- 黒田基樹先生は、岩付城を築いた古河公方方の成田氏であるとし(『扇谷上杉氏と太田道灌』)、この後、岩付城を同じ古河公方方の渋江氏に譲渡したと論じます。
- 青木文彦先生は、永正7年(1510)に岩付城主と確認される渋江氏が、この時点でも岩付城主であったと論じます。

藩中古文書の推定天正12年6月18日付の三楽斎道誉書状より
— 太田資正と中世太田領の研究(資正研) (@medieval_oota) 2021年8月29日
“先年御祖父様佐貫ニ御在城、正大名誉有人体、種々氏康へ雖被過馳走候、河越陣無正体上、於佐貫被得御難儀候、淵底岡本方其外年寄衆被存候、老拙九月廿八松山則候、其故佐貫取詰候、南人十月朔日二日間敗北候”
太田資正の昔語りが面白い! pic.twitter.com/OpLaK6QLLk
見落としていました!
— 太田資正と中世太田領の研究(資正研) (@medieval_oota) 2021年8月28日
この三楽斎道誉書状に、天文15年の里見義尭の佐貫城攻略は同年9月28日の太田資正の松山城奪還によって叶ったとの記載!
年代記配合抄の「九月」は正しく、太田資武状の「八月廿八日」は月違いですね。
『太田資正と戦国武州大乱』の時、この書状まで調べられませんでした。 pic.twitter.com/pkTlP9NQ3S
久しぶりの更新です。
今回アーカイブするのは、こちらのツイート。
永禄九年の上杉謙信による小田攻めに参加した国衆の地図上プロットです。
永禄九年の上杉謙信の小田城攻めに参加した国衆。
— 太田資正と中世太田領の研究(資正研) (@medieval_oota) August 29, 2021
オブジェクトの大小はざっくり参加”騎数”比例です。
臼井城攻めにも同じメンツが参加したはず。
これだけ勢ぞろいで臼井城を抜けず、里見・酒井勢と北関東勢の分離状態も解消できなかったことが、謙信の権威失墜の原因だったのではないか。 pic.twitter.com/2pR1TDjiuc
(地理院地図・陰影起伏図をもとに当ブログ主作成)
地図上の○オブジェクトは、参加した謙信方の大名・国衆たち。
オブジェクトの大きさは、『上杉輝虎公記』(岩槻市史 古代中世史料編1174)に記された”騎数”を示したものです。
内訳は、以下の通り:
結城 二百騎
小山 百騎
榎本 三十騎
佐野代官 二百騎
横瀬 三百キ
長尾但馬守 百キ
成田 二百キ
広田 五十キ
木戸 五十キ
簗田 百キ
富岡主税助 三十キ
北条丹後守
沼田衆
房州衆 五百キ
酒井中務丞 百キ
太田 百キ
野田 五十キ
宇都宮代官 二百キ
佐竹同心共代官 二百キ
錚々たる面々です。臼井城攻めにも同じメンツが参加したはず。
これだけ勢ぞろいで臼井城を抜けず、里見・酒井勢と北関東勢の分離状態も解消できなかったことが、謙信の権威失墜の原因だったのでしょう。
なお、この謙信の臼井城攻めの意図については、こちらのツイートでも語ってみました。
岩付太田が健在ならば、荒川ラインに北条氏を封じ込みできます。
— 太田資正と中世太田領の研究(資正研) (@medieval_oota) August 29, 2021
しかし永禄七年に岩付太田は、北条方へ。
次なる謙信方の手は、利根川ー常陸川ラインでの封じ込め。その主役は、羽生ー関宿ー臼井のラインだったのではないか。
里見と連動とした永禄九年の臼井城攻めに、その意図を感じます。 pic.twitter.com/ijhTK7B9vB
岩付太田氏が健在ならば、謙信方は、荒川ラインで北条氏を封じ込みできます。
しかし永禄七年に岩付太田は、北条方へ。
反北条の当主・太田資正は、親北条の嫡男・氏資によって岩付を追放されてしまいました。
資正健在の時は、岩付領ー葛西城ー国府台城を介して、謙信は房総の里見勢と連携が可能でしたが、この繋がりは断たれることになります。
次なる謙信方の手は、
利根川ー常陸川ラインでの里見氏との連携・北条氏封じ込めだったのではないでしょうか。
そして、その主役は、羽生ー関宿ー臼井のラインだったのではないでしょうか。
(地理院地図・陰影起伏図をもとに当ブログ主作成)
永禄九年の小田攻めは、関宿を守るため。
同年の臼井城攻めは、里見氏との連携路を復活させるため。
・・・だったのではないか、と推測します。
永禄九年の臼井城攻めは、里見氏が主導したと伝わりますが、同時に謙信指揮下の北関東勢も参加しています。
なぜ、謙信はこんなに遠くまで遠征したのか。
なぜ、北関東勢は謙信の命令とは言え、この遠征に従ったのか。
それは、この時の臼井城攻めが、北関東と里見を繋げる意図もあったと考えれば、説明できるのではないでしょうか。
そして、それが叶わなかったからこそ、謙信方による連携と北条氏封じ込めの破綻は確定し、北関東勢の雪崩を打ったような離反が生じたのではないでしょうか。
- 「時の蔭涼軒主亀泉集証のもとへやってきた景雪澄顕が、鎌倉十刹に建長寺の坐公文を望む者(筆者註記:竺雲顕騰)がいて、十刹の公帖を持って来たことを告げられ、このように確かに十刹公帖が存在する以上はどのように処置したらよいかを亀泉に問うている」
- 「問題となってくるのが、関東公方が幕府に申し入れをする際は、関東管領上杉氏を通じて行うとされた[先規]であった。[史料3](筆者註記:『蔭涼軒日録』延徳六月二日条のこと)にみられる申し入れは上杉氏を通じてなされたものではなかったのである。」
- 越後府中至徳寺の僧侶がやって来て、竺雲顕騰の建長寺公帖のことについて関東管領から判門田鶴寿へ送られた書状の存在を明らかにした、
- 亀泉は、関東管領上杉顕定から上杉氏在京雑掌判門田氏に宛てた書状を管領の吹挙状と看做すことによって、この問題を解決しようとした、
- 扇谷上杉氏が相模国全域と武蔵国の南東部を押さえ、
- 山内上杉氏(関東管領上杉氏)が上野国全域と武蔵国北西部を押さえる、

- 竺雲顕騰の建長寺住持就任に賛成していたが、
- 関東管領の山内上杉氏に吹挙状を求めることができない状況にあった、
- 対立する政治権力同士が和睦に至る際には、その象徴となることはできるが、
- 対立先鋭期の政治権力間の抗争を超越した立場に立つことはできない、
本稿も、拙著『玉隠と岩付城築城者の謎』の“やむ落ち”原稿です。
玉隠が上杉房定を「前相模守」とした訳
先に本稿ではでは、室町後期の五山文学において、「太守」や「刺史」等と漢訳されたのは受領名「○○守」ではなく、守護職「○○守護」であったことを論じた。そして、これを象徴する事例として、「越後守護」であり、同時に「相模守」でもあった上杉房定が、万里集九によって「相州太守」ではなく、「越州太守」と表現されたことを紹介した。統治実態の無い受領名「相模守」は太守と漢訳されず、太守とされたのは統治実態のある「越後守護」であったことを、これほど端的に示された事例は無いであろう。
ところが、玉隠はやや異なる表現で上杉房定を漢詩文において登場させている。上杉房定の息子である関東管領・山内上杉顕定が喪主となった亡母(すなわち房定の妻)の七回忌において、玉隠は房定を「前相模守」と表現しているのだ。
受領名「相模守」が、「相州太守」と漢訳されず、大和式の「相模守」のまま登場する。このこと自体は、“室町後期の五山文学において「太守」や「刺史」等と漢訳されたのは、受領名「○○守」ではなく、守護職「○○守護」であった”という筆者の主張と矛盾を生じず、むしろ整合的と言える。
しかし、なぜ玉隠が、万里集九と同様の「越州太守」との漢文表現を取らず、あえて倭臭を漂わせる「相模守」という表現を用いたのだろうか。この点の検討も必要であろう。伊勢宗瑞が葬儀の祭文で「故賢太守」と呼ばれたように、五山文学では漢文式の「太守」こそ、通常持ち答える表現だと考えられるにもかかわらず。
結論から述べれば、筆者は、喪主である山内上杉顕定が、自身がいまや相模国の国主となったことを強調するため、父房定を敢えて「前相模守」として登場させたのではないかと推測する。
山内上杉顕定の亡母七回忌は、永正三年(1506)に開催された。
永正三年は、山内上杉氏が扇谷上杉氏との18年間にわたる抗争(長享の乱)を勝利で終結させた永正二年の翌年であり、この時の顕定は、相模国守護であった扇谷上杉朝良を屈服させたばかりであった。
顕定が鎌倉からわざわざ玉隠を呼び、上野国海龍寺で法語を行わせたことも、相模国の国主がもはや扇谷上杉氏ではなく山内上杉氏になったことを周囲に知らしめるための一種のデモンストレーションだったとも考えられる。
この時、顕定は、「相模国守護」であった扇谷上杉氏を従わせたことを示すためにも、自分の家系が父の代から相模国の国主であったと示したかったのではないだろうか。こう考えれば、玉隠に、父を漢文式に「故越州太守」とさせず、あえて倭臭漂う受領名「前相模守」で呼ばせた理由も説明がつく。
もしかすると「故相州太守」と呼ぶことを、顕定は求めたかもしれない。しかし、統治実態の無い上杉房定の受領名「相模守」を「相州太守」とすることは、当時の五山僧の漢詩文の在り方に沿わない。玉隠はこれに抵抗を示し、妥協案として「相模守」を漢文化することなく、そのまま日本式の「相模守」のまま登場させた、という想像もできるであろう。
玉隠が、この顕定亡母の七回忌において、顕定を「藤家棟梁」と呼び、この人物が藤原氏であった上杉家(扇谷上杉・山内上杉)のトップの座に立ったことを称揚したと考えらえることは、先に示した通りである。
こうした称揚の技法を駆使する玉隠であれば、顕定が相模国守護であった扇谷上杉氏を屈服させた勝利宣言となるよう、顕定の父・房定をあえて五山文学のルールに沿った漢文表現「越州太守」でなく、和語である「前相模守」で呼んだことは、十分想定される。
そして、この議論は、鎌倉五山の高僧が、鎌倉の外護者となった政治権力の意向にきわめて敏感であったことの証左と位置付けられるのではなだいだろうか。
それにしても、何と美しい詩でしょう。
秋風のもと、傾き始めたさそり座の一等星アンタレスを歌う。そして、古代の農民たちが勤しんだ季節の労働とその喜び、そして先祖への敬意と子孫たちへの温かい反が繁栄の願い。
素朴にして雄大、そして深い。
古来、中国においてこの詩が、人間社会の理想の形を描いたものとされたのも、自然と頷けます。
この詩を歌った古代の人々の想いを、私はとても近くに感じます。
拙著『玉隠と岩付城築城の謎』において、図8としてご提示したのが、享徳の乱初期の足利成氏の攻勢図。
古河から利根川を越えて騎西城を押さえた足利成氏は、同城を起点として埼西郡・足立郡に攻勢を仕掛けます。
両郡防衛のため、扇谷上杉陣営が河越・岩付・江戸の三城を築いたと『鎌倉大草紙』が記したのは、まさにこの時。
このタイミングでの岩付城の築城は、黒田基樹先生によって否定されたのですが、状況としては、まさに岩付城の築城が求められる状況であったことが窺われます。
拙著『玉隠と岩付城築城者の謎』では、「自耕斎詩軸并序」に登場する岩付城築城者「自耕斎」(法名は正等)を、太田道真に比定しました。
この人物比定が、小宮勝男氏の『岩槻城は誰が築いたか』(2012年、さきたま出版会)の議論を踏襲したこのであることは言うまでもありません。
拙著では、小宮氏の自耕斎=太田道真説を再検証し、更なる補強を行いました。
しかし、頁数制限の問題で、掲載を断念した議論も存在します。
その一つが、太田道真以外に「自耕斎」(正等)に比定される太田氏はいないのか?という議論です。
拙著を読んでくださった、あるアカデミアの先生からも、「自耕斎を太田氏に比定するに際して、比定される太田氏は太田道真と決めつけていないか。自耕斎たりえるのは太田道真のみなのか。この点を検討する必要があるだろう」(大意)とのご指摘を受けました。
しまった・・・と思いました。
実は、当初の現行では、この点についても検討を加えていたのです、頁数の関係で結果的に“やむ落ち”となったこの検討は、やはり提示すべきでした。
反省し、補遺として元原稿の考察を以下に提示したいと思います。
(拙著の160頁付近に挿入される予定の文章でした)
↓↓↓文章が「である」調に変わります↓↓↓
「自耕斎」と太田道真
「自耕斎」(正等)に比定される太田氏として、太田道真が最有力候補とされる点は、首肯いただけるであろう。
そもそも太田道真は『鎌倉大草紙』(埼⑧43)が岩付城の築城者と記す人物である。
また、小宮氏が指摘したとおり、「詩軸」が「収取功名退者天之道也、一家機軸、百畝郷田、付之於苗裔顕泰也」と記述する正等の早めの隠居と家督譲渡は、五十歳で隠居し、息子に家督を譲った後、八十代まで生きた道真の人生と重なる。
加えて、「詩軸」が書かれたのは明応六年(1497)であり、正等はその時点で故人とされている(故金吾)ことも、正等=道真説に対して支持的である。道真は、長享二年(1488)あるいは明応元年(1492)に没したとされており 、時系列的に整合する。
「詩軸」が記す現役時代の自耕斎の活躍記述「白羽扇指揮三軍守其中」も、この時代の五山文学において諸葛孔明の比喩が適用された武将が扇谷上杉定正や伊勢宗瑞ら以外に見られないことを踏まえれば、彼らと同等の権限を有した最盛期の太田道真への称揚として適切とみることができる。
更には、自ら号した斎号に合った絵を複数の鎌倉五山僧に示し、彼らを使役して詩を書かせた自耕斎の行為(自顔曰自耕、而絵以求詩、有聴松住持龍華翁詩、懶菴亦其員而、詩序贅之)も、この人物が並々ならぬ権力を有したことを示唆する。相模国守護代として、鎌倉五山の庇護者の役割を果たした太田道真ならば、可能な行為と言えよう。
しかし、道真以外に自耕斎に比定される太田氏はいないのだろうか。自耕斎=太田道真という仮定の下に議論を進める前に、この点を検討しておきたい。
「自耕斎」は惣領
「自耕斎」を太田氏に求める場合、それは同氏の惣領以外にはあり得ない。
「故金吾」とされる自耕斎が、生前、衛門府の官職(左衛門大夫や右衛門尉など)であることは間違いない。そして、太田氏一族でこうした衛門府の官職を名乗ったのは、惣領のみなのだ。
道灌が「左衛門大夫」を名乗ったこと、そして弟の資忠が「図書助」を名乗ったことは有名である。道灌の右腕と言うべき実力者であっても、惣領道灌が衛門府の官職を名乗る以上、これと同等の官職は名乗れない。
管見の限り、太田氏の系譜史料(系図・家記・家譜等)において、惣領以外の人物が衛門府の官職を称する事例はみられないのである。
以上より、「自耕斎」を道真以外の太田氏に求める場合、その候補は、道真の前後の“惣領”に見出すよりないことは、首肯いただけるであろう。
同時に、「左衛門丞」を名乗った顕泰も、太田氏に該当する人物を求めるならば、同氏の惣領でなければならないことになる。
道真前後の太田氏惣領は「自耕斎」たり得るか
では、道真の前代惣領が自耕斎である可能性を検討したい。
この場合、その次代の惣領であった道真が「詩軸」を書かせた岩付左衛門丞顕泰ということになる。この想定は可能だろうか。
答えは否である。太田道真はが「詩軸」の書かれた明応六年以前に没している。岩付左衛門丞顕泰であることはあり得ないのだ。
次に道真の次の惣領が自耕斎である可能性を検討したい。しかし結論から言えば、これも想定は難しい。
道真の次の惣領は太田道灌であるが、道灌は隠居前に謀殺されている。悠々自適の隠居生活を送った正等の人物像に合致しない。しかも、その没年は文明十八年(1486)であり、「詩軸」が書かれた明応六年には既にこの世にないのだ。
道灌後の惣領である「六郎右衛門尉」も、没年が永正二年(1505)と伝えられている(年代記配合抄)。六郎右衛門尉を、明応六年(1497)時点で故人であった自耕斎に比定することはできないのだ。
「自耕斎」たり得る太田惣領は道真のみ
このように、道真前後の太田氏惣領を「自耕斎」に比定しようとしても、必ず矛盾が生じてしまう。
自耕斎=太田氏との仮定を置くとき、
- 惣領であること、
- 年代が合う(明応六年にこの人物が故人であり、息子が存命であること)こと
太田氏築城説の立場を取るとき、自耕斎は、太田道真に比定するしかないのである。
「顕泰」たり得る太田惣領は六郎右衛門尉のみ
実は、岩付左衛門丞顕泰も、太田氏惣領にこの人物を比定するならば、候補となるのは太田六郎右衛門尉しかいない。
それは、
- 衛門府の官職を名乗っている以上、顕泰は太田氏ならば、その惣領であったことになり、
- 自耕斎詩軸并序が書かれた明応六年(1497)時代の太田氏惣領は、六郎右衛門尉に特定される(六郎右衛門尉は文明十八年(1486)に惣領となり、永正二年(1505)に誅殺された)
自耕斎父子が太田氏であった、との仮定を置く時、父が太田道真に特定されるだけでなく、子は六郎右衛門尉に特定されることになるのだ。

- 道灌実子の「資康」が、扇谷家のもとを去って山内上杉氏を頼り、その陣で道灌の家督を継いだ後継者を名乗ったこと(梅花無尽蔵)、
- 養子と思わしき「六郎右衛門尉」が、扇谷上杉氏方に残り、同氏方の太田氏の惣領となったこと(年代記配合抄)










