太田資正が継承した岩付太田の系譜は、謎に包まれている。
資正三男が江戸期に父祖について書き残した『太田資武状』によれば、太田道灌には実子が無かったので甥を後継者とし、この人物が資正の祖父であるという。そしてこの人物を「養竹院殿義芳永賢」と伝える。

しかし、道灌に実子資康が存在したことは、万里集九が記した漢詩文により明白である。また資武状は、道灌の跡を継いだ義芳永賢には官途名が無かったとしているが、信頼度の高い二次史料である『年代記配合抄』は、道灌の遺跡を継いだのは太田六郎右衛門であるとする。

太田六郎右衛門尉は、道灌死後の扇谷上杉重臣の一人として一次史料でも確認され、実様したことは確実である。
こうした異同を考えると、資武状の記載をそのまま採用することはできない。

では、太田道灌から資正に至る系譜は、どう考えればよいか。

この点についての近年の検討としては、黒田基樹氏による研究、そしてこれを批判した原口和子氏の研究が存在する。知名度においては前者がまさるが、後発研究である後者は、前者の矛盾を指摘し、諸史料とより整合する議論を展開している点が、興味深い。

そこで本書では原口氏説をベースとして、道灌から資正に至る系譜論を紹介したい。

まず、実子資康がいた道灌が、甥を後継者としたとする資武状の記載であるが、実態を反映していた可能性が高い。そもそも道灌が実子資康を得たのは、数えで四十五歳の時である。扇谷上杉氏の家宰として大きな権力を振るい、幾多の合戦を指揮した道灌が、四十代半ばまで後継者を指名していなかった、という想定はむしろ不自然であろう。原口氏は、『太田道灌状』に、道灌の指示を受けて奥三保に長尾景春追討に向かった人物として「同名六郎」が登場することに着目する。

同名六郎とはすなわち太田六郎である。そして、六郎は太田氏惣領が名乗る仮名である。道灌状のこの記載は、この書状が書かれた文明十二年時点において、道灌が実子でない一族の人物を、後継者に指名していたことを示している。(実子資康は文面八年生まれであり、この時は数えで五歳である)

道灌は、四十代半ばまで実子に恵まれなかったことで、より若い時期に一族から後継者を指名しており、その後、実子が生まれた。そう考えれば、資武状と道灌状の記載は矛盾を生じない。

年代記配合抄を見ても、道灌の死後、その遺跡は、実子とは想定し難い「太田六郎右衛門」に速やかに継承されたように読める。
また、実子資康はその後「道灌家督」を称して六郎右衛門と敵対するのであるが、この継承が行われた文明十八年の年末には、江戸城に留まっていたことが確認される。その様子を記す万里集九の漢詩文も、この時点の資康を「道灌家督」と記していない。集九が、資康を道灌の家督継承者であると記し始めるのは、道灌の一周忌の様子を記した漢詩文からである。(※註で自論文紹介)

これらを総合すれば、道灌は晩年に実子資康を得たものの、すでに一族の別人物(六郎右衛門)が後継者としては決まっており、道灌死後の移籍継承も比較的すんなり進んだ。実子資康は、後にそれを不満に思い、自身こそが道灌後継者と称したが、当初は新惣領を受け入れていたーとの解釈が成立するであろう。

この解釈を是とすれば赤城神社年代記録に記された、道灌生前の資康の古河公方への出仕も、そこに新たな意味を見出すことが可能となる。実子資康は道灌の後継者として道灌生前から認められていた、とする黒田基樹氏は、この古河公方への出仕を、道灌後継者が資康であることのお披露目と位置付ける。確かに、このような意味合いはあったはずであるが、ここで注意すべきは、公方への出仕が太田氏にとっての伝統ではなかったことだ。
形式的には、公方の臣下は上杉氏であり、太田氏はその上杉氏の臣下に過ぎない。公方から見れば陪臣にあたる太田氏が、後継者を公方に出仕させる慣習は、あるはずもない。『北区史』は、資康の公方出仕から、道灌が公方直臣とならんと企図した可能性を指摘する。筆者もこれに賛同する。
このような行為が、太田氏の主人である扇谷上杉氏を刺激したであろうことも、容易に想像される。

道灌が、主人の扇谷上杉氏に謀殺されたのが、実子資康の公方出仕の翌年であることは、偶然ではないのかもしれない。
そもそも、有名な長尾景春の乱の始まりが、主人である山内上杉氏が、家宰長尾氏の惣領を景春としなかったことに端を発していることを思えば、太田氏の惣領の決定にも、主人である扇谷上杉氏の判断が一定の影響を及ぼしたことは間違いないだろう。
これらを合わせて考えていくと、
•太田氏には扇谷上杉氏も認めた道灌の後継者(非実子)が存在したが、
•後に実子を得た道灌が、扇谷上杉氏の意向に反して実子を後継者とすべく、公方の権威を頼ったのが、前例のない資康の公方出仕であった、
と考えれば、ここまで紹介した諸史料の記載は、相互に矛盾することなく説明されることになる。

道灌が甥にあたる人物を後継者としたとの資武状の記載は、一旦、そのまま受け入れてもよいだろう。

なお、黒田基樹氏は、実子資康が道灌の後継者であることは、道灌生前から一族内で認められていたのであり、この人物が太田氏惣領となれなかったのは、父の死後、扇谷上杉氏のもとを離反し、当時敵方であった山内上杉氏のもとに逃れたためである、と主張する。そして、資武状にある、甥が道灌から後継指名を受けたとの記述は、資康出奔の結果として道灌甥が太田惣領となったことが誤伝したものと解釈する。
この考え方が成立しないわけでは無いが、太田道灌状の「同名六郎」の存在をどう説明するかについては、述べられておらず、また、六郎右衛門の惣領就任後も、資康が江戸城に残っており、しかもこの時期には道灌家督を主張していなかったことについても言及がない。黒田氏説の根本は、万里集九が、資康を道灌家督と記したのとであるが、この漢詩人が資康こそ道灌の後継者と記すようになったのは資康出奔後のことである(※論文参照)。
道灌生前から実子資康が、次の太田惣領と一族に認められていたと出張するには、論拠が不十分と言えるだろう。



では、道灌の遺跡を継いだ、道灌の甥と考えられれ六郎右衛門は、太田資正とはどのような関係にあるのか。資武状が、道灌の後継者であり、資正の祖父であるとする義芳永賢と同一人物だったのか。

この点については、本書は別人説をとる。
理由は三つ。
一つは、六郎右衛門か、官途名「右衛門尉」を名乗ったことである。官途を名乗らなかったとわざわざ記載された義芳永賢と同一人物と考えるのは難しい。
二つ目は、没年の相違である。六郎右衛門は、永正二年に主人扇谷上杉氏によって誅殺された、と『年代記配合抄』に知るされる。一方、義芳永賢は、位牌や系図において没年が大永二年であったと記されている。扇谷上杉氏によって殺されたとの伝承もない。
三つ目は、六郎右衛門の後継者と考えられる、備中入道永厳との類似性である。年代記配合抄は、六郎右衛門が冲殺された後、その遺跡を「備中守」が継いだと記す。この人物は、この時代のものと比定される一次史料(●●)にみえる「備中入道永厳」(※後で確認)と考えられる。この「永厳」は、官途名を名乗った形跡がなく、しかも、永厳と義芳永賢は、同音(えいけん、えいげん)である。
原口和子氏は、右に挙げた永厳と永賢の共通点に加え、太田惣領の受領名「備中守」を名乗り、扇谷上杉陣営を代表して禁制を出した永厳と、“上杉氏を養う”という意味の「養竹院」を扇谷上杉本拠の河越近くに開基した永賢は、ともに扇谷上杉氏家宰としての振る舞いをしており、時代も重なることから、同一人物の可能性が高いと指摘する。
原口氏の指摘が正しい場合、太田資正の祖父義芳永賢は、太田道灌の跡を継いだ甥六郎右衛門の更に跡を継いだ人物ということになる。資武状の記載を受け入れれば、永賢もまた道灌の甥であり、六郎右衛門とは兄弟または従兄弟関係にあったと考えられる。

ただし、永賢=永厳説に課題が無い訳ではない。永賢が開基した養竹院の位牌は、開基者の受領名を「信濃守」と記している。石川忠総留書が記す永厳の受領名は備中守であり、ここに矛盾が生じる。
黒田基樹氏は、太田潮田系図に永賢の嫡男として記載される「備中守」を永厳に比定する。この場合、信濃守を名乗った永賢の嫡男が備中守を名乗った永厳だったことになる。そして、年代記配合抄の記載を正しいとすれば、六郎右衛門の遺跡を継いだのは、資正の祖父永賢その人ではなくその嫡男、すなわち資正からすれば伯父(父の兄)だった

と整理されることになる。
備中守は、道灌の父道真が名乗り、太田惣領を象徴する受領名であった。黒田氏説を是とし、父の永賢が信濃守、嫡男の永厳が備中守を名乗ったと想定するならば、六郎右衛門と同世代だった父永賢は太田惣領とはならず、六郎右衛門誅殺後に子の永厳が、一世代若い太田惣領となり、惣領の受領名である備中守を名乗ったとの解釈が成り立つ。
その場合、永賢が道灌の後継者であったとする資武状の記載は不正確だったことになる。ただし、子の永厳が惣領となったことで父の永賢が隠然たる権力者となり、その結果として、“上杉を養う”を意味するやや不遜な院号「養竹院」を名乗れたのであれば、永賢本人としては、六郎右衛門にとってかわり事実上の太田惣領となったとの自己規定が生まれたのかもしれない。

とはいえ、黒田氏説にも課題がある。永賢と永厳を同一人物ではなく父子とする場合、父子が、これほど似た同音の法名を名乗ることがあり得るだろうか。
また、黒田氏が永厳に比定する太田潮田系図の「備中守」は、同系図の中で早世したと記されている。しかし、永厳は年代記配合抄によれば影響正二年(一五〇五)に太田惣領となり、石川忠総留書によれば大永四年(一五二四)時点でも存命であり、山内上杉氏との和睦交渉を進めている。すなわち、永厳は、少なくとも十九年間にわたり太田惣領として活躍したことになる。このような人物が、仮に石川忠総留書の記載の直後に没したとして、「早世」とされるだろうか。

永賢と永厳の関係については、同一人物説(原口氏説)、父子説(黒田氏説)のそれぞれに説得力があり、同時に課題も存在する。

本書としては、資正の祖父永賢が、道灌死後の太田氏において惣領もしくはその父として一族内、そして扇谷上杉陣営において指導者的立場にあった人物だったと述べるに留めることにしたい。
拙著『玉隠と岩付城築城者の謎』のプロトタイプとなった原稿を公開します。
ここから出版に向けて、いくつか大きな気づき•発見がありましたが、このプロトタイプ稿にはそれらは含まれていません。また、中世利根川の川筋は、明確に誤っています(出版本では専門家のご助言を受けて修正しています)

その辺りをご考慮の上、お読みいただけますと幸いです。
2021年10月3日に行われた、岩槻歴史散歩「岩付太田氏の史跡を歩く」。午前は街歩きを行い、午後は勉強会を行いました。
この午後の勉強会で使った講演資料を公開します。


タイトルは、「太田資正と息子氏資の岩槻」。
戦国争乱の中で敵と味方に別れた太田資正と嫡男氏資。史料を踏まえつつ想像力の翼を広げ、この二人のすれ違いと愛憎を想いました。


私は太田資正を愛する歴史ファンですが、この偉大な父に挑んだ息子氏資も大好きです。そして、氏資との間に生まれた娘•小少将を守った女性•長林院も。


この講演は、最後は涙ぐんでしまい、声が震えてきちんと話せませんでした。





太田資正公生誕500年祭の準備として行われた、2021年7月の勉強会の講演パワポ。太田資正関連のさいたま市市史跡にはご関心ある方も多いと思うので、公開しようと思います。
(試みとして行いますので、後で公開を取り消すかもしれません)

引用の際は、必ず出所明記をお願いします。

こんな内容でした。





いまやアカデミアでは支持者のいない、岩付城(岩槻城)太田氏築城説。史料を再検討することで、同説には成立の余地があることを論じました。

各所での講演で用いた講演レジュメを公開します。
拙著『玉隠と岩付城築城者の謎』のサマリーとしてお読みいただけますと幸いです。

本レジュメを引用するケースは無いと思いますが、もしも引用される際には出所明示をお願いします。

去十三日、政能方江折紙到来候間、翌日必可進旗之処、顕定申旨候、因茲延引、然而十四日未刻伊勢新九郎退散由其聞達続、可属御心意之時節純熟候歟、目出候、宗瑞敗北、偏其方岩付江合力急速故候、戦功感悦候、仍凶徒高坂張陣之時不被差懸段、顕書中候、先以理候、雖然顕定不庶義調儀更難候、爰元可令推察候、惣別悠之様候、於吉事之上無曲子細出来事可有之哉、被進勝陣候事も非関覚悟計候、委旨五郎可申遣候、謹言、

十一月十七日 (花押)

簗田河内守殿

太田道灌が、真に南関東の覇者となっていくのは長尾景春の乱を鎮圧した文明12年以降。

そう考えると、長尾景春の乱の前に書かれた寄題江戸城静勝軒詩序より、乱鎮圧の数年後に書かれた静勝軒銘詩並序の方が、道灌は圧倒的な存在として書かれて当然。

しかし、改めて読んでみると、そうなっていないのです。

宇宙に道灌公と争う者など無い、とした寄題江戸城静勝軒詩序には、道灌の上位者たる扇谷上杉も、山内上杉も現れない。両上杉の上位者である古河の公方も現れません。

しかし、静勝軒銘詩並序には「従京師蓮府之命、為其君而割拠」とあり、其君=扇谷上杉定正が登場します。

また、「東兵」という表現で、古河公方も登場します。

より権勢を増したはずの長尾景春の乱後の道灌は、なぜか、以前よりも窮屈な称揚を受けているのです。

なぜか。

公方登場は、すでに都鄙和睦で味方であり、上位者として無視できないため。しかも、千葉氏攻めで道灌は公方と協力関係です。

扇谷上杉定正が「其君」として登場するのは、かつて道灌がキングメーカーとして指名した庶流出身の若き当主が、実績を積み、実力的にも無視できない存在になろうとしていたからでは無いでしょう。

当主になった文明6年、定正は31歳でした。しかし、静勝軒銘詩並序が書かれた文明17年頃には42歳です。

押しも押されぬ壮年期の扇谷上杉当主、定正。その将才は、後の関東三戦からもわかる通り、非凡なものがあります。

長尾景春の乱鎮圧後の圧倒的な道灌の存在感が徐々に薄まるなか、主君定正に対する家宰道灌、という本来の関係性が蘇りつつあった。

だから道灌は、扇谷上杉当主を半ば無視した漢詩文での自身の称揚を、少しセーブせねばならなかったのではないか。

静勝軒銘詩並序が、道灌による江戸占有(割拠)が、わざわざ、室町幕府の指示であり、扇谷上杉のためであったと記載するのも、道灌の窮屈さを感じさせます。

また一方で、道灌が江戸城に居することを「割拠」と表現させ、扇谷上杉当主から半ば独立した存在であることを宣言しようとしたことも、自身の権利を守ろうとする道灌の意向を感じさせます。

考えてみれば、家宰の道灌が、主君定正のいる河越で仕えていないのは、おかしなこと。

利根川左岸の古河公方陣営が敵であった時代には、扇谷当主が河越、家宰が江戸に、と手分けすることに意味がありました。
しかし都鄙和睦がなった時代には、この言い訳は成立しなくなります。

主君の存在を無視できないが、しかし自身の権利(江戸割拠)は認めさせたい。そんな道灌の想いが、

ここに読めると言ったら、深読みのしすぎでしょうか。

しかし、道灌が、執拗に下総千葉氏攻めに拘ったこと、嫡男資康を古河公方に出仕させたことは、道灌が江戸を中心とした独立勢力としての自身の権利確保に動いたことと結びつけると、むしろ理解しやすくなります。

道灌よ、あなたは怖かったのではないか。

次第に当主としての格をまとい始めた定正が。家宰としての分を守れと言われることを恐れたからこそ、江戸の敵である下総千葉氏との抗争を推進し、自身が江戸に「割拠」する必然と、更なる権利拡大を狙ったのではないか。
公方とも結びつつ。

ちょっと、妄想が捗り過ぎました。

でも、この妄想、次の埼玉史談に掲載される「太田道灌死後の父道真の政治的位置(後編)」における、私の「郭公希」の解釈とガッチリ符合するんですよね…

また後でまとめてみようと思います。


戦国史研究第84号、やっと読みました。
お目当ては、黒田基樹先生の「新出の上杉憲勝書状」。
短い論考ですが、上杉憲勝書状の全文翻刻があり、非常に興味深く読ませていただきました。


非常に興味深いのは、黒田先生が花押から分析されているように、上杉憲勝が扇谷上杉の当主として自身を位置付けていたこと。


太田資武状では「扇谷管領舎弟」や「七沢七郎」とのみ記され、ディスり気味ですが、それは神輿としての憲勝を捨てた太田資正の都合です。


やはり太田資正は、扇谷上杉最高の旗印として上杉憲勝を擁立したのでしょう。


そして興味深いのは、この書状において、謙信(政虎)や佐竹義昭等が登場し、岩付領を守る難波田城の話題が出ているのに、太田資正が一切登場しないこと。


主体は憲勝。担ぐ資正は、完全に黒子に回っています。


また面白いのは、

•葛西城が江戸城に対する向城

•難波田城が河越城に対する向城

であることが、明記されている点。


葛西城が扇谷上杉陣営にとって、北条方の江戸城の向城であったことは地形から自明ですが、しかし同時代人の証言として一次史料で確認できるのは、大きいことです。


加えて、難波田城が河越城の向城であるとの認識が興味深い。


だって、河越城は、北の石戸城や北西の松山城にも対峙する城です。


その河越城の向城が難波田城という認識は、憲勝の視座が、河越城から見て難波田城方向に広がる空間=南足立郡に置かれていることを窺わせます。


しかも、この書状の中で、上杉憲勝は、謙信(政虎)が越後から「帰宅」して再び関東に戻ったら、江戸に「長陣」を敷くと記しています。


憲勝の視線の先には常に江戸城があるのです。


おそらく、この書状が書かれた時点で、憲勝は、江戸城を押さえる役回りを担っていたのでしょうね。


すると、上杉憲勝が松山城に入ったのは、永禄四年八月より後だったことになります。


松山城が、北条方の反撃に初めて晒されたのは、永禄四年十月です。

北条氏は、永禄四年八月に三田氏を滅ぼし、九月に藤田氏領国に入り、十月に返す刀で太田資正が押さえる松山城を攻めます。


逆に言えば、八月時点では、永禄四年八月時点では、まだ三田氏は残っています。


北条氏の北方面(鎌倉街道上道)の反転攻勢は三田氏が迎え撃ち、

憲勝&資正は東方向や北東方向への反転攻勢を迎える体勢にあったのでしょう。


ところがその後、三田氏が抜かれ、北条氏が上州に至るルートを確保してしまうと、謙信が越後から関東に来ても、上野止まりになってしまい、南関東が危機に陥る。


そこで、資正は、憲勝を松山城に入れ、役回りを大きく変えることにしたのでしょう。


今回の新出書状は、憲勝の役回りが松山防衛になる前のものと考えることができます。


では、では松山城が危機に陥る前の時点で、なぜ資正は、主人筋の重要な駒である憲勝を葛西•江戸方面にあてたのか。


それは、葛西が守られれば、里見と岩付太田が繋がるため。葛西が旧扇谷上杉陣営の最後の海港であり、内陸水運の入り口でもあったため。


この要所を守り、足利一門でもある里見と結ぶには、扇谷上杉当主である憲勝の存在が、味方の鼓舞に使え、里見との交渉にも対等なカウンターパートを立てられるからでしょう。


加えて、江戸の北条方の最大領主であり、かつては扇谷上杉臣下であった江戸太田に対する圧も期待したかもしれません。


上杉憲勝は、そんな風に便利な駒として、使われていたのではないか。と、妄想が捗りました。


永禄四年八月頃、扇谷上杉の王国は、憲勝を旗頭として、一瞬、復活していたのでしょう。


ところで、


遠山丹波守二男小幡源二郎当方罷移候、是又被相稼候故、過半境押詰候、


って、どういうことですか?


北条方の遠山綱景の次男が、上杉憲勝側に寝返っていた?


本当なら、永禄四年八月は束の間の扇谷上杉ボーナスシーズンだったのかもしれませんね。