2023年6月11日に、NPO法人越谷郷土研究会にて実施した講演「戦国武将太田資正の生涯と中世越ヶ谷」。事務局の許可を得て、公開いたします。
前半は“いつもの”太田資正パワポ、
後半で越谷地域と資正の関わりを論じました。
私は太田資正を愛する歴史ファンですが、この偉大な父に挑んだ息子氏資も大好きです。そして、氏資との間に生まれた娘•小少将を守った女性•長林院も。
この講演は、最後は涙ぐんでしまい、声が震えてきちんと話せませんでした。
去十三日、政能方江折紙到来候間、翌日必可進旗之処、顕定申旨候、因茲延引、然而十四日未刻伊勢新九郎退散由其聞達続、可属御心意之時節純熟候歟、目出候、宗瑞敗北、偏其方岩付江合力急速故候、戦功感悦候、仍凶徒高坂張陣之時不被差懸段、顕書中候、先以理候、雖然顕定不庶義調儀更難候、爰元可令推察候、惣別悠之様候、於吉事之上無曲子細出来事可有之哉、被進勝陣候事も非関覚悟計候、委旨五郎可申遣候、謹言、
十一月十七日 (花押)
簗田河内守殿
非常に興味深いのは、黒田先生が花押から分析されているように、上杉憲勝が扇谷上杉の当主として自身を位置付けていたこと。
太田資武状では「扇谷管領舎弟」や「七沢七郎」とのみ記され、ディスり気味ですが、それは神輿としての憲勝を捨てた太田資正の都合です。
やはり太田資正は、扇谷上杉最高の旗印として上杉憲勝を擁立したのでしょう。
そして興味深いのは、この書状において、謙信(政虎)や佐竹義昭等が登場し、岩付領を守る難波田城の話題が出ているのに、太田資正が一切登場しないこと。
主体は憲勝。担ぐ資正は、完全に黒子に回っています。
また面白いのは、
•葛西城が江戸城に対する向城
•難波田城が河越城に対する向城
であることが、明記されている点。
葛西城が扇谷上杉陣営にとって、北条方の江戸城の向城であったことは地形から自明ですが、しかし同時代人の証言として一次史料で確認できるのは、大きいことです。
加えて、難波田城が河越城の向城であるとの認識が興味深い。
だって、河越城は、北の石戸城や北西の松山城にも対峙する城です。
その河越城の向城が難波田城という認識は、憲勝の視座が、河越城から見て難波田城方向に広がる空間=南足立郡に置かれていることを窺わせます。
しかも、この書状の中で、上杉憲勝は、謙信(政虎)が越後から「帰宅」して再び関東に戻ったら、江戸に「長陣」を敷くと記しています。
憲勝の視線の先には常に江戸城があるのです。
おそらく、この書状が書かれた時点で、憲勝は、江戸城を押さえる役回りを担っていたのでしょうね。
すると、上杉憲勝が松山城に入ったのは、永禄四年八月より後だったことになります。
松山城が、北条方の反撃に初めて晒されたのは、永禄四年十月です。
北条氏は、永禄四年八月に三田氏を滅ぼし、九月に藤田氏領国に入り、十月に返す刀で太田資正が押さえる松山城を攻めます。
逆に言えば、八月時点では、永禄四年八月時点では、まだ三田氏は残っています。
北条氏の北方面(鎌倉街道上道)の反転攻勢は三田氏が迎え撃ち、
憲勝&資正は東方向や北東方向への反転攻勢を迎える体勢にあったのでしょう。
ところがその後、三田氏が抜かれ、北条氏が上州に至るルートを確保してしまうと、謙信が越後から関東に来ても、上野止まりになってしまい、南関東が危機に陥る。
そこで、資正は、憲勝を松山城に入れ、役回りを大きく変えることにしたのでしょう。
今回の新出書状は、憲勝の役回りが松山防衛になる前のものと考えることができます。
では、では松山城が危機に陥る前の時点で、なぜ資正は、主人筋の重要な駒である憲勝を葛西•江戸方面にあてたのか。
それは、葛西が守られれば、里見と岩付太田が繋がるため。葛西が旧扇谷上杉陣営の最後の海港であり、内陸水運の入り口でもあったため。
この要所を守り、足利一門でもある里見と結ぶには、扇谷上杉当主である憲勝の存在が、味方の鼓舞に使え、里見との交渉にも対等なカウンターパートを立てられるからでしょう。
加えて、江戸の北条方の最大領主であり、かつては扇谷上杉臣下であった江戸太田に対する圧も期待したかもしれません。
上杉憲勝は、そんな風に便利な駒として、使われていたのではないか。と、妄想が捗りました。
永禄四年八月頃、扇谷上杉の王国は、憲勝を旗頭として、一瞬、復活していたのでしょう。
ところで、
遠山丹波守二男小幡源二郎当方罷移候、是又被相稼候故、過半境押詰候、
って、どういうことですか?
北条方の遠山綱景の次男が、上杉憲勝側に寝返っていた?
本当なら、永禄四年八月は束の間の扇谷上杉ボーナスシーズンだったのかもしれませんね。






