黒田基樹(2021)『図説享徳の乱』(戎光祥出版)を購入しました。
29年間にわたる享徳の乱の歴史を、第一人者の黒田先生が、最新研究を踏まえて時系列、それも月単位で進行を追う。これまで無かった素晴らしい書籍です。
しかし、岩付城築城者論にこだわる者としては、やはりこの問題がどう書かれているかが気になります。
かつては享徳の乱初期に太田氏が築いたとされた岩付城。黒田先生は、“岩付城の構築はこの時ではなく、しかも築城者は太田氏ではなく成田氏であった”と断言し続けてきた研究者です。
(それに対して、“太田氏築城もあり得ますよ”と論じたのが、拙著『玉隠と岩付城築城者の謎』です)
果たして、最新の著作ではこの点の記述は、どうなっているのか。さっそく読んでみました。
1.享徳の乱初期の太田氏による築城は否定
結論から言えば、「享徳の乱初期の太田氏による築城」はやはり否定されています。
実際の文章を見てみましょう。
「こうして、およそ利根川を境に西側が上杉方、東側が成氏方という勢力範囲が形成するようになった。こうした状況に対応するように、上杉方では軍事拠点の構築が進められた。具体的には、扇谷上杉氏が武蔵河越庄(川越市)に河越城を、豊島郡江戸郷(千代田区)に江戸城を構築し、それぞれ崎西郡から下総国にかけての成氏方に対する前線拠点とした。」(44頁)
「なお、『鎌倉大草紙』では、同時期に各地で拠点城郭が構築されていったように記されており、これまでの見解の多くも基本的に踏襲されるような状況にある。しかし、実際には築城はこれよりも時期が下る状況が相模岡崎城(伊勢原市)、武蔵松山城(吉見町)、同岩付城(さいたま市)などで確認されている。もちろん、この時期に領主の本拠を城郭化する事例もみられるが、その動向はこの時期に限られるわけではなく、これ以降も続いた事態である。」(44-45頁)
『鎌倉大草紙』が、扇谷上杉陣営によって、河越・岩付・江戸の三城が築かれたと記載することを受けて成立したのが、旧来の岩付城太田氏築城説。
これに対して黒田先生は、
- そもそも『鎌倉大草紙』の記載には誤りが多い、
- 扇谷上杉陣営が構築したことが確実なのは、(他史料からも確認される)河越・江戸の二城、
という従来からの主張を変えませんでした。
しかも、“岩付城だけは異なる”とする従来の叙述スタイルを発展させ、“岡崎城も松山城も岩付城もこの時の築城ではない”、と述べることで主張に説得力を与えています。
2.享徳の乱期の岩付帰属は主張変更
しかし、黒田先生の見解が全く変わらなかったと考えるのは早計です。
『図説享徳の乱』には、以前の黒田先生の論文・著作と異なる、大きな変化があるのです。
それは、岩付地域の帰属問題です。
成田氏築城説を提起した1994年の論文「扇谷上杉氏と渋江氏 ー岩付城の問題を中心にー」において、黒田先生は、岩付地域が享徳の乱期において扇谷上杉氏の支配下にあったとする旧来説を否定しました。
扇谷上杉氏と岩付地域の関わりは、60年も時期が下る永正年間までしか遡れないと指摘し、扇谷上杉氏家宰であった太田氏による岩付築城を、根本から排除したのです。岩付地域は、古河公方の支配下にあったとされたのでした。
しかし、利根川・荒川を挟んで東西対立が行われた享徳の乱期において、この両大河の西側に位置する岩付地域が、扇谷上杉氏の支配下になく、古河公方の勢力下にあったとするのは、少々苦しい想定です。
そう考えた私は、拙著『玉隠と岩付城築城者の謎』の第三章において、金石史料に関する先行研究を援用しつつ、この点を集中的に論じました。
ところが、最新刊の『図説享徳の乱』では、当の黒田先生が、享徳の乱期の岩付地域を古河公方勢力下だと主張するのをやめているのです。
それは、「およそ利根川を境に西側が上杉方、東側が成氏方という勢力範囲が形成するようになった」(44頁)との記載だけでなく、45頁の地図において明確に岩付地域を、西の上杉陣営に色分けしていることからもわかります。
実はこの地図、『図説鎌倉府』でも採用されていた地図(137頁)に、非常によく似ています。おそらく、同じ図を少し修正したものでしょう。
相違点の一つが、岩付城のプロットです。
『図説鎌倉府』では、黒田先生説では享徳の乱期には無かったはずの岩付城が、享徳の乱関係図にしっかり表示されていました。
さすがに黒田先生ご自身の本ではこの点が問題視され、図から岩付城が排除されたのでしょう。
それはよいのです。
私が喜びたいのは、“享徳の乱期には岩付地域は古河公方の支配下にあった”という黒田先生が持ち込んだ無理筋の想定が、先生自身によって撤回されたこと。
“享徳の乱期の岩付地域は上杉陣営下にあった”という自然な想定での議論が、ようやく「視界の大家の説に反するが」との言い訳に無しに語れるようになったのです。
黒田先生に挑む形で、“享徳の乱期の岩付地域は上杉陣営下にあった”はずだと論じた拙著第3章は、無用となりました。
執筆の労は、ある意味で無駄となりましたが、それでもなにやら報われた気分です。
岩付城太田氏築城説の成立性を論じる上で大きな壁であった論点も、一つまるごと消え去ったことになります。
3.太田氏築城の否定と成田氏築城の断定が消えた
もう一つの大きな変化は、“黒田先生節”とも言うべき、「太田氏による岩付城の築城はなかった」・「築城者は成田氏だった」というセットの断言が姿を消したことです。
『図説享徳の乱』は、享徳の乱初期に太田氏が岩付城を築いたことを、依然否定します。
しかし否定の力点は、“享徳の乱初期”という築城時期に対して置かれており、「太田ではなく成田」という築城者問題は、少なくとも表だって書かれることはなく、伏されることになりました。
これは何を意味するのか。
自説は変えていないが、単に角が立つ物言いを抑えたのか。あるいは、先生ご自身が「成田氏による築城の断言はやはり難しいかな」と再考を始めたのか。
おそらく真相は前者なのだと思いますが、私には後者への移行もできるようにした布石のようにも思えます。
実際にどうなのかは、黒田先生の成田氏築城説が岩付城の築城時期とする延徳二年~明応三年に展開された「長享の乱」の図説が出されたときにわかるはずです。
扇谷上杉氏と古河公方との和睦期に、忍(行田市)から岩付(さいたま市岩槻区)まで出張って、両陣営の境目に城を築いた成田氏当主。
このやや奇妙な想定が、時系列の叙述に果たして無理なくおさまるのか。
果たしてどうなるか。楽しみです。
4.享徳の乱初期の岩付築城はあり得ないと言えない
最後に、私がとても気になった一節を再掲します。
「もちろん、この時期に領主の本拠を城郭化する事例もみられるが、その動向はこの時期に限られるわけではなく、これ以降も続いた事態である。」(45頁)
黒田先生は、領主の本拠の城郭化は、何も享徳の乱初期の専売特許ではない。他の時期にも起こり得たのだ、と語ります。
享徳の乱初期の岩付城築城の可能性を追究する、私のようなスタンスの人間を想定しての「まあ、落ち着け」だと思われます。
それはごもっともなのですが、私はむしろ、「もちろん、この時期に領主の本拠を城郭化する事例もみられるが」の方が気になりました。
黒田先生も、“享徳の乱初期の岩付城の築城なんて、状況として想定できないぞ”とは言えないのです。
“他の時期でもあり得る”は、“この時期ではないと断言はできない”の裏返しであります。
先生の研究者としての良心がにじみ出た一節だと思った私でした。
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さて、 書くべきことを書いたので、これからゆっくり『図説享徳の乱』の読み込みを楽しもうと思います。
《参考》