本稿も、拙著『玉隠と岩付城築城者の謎』の“やむ落ち”原稿です。

 

玉隠が上杉房定を「前相模守」とした訳

 

先に本稿ではでは、室町後期の五山文学において、「太守」や「刺史」等と漢訳されたのは受領名「○○守」ではなく、守護職「○○守護」であったことを論じた。そして、これを象徴する事例として、「越後守護」であり、同時に「相模守」でもあった上杉房定が、万里集九によって「相州太守」ではなく、「越州太守」と表現されたことを紹介した。統治実態の無い受領名「相模守」は太守と漢訳されず、太守とされたのは統治実態のある「越後守護」であったことを、これほど端的に示された事例は無いであろう。

 

ところが、玉隠はやや異なる表現で上杉房定を漢詩文において登場させている。上杉房定の息子である関東管領・山内上杉顕定が喪主となった亡母(すなわち房定の妻)の七回忌において、玉隠は房定を「前相模守」と表現しているのだ。

 

受領名「相模守」が、「相州太守」と漢訳されず、大和式の「相模守」のまま登場する。このこと自体は、“室町後期の五山文学において「太守」や「刺史」等と漢訳されたのは、受領名「○○守」ではなく、守護職「○○守護」であった”という筆者の主張と矛盾を生じず、むしろ整合的と言える。

 

しかし、なぜ玉隠が、万里集九と同様の「越州太守」との漢文表現を取らず、あえて倭臭を漂わせる「相模守」という表現を用いたのだろうか。この点の検討も必要であろう。伊勢宗瑞が葬儀の祭文で「故賢太守」と呼ばれたように、五山文学では漢文式の「太守」こそ、通常持ち答える表現だと考えられるにもかかわらず。

 

結論から述べれば、筆者は、喪主である山内上杉顕定が、自身がいまや相模国の国主となったことを強調するため、父房定を敢えて「前相模守」として登場させたのではないかと推測する。

 

山内上杉顕定の亡母七回忌は、永正三年(1506)に開催された。

永正三年は、山内上杉氏が扇谷上杉氏との18年間にわたる抗争(長享の乱)を勝利で終結させた永正二年の翌年であり、この時の顕定は、相模国守護であった扇谷上杉朝良を屈服させたばかりであった。

顕定が鎌倉からわざわざ玉隠を呼び、上野国海龍寺で法語を行わせたことも、相模国の国主がもはや扇谷上杉氏ではなく山内上杉氏になったことを周囲に知らしめるための一種のデモンストレーションだったとも考えられる。

 

この時、顕定は、「相模国守護」であった扇谷上杉氏を従わせたことを示すためにも、自分の家系が父の代から相模国の国主であったと示したかったのではないだろうか。こう考えれば、玉隠に、父を漢文式に「故越州太守」とさせず、あえて倭臭漂う受領名「前相模守」で呼ばせた理由も説明がつく。

 

もしかすると「故相州太守」と呼ぶことを、顕定は求めたかもしれない。しかし、統治実態の無い上杉房定の受領名「相模守」を「相州太守」とすることは、当時の五山僧の漢詩文の在り方に沿わない。玉隠はこれに抵抗を示し、妥協案として「相模守」を漢文化することなく、そのまま日本式の「相模守」のまま登場させた、という想像もできるであろう。

 

玉隠が、この顕定亡母の七回忌において、顕定を「藤家棟梁」と呼び、この人物が藤原氏であった上杉家(扇谷上杉・山内上杉)のトップの座に立ったことを称揚したと考えらえることは、先に示した通りである。
 

こうした称揚の技法を駆使する玉隠であれば、顕定が相模国守護であった扇谷上杉氏を屈服させた勝利宣言となるよう、顕定の父・房定をあえて五山文学のルールに沿った漢文表現「越州太守」でなく、和語である「前相模守」で呼んだことは、十分想定される。

 

そして、この議論は、鎌倉五山の高僧が、鎌倉の外護者となった政治権力の意向にきわめて敏感であったことの証左と位置付けられるのではなだいだろうか。