岩付太田以前の岩付の主、渋江氏。

岩槻の郷土史家の論考を除くと、黒田基樹先生の著作・論文しか研究がなく、黒田先生叙述が通説化する状況です。

黒田先生には、1994年の論文「扇谷上杉氏と渋江氏」(岩田書院『戦国期東国の大名と国衆 』収録)で、一次史料で確認される最古の岩付城主が渋江孫太郎であることを論じる等、偉大な功績があります。

しかし、同論文で提起された仮説=「渋江氏は足利政氏時代から古河公方の奉公衆であった」は、十分な根拠が示されないまま、その後、『図説 戦国北条氏と合戦』では史実として断定的に叙述(※)されています。

(※)後で紹介する、大永4年(1524)から享禄4年(1532)まで展開された渋江氏vs太田氏の岩付抗争に触れる段で、渋江氏は古河公方奉公衆であったと述べられます。



では、渋江氏が足利政氏の時代から古河公方の奉公衆であったとする黒田先生説は、史実と断言できる程、蓋然性の高い説と言えるでしょうか
大きな疑義が3つあります。

疑義①渋江陰徳斎宛の足利晴氏書状

埼玉県史料叢書12に「付142号」として掲載される、渋江陰徳斎宛の足利晴氏書状。

黒田先生は先に紹介した論文「扇谷上杉氏と渋江氏」の中で、この書状を渋江氏が代々古河公方奉公衆だった証拠とします。

しかしこの書状、読んでみると渋江氏の働きについては、「氏綱代以来走廻候」と記されています。

北条氏綱が当主となったのは、永正15年(1518)。足利政氏の公方としての在職期間=延徳元年(1489) ~永正9年(1512)より後のことです。足利政氏の時代に対応するのは、氏綱の父、宗瑞です。

この書状を素直に読めば、渋江氏が古河公方のもとで奔走するようになったのは、北条氏綱の時代から。足利政氏の時代(氏綱の父の時代)に遡る、とは読めません。

北条氏綱の時代に、渋江氏は氏綱を頼って、太田氏と岩付争奪の攻防戦を戦います。しかし、大永4年(1524)から享禄4年(1532)まで繰り広げられた抗争は、最後は太田氏の勝利に終わります。

渋江氏は、岩付を追われ、先に紹介したように、古河公方・足利晴氏の側で仕える存在として史料上でも確認されるようになっていきます。

こうした情勢推移を踏まえると、渋江氏と古河公方・足利晴氏の縁は、渋江氏が岩付を太田資頼に奪われてから生じたもの、とみるのがむしろ自然であるように思えます。

晴氏は北条氏綱から嫁を迎えており、北条方でした(後に天文14年の河越合戦では北条氏と対決しますが)。

氏綱が、岩付を追われた渋江氏を、足利晴氏に仕えさせたと考えれば、「氏綱代以来走廻候」には合点がいきます。

繰り返しますが、少なくとも、この書状の表現から、渋江氏が、氏綱の父・宗瑞や、晴氏の祖父・政氏の時代から古河公方の奉公衆であったことを確認することはできないでしょう。


疑義②足利政氏書状の「合力」

では、足利政氏の書状に、渋江氏は登場しないのか。
登場します。その一つが、推定明応三年(1494)の簗田河内守宛の足利政氏書状(埼玉県史料叢書11の617号)です。

この書状で、政氏は、配下である簗田河内守に、「岩付」への「合力」を命じたことを記しています。
この時の「岩付」勢力については、諸説あります。
  • 黒田基樹先生は、岩付城を築いた古河公方方の成田氏であるとし(『扇谷上杉氏と太田道灌』)、この後、岩付城を同じ古河公方方の渋江氏に譲渡したと論じます。
  • 青木文彦先生は、永正7年(1510)に岩付城主と確認される渋江氏が、この時点でも岩付城主であったと論じます。
いずれが正しかったとしても

「合力」は、独立勢力に対する加勢に使う言葉(久保健一郎『戦国大名の兵粮事情』(吉川弘文館))。この時点の岩付勢力が、古河公方の配下でなかった可能性が高いことがわかります。

青木説が正しければ、そのものずはり、岩付勢力=渋江氏が古河公方から独立勢力と見なされていることになり、奉公衆説は否定されます。

黒田説が正しい場合は、少々複雑です。
黒田説では、明応三年(1494)時点で、岩付城主は渋江氏ではありません。しかし、渋江氏は鎌倉時代からの同地域の有力領主であり、黒田先生説においても、後に成田氏から岩付城を譲渡されると想定されます。明応三年時点でも、岩付地域の有力勢力であったと考えるのが妥当でしょう。
その場合、渋江氏は、新たに岩付地域に移入し岩付城を築いた成田氏に仕える立場であったと想定されることになるでしょうか。

この時、渋江氏は古河公方奉公衆であり、成田氏は奉公衆ではなかったから、「合力」という表現が使われたとの反論は、可能かもしれません。

しかし、黒田先生は、1994年「扇谷上杉氏と渋江氏」で、成田氏と渋江氏をともに「足利政氏方の武将」と規定し、それ故に成田氏が築城した岩付城が渋江氏に譲渡された、主張します。
(なお、この譲渡説には史料根拠はなく、自説の岩付城成田氏築城説と、永正7年の岩付城主・渋江孫太郎を整合させるための想定であることが推測されます)

ところが、黒田先生の上記の想定(=成田氏・渋江氏はともに足利政氏方の武将)は、当の政氏書状の「合力」と矛盾することになります。

少なくとも、この政氏書状に、渋江氏が政氏の奉公衆であったことの論拠を見出だすことはできません。

疑義③渋江氏vs太田氏の岩付抗争の傍観

渋江氏が、古河公方の奉公衆であったと考え難いもう一つの理由は、大永4年(1524)から享禄4年(1532)まで展開された渋江氏vs太田氏の岩付抗争に対して、古河公方(この時は足利高基)が傍観の姿勢を取ったことです。

大永4年(1524)から享禄4年(1532)まで展開されたの渋江氏vs太田氏の岩付争奪戦は、黒田先生が『年代記配合抄』を用いて初めてその詳細を明らかにしたものです。

その推移は、
・大永4年(1524)2月に、太田資頼が北条氏綱を頼って岩付を攻め、城主の渋江右衛門大夫を討ち取る、
・同年7月に、扇谷上杉朝興が、武田信虎の助勢を受けて岩付を攻め、太田資頼が扇谷上杉陣営に帰参する、
・大永5年(1525)に、今度は渋江三郎が北条氏綱の助勢を受けて岩付を攻め、太田資頼は石戸城に退却する、
・享禄4年(1532)に、太田資頼が再び岩付を攻めて、渋江三郎を討ち、以降は岩付城主として収まる、
というもの。

渋江氏と太田氏の激しい抗争の裏には、扇谷上杉氏と北条氏の対立があったことがわかります。

そして、古河公方・足利高基が、この抗争に関わっていないことも、注目されます。
この時、足利高基が、扇谷上杉と北条の抗争を、警戒しつつ注視していたことは、埼玉県史料叢書12の94号(推定大永4年4月1日付の足利高基書状)からも、窺われます。
この書状で、足利高基は、配下の長南氏に北条氏の武蔵侵攻と扇谷上杉氏の対応ぶりを報じています。

もしも、岩付の渋江氏が、古河公方の奉公衆であれば、この注視姿勢は不可解です。なぜ、古河公方は、奉公衆である渋江氏が北条氏綱や扇谷上杉朝興の助勢を受けた太田資頼に攻められたのに、一切反応を示さなかったのか。

ところが、そもそも渋江氏は古河公方奉公衆ではなかったと考えれば、この不可思議は消え去ります。足利高基の傍観は、造作もなく説明できることになります。

3つの疑義が示すこと

足利晴氏時代に渋江氏が古河公方の傍らに仕えたことを以て、その関係が前代の高基時代、前々代の政氏時代に遡るとした黒田先生説。

仮説としては興味深いものの、矛盾する史料が多く、その蓋然性はさほど高くないことがわかります。
少なくとも、史実と断定できるものでないことは、明白と言えるのではないでしょうか。

深読み:渋江氏が古河公方奉公衆とされた訳

黒田先生が、矛盾を孕む渋江氏=古河公方奉公衆説を史実として断定的に叙述した(図説戦国北条氏と合戦)のは、何故でしょうか。

単なる検証不足で、上記の疑義に気づいていないためかもしれません。

しかし、気になるのは、渋江氏=古河公方奉公衆という仮定が、先生の岩付城成田氏築城説を補強するために登場した想定であることです。

1994年の論文「扇谷上杉氏と渋江氏」において、黒田先生は、岩付城の築城者が(従来信じられてきた太田道灌や道真ではなく)忍の成田氏であると提起し、断定しました。

しかし、この新説には課題がありました。
一次史料で確認される最古の岩付城主が渋江氏(渋江孫太郎)であり、成田氏ではないことです。

岩付城成田氏築城説が成立するには、岩付城主が、成田氏→渋江氏に移るストーリーが必要となります。

そこで登場したのが、成田氏と渋江氏がともに古河公方足利政氏方の武将であったため、政氏の指示で成田氏→渋江氏への岩付城譲渡がなされた、という説明です。

この想定がなければ、成田氏築城説は成立し難くなります。
しかし、渋江氏が古河公方の奉公衆であったことを直接示す史料はありません。そこで黒田先生はこの想定の理論的な補強に取り組むことにし、その結果として、足利晴氏書状を論拠として渋江氏=古河公方奉公衆説を提起したのではないでしょうか。
そして、学会から特に反論が無かったことを受け、その史実化に動いたのではないでしょうか。

むろん、ことの真偽は不明です。
渋江氏=(足利政氏の時代からの)古河公方奉公衆説は、岩付城成田氏築城説にとって都合の良い想定ですが、複数の史料と矛盾が生じます。

ならば、再検討が必要なはず。
1歴史ファンとして、そのような展開があることを願います。

先日購入した『藤岡町史 資料編 古代・中世』。

解説が詳しく、読みやすいため、既に知っていた書状についても、理解が深まります。

藩中古文書に収録された推定天正12年6月18日付の三楽斎道誉書状も、その一つ。

以下、ツイートのまとめです。


 


藩中古文書の推定天正12年6月18日付の三楽斎道誉書状より

先年御祖父様佐貫ニ御在城、正大名誉有人体、種々氏康へ雖被過馳走候、河越陣無正体上、於佐貫被得御難儀候、淵底岡本方其外年寄衆被存候、老拙九月廿八松山則候、其故佐貫取詰候、南人十月朔日二日間敗北候

太田資正のこの昔語りは面白い。

天正12年(1584)の下野国沼尻ての北条対佐竹陣営の対陣が長引く中、老将・三楽斎(太田資正)は、房総の里見義頼に南方での挙兵を要請します。

その際に、約40年前にあたる天文15年(1546)の昔語りが始まるのです。

大意は…

“お爺様(里見義尭)が佐貫城に在城されていた頃、河越合戦で上杉方が負けたため、佐貫は北条に攻められ難儀しました。
岡本殿や他の年寄衆は覚えているでしょう。私(資正)が九月廿八日に松山城を乗っ取ったことで、佐貫を攻める北条勢は十月一日・二日の内に敗北したのです。”

要するに太田資正は、里見義頼に対して、“自分は若い時にお爺様を間接的に助けたのですよ”と伝えています。

上総国佐貫から遠く離れた武蔵国松山での資正の活躍が、里見を助けた昔話を伝えることで、

“沼尻にくる必要はないのです。地元の上総で暴れてくれればよいのです” 

と促していることになります。

実際には、このときの里見義頼は動かず、沼尻の対陣の行方に影響を与えることはなかったのですが…。

里見義頼に対して、“あなたのお爺様とは…”と書き始める老三楽斎(太田資正)。

名だたる名将達と戦ってきた老将ここにあり。

若い時の活躍を、日付含めて覚えているところも、お茶目で笑えます。

※ ※ ※

そして、ここから、『太田資正と戦国武州大乱』での担当章での新たな気づきも。
 

 

見落としていました。

この三楽斎道誉書状に、天文15年の里見義尭の佐貫城攻略は同年9月28日の太田資正の松山城奪還によって叶ったとの記載。

年代記配合抄の「九月」は正しく、太田資武状の「八月廿八日」は月違いですね。

『太田資正と戦国武州大乱』の時、この書状まで調べられておらず、「どちらが正しいかはわからない」という立場で叙述を進めておりました。 

天文15年(1546)の出来事の振り返りが、天正12年(1584)の書状に出てくるなんて思ってもみませんでした。

そして、黒田先生の『戦国関東の覇権戦争』における、佐貫攻略と松山奪還の連動は、この書状がネタ元だった訳ですね。

自分の不勉強を思い知りまさ。

久しぶりの更新です。

 

今回アーカイブするのは、こちらのツイート。

永禄九年の上杉謙信による小田攻めに参加した国衆の地図上プロットです。

 


 

(地理院地図・陰影起伏図をもとに当ブログ主作成)

 

地図上の○オブジェクトは、参加した謙信方の大名・国衆たち。

オブジェクトの大きさは、『上杉輝虎公記』(岩槻市史 古代中世史料編1174)に記された”騎数”を示したものです。

 

内訳は、以下の通り:

結城 二百騎
小山 百騎
榎本 三十騎
佐野代官 二百騎
横瀬 三百キ
長尾但馬守 百キ
成田 二百キ
広田 五十キ
木戸 五十キ
簗田 百キ
富岡主税助 三十キ
北条丹後守
沼田衆
房州衆 五百キ
酒井中務丞 百キ
太田 百キ
野田 五十キ
宇都宮代官 二百キ
佐竹同心共代官 二百キ

錚々たる面々です。臼井城攻めにも同じメンツが参加したはず。


これだけ勢ぞろいで臼井城を抜けず、里見・酒井勢と北関東勢の分離状態も解消できなかったことが、謙信の権威失墜の原因だったのでしょう。

 

 

なお、この謙信の臼井城攻めの意図については、こちらのツイートでも語ってみました。

 

岩付太田氏が健在ならば、謙信方は、荒川ラインで北条氏を封じ込みできます。

しかし永禄七年に岩付太田は、北条方へ。
反北条の当主・太田資正は、親北条の嫡男・氏資によって岩付を追放されてしまいました。

資正健在の時は、岩付領ー葛西城ー国府台城を介して、謙信は房総の里見勢と連携が可能でしたが、この繋がりは断たれることになります。


次なる謙信方の手は、

利根川ー常陸川ラインでの里見氏との連携・北条氏封じ込めだったのではないでしょうか。


そして、その主役は、羽生ー関宿ー臼井のラインだったのではないでしょうか。

 

(地理院地図・陰影起伏図をもとに当ブログ主作成)

 

永禄九年の小田攻めは、関宿を守るため。

同年の臼井城攻めは、里見氏との連携路を復活させるため。

・・・だったのではないか、と推測します。


永禄九年の臼井城攻めは、里見氏が主導したと伝わりますが、同時に謙信指揮下の北関東勢も参加しています。

 

なぜ、謙信はこんなに遠くまで遠征したのか。

なぜ、北関東勢は謙信の命令とは言え、この遠征に従ったのか。

それは、この時の臼井城攻めが、北関東と里見を繋げる意図もあったと考えれば、説明できるのではないでしょうか。

 

そして、それが叶わなかったからこそ、謙信方による連携と北条氏封じ込めの破綻は確定し、北関東勢の雪崩を打ったような離反が生じたのではないでしょうか。

 

「政治権力の従属変数としての鎌倉五山①」の続きです。
 


↓↓↓以下「である」調に転調します↓↓↓

ここでは、阿部能久氏の研究に基づき、鎌倉五山の住待補任において、鎌倉を支配する扇谷上杉氏と関東管領・山内上杉氏の対立が大きな障害となったことを確認していきたい。

参照したのは、阿部能久(2006)『戦国期関東公方の研究』(思文閣)である。

竺雲顕騰の申し出

阿部氏は、『蔭涼軒日録』延徳四年(一四九二)六月二日条を引用し、関東の竺雲顕騰が建長寺の座公文を所望してきたことを紹介する。

『蔭涼軒日録』は、京都相国寺鹿苑院内の蔭涼軒の主(この時代は、亀泉集証)の記した日記である。京都天国鎌倉の両五山の僧侶達に関する記載も多く、五山僧らの活動を知る上で、第一級の史料と位置付けられている。
その六月二日条の記載は次の通りである。

■『蔭涼軒日録』延徳六月二日条
(前略)薄暮景雪翁来云、建長寺坐公文事有望者、鎌倉十刹也、十刹公文持之来、建長寺公帖者先々皆用京洛公帖云々、公帖披閲之、則公帖云禅興寺住持職事、任先例可被執務之状如件、
文明十五年
八月十日 従四位下 御判
顕騰西堂
如此公帖明鏡上者可為如何哉、予云、予代未有、此事相尋先規可白(後略)

この記載について阿部氏は、
  • 「時の蔭涼軒主亀泉集証のもとへやってきた景雪澄顕が、鎌倉十刹に建長寺の坐公文を望む者(筆者註記:竺雲顕騰)がいて、十刹の公帖を持って来たことを告げられ、このように確かに十刹公帖が存在する以上はどのように処置したらよいかを亀泉に問うている」
  • 「問題となってくるのが、関東公方が幕府に申し入れをする際は、関東管領上杉氏を通じて行うとされた[先規]であった。[史料3](筆者註記:『蔭涼軒日録』延徳六月二日条のこと)にみられる申し入れは上杉氏を通じてなされたものではなかったのである。」
と解説する。

言うまでもなく竺雲顕騰は、後世には、建長寺の一六二世住持として知られる著名な五山僧である。
太田道灌の依頼で作成された「静勝軒銘詩並序」では、玉隠や万里集九と並んで漢詩を捧げており、鎌倉五山の最高峰に位置する詩僧であったことがわかる。また、太田道灌の客将として活躍し、和歌の名人としても知られた木戸孝範の弟でもあった。

この竺雲顕騰の建長寺住持補任において、関東管領上杉氏を通じて幕府に申し入れを行う[先規]が守られなかったのである。

至徳寺を介した関東管領の意向確認

阿部氏は、本件が本来保留されてもおかしくないものであったと指摘しつつ、『蔭涼軒日録』延徳四年六月五日条を参照し、集証が公帖発給にむけて尽力したことを紹介する。

■『蔭涼軒日録』延徳四年六月五日条
(前略)景雪翁越後至徳寺僧寿松蔵主来、就顕騰西堂建長寺公帖之事、関東管領一行有之、判門田鶴寿方江遣之状也、彼松蔵主持之来、不面之、持至扇子一本、管領上杉四郎殿也、状云、顕騰西堂建長寺公帖事、無相違様、相心得可達上聞候、謹言、
三月晦日  顕定印
判門田鶴寿殿
予謂景雪云、以此証状可披露之、(後略)

阿部氏の解説に従えば、
  • 越後府中至徳寺の僧侶がやって来て、竺雲顕騰の建長寺公帖のことについて関東管領から判門田鶴寿へ送られた書状の存在を明らかにした、
  • 亀泉は、関東管領上杉顕定から上杉氏在京雑掌判門田氏に宛てた書状を管領の吹挙状と看做すことによって、この問題を解決しようとした、
との展開を読み取ることができる。

興味深いのは、関東管領上杉顕定の意向の確認方法が、“間接的”であったことである。
越後府中至徳寺も、上杉氏在京雑掌判門田氏も、関東管領上杉顕定の支配下にあり、顕定の意向を汲んで動く存在だったと考えられる。
鎌倉の竺雲顕騰も、京都の亀泉集証も、そのような寺院・人物から、間接的に顕定の意向を伺うことしかしていないのだ。

なぜ彼らは、関東管領に直接、吹挙状を依頼することができなかったのだろうか。

鎌倉外護者・扇谷上杉氏と関東管領の対立

ここからは阿部氏の論考を離れ、筆者の考察を述べることにしたい。

原因と考えられるのは、鎌倉外護者であった扇谷上杉氏と関東管領であった山内上杉氏の対立である。
この“両上杉氏”は、かつては共に手を握り、幕府に歯向かう古河公方に対抗する存在であった。
しかし、格下であったはずの扇谷上杉氏は、古河公方と戦った「享徳の乱」(1455~1483)を経て勢力を増した。同氏が関東管領であった山内上杉氏に比肩するようになると、両者の対立は顕在化した。いわゆる「長享の乱」(1487~1505)が勃発すると、両者は激しく干戈を交えることになった。(両上杉氏共通の敵であった古河公方は、この抗争において、前半は扇谷上杉氏に味方し、後半は山内上杉氏に味方したことが知られる)

両者の勢力は、おおまかには、
  • 扇谷上杉氏が相模国全域と武蔵国の南東部を押さえ、
  • 山内上杉氏(関東管領上杉氏)が上野国全域と武蔵国北西部を押さえる、
というものであった。

竺雲顕騰ら鎌倉五山の僧侶達は、この構図において、扇谷上杉氏の支配域にいたことになるのだ。

享徳の乱から長享の乱へ

延徳四年(1492)という年は、両上杉氏が一旦の講和に至った延徳二年の二年後である。明応三(1494)年には再び抗争を再開することになる両上杉氏の間には、潜在的な対立関係が継続した可能性がある。

竺雲顕騰が関東管領に直接的に公帖への吹挙を依頼できなかったのは、こうした鎌倉の外護者(扇谷上杉氏)と関東管領(山内上杉氏)の政治的対立が影響したものである可能性が考えられるのだ。

延徳期の鎌倉五山と関東管領

もっとも、延徳期の鎌倉五山が、関東管領・山内上杉氏と全くの没交渉だったわけではない。

延徳三年(1493)には、山内上杉氏の命を受けて、竺雲顕騰や玉隠らは、金沢文庫の点検を行っている(信濃史料9巻5頁)。


扇谷上杉氏との講和に至った山内上杉氏は、この取り組みにより、自身の鎌倉五山に対する影響力を再確認させたのかもしれない。

しかし、山内上杉氏によって使役された竺雲顕騰は、その翌年には建長寺住持への吹挙を同氏に依頼することはできなかった。

山内上杉氏は、扇谷上杉氏の勢力圏において自身の影響力を確かめることはしても、扇谷上杉氏と懇意の五山僧らを建長寺住持に吹挙することには、暗に拒否の姿勢を見せたのではないだろうか。
 
古河公方の立場

やや補足的な指摘となるが、この時の古河公方・足利政氏の立場を確認したい。

長享の乱期において、古河公方が、前半は扇谷上杉氏と結び、後半は山内上杉氏と結んだことは先に述べた通りである。そして、この方針転換が明応三年(1494)に行われたことを踏まえれば、延徳四年(1492)時点の公方では、扇谷上杉氏を支持していと考えられる。

では、竺雲顕騰の公帖問題についても、古河公方は、鎌倉の外護者たる扇谷上杉氏や鎌倉五山の竺雲顕騰を支持したと考えてよいであろうか。
 
筆者は、この可能性は高いと考える。
竺雲顕騰の建長寺住持としての入院法語(『玉隠和尚語録』収録)には、「関東道都元帥大相公」への謝意が示されている。
京相公」(京都の将軍)と対比する形で登場するこの「関東道都元帥大相公」は、斎藤夏来氏が『五山僧がつなぐ列島史』で指摘した通り、古河公方であると見てよいであろう。

このことは、古河公方が竺雲顕騰の建長寺住持補任を支持する立場にあったことを強く示唆する。


そもそも、鎌倉五山第一位である建長寺の住持補任には、関東管領のみならず、古河公方による吹挙も必要であった。

古河公方が、仮に反対していたなら、竺雲顕騰とて、公方の反対と関東管領の吹挙無しという二重苦を越えて京都に公帖を求めることはできなかったことであろう。また、京都の亀泉集証も、この問題を数日で解決するような速やかな動きを見せることは無かったのではないだろうか。

以上を踏まえれば、古河公方は、
  • 竺雲顕騰の建長寺住持就任に賛成していたが、
  • 関東管領の山内上杉氏に吹挙状を求めることができない状況にあった、
と考えることができるであろう。

鎌倉五山の「結節点」機能の実状

本来、関東管領・山内上杉氏は、古河公方の補佐役である。なぜ古河公方は、自身の補佐役である山内上杉氏に吹挙状を出すことを命じられなかったのか。(あるいは、命じても実現させられなかったのか)

その理由は、延徳期には古河公方ー扇谷上杉の同盟関係が存在し、関東管領・山内上杉氏と対立構造にあったためと考える他ない。

長享の乱における山内上杉氏と扇谷上杉氏の対立・抗争は、公方を巻き込んだ形で、それほどまでに屹立したものであったのであろう。

公方と管領が協力しあって建長寺住持を推挙する、という関東の秩序は混乱をきたしており、鎌倉五山の高僧たちも、この政治対立の構図から逃れることはできなかった。

従来、鎌倉五山の僧侶達は、対立する政治権力らの「結節点」として機能したことが特筆されてきた。しかし、この「結節点」としての機能は、対立する政治権力間の抗争を超越するものではなかった。竺雲顕騰の建長寺住持補任問題からは、そのような鎌倉五山の限界が見えてくるであろう。

拙著『玉隠と岩付城築城者の謎』では、明応八年(1499)の玉隠の建長寺住持補任が、山内上杉氏=古河公方陣営と扇谷上杉氏陣営の和睦の象徴とされた可能性を指摘した。

本稿の検討と拙著の議論を総合すれば、鎌倉五山の「結節点」としての機能とは、
  • 対立する政治権力同士が和睦に至る際には、その象徴となることはできるが、
  • 対立先鋭期の政治権力間の抗争を超越した立場に立つことはできない、
というレベルものであったと考えることができる。

鎌倉五山は、政治権力の意向に従属せざるを得ない存在であったと結論付けられることになろう。



本稿も、拙著『玉隠と岩付城築城者の謎』の“やむ落ち”原稿です。

 

玉隠が上杉房定を「前相模守」とした訳

 

先に本稿ではでは、室町後期の五山文学において、「太守」や「刺史」等と漢訳されたのは受領名「○○守」ではなく、守護職「○○守護」であったことを論じた。そして、これを象徴する事例として、「越後守護」であり、同時に「相模守」でもあった上杉房定が、万里集九によって「相州太守」ではなく、「越州太守」と表現されたことを紹介した。統治実態の無い受領名「相模守」は太守と漢訳されず、太守とされたのは統治実態のある「越後守護」であったことを、これほど端的に示された事例は無いであろう。

 

ところが、玉隠はやや異なる表現で上杉房定を漢詩文において登場させている。上杉房定の息子である関東管領・山内上杉顕定が喪主となった亡母(すなわち房定の妻)の七回忌において、玉隠は房定を「前相模守」と表現しているのだ。

 

受領名「相模守」が、「相州太守」と漢訳されず、大和式の「相模守」のまま登場する。このこと自体は、“室町後期の五山文学において「太守」や「刺史」等と漢訳されたのは、受領名「○○守」ではなく、守護職「○○守護」であった”という筆者の主張と矛盾を生じず、むしろ整合的と言える。

 

しかし、なぜ玉隠が、万里集九と同様の「越州太守」との漢文表現を取らず、あえて倭臭を漂わせる「相模守」という表現を用いたのだろうか。この点の検討も必要であろう。伊勢宗瑞が葬儀の祭文で「故賢太守」と呼ばれたように、五山文学では漢文式の「太守」こそ、通常持ち答える表現だと考えられるにもかかわらず。

 

結論から述べれば、筆者は、喪主である山内上杉顕定が、自身がいまや相模国の国主となったことを強調するため、父房定を敢えて「前相模守」として登場させたのではないかと推測する。

 

山内上杉顕定の亡母七回忌は、永正三年(1506)に開催された。

永正三年は、山内上杉氏が扇谷上杉氏との18年間にわたる抗争(長享の乱)を勝利で終結させた永正二年の翌年であり、この時の顕定は、相模国守護であった扇谷上杉朝良を屈服させたばかりであった。

顕定が鎌倉からわざわざ玉隠を呼び、上野国海龍寺で法語を行わせたことも、相模国の国主がもはや扇谷上杉氏ではなく山内上杉氏になったことを周囲に知らしめるための一種のデモンストレーションだったとも考えられる。

 

この時、顕定は、「相模国守護」であった扇谷上杉氏を従わせたことを示すためにも、自分の家系が父の代から相模国の国主であったと示したかったのではないだろうか。こう考えれば、玉隠に、父を漢文式に「故越州太守」とさせず、あえて倭臭漂う受領名「前相模守」で呼ばせた理由も説明がつく。

 

もしかすると「故相州太守」と呼ぶことを、顕定は求めたかもしれない。しかし、統治実態の無い上杉房定の受領名「相模守」を「相州太守」とすることは、当時の五山僧の漢詩文の在り方に沿わない。玉隠はこれに抵抗を示し、妥協案として「相模守」を漢文化することなく、そのまま日本式の「相模守」のまま登場させた、という想像もできるであろう。

 

玉隠が、この顕定亡母の七回忌において、顕定を「藤家棟梁」と呼び、この人物が藤原氏であった上杉家(扇谷上杉・山内上杉)のトップの座に立ったことを称揚したと考えらえることは、先に示した通りである。
 

こうした称揚の技法を駆使する玉隠であれば、顕定が相模国守護であった扇谷上杉氏を屈服させた勝利宣言となるよう、顕定の父・房定をあえて五山文学のルールに沿った漢文表現「越州太守」でなく、和語である「前相模守」で呼んだことは、十分想定される。

 

そして、この議論は、鎌倉五山の高僧が、鎌倉の外護者となった政治権力の意向にきわめて敏感であったことの証左と位置付けられるのではなだいだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

拙著『玉隠と岩付城築城者の謎』では、鎌倉五山を代表する詩僧であった玉隠が、政治権力ー特に鎌倉の外護者である扇谷上杉氏の意向を汲んだ形で詩作等を行っていることを指摘した。
 
「鎌倉五山は対立する関東の政治権力の結節点となった」とする従来の議論を受け入れつつも、これを拡大させた「鎌倉五山が対立する政治権力間で中立を保ち、むしろ超然たる立場にあった」との理解に対しては否を突きつけたことになる。
 
そして筆者はこれを踏まえ、扇谷上杉氏が、古河公方と山内上杉氏によって滅亡の淵にまで落ち込まれていた明応五年(1496)~六年(1497)の期間において、同氏の庇護下にあった玉隠らが公方・山内上杉氏の被官のために詩作してこれを献呈することは考えにくいと論じた。
 
換言すれば、明応六年作の自耕斎詩軸并序が、古河公方方の成田氏のために書かれたとする考え方(黒田基樹氏説)は、想定が難しい、と主張させていただいたのである。
 
しかし、この議論は、筆者自身が玉隠その人の詩文を年代に沿って追うことで着想であり、玉隠の詩文の範囲において実証的に論じたものの、この領域の先行研究に対しては十分なレビューを行うまでには至れなかった。
 
出版後に、佐藤博信氏や阿部能久氏の研究成果を拝読し、このテーマに関して膨大と言える研究の蓄積があったことを知り、知らぬままに書いた不明を多いに恥じることになった。
 
しかし、両氏の研究をレビューした上で、改めて振り返るに、むしろ自説の蓋然性は高まったのではないかと考える次第である。
 
例えば、佐藤博信氏は、鎌倉を離れて以降の古河公方が依然として鎌倉に対して影響力を保ち、玉隠や竺雲顕騰ら高名な詩僧らと親しく交流したと主張する。
 
しかし、氏が挙げる論拠(詩文、礼状等)は、いずれも鎌倉の外護者である扇谷上杉氏と古河公方の蜜月期に交わされたものであった可能性がある。少なくとも、政治権力間の対立を超越して行われた交流とみなす根拠は示されていない。
 
また、論拠の中には、阿部氏によってむしろ古河公方の鎌倉に対する影響力の減退の証左であると示されたものも存在する。
 
対しては阿部能久氏の研究は、鎌倉を離れて以降の古河公方が、鎌倉への影響力を失っていったことを示す。
都鄙和睦以降、公方は鎌倉に対する影響力を取り戻すことになるが、鎌倉五山の住待補任において、鎌倉を支配する扇谷上杉氏と関東管領・山内上杉氏の対立が大きな障害となったことが、阿部氏の研究によって示される。
 
鎌倉五山が、政治権力間の抗争を超然した存在ではなかったことの何よりの証拠が、そこに示見出だせるのである。
 
 
拙著『玉隠と岩付城築城の謎』では、築城詩「自耕斎詩軸并序」の読み解きにおいて、同詩序が引用した『詩経』の詩が重要な役割を果たしました。

最後の最後で、筆者である私を『詩経』の「百畝郷田」の詩に導いたのは「豳詩七月之情、温乎可想也」という一節でした。ここに登場する「豳詩七月」こそが、すなわち『詩経』豳風の詩「七月」です。



「百畝郷田」の詩と同じ表現を含む、いわば“兄弟関係”にある「七月」。
「自耕斎詩軸并序」の読み解きにおいて重要な役割を果たすこの詩を、できれば、拙著にもまるごと掲載したかったのですが、頁数圧縮の都合から残念ながら叶いませんでした。

そこで、このアーカイブブログにて、『新釈漢文体系111 詩経(中)』に基づき、「七月」の原文(ただし常用漢字に置き換えたもの)と通釈をご紹介したいと思います。
 
↓↓↓

七月流火、九月授衣、
(七月には移ろうなかご星、九月には冬着を授ける)

一之日觱発、二之日栗烈
(一月には寒風さむく、二月には寒気きびし)

無衣無褐、何以卒歳、
(冬着も毛衣も無かったら、歳を越すのもままならぬ)

三之日于耜、四之日挙趾、
(三月には農具の手入れ、四月には田を耕す)

同我婦子、饁彼南畝、
(我が婦子とももに、聖田に初穂を捧げれば)

田畯至喜。
(田畯が今年の稔りを言祝いでくれようぞ)

七月流火、九月授衣、
(七月には移ろうなかご星、九月には冬着を授ける)

春日載陽、有鳴倉庚、
(春の日はあたたかに、鳴き交うは高麗うぐいす)

女執懿筐、遵彼微行、
(乙女は深きかごを取り、小さき道に沿うて行き、)

爰求柔桑
(柔らかき桑の葉を摘む)

春日遅遅、采蘩祁々、
(春の日の長きことゆるゆると、摘み摘むは白よもぎ)

女心傷悲、殆及公子同帰。
(乙女の心は悲しみに暮れるばかり、できるなら公子(先祖のかたしろ)とともにいつまでも)

七月流火、八月萑葦、
(七月は移ろうなかご星、八月には葦を切る)

蚕月条桑、取彼斧斨、
(蚕月は茂れる桑、斧を手に取り)

以伐遠揚、猗彼女桑、
(遠き枝を刈り取れば、更に茂れる若き桑樹)

七月鳴鵙、八月載績、
(七月にはモズが鳴き、八月には麻糸紡ぐ)

載玄載黄、我朱孔陽、
(黒や黄色に糸を染め、ひときわ赤く染めた糸は)

為公子裳、
(かたしろとなる御方の袴にしよう)

四月秀葽、五月鳴蜩、
(四月には茂れるヒメハギ、五月には蝉の声)

八月其穫、十月隕蘀、
(八月には早稲を刈り、十月には庭漆の枝下ろし)

一之日于貉、取彼狐狸、
(一月には魂祭をし、狐狩り、狸狩り)

為公子裘、
(かたしろとなる御方の革衣にしよう)

二之日其同、載纉武切、
(二月には皆そろって、狩猟のけいこ)

言私其豵、献豻于公。
(小さき獲物は我々に、立派な獲物は御霊屋へ)

五月斯螽動股、六月莎鶏振羽、
(五月にはキリギリスが鳴き、六月には羽振るハタオリムシ)

七月在野、八月在宇、
(七月には野に鳴き、八月には軒に鳴き)

九月在戸、十月蟋蟀入我牀下、
(九月には戸口に鳴き、十月にはいつしか寝床で泣くキリギリス)

穹窒熏鼠、塞向墐戸、
(掃除して鼠を燻し出し、北窓に覆いして網戸を土塗る)

嗟我婦子、日為改歳、
(ああ、我が婦よ子らよ、もう年越しの頃)

入此室処。
(この部屋で新年を迎えよう)

六月食鬱及薁、七月亨葵及菽、
(六月には庭梅と犬葡萄を食べる、七月には寒葵と豆を煮て食べる)

八月剥棗、十月穫稲、
(八月にはナツメの実を打ち落とし、十月には稲を刈る)

為此春酒、以介眉寿、
(これで春の酒を醸して、皆の長寿を祈る)

七月食瓜、八月断壷、
(七月には瓜を食べ、八月には瓢を切る)

九月叔苴、采茶薪樗、
(九月には麻の実広い、苦菜を積んでしんじゅは薪)

食我農夫。
(農夫たちを養うために)

九月築場圃、十月納禾稼、
(九月には稲打ち場つくり、十月には五穀の取り入れ)

黍稷重穋、禾麻菽麦、
(餅黍、コキビ、晩稲、早稲、稲に麻に豆に麦)

嗟我農夫、我稼既同、
(我が農夫たちよ、刈り入れはすべて終わった)

上入執宮功、画爾于茅、
(これからは屋内の仕事、昼は茅を刈り)

宵爾索綯、亟其乗屋、
(夜は縄をなって、急いで屋根を葺き替えよ)

其始播百穀。
(種蒔く季節の始まる前に)

二之日鑿氷沖々、三之日納于凌陰、
(二月にはちょんちょんと氷切り、三月には氷室に入れる)

四之日其蚤、献羔祭韭、
(四月には氷室を開き、捧げるは子羊とニラ)

九月粛霜、十月滌場
(九月には寒き霜降り、十月には稲打ち場を清め)

朋酒斯饗、日殺羔羊、
(皆を呼んで酒の宴、子羊を殺して供え物とし、)

躋彼公堂、称彼兕觥、
(御霊屋に参り、大杯を捧げ持ちて)

万寿無彊。
(一族の長寿を祖霊に願う)



それにしても、何と美しい詩でしょう。

秋風のもと、傾き始めたさそり座の一等星アンタレスを歌う。そして、古代の農民たちが勤しんだ季節の労働とその喜び、そして先祖への敬意と子孫たちへの温かい反が繁栄の願い。


素朴にして雄大、そして深い。


古来、中国においてこの詩が、人間社会の理想の形を描いたものとされたのも、自然と頷けます。


この詩を歌った古代の人々の想いを、私はとても近くに感じます。


拙著『玉隠と岩付城築城の謎』において、図8としてご提示したのが、享徳の乱初期の足利成氏の攻勢図。



古河から利根川を越えて騎西城を押さえた足利成氏は、同城を起点として埼西郡・足立郡に攻勢を仕掛けます。


両郡防衛のため、扇谷上杉陣営が河越・岩付・江戸の三城を築いたと『鎌倉大草紙』が記したのは、まさにこの時。


このタイミングでの岩付城の築城は、黒田基樹先生によって否定されたのですが、状況としては、まさに岩付城の築城が求められる状況であったことが窺われます。


拙著『玉隠と岩付城築城者の謎』では、「自耕斎詩軸并序」に登場する岩付城築城者「自耕斎」(法名は正等)を、太田道真に比定しました。

 

 

この人物比定が、小宮勝男氏の『岩槻城は誰が築いたか』(2012年、さきたま出版会)の議論を踏襲したこのであることは言うまでもありません。

拙著では、小宮氏の自耕斎=太田道真説を再検証し、更なる補強を行いました。

 

 

 

しかし、頁数制限の問題で、掲載を断念した議論も存在します。


その一つが、太田道真以外に「自耕斎」(正等)に比定される太田氏はいないのか?という議論です。

 

拙著を読んでくださった、あるアカデミアの先生からも、「自耕斎を太田氏に比定するに際して、比定される太田氏は太田道真と決めつけていないか。自耕斎たりえるのは太田道真のみなのか。この点を検討する必要があるだろう」(大意)とのご指摘を受けました。

 

しまった・・・と思いました。

実は、当初の現行では、この点についても検討を加えていたのです、頁数の関係で結果的に“やむ落ち”となったこの検討は、やはり提示すべきでした。


反省し、補遺として元原稿の考察を以下に提示したいと思います。

(拙著の160頁付近に挿入される予定の文章でした)

 

↓↓↓文章が「である」調に変わります↓↓↓

 

「自耕斎」と太田道真

 

「自耕斎」(正等)に比定される太田氏として、太田道真が最有力候補とされる点は、首肯いただけるであろう。


そもそも太田道真は『鎌倉大草紙』(埼⑧43)が岩付城の築城者と記す人物である。

また、小宮氏が指摘したとおり、「詩軸」が「収取功名退者天之道也、一家機軸、百畝郷田、付之於苗裔顕泰也」と記述する正等の早めの隠居と家督譲渡は、五十歳で隠居し、息子に家督を譲った後、八十代まで生きた道真の人生と重なる。


加えて、「詩軸」が書かれたのは明応六年(1497)であり、正等はその時点で故人とされている(故金吾)ことも、正等=道真説に対して支持的である。道真は、長享二年(1488)あるいは明応元年(1492)に没したとされており 、時系列的に整合する。


「詩軸」が記す現役時代の自耕斎の活躍記述「白羽扇指揮三軍守其中」も、この時代の五山文学において諸葛孔明の比喩が適用された武将が扇谷上杉定正や伊勢宗瑞ら以外に見られないことを踏まえれば、彼らと同等の権限を有した最盛期の太田道真への称揚として適切とみることができる。


更には、自ら号した斎号に合った絵を複数の鎌倉五山僧に示し、彼らを使役して詩を書かせた自耕斎の行為(自顔曰自耕、而絵以求詩、有聴松住持龍華翁詩、懶菴亦其員而、詩序贅之)も、この人物が並々ならぬ権力を有したことを示唆する。相模国守護代として、鎌倉五山の庇護者の役割を果たした太田道真ならば、可能な行為と言えよう。

 

しかし、道真以外に自耕斎に比定される太田氏はいないのだろうか。自耕斎=太田道真という仮定の下に議論を進める前に、この点を検討しておきたい。

 

「自耕斎」は惣領

 

「自耕斎」を太田氏に求める場合、それは同氏の惣領以外にはあり得ない。


故金吾」とされる自耕斎が、生前、衛門府の官職(左衛門大夫や右衛門尉など)であることは間違いない。そして、太田氏一族でこうした衛門府の官職を名乗ったのは、惣領のみなのだ。


道灌が「左衛門大夫」を名乗ったこと、そして弟の資忠が「図書助」を名乗ったことは有名である。道灌の右腕と言うべき実力者であっても、惣領道灌が衛門府の官職を名乗る以上、これと同等の官職は名乗れない。

管見の限り、太田氏の系譜史料(系図・家記・家譜等)において、惣領以外の人物が衛門府の官職を称する事例はみられないのである。

 

以上より、「自耕斎」を道真以外の太田氏に求める場合、その候補は、道真の前後の“惣領”に見出すよりないことは、首肯いただけるであろう。


同時に、「左衛門丞」を名乗った顕泰も、太田氏に該当する人物を求めるならば、同氏の惣領でなければならないことになる。

 

道真前後の太田氏惣領は「自耕斎」たり得るか


では、道真の前代惣領が自耕斎である可能性を検討したい。


この場合、その次代の惣領であった道真が「詩軸」を書かせた岩付左衛門丞顕泰ということになる。この想定は可能だろうか。

答えは否である。太田道真はが「詩軸」の書かれた明応六年以前に没している。岩付左衛門丞顕泰であることはあり得ないのだ。

 

次に道真の次の惣領が自耕斎である可能性を検討したい。しかし結論から言えば、これも想定は難しい。


道真の次の惣領は太田道灌であるが、道灌は隠居前に謀殺されている。悠々自適の隠居生活を送った正等の人物像に合致しない。しかも、その没年は文明十八年(1486)であり、「詩軸」が書かれた明応六年には既にこの世にないのだ。


道灌後の惣領である「六郎右衛門尉」も、没年が永正二年(1505)と伝えられている(年代記配合抄)。六郎右衛門尉を、明応六年(1497)時点で故人であった自耕斎に比定することはできないのだ。


「自耕斎」たり得る太田惣領は道真のみ

 

このように、道真前後の太田氏惣領を「自耕斎」に比定しようとしても、必ず矛盾が生じてしまう。


自耕斎=太田氏との仮定を置くとき、

  1. 惣領であること、
  2. 年代が合う(明応六年にこの人物が故人であり、息子が存命であること)こと
の二条件を前提に該当人物を探すことになるが、この両条件を満たすのは、太田道真しかいない。


太田氏築城説の立場を取るとき、自耕斎は、太田道真に比定するしかないのである。


「顕泰」たり得る太田惣領は六郎右衛門尉のみ


 実は、岩付左衛門丞顕泰も、太田氏惣領にこの人物を比定するならば、候補となるのは太田六郎右衛門尉しかいない。


それは、

  1. 衛門府の官職を名乗っている以上、顕泰は太田氏ならば、その惣領であったことになり、
  2. 自耕斎詩軸并序が書かれた明応六年(1497)時代の太田氏惣領は、六郎右衛門尉に特定される(六郎右衛門尉は文明十八年(1486)に惣領となり、永正二年(1505)に誅殺された)
ためである。


自耕斎父子が太田氏であった、との仮定を置く時、父が太田道真に特定されるだけでなく、子は六郎右衛門尉に特定されることになるのだ。


 

太田道灌が主君・扇谷上杉定正に殺された後、残された太田一族はどう振る舞ったか。

わかっているのは、
  • 道灌実子の「資康」が、扇谷家のもとを去って山内上杉氏を頼り、その陣で道灌の家督を継いだ後継者を名乗ったこと(梅花無尽蔵)、
  • 養子と思わしき「六郎右衛門尉」が、扇谷上杉氏方に残り、同氏方の太田氏の惣領となったこと(年代記配合抄)
の二点。

拙著『玉隠と岩付城築城説の謎』では、この「六郎右衛門尉」の惣領就任を担保したのは、太田一族の長老である道真(道灌の父)であったのではないか、と考察しました。

そして、道灌死後に家督保持者に復帰した太田道真が、“孫”世代の六郎右衛門尉を家督を譲渡する“子”としたことが、「自耕斎詩軸并序」における「自耕斎」(正等)と「岩付左衛門丞顕泰」の関係性に投影されているのではないか、と指摘しました。

すなわち、「自耕斎」の「子」であり、「苗裔」(末裔)でもあったとされた「岩付左衛門丞顕泰」の存在は、太田道真に対する六郎右衛門尉の立場だと想定すれば、矛盾なく理解できると論じたのです。

さて、この理解の根底にあるのは、道灌が主の扇谷上杉氏に謀殺された後も父道真は扇谷上杉方に付いたまま不動だったはず、との想定。

我らが「中世太田領研究会」会長の説です。

この「道灌死後の太田道真の政治的な立ち位置」は、先行研究を見ても、明示的な検討は行われていないように感じます。

果たして太田道真は、道灌死後にどのような立場を取ったのか。

実は『玉隠と岩付城築城説の謎』も、初稿段階では、この点を検討。コラムとして掲載する予定でした。

しかしこのコラムは、残念ながら頁数圧縮のためにお蔵入りに。

その原稿を、ご紹介します。

↓↓↓文章が「である」調に変わります↓↓↓

コラム:道灌死後の父道真の位置

本書の検討では、太田道灌が主の扇谷上杉氏に謀殺された後も父道真は扇谷上杉方に付いたまま不動だった、と想定する。

その根拠は、『梅花無尽蔵』の以下の記載である。

十六日之晩間。入武之越生山龍精舎。
越生古寺卸鞍時。斜照吹鴉欲宿枝。忽入上方参薬石。愧非忘老禅師。
十七日。入須賀谷之北平澤山。問太田源六資康之軍榮於明王堂畔。二三十騎突出迎余。 

これは、道灌の死後、江戸を出た万里集九が、長享二年(1488)に、戦陣にあった太田資康を尋ねた際の記載である。

集九は、まず越生の龍隠精舎(龍穏寺)を訪ねて一泊すると、資康がいる須賀谷(菅谷)に向かう。ここで登場するのが「二三十騎突出迎余」との記載である。

越生から菅谷に入ろうとする集九。そこに二三十騎の騎馬武者達が現れ、集九を出迎える。
江戸から越生への道中、騎馬武者らの登場する物騒な場面はない。越生と菅谷が同一勢力圏であれば、このような緊張感のある出迎えは無かったのではないか。

こうした場面が越生から菅谷に移動する際に挿入されたことは、勢力圏がここで変わったことを示唆する。

文化人ゆえに、扇谷上杉陣営から山内上杉陣営に移動することが許される集九。“国境”を越えて現れた集九を、太田資康は配下の騎馬衆に保護させた。

太田道灌の排除の後、対立関係が鮮明となる扇谷上杉陣営と山内上杉陣営。両陣営が激突した長享の乱(1487-1502)の最初期にあたる長享二年の時点で、越生は扇谷上杉陣営にあったと考えられるのである。

そして、越生が太田一族の長老たる道真が長く居を構えた地であったことを踏まえれば、道真は、道灌死後も扇谷上杉陣営に残ったと考えてよいであろう。



ただし、長享二年八月十六日に越生・龍穏寺を訪ねた万里集九が、太田道真に会えたかはわからない。『本土寺過去帳』が、道真の死を長享二年八月と記しているためである。

集九が、道灌のみならず道真も敬慕していたことは、『梅花無尽蔵』の記載からもうかがえる。

果たして集九は、越生で道真に会えたか。
会えたとすれば、それは死の直前の道真であったことになる。あるいは、集九は道真の最期に間に合わず、この太田一族の長老との再会を果たせなかったことも十分想定される。

集九が越生で再会した「老禅師」を、筆者は、この地で20年以上曹洞宗の仏道修行に身を投じた老道真と思いたい。しかし、その確証はない。