拙著『玉隠と岩付城築城者の謎』の最終章で、私はある詩に出会い、自耕斎詩軸并序の読み解きの旅の終わりを宣言しました。
 
現実にその瞬間が訪れたのは、2020年9月1日でした。
 

  

 


そして、最終章の原稿を書きながら、我慢できなくなって“その詩”を呟いたのが、以下の連投ツイート。

 

 

この内容を、アーカイブブログに再掲します。

( )内は、『新釈漢文体系111 詩経(中)』の通釈を、少しアレンジしたものです。


↓↓↓↓↓


詩経 小雅 「大田」
 
大田多稼、既種既戒
(広くて大きな田地に実り多かれと願い、予めよい種を選んで植え、農具を準備し)
 
既備乃事、以我覃耜
(農具を整え、農耕に勤める。私の鋭いすきをもって)
 
俶載南畝、播厥百穀
(南畝で土を起こし、草を起こして多くの穀物の種をまき)
 
既庭且硯、曾孫是若
(苗はまっすぐ大きく育つ、曾孫は満足ふる)
 
既方既阜、既堅既好
(房がなり、実ができ、実は堅く熟し、美しく揃った穂をつける)
 
不稂不莠、去其螟螣
(雑草のいぬあわが無く、はぐさが無く、害虫のくきむし、はむしを取り去ったので)
 
及其蟊賊、無害我田穉
(ねむし、ふしむしを取り去ったので、私の若い苗が食べられることはなかった)
 
田祖有神、秉畀炎火
(田の祖神に神霊なる力があり、それら害あるものを取って大火の中にくべた)
 
有渰萋萋、興雨祁祁
(雲がもくもくと空をおおい流れ行き、雨が降ることたっぷり)
 
雨我公田、遂及我私
(私たちの公田に雨が降り、遂に私の私田に雨が及ぶ)
 
彼有不穫穉、此有不斂穧
(あそこには刈っていない若い稲がたり、ここに収めていない稲があり)
 
彼有遺秉、此有滞穗
(あそこには取り残しの稲がえ(、ここには捨てられた稲がある)
 
伊寡婦之利
(余った稲は寡婦の利)
 
曾孫来止、以其婦子
(祭主である曾孫がやってきた。その婦人や子どもたちと一緒に)
 
饁彼南畝、田畯至喜
(あの南畝で酒食を供にすれば、田の祖神がやって来て飲食する)
 
来方禋祀、以其騂黑
(四方の神々を祀り、赤毛の牛、黒毛の羊豕ともちきび)
 
与其黍稷、以享以祀
(うるきびとを供える。そのように神々に供え祀れば)
 
以介景福
(神々は大いなる幸福を与えてくださる)
 

 

 
 
写真は、岩槻で無農薬無肥料の稲作をされていた方のお手伝いをした時のもの。

 

  
 明応三年の「明応の再乱」時の伊勢宗瑞の進軍・退却を地図にまとめた、2019年10月のツイート。

まさに『新九郎奔る!』

伊勢宗瑞が、この時岩付を攻めたかは異論もありますが、ここでは則竹先生の『古河公方と伊勢宗瑞』に準拠してみました。

 


明応三年(1494)の伊勢宗瑞の転戦



扇谷上杉定正の要請で参戦した山内上杉・古河公方との抗争。

首謀者である定正の頓死という大事件に見舞われるも、宗瑞は武蔵国に踏み留まり、山内上杉・古河公方と戦う。

最初の戦国大名・伊勢宗瑞の力量を窺わせる危機管理力。 


もともと、拙著『玉隠と岩付城築城者の謎』で使うつもりで作図したのですが、頁数の関係で“やむ落ち”に。

ここに掲載して成仏させることにした次第です。

父である太田資正を裏切り、岩付から追放した嫡男・氏資。

資正好きの私ですが、実は資正を追放した氏資も好きです。彼には彼の“正義”があったことが、状況証拠から想像できるためです。

多分に妄想混じりですが、氏資から見た父資正の奮闘を考えてみた2019年11月の連投ツイートをまとめます。


 


(1)

太田資正本が脱稿し“次”を考えています。

気になるのは息子・氏資。
父を追放し、家臣団をまとめながら、親北条の新岩付太田の確立を目指して奮闘した男。

父より更にマイナー。大成せず若くして討死。

スポットが当たらない人物ですが、その生涯を追ってみたい。
そこには、鎮魂の想いもあります。 

(2)
難波田善銀の婿養子となった松山時代の資正。氏資は、“難波田資正”を父として生まれたことになります。

北条氏の攻勢を受け、善銀と資正が次第に追い詰められて行く暗い時代に、氏資は赤子時代を送ります。

その幼少期の記憶は、彼の人格形成にいかなる影響を与えたか。

(3)
追い詰められた祖父・難波田善銀が繰り出した起死回生策「河越合戦」。

山内上杉・古河公方を味方につけて北条を攻める。旧勢力総動員のオールスター戦は、しかし大敗に終わり、氏資は祖父を失います。

上野国に逃れて再起を図る父資正。

この時、氏資とその母は、どこにいたのでしょう。苦難の日々を送ったのかもしれません。

(4)
河越合戦の数ヶ月後、反転攻勢に出て、松山・岩付を奪還する父資正。しかし、北条氏に攻められて降服し、北条配下の他国衆としての12年が始まります。

父資正にとっては屈辱の北条服属時代だったのかもしれませんが、もしかすると、少年氏資には、初めて送る平穏な日々だったのかもしれません。

(5)
北条配下の他国衆の一人として活躍する父資正。

北条氏康も資正を重んじ、その嫡男である氏資に、「氏」の字と娘を与えます。

氏資はそれを誇らしく思っていたかもしれせん。
関東に静謐をもたらした北条の世。氏資は、それを支える一人として太田の家督を継ぐことを疑いもしなかった。そんな氏資を私は想像します。

(6)
父資正の北条服属時代。氏資を不安がらせた存在は、父が後妻に生ませた次男政景。

政景の母は有力国衆大石氏。外戚が強い。
対して氏資は、外戚たる難波田氏はすでに滅亡。頼るべき外戚はいません。

『異本小田原記』は、資正の愛が政景の母に移ったことを記します。
父が政景を後継とする悪夢も、氏資は見ていたかもしれません。

(7)
父資正は、己を廃嫡し、有力な外戚のいる後妻に生ませた政景を跡継ぎとするかもしれない。

氏資がそんな不安に襲われていたなら、支えとなったのは父の主である北条氏康の存在だったのでは、と思います。

氏資に氏の字を与え娘も与えた氏康。
外戚無き氏資にとって、氏康こそ最大の支援者だったのではないでしょうか。


(8)
次男政景が、梶原氏の名跡を継ぎ、古河公方奉公衆となって岩付を出た時、氏資は心底ホッとしたのでは。

もしもそれが、氏康から資正への提案によるものであったなら、氏資は氏康あっての己であるとの想いをさらに強めたかもしれません。

こう考えていくと、永禄三年に長尾景虎(上杉謙信)による越山が行われた時の、氏資の絶望を思ってしまいます。

北条に牙を剥く父。
転覆する北条の治世。
人質として厩橋に送られる己。
岩付に戻り、父とともに北条と戦う弟政景。
北条から嫁いだ妻は居場所なく震えるしかない。

氏資が信じた世界。
その全てが、崩れ去ったのです。

(9)
武州大乱。
太田資正と北条氏が展開した、武州全域を覆った大抗争の中、氏資が未来に希望を見たのは、父が劣勢になってからでしょう。

武州松山城が陥落し、資正の北条氏封じ込め策が破綻した時、家臣らは激しく動揺。

親北条の氏資を立て、北条配下に帰参する案は、何人かの有力家臣らが想起したはず。

関八州古戦録によれば、氏資に父資正の追放と北条氏への帰参を進言したのは、春日摂津守と恒岡越後守。

ともに、氏資以降の岩付領で重く用いられたことが確認されるこの二人が、氏資にクーデターを提言したとの古戦録の記述は、自然なものに思えます。

父の追放は大きな不孝。
しかし氏資は、その決断を下します。

家臣らを守るため。妻を守り、己の信じた世界を取り戻すため。

父追放の決起。それは氏資にとって必然であったように思えます。

拙著『玉隠と岩付城築城者の謎』において、岩付城の築城詩「自耕斎詩軸并序」の依頼主「岩付左衛門丞顕泰」に比定した、太田六郎右衛門尉。

六郎右衛門尉は、一次史料の記載から実在が確かですが、実は太田氏の系譜史料には登場しません。

六郎右衛門尉は、なぜ系譜史料から消されたのか。その痕跡はどこにも無いのか。

頁数の制約で、『玉隠と岩付城築城者の謎』からは削られた、考察をここに記載します。




↓↓↓以下、「である調」に変わります↓↓↓

■系図から消された六郎右衛門尉

太田六郎右衛門尉は、一次史料によってその存在が確かな歴史上の人物であるが、この名を記す太田氏系譜史料は存在しない。

最古の太田氏系譜史料と言うべき『太田資武状』は、道灌の後を継いだ養嗣子の名を、「養竹院殿義芳永賢」と伝える。
他の多くの系譜史料も、『太田資武状』には無かった実名「資家」を添える形で、やはり「養竹院殿義芳永賢」をこの人物を道灌の後継者とする。

この「養竹院殿義芳永賢」は、六郎右衛門尉ではあるまい。

それは、『太田資武状』がこの人物(永賢)が「官途を名乗らなかった」と記していることに加え、諸系譜史料がその没年を大永二年(1522)としているためだ。

「養竹院殿義芳永賢」が、官途名「右衛門尉」を名乗り、永正二年(1505)に誅殺された六郎右衛門尉である可能性は非常に低い。



六郎右衛門尉は、“系譜史料から消された太田氏惣領”とみてよいであろう。

主君に誅殺された者の宿命

では、なぜ六郎右衛門尉は、系譜から消されることになったのか。それは、この人物が主君である扇谷上杉氏によって誅殺された人物だったため、と考えるのが自然であろう。

扇谷上杉氏に仕え続ける太田氏としては、主君に誅殺された六郎右衛門尉は逆賊である。こうした人物を肯定的に捉えることは、少なくとも表立っては許されないことだったのではないか。

しかし、ここで奇妙なことに気づく。
この想定が正しければ、道灌もまた太田氏系譜史料から記録が抹消されるべきではないか。

ところが、そうはなっていない。
江戸太田系・岩付太田系を問わず、道灌の存在を消した太田氏系譜史料は存在しない。主君に誅殺された人物でありながら、道灌は太田氏最大の英雄としてあらゆる系譜史料で称揚の対象となっているのだ。

主君に誅殺された人物が系譜史料から消される傾向があるのならば、なぜ太田氏は、六郎右衛門尉の存在を削除し、道灌の記載は残したのであろうか。

道灌の名誉回復

稀代の英雄・太田道灌の存在はあまりにも大きいものであり、系譜から消し去ることはできなかった―――との説明は可能であろう。

しかし、筆者はそれ以上に重要な大きな相違が、道灌と六郎右衛門尉の間に存在すると考える。それは、両者を誅殺した扇谷上杉氏当主のその後の顛末である。

道灌を謀殺した扇谷上杉氏当主・定正は、その後まもなく死去する。山内上杉氏との抗争(長享の乱)の途中で頓死を遂げてしまったのだ。

そして扇谷上杉氏は、最終的には道灌実子・資康を庇護した山内上杉氏との抗争に敗れる。父道灌の謀殺を不当と主張する太田資康の系統は、父を殺した扇谷上杉氏に勝っことになる。

その後、太田資康の系統は江戸城に帰還するが、これは資康の系統が扇谷上杉氏に“赦された”のではなく、勝者として優位な立場での帰参とみるべきではないか。

例えば、長享の乱終結の五年後(永正七年(一五一〇))には、伊勢宗瑞が扇谷上杉氏領国に侵攻し、扇谷上杉氏の上位者である山内上杉氏が援軍を派遣しているが、この時、山内上杉氏との連絡を担ったのは資康の子孫として江戸城に入った太田大和守(資高)であった(岩史235・北区273)。

扇谷上杉氏配下にありながら、上位者・山内上杉氏と深い関係性を示す太田大和守の振る舞いは、この人物が、山内上杉氏の支援の下、扇谷上杉氏陣営に勝者として帰参した可能性を示唆するものと言える。

道灌謀殺を不当と訴えた資康の系統が、勝者として江戸城に帰還したのであれば、道灌の名誉もこの頃回復されたと考えることができるではないだろうか。

道灌を殺した前当主・定正が既にこの世に無かったことも、道灌の名誉回復の障壁を下げたのとであろう。

六郎右衛門尉は名誉回復ならず

しかし、六郎右衛門尉は違った。
六郎右衛門尉を誅殺した扇谷上杉朝良は、生きた。長享の乱の敗北を受けて隠居した朝良であるが、その後も扇谷上杉氏を率いた。
そのことは、長享の乱終結の五年後に行われた伊勢宗瑞との権現山合戦での朝良の指導ぶりや、永正十三年(1517)に古河公方・足利政氏の岩付移座をこの人物が主導したことから窺うことができる(『円福寺記録』)。

六郎右衛門尉を誅殺した扇谷上杉朝良は、引き続き同氏陣営の最高権力者として実権を振るったのである。

これでは、六郎右衛門尉に名誉回復の芽は無い。

また、六郎右衛門尉が、長享の乱が終結した永正二年(1505)に誅殺されたのは、扇谷上杉朝良が山内上杉氏への降服を志向し、六郎右衛門尉が反対したことによるものでなかったかとの推測も存在する(山田邦明(2015))。

この推測が正しければ、以降続いた「山内上杉氏を事実上のトップとする関東秩序」において、六郎右衛門尉の名誉が回復される見込みは無い。

六郎右衛門尉が太田氏系譜史料から抹消され、復活の機会がないまま、子孫たちの記憶から消えていったのも不思議ではないだろう。

六郎右衛門尉の痕跡

しかし、六郎右衛門尉の痕跡が、太田氏系譜史料から完全に抹消されたわけではない。

『太田資武状』をはじめとし、多くの系譜史料が、道灌と資頼の間には「養竹院殿義芳永賢」(あるいは資家)一代を挟むのみであるのに対して、唯一、浅羽本系図八所収「太田氏系図」(北区326)は、道灌以後の系譜を、道灌―道俊―道薫―道賀―道誉と記載する。

「道賀」は道可(太田資頼)のことと考えられる。すなわちこの系譜は、太田道灌と資頼の間に、当主二代(道俊と道薫)が存在していたとするのである。

まったく同じ系図が、軍記物『異本小田原記』にも記されている。『太田資武状』とは別系統の伝承が存在し、道灌と資頼の間に当主二代が存在していたことを伝えたのであろう。

筆者は、浅羽本系図八所収「太田氏系図」が道灌の後継者とする「道俊」が六郎右衛門尉である可能性を指摘したい。あわせて、その跡を継ぐ「道薫」が備中守永厳、あるいは「養竹院殿義芳永賢」である可能性も。

「初築岩築城」

同系図が「道俊」の事績として「初築岩築城」と記している点も注目される。

拙著『玉隠と岩付城築城者の謎』では、六郎右衛門尉は、岩付城の築城者ではなくその奪還者であったと想定した。

しかしその一方で、岩付城を“長老道真からの家督継承の証”・“惣領の城”として一族にとって特別な城と位置付けた人物であったとの考察も展開した。

この考察が正しく、六郎右衛門尉が岩付城を中核とする太田氏の在り方を規定した人物として規定されるのであれば、その記憶がやや不正確ながら「初築岩築城」と伝えられたことも想定されるであろう。

なお、六郎右衛門尉の法名が「道俊」であったならば、この人物の法名を「顕泰」と推測した本書の想定は否定されることになる。しかし、「永厳」あるいは「養竹院殿義芳永賢」にあたる人物が「道薫」と伝えられている以上、浅羽本系図八所収「太田氏系図」は、道灌後の当主二代の法名については、誤伝している可能性が高い。

ほぼ全ての太田氏系譜史料から抹消されたはずの太田六郎右衛門尉。しかし、それらしき人物が、ある別系統の系図に求められ、しかもそこにはその人物の事績として“初めて岩付城を築いた”との関わりが記されている。

筆者はこれを、岩付城を中核とした地域領主として、太田氏を再生しようとした六郎右衛門尉という人物の存在と事績の跡と見たい。

読者諸賢は、いかが思われるだろうか。

永禄七年(1564)に起きた、太田資正の岩付追放。


岩付太田氏は、

・父を追放して当主となった嫡男氏資

・追放された資正と、父に従った次男政景

に分裂。


この時、岩付太田氏の譜代の家臣達もまた、引き裂かれることになりました。


岩付太田を学ぶ中で、私にとって最も印象深かったのは、河目家の分裂です。

父と嫡男は氏資に付き、次男は追放された資正に従う。資正と氏資の対立によって、河目家もまた、二つに割かれたのです。


この河目家の分裂についての2020年9月の連投ツイートを、補足しつつまとめます。


 

 

 

以前もツイートしたのですが、太田資正の追放の際、幽閉された次男梶原政景を救い出した河目越前守の二男の逸話が好きです。

太田家譜は、この人物の活躍をこう記します。


二男源太政景三楽愛子二依テ氏資別而一間ナル処二押籠置タリシニ、家臣河目越前守二男四郎左衛門夜中二政景ヲ盗出シ三楽ノ陣エ落行タリ」。


クーデターを起こした兄・氏資。次男の政景は、父資正派だったこともあり、兄によって幽閉されてしまいます。この幽閉の政景を助け出したが、 河目越前守の二男・四郎左衛門です。


夜中に政景を救い出し、資正のもとに連れて行ったーーー。まるでアクション映画のような活躍です。

 

この逸話は、『異本小田原記』にも登場します。

其後河名邊與助といふ者、岩付へ忍入りて、源太を籠より盗出し、忍へ同心して来りければ、道譽大に喜び、河名邊越前といふは、代々の家老なれば、即是をも越前守と号し、源太が家老に定めける


「河名邊越前」は、「河目越前」の誤伝であろうとされています。


後述しますが、河目越前守の本家、つまり四郎左衛門の父と兄は、太田氏資に従います。


父や兄と異なる道を選んだ四郎左衛門。

次男であった彼は、主家の岩付太田氏の分裂を、むしろ自分の力を試せる機会だと考えたのかもしれません。


閉じ籠られた政景を救えば、資正・政景父子のもとで、立身出世が叶う。それは、父や兄との決別を意味します。しかし若い彼は、一族の一員で終わる人生ではなく、自分の力を信じて羽ばたく道を選んだのではないでしょうか。

 

この河目四郎左衛門ですが、その後、常陸国片野に入った資正父子に従ったらしいことが、『異本小田原記』からうかがえます。

有名な手這坂の合戦に、河目らしき人物が登場するのです。

 

然れども敵多勢なればとて、戦はずして落つる法やある。唯一筋に思切りて突いて懸り、晴なる討死すべしと思ふ。如何に皆々は思ふぞといえば、河名邊以下の侍、岩付より是まで附添ひ参る人々、一人も命を公に奉らずといふ事やあるべき


この「河名邊」が、やはり「河目」だと指摘されています。

 

河目四郎左衛門は、太田資正・梶原政景に従って、奮闘を続けたのです。



一方、岩付に残る太選択をした河目家の本家ですが、こちらも氏資を支えたことが史料から窺えます。


その活躍は、三船山合戦で氏資と共に討死した家臣の中に、「河目」が登場することから判明するのです。


太田家譜によれば「所詮敵二向テ討死セント供セシ広沢尾張守信秀 忠信嫡子・恒岡越前守・河目等ヲ先トシテ五十三騎三舟二至リ大ニ勇ヲ振テ戦ヒ…皆枕ヲナラベテ討死ス 


この時討死した「河目」とは、四郎左衛門の父だったのか、あるいは家督を継いだ兄だったのか。


袂を分かった父あるいは兄の死を、四郎左衛門は、常陸国でどのような想いで聞いたのか。


それを知るすべはありませんが、いずれにせよ、分裂した河目家は、各々の志を全うしたのです。


勇ましくも悲しい、心に残る戦国の一逸話です。



こちらは、2019年8月の次の連続ツイート。
 
『太田資正と戦国武州大乱』の第一章、会長が書いた「太田資正はどこからきたのか」の原稿を読んだ時のワクワク感で連投したものです。
 
太田氏最古の系譜史料とも言うべき太田資武状には、道灌には実子が無く、それ故甥を養子に迎えたとの記載があります。しかし、道灌に実子資康がいたのは歴史的事実。
 
太田資武状の記載は、一体、、、
 
この謎に真正面から向き合った会長の原稿に痺れました。(ツイート時の内容をまとめつつ、少しリライトしました)
 
 

 

 
最古の太田氏系譜史料とも言うべき『太田資武状』には、道灌には実子が無かったので甥を後継者にしたとの記載があります。
 
道灌之実子無ニ付而、図書助ト申而甥ニ候ヲ取立、名字を被譲候
 
しかし、道灌に実子資康がいたことは『梅花無尽蔵』等から明らかです。
 
では、資武状は誤っていたのか?
 
実子資康がいた道灌を実子無と書いた資武状の謎。
 
十月に出る太田資正本の第一章はこの謎に対して、鮮やかな解を示します。
 
答えは、、、どちらも正しい、というもの。
矛盾すると思われてきた太田資武状と梅花無尽蔵を、整合的に説明することができるのです。
 
ポイントは、太田道灌状に太田惣領の仮名「六郎」を名乗る人物が登場すること。
 
黒田基樹先生は、道灌後継者は実子資康と決まっていたが、道灌死後に資康が山内方となったため権利を失ったとします。(『図説太田道灌』等)
 
しかしこの説は、資康が数歳の頃に書かれた道灌状に「六郎」が登場することを説明できません。
 
第一章は、この太田道灌状の「六郎」に焦点を当てつつ、道灌に実子は無かったとする太田資武状と、道灌実子の資康が家督を継いだとする梅花無尽蔵を擦り合わせていきます。
 
第一章原稿を再読し、興奮しています。
 
↑↑↑ここまで↑↑↑
 
以下は、後日談ですが…
 
『太田資正と戦国武州大乱』の第一章は、スーっと読めてしまうのですが、実は、道灌以後の太田氏系譜について非常に重要な指摘を、数多く行っています。
 
太田資武状の「道灌之実子無」と、太田道灌状の「六郎」の整合について気づいた人は、会長以前にはいなかったのでは?
 
読み返すたびに気づきがあります。
 
 
 
 
2019年8月、杉山一弥先生の『図説鎌倉府』を読んだ際、ある記述への感動を起点に、思考が活性化しました。

太田道灌の事績、振る舞いを「江戸湾経済圏」という視点から考えてみた一連のツイート群。

結構気に入っている考察です。
 

 

杉山一弥編著『図説鎌倉府』を読みながら、今さらですが、気づきました。

鎌倉は「当時内海と呼ばれた東京湾」の外側。

関東の生産力が増し「内海」の流通が盛んになれば、鎌倉はその繁栄から取り残されることになります。

相模国守護代の太田道灌が、鎌倉でなく江戸に本拠を置いた理由が、腹落ちしました。 

 

 


ではなぜ後北条氏は江戸を本拠としなかったか。

それは、後北条氏が箱根の坂を越えた時点では、江戸が扇谷上杉領だったため。

そして後に江戸城を攻略しても、里見海軍が江戸湾東半分を制する状態では、江戸を磐石なる本拠とはできなかったはず。

江戸は、江戸湾経済圏を西から制服する者にとって、東の辺境だったと言えるでしょう。

しかし、疑問も浮かびます。
では、道灌はなぜ江戸を本拠に置けたのか。


 


それは、後北条氏と違い、太田道灌が江戸を本拠にできたのは、道灌の使命が扇谷上杉領国の東端の防衛であったためでしょう。

江戸湾交易の中核たる江戸ですが、その実、扇谷上杉陣営が古河公方方千葉氏と対峙する最前線です。

道灌は、扇谷上杉に仕える家宰の息子に過ぎませんでした。
扇谷上杉勢力圏の王ではなく、有力な前線指揮官に過ぎなかったが故に、道灌は東の辺境たる江戸を本拠とできたのだと思います。 
 

 



太田道灌の興亡は、前線指揮官として前線に築いた城が、江戸湾交易の中枢に位置したことに起因したと私は思います。

道灌は江戸湾交易の繁栄に乗って栄華を極めます。しかし、王者の味を知ったにも関わらず、その地はやはり、前線基地に過ぎなかった…

壮年になって生まれた幼き実子の将来を考えた時、道灌は江戸を真の王者の都とするため、この地を前線ではなく、勢力圏の中心地にしたかったのではないでしょうか。

東の千葉氏を滅ぼすことで。


 


享徳の乱終結後、太田道灌は千葉氏討伐に全力を注ぎます。
もはやそれは、古河公方対上杉陣営(室町将軍陣営)の抗争の一環ではなく、道灌の私闘だったとも指摘されます。

弟資忠の討死等の多大な損害を越えて道灌が千葉氏を排除せんとした理由。
それは、江戸を軍事・政治的にも江戸湾経済圏の中枢にするためだったのではないでしょうか。

 

 


文明十八年に、山内上杉氏に促され扇谷上杉氏が道灌を討った背景には恐怖があったのかもしれません。

もし道灌が千葉氏を排除し江戸湾の王となったならば、関東物流は道灌に大元を押されられることになり、両上杉とてもはや対抗できなくなる、と。 


 


江戸は関東物流の中枢であったものの、江戸湾は、一つの政治権力がこれを統治するには広すぎました。

太田道灌は一代でこれを成し遂げようとして破滅しました。

後北条氏には「五代」の時間があったものの、慎重に時間をかける内に、もはや“遷都”が考えられない程に本拠小田原が整備されてしまいました。

その結果、あまりに西に偏った本拠は、秀吉にあっさりと包囲されてしまうことに。

  


江戸湾世界を統一し、その中枢たる江戸に政庁を置くことができたのは、後北条排除後に更地となった関東に送り込まれた家康でした。

関東移封で苦労した家康であるが、江戸抗争の百年史を踏まえるなら、

太田がつき
北条がこねし江戸の餅
座して喰らふは徳の川

と詠むこともでるかもしれませんね。

『玉隠と岩付城築城者の謎』では、頁数の関係で掲載できなかった史料の一つ、玉隠が、足利政氏画像に記した“賛”。

古河市史資料中世編 550号の引用です。

相公自一主関東祝髪令帰仏法
中諸季閻浮提壽考吉山元是
福山翁

右関東将軍法諱道長字
吉山清壽像賛謹奉賛
永正龍集蛇兒之歳四月初吉
住山建長玉隠釈沙門英璵
満九十書于聴松軒下
勅 特賜宗猷大光禅師

↑↑↑ここまで↑↑↑

聴松軒は、建長寺の住持が管理した場所。
玉隠は、明応年間に建長寺の住持を務めましたが、この賛が書かれた永正年間にはその座にはいなかったはず。

「宗猷大光禅師」を勅賜されたことで、もしかすると、建長寺の“名誉住持”のような地位を得たのかもしれませんね。
 

 



以下も、拙著『玉隠と岩付城築城者の謎』において、頁数の関係で掲載できなかった考察です。

 

 


↓↓↓以下、「である調」に変わります↓↓↓

 

「苗裔顕泰」に隠されたもう一つの意味

 

「自耕斎詩軸并序」では、岩付城築城者「自耕斎」の子として登場する「岩付左衛門丞顕泰」であるが、別の段落では自耕斎の「苗裔」と表記されている(一家機軸、百畝郷田、付之於苗裔顕泰也)。



(参考)自耕斎詩軸并序の全文



「苗裔」は末裔を意味し、数代後の子孫に対して使われる表現であり、子に対して使われる事例は(管見の限り)見られない。

 

拙著『玉隠と岩付城築城者の謎』では、この点に注目し、自耕斎と顕泰は、

  • 家督継承においては「父」と「子」関係であったが、
  • 血縁上は「祖父」と「孫」の関係にあったのではないか、

と指摘した。

 

つまり、顕泰は、何らかの理由で血縁上の父から家督を継承することができず、家督を有する祖父の養子となる形をとって家督を継承した人物だったのではないか、と論じたのである。

 

そして、この奇妙な父子関係は、太田道真と太田六郎右衛門尉の関係性と通じる、との指摘も行った。


しかし、単なる子でないことを示す際に、「苗裔」という言葉が選ばれたことには、別の意図がある可能性も考えられる。というのも、「自耕斎詩軸并序」には「苗」という言葉が、他にも登場するためである。


本稿ではこの点を深耕してみたい。




 自耕斎詩軸において「苗」は特別な言葉


「自耕斎詩軸并序」に「苗」が登場するもう一つの段落は、「真宗製珍農夫吟、置念農歌、紹興年中、上曰、朕聞、民間令牛皆耕田、其労可閲、令画以耕田之象、庶不忘稼穡之艱難也、民未知養苗、則教之養苗」である。


ここでは、宋の皇帝・真宋が、民の農業の苦労を思い、「養苗」技術を教えたことが記されており、称賛されている。


拙著で紹介したように、真宗と自耕斎は、ともに農業の絵と歌を身近に置いた、という共通点が描かれており、玉隠が自耕斎を賞揚するために共通項のある人物として真宗を持ち出しているのは明らかである。


養苗」を教えた真宗と、子を「苗裔」と表現された自耕斎の間にも、共通性あるいは相補性を見いだせるのではないだろうか。


 自耕斎も育苗を行ったか


自耕斎が養苗を教えた/行ったとの記載は、自耕斎詩軸并序には無い。しかし、後半においてこの人物は「非自耕底田」と評されており、注目される。


拙著にて指摘した通り、「底田」は、二毛作ができない田、あるいは生産性の低い中世の「湿田」「深田」の比喩である可能性がある。


「湿田」は、天水に頼るため排水を自由に行うことができず、常時湛水されていた水田である。腰まで水没してしまうような湿田は「深田」とも呼ばれ、「底田」の語感にも通じる。そこでは、稲は種のまま撒かれ、田植えは行われなかった。田植えできる水田環境をつくる(一度水をある程度抜く)ことができなかったためである。


これに対して、中世の水田で生産性が高かったのは、水を抜くことのできた「乾田」である。そこでは田植えが行われ、田植えのために、苗代での養苗も行われていた。


以上を踏まえれば、「底田」ではないとされた自耕斎は、「乾田」であったことになる。そして、養苗・田植えを行って生産性の高い農業をしたとの解釈も可能となろう。


 顕泰は自耕斎が育てた苗


筆者は、この「非自耕底田」の直後に、玉隠が「優れた人物がいたら教えてほしい」(廬傍若有龍蟠之逸士、為予指迷)と続けていることに注目したい。自耕斎が人材を育成する人物であり、そのことが農業の比喩で示されている可能性を想起さける記載であるためである。


この発想には、傍証がある。

自耕斎の「自耕」が、農業そのものではなく、農業によって比喩される仏道修行であることは、拙著で紹介した通りであるが、加えてこの詩文は、自耕坐が修行によって得た悟りを衆生に教える「他受用」を行っていたことを記している。

この詩文の世界において、「自耕」は最終的に人材育成に帰結しているのだ。


「為予指迷」の意味


以上の解釈を前提とした上で、もう一つ筆者が注目したいのさ、「廬傍若有龍蟠之逸士、為予指迷」の「為予指迷」である。


玉隠は龍蟠之逸士を「私のためにめ紹介してほしい」と、故人である自耕斎に依頼している。このことは、自耕斎が「龍蟠之逸士」と表現される優れた人材を、玉隠以外に推挙した実績があったことを窺わせる。


果たしてそれは誰か。


自耕斎が多くの人材を育てあげたことが、自耕斎詩軸并序の書き手と読み手の間において常識となっていたならば、それは特定の誰かは意識されていない可能性がある。


しかし、「廬傍若有龍蟠之逸士、為予指迷」が長い「序」の最後の締めとして置かれた記載であることを考慮すれば、何らかの示唆が自分用中に示されている可能性も想定されよう。


筆者は、後者の考え方を採る。

それは、他ならぬ自耕斎詩軸并序の作成の依頼主である岩付左衛門丞顕泰が、「苗裔顕泰」と表現されているためである。


真宗の如く「育苗」をした自耕斎。この人物の後継者である顕泰が「苗裔」とされたことは、まさにこの人物が、自耕斎が育てた龍蟠之逸士であった可能性を想起させる。


しかも、この解釈を取る時、自耕斎を称揚するためのこの漢詩文は、依頼主である顕泰への賛としての性格も兼ねることになる。


パトロンへの称賛をさりげなく織り込む技術は、多くの権力者に詩を捧げた玉隠ならば、駆使していてもおかしくはない。



以上の検討により、

  • 顕泰は、自耕斎が育てあげた優秀な人材であり、
  • 玉隠はそのことを育てた自耕斎を称える形をとりつつ、
  • 同時に顕泰のことも称揚した、
との解釈が可能であることが示されたと言えるでたろう。


太田氏説の立場から考える苗裔顕泰


では、この解釈は、拙著の太田氏築城説と整合するであろうか。


拙著の太田氏築城説では、自耕斎=太田道真、顕泰=道真の孫の六郎右衛門尉と想定する。そして、道灌後の太田氏の混乱の中で、道真が六郎右衛門尉を惣領としたと考える。


すなわち、自耕斎=道真は、孫であった顕泰=六郎右衛門尉を、隠居の地である越生で育成したことになる。


冒頭の問いは、この想定は成立するか、と換言できるであろう。


祖父のもとにいた六郎右衛門尉、という仮説


太田資武状によれば、道灌は甥の「図書助」を後継指名したもののが、この人物は臼井城攻めで討死。道灌は別の甥を新たに後継指名したとする。


この別の甥こそが六郎右衛門尉と考えられるが、しかしこの人物は、道灌のもとで生活した気配が無い。


というのも、道灌のもとには漢詩人・万里集九がいたのものの、集九の漢詩文に現れるのは道灌の実子・資康のみであるためである。集九の詩に、養子となった甥の姿は見えないのである。


本来後継指名される予定ではなかった人物が、突如次期惣領に指名されたのであれば、誰かが帝王学(いや家宰学かもしれません)を教える必要がある。道灌でなけれはだ、誰がその役割を果たした。


道真道灌時代の太田氏は、北の河越・越生を道真が押さえ、南の江戸を道灌が押さえるという形で、二頭体制を取っていた。


道灌の後継者たる養嗣子が、道灌のもとにいなかったのであれば、健在であった前惣領の道真のもとで、共に北を押さえながら惣領の振る舞いを教えられていたと考えることは、許される想定ではなうだろうか。


そしてその延長上には、道灌謀殺という一族の危機に直面した時、道真が、帝王学を叩き込んだ孫の六郎右衛門尉を惣領に押し立てた、との状況も想定されるであろう。


祖父のもとにいた六郎右衛門尉との想定は、可能性として許されるものであり、自耕斎が育てた顕泰という関係は、道真と六郎右衛門尉の間にも成立し得たことになるのである。


いささか深読みが過ぎる解釈ではあるものの、太田氏築城説が、自耕斎詩軸并序の深読みにも耐える仮説であることは示せたのではないだうか。  


拙著『玉隠と岩付城築城者の謎』、最初に自然体で書いた時には、400頁超えのボリュームに。数年間の検討成果を全て入れたくて、欲張り過ぎてしまったのです。

「アマチュアあるある」ですね。


これでは売り物にならない、ということで記述をスリム化することに。
残念ではありましたが、①追加予定だった検討は執筆せず、②既に書いた原稿も枝葉末節の議論を次々省略、という対応をしたのでした。

以下のツイート群で行った、足利政氏の年次未詳書状の年次比定の議論は、このうち①にあたるものです。

あとあと参照しやすいように、ここにまとめます。(ツイート時は出版前でしたが、まとめるに際して『玉隠と岩付城築城者の謎』の内容も少し加味して整えました)
 
 

 


↓↓↓以下「である」調に変わります↓↓↓


古河公方・足利政氏と玉隠の関係性を考える

『玉隠と岩付城築城者の謎』において筆者は、鎌倉五山の高僧である玉隠は、鎌倉の外護者たる扇谷上杉氏と対立した政治権力に対しては、詩や賛を捧げなかったのではないか、と論じた。

しかし、扇谷上杉氏が古河公方と激しく対立した時期においても、玉隠が古河公方のために働いたことを示す史料が存在すれば、筆者の仮説は揺らぐことになる。

このような可能性を有する史料の一つが、古河市史資料中世編に609号である。

就乾亨院殿佛事、三度御下向之條、痛存候、因茲染自筆令啓候、委旨簗田平五仁申含候、恐惶謹言、
十月朔日  政氏
建長前住持玉隠和尚
(年次未詳)

古河公方・足利政氏が、鎌倉の高僧・玉隠に宛てたこの書状は、両者の関わりの深さを示すとされる当史料。拙著の仮説との整合性について、以下検討したい。

「建長前住持」の解釈

玉隠が「建長前住持」とされているので、この人物が建長寺住持に就任した明応八年(1499)以降であるのは間違い無い。
玉隠はまた、明応九年五月に「前建長玉隠叟英璵書于懶菴」と記名しているので、明応九年(1500)以降と考えることができよう。
「十月朔日」の解釈

次に、日付の「十月朔日」を考えたい。

足利政氏の父成氏の命日は9月30日と伝えられている。法事は命日に行うものであり、この書状は、前日に法事を行った玉隠への礼状と考えることができる。

「三度御下向」の解釈

次に注目されるのが「三度御下向」である。

この「三度御下向」を、三回目の法事と考えれば、法事は三回忌、七回忌、十三回忌と行われることを踏まえれば、この書状の時に執り行われたのは“十三回忌”である可能性が浮する。

三回忌は故人没後2年目に行う。従って十三回忌は足利成氏の没後12年目に行われたことになる。

足利成氏が無くなったのは明応六年(1497)であるため、その12年後は1509年、永正六年ということになる。

これは政氏が息子高基との権力闘争に破れることになった第三次永正の乱(1510~1515)が始まる前年にあたる。

文中に出てくる「簗田平五」は、古河市史資料中世編の註記によれば「政助カ」。
簗田政助は、第三次永正の乱で当主の座を追われることになった人物として知られる。また、政氏が失脚してからも傍に仕えたとも伝わる。
同乱が始まる前年に政氏の忠臣として活躍したとの想定は、これらの伝承と齟齬を生じない。

玉隠による三度にわたる足利成氏の法事

こうした解釈が仮に正しいならば、玉隠は、足利政氏の依頼で父成氏の法事を、次のように行ったことになる。

①明応八年(1499)三回忌
②文亀三年(1503)七回忌
③永正六年(1509)十三回忌

いずれも成氏の命日である9月30日に行われたと考えるべきであろう。

拙著の仮説との整合

では、“関東最高位の古河公方であろうと、鎌倉の主・扇谷上杉氏と抗争中であれば、鎌倉五山僧を使役できなかった”という筆者の仮説は、この三回の法事を説明できるであろうか。

明応八年、文亀元年、永正六年は、鎌倉の主である扇谷上杉氏が、足利政氏と和睦した時期、あるいは降服後に臣下した時期に当たる。

明応八年は和睦期、文亀三年も和睦期、そして永正六年は扇谷上杉が古河公方・山内上杉に屈服した四年後である。

足利政氏が鎌倉から玉隠を呼び寄せて古河で法事を行っても、筆者の仮説と齟齬は生じないと言えるであろう。

赤城神社年代記録との齟齬

唯一の課題は、明応八年の講和で足利政氏が古河に帰座したのが、赤城神社年代記録では明応八年10月にとされていることである。顕
足利政氏は、それまで扇谷上杉氏の拠点である河越を攻めていたと考えられるのだ。

これでは9月の晦日に、 法事はできません。

考えられるのは、足利政氏の古河帰座は実際には8月や9月だったが、10月に亡き父の法事を行ったことを受けて、赤城神社はこれをやや混乱して記録に残し、10月に古河に帰ったとした、という可能性。

この可能性は想定できるか。

玉隠は、明応八年8月に、建長寺住持に就任しており、これは前年の足利政氏による推挙を受けてのこと。
それまで、「越中公方」足利義材を支持していた政氏が、にわかに敵対する将軍・足利義澄に玉隠を推挙した足利政氏の行動。『玉隠と岩付城築城者の謎』では、これを劣勢になった足利義材ー政氏陣営が、足利義澄ー扇谷上杉陣営との和睦を画策するための手と想定したた。

この仮説が正しければ、玉隠が建長寺住持に就任した明応八年8月時点で、実質的な和睦は成っていた可能性が想定されよう。

赤城神社年代記録が記載した、足利政氏の10月の古河帰座はむしろ不自然であり、実際の帰座はもう少し早い時期に行われたと考えた方が自然であろう。

足利政氏の古河帰座は実際には8月や9月だったが、10月に亡き父の法事を行ったことを受けて、赤城神社はこれをやや混乱して記録に残し、10月に古河に帰ったとした、との顛末を筆者は想定したい。

対立する二陣営を繋ぐ玉隠の法事

明応八年9月に、鎌倉の主たる扇谷上杉朝良のために、その祖父・持朝の三十三間回忌を執り行った玉隠は、翌月10月に古河公方・足利政氏の父成氏の三回忌を執り行う。

・朝良と政氏の対立、
・朝良の祖父・持朝と政氏の父・成氏の対立、
この二つの対立を思えば、
玉隠が行った2ヶ月連続の法事は、対立する二大陣営の和睦を象徴するイベントとして行われた可能性も想定されるであろう。

以上の検討により、筆者は、
  • 冒頭に紹介した足利政氏書状は、永正六年のものと年次比定され、
  • そこから想定される政氏と玉隠の関わりは、拙著が提起した鎌倉五山と古河公方との関係性と矛盾しないことが示された、
と結論づけたい。