拙著『玉隠と岩付城築城者の謎』において、岩付城の築城詩「自耕斎詩軸并序」の依頼主「岩付左衛門丞顕泰」に比定した、太田六郎右衛門尉。

六郎右衛門尉は、一次史料の記載から実在が確かですが、実は太田氏の系譜史料には登場しません。

六郎右衛門尉は、なぜ系譜史料から消されたのか。その痕跡はどこにも無いのか。

頁数の制約で、『玉隠と岩付城築城者の謎』からは削られた、考察をここに記載します。




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■系図から消された六郎右衛門尉

太田六郎右衛門尉は、一次史料によってその存在が確かな歴史上の人物であるが、この名を記す太田氏系譜史料は存在しない。

最古の太田氏系譜史料と言うべき『太田資武状』は、道灌の後を継いだ養嗣子の名を、「養竹院殿義芳永賢」と伝える。
他の多くの系譜史料も、『太田資武状』には無かった実名「資家」を添える形で、やはり「養竹院殿義芳永賢」をこの人物を道灌の後継者とする。

この「養竹院殿義芳永賢」は、六郎右衛門尉ではあるまい。

それは、『太田資武状』がこの人物(永賢)が「官途を名乗らなかった」と記していることに加え、諸系譜史料がその没年を大永二年(1522)としているためだ。

「養竹院殿義芳永賢」が、官途名「右衛門尉」を名乗り、永正二年(1505)に誅殺された六郎右衛門尉である可能性は非常に低い。



六郎右衛門尉は、“系譜史料から消された太田氏惣領”とみてよいであろう。

主君に誅殺された者の宿命

では、なぜ六郎右衛門尉は、系譜から消されることになったのか。それは、この人物が主君である扇谷上杉氏によって誅殺された人物だったため、と考えるのが自然であろう。

扇谷上杉氏に仕え続ける太田氏としては、主君に誅殺された六郎右衛門尉は逆賊である。こうした人物を肯定的に捉えることは、少なくとも表立っては許されないことだったのではないか。

しかし、ここで奇妙なことに気づく。
この想定が正しければ、道灌もまた太田氏系譜史料から記録が抹消されるべきではないか。

ところが、そうはなっていない。
江戸太田系・岩付太田系を問わず、道灌の存在を消した太田氏系譜史料は存在しない。主君に誅殺された人物でありながら、道灌は太田氏最大の英雄としてあらゆる系譜史料で称揚の対象となっているのだ。

主君に誅殺された人物が系譜史料から消される傾向があるのならば、なぜ太田氏は、六郎右衛門尉の存在を削除し、道灌の記載は残したのであろうか。

道灌の名誉回復

稀代の英雄・太田道灌の存在はあまりにも大きいものであり、系譜から消し去ることはできなかった―――との説明は可能であろう。

しかし、筆者はそれ以上に重要な大きな相違が、道灌と六郎右衛門尉の間に存在すると考える。それは、両者を誅殺した扇谷上杉氏当主のその後の顛末である。

道灌を謀殺した扇谷上杉氏当主・定正は、その後まもなく死去する。山内上杉氏との抗争(長享の乱)の途中で頓死を遂げてしまったのだ。

そして扇谷上杉氏は、最終的には道灌実子・資康を庇護した山内上杉氏との抗争に敗れる。父道灌の謀殺を不当と主張する太田資康の系統は、父を殺した扇谷上杉氏に勝っことになる。

その後、太田資康の系統は江戸城に帰還するが、これは資康の系統が扇谷上杉氏に“赦された”のではなく、勝者として優位な立場での帰参とみるべきではないか。

例えば、長享の乱終結の五年後(永正七年(一五一〇))には、伊勢宗瑞が扇谷上杉氏領国に侵攻し、扇谷上杉氏の上位者である山内上杉氏が援軍を派遣しているが、この時、山内上杉氏との連絡を担ったのは資康の子孫として江戸城に入った太田大和守(資高)であった(岩史235・北区273)。

扇谷上杉氏配下にありながら、上位者・山内上杉氏と深い関係性を示す太田大和守の振る舞いは、この人物が、山内上杉氏の支援の下、扇谷上杉氏陣営に勝者として帰参した可能性を示唆するものと言える。

道灌謀殺を不当と訴えた資康の系統が、勝者として江戸城に帰還したのであれば、道灌の名誉もこの頃回復されたと考えることができるではないだろうか。

道灌を殺した前当主・定正が既にこの世に無かったことも、道灌の名誉回復の障壁を下げたのとであろう。

六郎右衛門尉は名誉回復ならず

しかし、六郎右衛門尉は違った。
六郎右衛門尉を誅殺した扇谷上杉朝良は、生きた。長享の乱の敗北を受けて隠居した朝良であるが、その後も扇谷上杉氏を率いた。
そのことは、長享の乱終結の五年後に行われた伊勢宗瑞との権現山合戦での朝良の指導ぶりや、永正十三年(1517)に古河公方・足利政氏の岩付移座をこの人物が主導したことから窺うことができる(『円福寺記録』)。

六郎右衛門尉を誅殺した扇谷上杉朝良は、引き続き同氏陣営の最高権力者として実権を振るったのである。

これでは、六郎右衛門尉に名誉回復の芽は無い。

また、六郎右衛門尉が、長享の乱が終結した永正二年(1505)に誅殺されたのは、扇谷上杉朝良が山内上杉氏への降服を志向し、六郎右衛門尉が反対したことによるものでなかったかとの推測も存在する(山田邦明(2015))。

この推測が正しければ、以降続いた「山内上杉氏を事実上のトップとする関東秩序」において、六郎右衛門尉の名誉が回復される見込みは無い。

六郎右衛門尉が太田氏系譜史料から抹消され、復活の機会がないまま、子孫たちの記憶から消えていったのも不思議ではないだろう。

六郎右衛門尉の痕跡

しかし、六郎右衛門尉の痕跡が、太田氏系譜史料から完全に抹消されたわけではない。

『太田資武状』をはじめとし、多くの系譜史料が、道灌と資頼の間には「養竹院殿義芳永賢」(あるいは資家)一代を挟むのみであるのに対して、唯一、浅羽本系図八所収「太田氏系図」(北区326)は、道灌以後の系譜を、道灌―道俊―道薫―道賀―道誉と記載する。

「道賀」は道可(太田資頼)のことと考えられる。すなわちこの系譜は、太田道灌と資頼の間に、当主二代(道俊と道薫)が存在していたとするのである。

まったく同じ系図が、軍記物『異本小田原記』にも記されている。『太田資武状』とは別系統の伝承が存在し、道灌と資頼の間に当主二代が存在していたことを伝えたのであろう。

筆者は、浅羽本系図八所収「太田氏系図」が道灌の後継者とする「道俊」が六郎右衛門尉である可能性を指摘したい。あわせて、その跡を継ぐ「道薫」が備中守永厳、あるいは「養竹院殿義芳永賢」である可能性も。

「初築岩築城」

同系図が「道俊」の事績として「初築岩築城」と記している点も注目される。

拙著『玉隠と岩付城築城者の謎』では、六郎右衛門尉は、岩付城の築城者ではなくその奪還者であったと想定した。

しかしその一方で、岩付城を“長老道真からの家督継承の証”・“惣領の城”として一族にとって特別な城と位置付けた人物であったとの考察も展開した。

この考察が正しく、六郎右衛門尉が岩付城を中核とする太田氏の在り方を規定した人物として規定されるのであれば、その記憶がやや不正確ながら「初築岩築城」と伝えられたことも想定されるであろう。

なお、六郎右衛門尉の法名が「道俊」であったならば、この人物の法名を「顕泰」と推測した本書の想定は否定されることになる。しかし、「永厳」あるいは「養竹院殿義芳永賢」にあたる人物が「道薫」と伝えられている以上、浅羽本系図八所収「太田氏系図」は、道灌後の当主二代の法名については、誤伝している可能性が高い。

ほぼ全ての太田氏系譜史料から抹消されたはずの太田六郎右衛門尉。しかし、それらしき人物が、ある別系統の系図に求められ、しかもそこにはその人物の事績として“初めて岩付城を築いた”との関わりが記されている。

筆者はこれを、岩付城を中核とした地域領主として、太田氏を再生しようとした六郎右衛門尉という人物の存在と事績の跡と見たい。

読者諸賢は、いかが思われるだろうか。