象」の絵に関しては、筆者の調べた範囲では出所を確認できなかった。自耕斎の生前の人物像に合わせて創作されたものである可能性も残る。



②ー(イ)夫櫛風沐雨、莫労乎農…

《白文》
夫櫛風沐雨、莫労乎農、沾体塗足、莫賤乎農、周之君臣、従事於襏襖之間、交孚於閭里之所、則為農安得不相勉哉、

《書き下し文》
それ風に櫛り雨に沐す、農より労するはなし。体を沾し足に塗す、農より賤しきはなし。周の君臣、事に襏襖の間に従ひ、孚を閭里の所に交ふるときんば、農たるもの安ぞ相勉めざるを得んや。

《語釈》
「櫛」は、くしけずること。
「沐」は、髪を洗うこと。
「莫◯乎◎」は、◎よりも◯なものは無い、という比較級表現。
「沾」は、うるおすこと。
「塗」は、泥にまみれること。
「襏襖」は、簑。
「孚」は、真心。
「閭里」は、村里。

《現代語訳》
(農作業では)風で髪をくしけずり、雨で髪を洗うことになる。農業より苦労するものはない。(農作業では)体を濡らし、足を泥にまみれさせることになる。農業より賎しいものはない。周の君主や臣下達は、簑を着て農作業をし、村里で真心を交わしあった。農業のために互いに励まし合わないことがあろうか。

《余説》
農作業の苦労やその賎しさを語りつつ、しかし、儒教で理想とされる古代周王朝では、君主と臣下がともに農業の苦労を分かち合うことで、心を通わせ、励まし合うことができた、ということであろう。自耕斎も、農作業を通じて、臣下あるいは民と心を通わせたことを示唆する意図で挿入された一節であろうか。

なお、『自耕斎詩軸并序』におけるこの記述部は、『四庫全書』の「古今源流至論後集卷十」に収録された「勸農」という詩文の後半部(下記の下線部)を、ほぼそのまま引用したものである。

嘗觀諸史而知周人重農之意厚矣詩曰曾孫来止以見君之尊嚴出入田畝而不為屈也又曰嘗其㫖否以見田畯之官相忘豆觴而不為耻也夫櫛風沐雨莫勞乎農沾體塗足莫賤乎農周之君臣從事扵襏襫之間交孚扵閭里之所則當時為農者安得不相勸勉哉


儒教において理想とされた周王朝が農業を重んじたことを示し、農業の重要性を説いた詩と言えよう。



②ー(ウ)豳詩七月之情…

《白文》
豳詩七月之情、温乎可想也、渤海太守、勧趍田畝、南陽太守、出入阡陌、則州郡勧農也

《書き下し文》
豳詩七月の情、温乎として想ふべし。渤海の太守、田畝に勧趍し、南陽の太守、阡陌に出入するときんば、則ち州郡農を勧むるなり。

《語釈》
「豳」は、古代周王朝の故地。
「豳詩」は、『詩経』の「豳風」編に納められた詩のことであろう。「豳風」編の冒頭を飾る詩は「七月」であり、そこには「豳」の地にあった頃の周の人々の農業生活が歌われている。「豳詩」は、“詩経豳風の詩”あるいは“豳の地で読まれた詩”と解釈されよう。
「温乎」は、おだやかなさま。
「趍」は、「趨」であり、「馳せ向かう」「赴く」の意味。
「田畝」は、田と畑。
「阡陌」は、南北に通ずる道と東西に通ずる道。あるいは、道路の交差している所。転じて、十字に交差する田畑の畦道。
「州郡」は、州と郡。また、地方をさしていう。

《現代語訳》
(古代周王朝の人々が農業を行った)豳で書かれた七月の詩の心持ちは、おだやかだと思うべきであろう。渤海の太守は、人々を田畑に勧めて走らせた。南陽の太守は、田畑の畦道に出入した。州や郡等の地方は、人々に農を勧めるものなのだ。

《余説》
渤海太守」は、前漢の渤海太守「龔遂」であろう。
『十八史略』によれば、龔遂は、朝廷の水衡都尉(河川の水路灌漑や宮中の御苑管理を担当する官)であったが、渤海太守に任ぜられた人物である。当時渤海は、飢饉によって農民が耕作を放棄し、盗賊が跋扈する地となっていた。渤海に赴いた龔遂は、農具を持つ者は良民、武器を持っている者は盗賊とみなすことで、盗賊らを帰農させたという。「勧趍田畝」に相応しい事跡と言える。

南陽太守」は、『漢書』に現れる南陽太守し「召信臣」であろう。召信臣は自ら田畑に入り、灌漑を指導し農業生産力を高めたとされる。「出入阡陌」という表現そのものが、召信臣が自ら田畑に入ったことの記述として『漢書』に見える。

以上より、「渤海太守、勧趍田畝、南陽太守、出入阡陌」は、農地を捨てて盗賊化した農民達を再び農民に戻した渤海太守と、自ら田畑に入り農民達に農業指導を行った南陽太守の故事を記していると読むことができるであろう。

これらの故事は、自耕斎の事績に通じる要素があったからこそ引用された可能性がある。その場合、『自耕斎詩軸并序』は、

  • 渤海太守、勧趍田畝」によって、「自耕斎」が、農地を捨てた農民たちを呼び寄せて土地に戻したことを称え、
  • 南陽太守、出入阡陌」によって、「自耕斎」が、さらに農業指導までしたことを称賛した、
と考えることができるかもしれない。

岩付は、古河公方陣営と扇谷上杉氏陣営の境目にあたる地である。両陣営が抗争を展開した際には、同地の農民らが農地を捨てて他所に逃れたこともあったであろう。
また、この地に岩付城を築いた自耕斎、同城を敵陣営に向き合う前線基地としたと考えられる。前線基地としての岩付城の守りを堅くするには、地域での農業の再興が求められる。
自耕斎に、農地を捨てて逃げた農民達を呼び戻し、農業指導を行った事績があったとしても不思議ではないであろう。


(3)に続く



2019年頃に書いたものの、そのまま公開することなく埋もれさせててしまった原稿を、“お蔵出し”で公開します。

岩槻城(岩付城)築城者を考える際の根本史料「自耕斎詩軸并序」の全文読解に取り組んだ内容です。

なお、拙著『玉隠と岩付城築城者の謎』(まつやま書房、2021年)発行前に書いた文章なので、同著がまだ世に出ていない前提で書かれています。



全文解釈『自耕斎詩軸并序』
~岩槻城築城の根本史料を読み解く~

はじめに

『自耕斎詩軸并序』は、岩槻城(埼玉県さいたま市、室町時代は「岩付城」と表記された)の築城者をめぐる議論において、根本史料とされる漢詩文である

室町時代後半の臨済宗・鎌倉五山において、著名な詩僧であった玉隠英璵が作成したのがこの作品であるが、そこには「武州崎西郡」の村「岩付」において「築一城」を行った人物「自耕斎」(法名「正等」)の事績が記されている。これが岩槻城の築城者について触れた最も古い史料記述とされている。

『自耕斎詩軸并序』は、岩槻城築城との同時代性が高いことに加え、その著者が著名な詩僧であったことから、岩槻城の築城者問題に関する“根本史料”との位置付けがなされるに至ったのである。

岩槻城の築城者に関しては、
・成田氏築城説(黒田基樹氏が提起)(註1)、
・太田氏築城説(江戸期からの旧来説、小宮勝男氏が再提起(註2))、
・渋江氏築城説(青木文彦氏が提起(註3))、
が併存する現状であるが、いずれも『自耕斎詩軸并序』に自説の根拠を求めていことからも、この史料の重要性がわかる。

しかし、三説によって様々に議論されてきた『自耕斎詩軸并序』であるが、その全文を解釈する試みはまだ行われていない。

たとえば黒田氏は、『自耕斎詩軸并序』の全文六百七十九文字のうち、岩槻城築城について直接述べた「武州崎西郡有村曰岩付又曰中扇附者傅也岩付左衛門丞顕泰公父故金吾法諱正等挟武略之名翼有門闌之輝築一城」の四十九文字のみを取り出して解釈を施しているが、他の六百三十文字分の記述については、議論の対象としていない。

黒田氏説に異議を唱え、太田氏による築城説の再興に挑んだ小宮氏は、「自耕斎」の人物像に関わる記述を広く取り上げて議論を展開した。「自耕斎」が三国志の諸葛孔明や、古代中国の名宰相「傅説」に比されていること等を読み解いた小宮氏は、『自耕斎詩軸并序』を全体をとらえて解釈しようとした最初の研究者であった。しかしその小宮氏であっても、著作で取り上げられた箇所は、この漢詩作品のわずか数分の一に過ぎない。
黒田氏説・小宮氏説の両説を総括した青木氏も同様である。氏は『自耕斎詩軸并序』の解釈において小宮氏説に鋭い批判を加え、さらに独自の解釈を示したものの、詩序全文の解釈を示してはいない。

こうした状況は、三氏が『自耕斎詩軸并序』をそれぞれに読み解いた後、しかし、著書や論文で自説の提起を行う際にはその議論に深く関わる部分のみを取り上げたために生じたものであろう。

全六百七十九文字から成る『自耕斎詩軸并序』は長い詩序であり、その全文解釈を提示することは著書・論文を冗長にさせてしまう。三氏が自説との関わりの深い箇所のみを取り上げたのは妥当な判断と言える。青木氏の言葉を借りれば、三氏とも、『自耕斎詩軸并序』の解釈の取組を、“シャドーワーク”に留めざるを得なかったのである。

しかし、岩槻城築城者問題を検討する際、その根本史料たる『自耕斎詩軸并序』の全文が解釈されていない状況は、後続研究を促す意味で望ましいものと言えないであろう。また、これまで解釈が施されてこなかった部分に、「自耕斎」の人物像を探る手がかりが無いとも限らない。

このような課題意識に基づき、本稿では、『自耕斎詩軸并序』の全文解釈を試みることにした。先行する三氏による解釈を土台とし、筆者自身による検討成果を加えて、この詩序がどのように読み解かれるのかを、仮説としてご提示したい。(ただし、時折、「太田氏による築城説であれば•••と解釈できる」という指摘を挟むことはお許しいただきたい)

なお、筆者自身は、岩槻城築城者「自耕斎」は、太田道真であった可能性が高いと考える立場を取る。しかし、『自耕斎詩軸并序』の全文解釈においてはこの立場を忘れ、可能な限り、中立的な解釈を施したい。

成田氏築城説、太田氏築城説、渋江氏築城説、さらには今後現れるかもしれない第四・第五の築城者仮説の論者にとって、等しく参考となる資料を目指すのが、本稿の立場である。


(なお、『自耕斎詩軸并序』が当時の表記である岩付を採用しているため、以降は地名「岩槻」及び城郭名「岩槻城」を、それぞれ「岩付」「岩付城」と表記する。)



1.現代漢字による白文の活字化


『自耕斎詩軸并序』は今日、その手稿が東京大学史料編纂所ホームページにて公開されており(註4)、活字化された白文と書き下し文が、『信濃史料』に掲載されている(註5)。

しかし、手稿を読むのは誰にでもできることではない。また『信濃史料』による活字化も、手稿に忠実に行われているため、異字体や旧字体が多く、簡単には読み下せない。

そのため本稿では、異字体や旧字体を現代漢字に置き換えて、『自耕斎詩軸并序』の白文を活字化することにした。『信濃史料』の書き下し文が、『自耕斎詩軸并序』が用いる異字体や旧字体を現代漢字に置き換えていることを参考にし、『自耕斎詩軸并序』の白文についても現代漢字によって再現したのである。

以下、筆者が再現した現代漢字による白文と、『信濃史料』による書き下し文を示す。

① 現在漢字による白文

疇昔、耕田之絵、置之左右、念農之歌、置之坐側、是無往而不在農也、真宋製珍農夫吟、置念農歌、紹興年中、上曰、朕聞、民間令牛皆耕田、其労可閲、令画以耕田之象、庶不忘稼穡之艱難也、民未知養苗、則教之養苗、夫櫛風沐雨、莫労乎農、沾体塗足、莫賤乎農、周之君臣、従事於襏襖之間、交孚於閭里之所、則為農安得不相勉哉、豳詩七月之情、温乎可想也、渤海太守、勧趍田畝、南陽太守、出入阡陌、則州郡勧農也、武州崎西郡有村、曰岩付、又曰中扇、附者傅也、岩付左衛門丞顕泰公父故金吾、法諱正等、挟武略之名翼、有門闌之輝、築一城、通南北衝、寔国之喉襟也、白羽扇指揮三軍、守其中、曰中扇亦宜也、収取功名退者天之道也、一家機軸、百畝郷田、付之於苗裔顕泰也、一区宅、二頃田、自得逍遙、東郊有作、不過設供帳、以為国林游禾之挙、朝耕暮耕、早稲晩稲、垂々捧八月露、加之、黄蕪青花在野者、荊公詩云、花気時度谷、耕鋤聊顰效矣、正等游息斎、自顔曰自耕、而絵以求詩、有聴松住持龍華翁詩、懶菴亦其員而、詩序贅之、岩付自耕、考絵事、則高宗夢得傅説、物色以求于天下、説築傅岩之野惟肖、用為相云、若済巨川、用汝作舟楫、若歳大旱、用汝作霖雨、父子豈不傅岩賢佐之再来、 大舜自耕稼於歴山、以至為帝也、耕易言、自難言、詩云、雨我公田、遂及我私、由此観之、先公而後私、周亦用助也、如正等、手不秉犁鋤、自謂自耕何哉、教中云、見如来性、如秋収冬蔵、更無所作為、又曰、以施求福、如種須刈、竊聞、士君子、莫不有忠孝之心、故願祝、吾君之寿、及営其親福祉者、皆依仏僧、蓋仏僧者、真世之福世田也、平生参洞下明識月江老、聞新豊之唱、有所得乎、洒々楽々、胸無町畦、本分閑田地、養以自受用他受用、不堕青苗凞寧途轍、川党洛党之羽翼、亦斂袵矣、四方雲従、躬耕隴畝臥龍、亦外物、非自耕底田、廬傍若有龍蟠之逸士、為予指迷、
粒々養成躬可知犂鋤不是効顰為旱天霖雨傅岩野一片心田得我私
時明応丁巳一夏強半懶菴野釈英璵序

②『信濃史料』による書き下し文

『信濃史料』による書き下し文も、以下に引用する。


疇昔、耕田の絵、これを左右に置き、念農の歌、これを坐側に置く。これ往くとして農ならざることなきなり。真宗は珍農夫吟を製して、念農歌を置く。紹興年中、上曰たまわく、朕聞く、民間牛をして皆田を耕さしむ。そ労閲るべし。画くに耕田の象を以てし、庶はくは稼穡の艱難を忘れざらしめん。民未だ苗を養ふを知らざれば、則ちこれに苗を養ふを教ふ。それ風に櫛り雨に沐す、農より労するはなし。体を沾し足に塗す、農より賤しきはなし。周の君臣、事に襏襖の間に従ひ、孚を閭里の所に交ふるときんば、農たるもの安ぞ相勉めざるを得んや。豳詩七月の情、温乎として想ふべし。渤海の太守、田畝に勧趍し、南陽の太守、阡陌に出入するときんば、則ち州郡農を勧むるなり。武州崎西郡に村あり、岩付といひ、また中扇といふ。附は傅なり。岩付左衛門丞顕泰公の父故金吾、法諱正等、武略の名翼を挟み、門闌の輝きあり。一城を築いて、南北衝を通ず。寔に国の喉襟なり。白羽扇三軍を指揮して、その中を守る。中扇といふもまた宜なるかな。功名を収取して退くは天の道なり。一家の機軸は、百畝の郷田なり、これを苗裔顕泰に付す。一区の宅、二頃の田、自得逍遙して、東郊に作あれども、供帳を設けて、以て国林游禾の挙となすに過ぎず。朝耕暮耕、早稲晩稲、垂々として八月の露を捧ぐ。加之黄蕪青花野にある者、荊公の詩に云はく、花気時に谷を度り、耕鋤聊か顰に效ふと。正等游息の斎、自ら顔して自耕といふ。而して絵して以て詩を求む。聴松住持龍華翁の詩あり。懶菴もまたその員にして、詩序これを贅す。岩付自耕、絵事を考ふれば、則ち高宗夢に傅説を得たり。物色して以て天に求む。説傅岩の野に築して惟れ肖たり。用て相となして云はく、若し巨川を済らば、汝を用て舟楫と作さん。若し歳大いに旱すれば、汝を用て霖雨と作さん。父子豈傅岩賢佐の再来ならずや。大舜自ら歴山に耕稼して、以て帝となるに至る。耕は言ひやすく、自は言ひ難し。詩に云はく、我が公田に雨らせ、遂に我が私に及ぶと。これによってこれを観れば、公を先にして私を後にす。周もまた助を用ふるなり。正等の如き、手に犁鋤を秉らずして自耕と謂ふは何ぞや。教中に云はく、如来の性を見るに、秋収め冬蔵む。更に作すところなきが如しと。また曰く、施して以て福を求むるは、種うるに刈るを須ってするが如しと。竊かに聞く、士君子は、忠孝の心あらざるはなしと。故に願はくは吾が君の寿を祝ひて、その親の福祉を営むに及ぶ者、皆仏僧に依る。蓋し仏僧は、真世の福世田なり。平生洞下の明識月江老に参じて、新豊の唱を聞く。所得あるか。洒々楽々。胸に町畦なく、本分の閑田地、養ひて以て自受用他受用して青苗凞寧の途轍に堕せず。川党洛党の羽翼も、また袵を斂めん。四方より雲従して、躬ら隴畝の臥龍に耕すも、また外物なり。自耕底の田に非ず。廬傍に若し龍蟠の逸士あらば、予が為に指迷せよ。
粒々養成して躬ら知るべし、犁鋤はこれ効顰の為ならざることを。旱天の霖雨傅岩の野、一片の心田我が私を得たり。

時に明応丁巳一夏強半懶菴野の釈英璵序す

2.詩序の構造分解

『自耕斎詩軸并序』は、比較的長い詩序である。そのため、内容によって全体を分解し、構造を捉えてから、その解釈に進むことにしたい。

① 冒頭

疇昔、耕田之絵」から「是無往而不在農」まで。
冒頭において、名を明かさないまま、ある人物(自耕斎と考えられる)の昔日の様子が描かれる。

② 中国の農業故事の紹介

真宋製珍農夫吟置念農歌」から「則州郡勧農也」まで。ここでは、中国の為政者の農業に関する故事が列挙されている。

③ 武将時代の自耕斎の活躍

武州崎西郡有村、曰岩付」から「曰中扇亦宜也」まで。

中国の農業故事の紹介が終わると、詩序の依頼主である岩付顕泰が登場し、その亡き父「正等」(自耕斎)の武将時代の活躍が述べられる。

④自耕斎の隠居

収取功名退者天之道也」から「花気時度谷、耕鋤聊顰效矣」まで。

ここでは、武将時代の活躍記述の後、自耕斎の隠居が述べられる。

⑤斎号「自耕斎」の登場

正等游息斎」から「詩序贅之」まで。
斎号「自耕斎」を名乗った際の逸話が語られる。

⑥自耕斎と傅説

岩付自耕、考絵事」から「父子豈不傅岩賢佐之再来」まで。
自耕斎が詩を求める際に示した絵を起点として、父子と古代中国の名宰相「傅説」との類似性が語られる。

⑦ 「自耕」の意味

大舜自耕稼於歴山」から「真世之福世田也」まで。
「自耕斎」の自耕に込められた意味が語られる。

⑧ 月江正文と自耕斎

平生参洞下明識月江老」から「川党洛党之羽翼、亦斂袵矣」まで。
自耕斎と師である曹洞宗の名僧月江正文の関係等が語られる。

⑨ 序文の締めと詩

四方雲従」から「英璵序」まで。
長かった序文が終わり、最後に自耕斎を称える漢詩が示される。
『自耕斎詩軸并序』は、この漢詩が主であり、ここに至る漢文はその序と位置付けられる。
また、玉隠がこの作品を書いたことが付記されている。



(2)へ続く



(註1)
黒田基樹(一九九四)「扇谷上杉氏と渋江氏 ー岩付城との関係を中心にー」(『戦国期東国の大名と国衆』(二〇〇一年刊、岩田書院)収録)。
黒田基樹(二〇一二)「総論 戦国期成田氏の系譜と動向」(『論集 戦国大名と国集7 武蔵成田氏』(二〇一二年刊、岩田書院)収録)。
黒田氏は、黒田(一九九四)で成田氏築城説を提起し、その後黒田(二〇一二)において、『自耕斎詩軸并序』における岩付築城者「正等」に比定する成田氏当主を変更している。

(註2)
小宮勝夫(二〇一二)『岩槻城は誰が築いたか 解き明かされた築城の謎』(さきたま出版)

(註3)
青木文彦(二〇一五)「戦国時代の岩付とその周辺」、平成26年度シンポジウム『戦国時代は関東から始まった』(埼玉県立嵐山史跡の博物館)


(註4) https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/000/_000ki_44/12/00000024?m=all&n=20 

(註5)
https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/ImageView/2000710100/2000710100100010/1001/?pagecode=38

長野県立歴史館ホームページでは、『信濃史料』について、「信濃毎日新聞社・長野県・長野県教育委員会・信濃教育会などが協働して昭和26年(1951)から昭和44年(1969)にかけて編纂・刊行された『信濃史料』は、長野県に関する考古資料情報と、古代から江戸時代初期までの古文書などの史料を活字に翻刻し、年代順に編集した30巻32冊、約18,000ページに及ぶ史料集です。」と説明されている。