日本でも受験可能なポルトガル語の国際検定試験が、
ここモザンビークでも受験可能である。
この国際ポルトガル語検定試験の対象者は、
ポルトガル語を母語または母国語としない
人たちのための試験で、年に数回開催されている。
レベルは準初級から大学級まで5段階である。
ここナカラでは受験可能な施設が存在しないため、
州都ナンプラまで試験を受験しに行く必要がある。
次回5月の受験はしないのだけれど、今後
受験するために準初級の過去問題を解いてみているのだが、
これが問題によっては意外と難しい。
普段、仕事でポルトガル語を使用しているわけでもないので、
まず登場する単語が私にとっては少し難しめである。
普段の会話でも私が分からない様子を察すると皆、簡単な
言葉に言い換えてくれるので難しい単語が縁遠いのである。
日常的に私がポルトガル語で会話する相手は、
大家さんやそのお手伝いさん、ポルトガル語の先生と
そこらへんの店の店員などに限られており、
会話の内容も何が高いとか安いとか、天気がどうだとか、
旦那とケンカしてからもう4か月も口を聞いていない
(私ではありません)とかいう日常会話しか話さないので、
政治や経済などの新聞に出てくるような話題になると
グンと単語が分からなくなる。
すると文章の流れでなんとなくしか理解ができない。
準初級の試験は、正しい記述や組み合わせを選ぶ問題や
長文を読み解答を選ぶもの、作文やリスニングで
構成されており、試験時間2時間というものである。
作文などをやってみると、細かいスペルミスや助詞の
使い方などで細かいチョンボがわりと多く、
その出来具合に少し落ち込んだほどである。
最初の方の問題で、まず事実説明が記載されており、
その状況下で誰かに携帯電話のショートメッセージを
送るのに適切なものを選ぶ問題があった。
問題3. O Miguel continua à espera do autocarro.
(ミゲル氏はバスを待ち続けています)
A. Ainda na paragem! Podem esperar mais um pouco? A viagem é rápida!
(まだ停留所です。もう少し待ってもらえますか?すぐ着きます!)
B. Já estou no autocarro e chego mais ou menos daqui a 10m.
(もうバスに乗ったので、あと10分程度で着きます)
C. Podem esperar mais um bocadinho por mim? Este autocarro pára em todo o
lado.
(ほんのもう少しだけ待ってもらえますか?
このバスが停留所すべてに停車するものだから)
という問題で正解はAなのだが、
モザンビーク人だったら絶対にBだろうなァと思うのでした。
現に今日は迎えのタクシーが1時間も来なかったのだが、
約束の時間15分後に電話したところ
「家にいます、今から行きます」と言い、
30分後には「向かっています」と言い、
とうとう1時間が経過したところでなお来ず、連絡したところ
「奥さんのことで家庭に問題があるので、行けません」
とぬけぬけと言い放ったのである。
15分後と30分後の発言は嘘だったということになる。
そのすぐ後、近所で何の問題もないような様子の彼を見かけた。
旦那さんが出張で3日間、家を空けていた。
朝昼(前後)晩と日に4回の送り迎えをすることもなく、
ご飯も一人分で適当に済むので、久しぶりに自分だけの自由な時間!
こちらに来て1年半、手持ちのヘアアクセサリーにも少し
飽きがきていたので、カプラナでシュシュを作ってみたら
意外に簡単に作ることができた。
ミシンがないのですべてが手縫いになるのだけれど、
その作業に没頭する感覚が楽しかったので、
柄違いでまた作ってみた。
そうしたら、シュシュ以外にも何か作れそうな気がして、
ティッシュケースに挑戦してみたら、これまた意外に
よくできた(幼稚園のバザー出品レベルだと思う)。
これに味をしめ、端布を巻くだけでリメイクできる
サンダルにも挑戦してみた。
サンダルに布を巻き巻きするだけなのだけれど、
足の甲の部分がどうしても布でカバーできなかったので、
コサージュでカモフラージュしたら、あら素敵。
手芸なんて今まであまり興味もなく、
不得手だと思い込んでいたのだけれど、楽しかった~。
ナカラ港はポルトガル植民地時代に建設された港で、
その後約40年あまりの間にただの一度も改修が行われていない。
特徴としては、自然の状態での水深が14mと東南アフリカで
3番目に水深が深いことから浚渫(水深維持のための海底土砂
掘削)が不要なこと、入りくんだ湾内に位置しているので
波浪の影響が少ないということから、天然の良港とされている。
そのナカラ港は24時間体制で船舶への推進制限なしで稼働している。
ただ、港の自動化が進んでおらず設備が40年前と変わらないため、
まだまだ人力が必要であり、港内には日雇い労働者が溢れている。
そんなナカラ港の改修事業が日本のODAにより、いよいよ着工となる。
工期は18か月で、工事は入札により海外大型工事の先駆であり、
海洋土木最大手として知られる五洋建設株式会社が実施する。
(前身の水野組創立は1896[明治29]年、1961年にはスエズ運河の改修工事を受注)
事業規模は3億米ドルで、今回の無償資金協力事業で行われる
改修工事の第1フェーズは北埠頭の防舷材(船舶接岸時の
緩衝材)の設置、コンテナヤード舗装、液体燃料取扱いの
近代化に向けた資機材導入、ゲート拡張、消防システムの導入
ならびにレールターミナルの建設等である。
これらの工事により、国内外の顧客に対するより一層の対応が可能になるという。
さらにナカラ港はブラジルのVale社によって建設が進められている
テテ州モアティゼからマラウィを経由して石炭を輸送する
鉄道の最終駅となる。(ナカラ港の対岸にある同社建設中の
ナカラ・ア・ヴェーリャ[旧ナカラ]の石炭積出港が石炭輸出の主要施設)
この事業は、特にモザンビーク・ブラジル・日本の3か国が
関与するProSavana事業における鉱物や農産物の輸出需要に
応えるためのものでもある。すべての事業終了時には、
10万コンテナおよび一般貨物240万トンとされる現在のナカラ港の
貨物取扱許容量が引き上げられることが期待されている。
国を挙げての一大開発事業の舞台の一つであるナカラで、
その様を日々肌で感じることができるのはとてもわくわくする。
10年後、20年後はきっとまったく別の顔を持っているのであろう。
参考:
3月6日付けnotícias紙(http://p.tl/AClP)
3月7日付け ウェブニュースMacauhub(http://p.tl/aeiI)
3月10日付け notícias紙(http://p.tl/RDte)
外掃除して、夜中は門のところで寝ちゃうただのおじさん、
朝方帰ってゆく)の娘さんがマラリアで亡くなった。
火曜日にナカラで一番大きな郡立病院に入院、
木曜日にはそのまま息を引き取ったという。
たったの3歳だった。
周りでも若くして亡くなってゆく人、奥さんと幼い子どもたちを
残したまま亡くなってゆく人などの話を日常的によく聞く。
警備員のおじさんも子どもは8人と子沢山だけれど、
たくさん産んでも全員が無事に大人になれるわけではない。
モザンビークの平均寿命は世界でも180位、50歳なのである。
(ちなみに1960年の平均寿命は35歳)
この国では生まれた1,000人のうち乳幼児のうちに72人が
亡くなる(日本は1,000人中2人という数字である)ことからも、
日本にいるよりも死が近いのは当たり前なのである。
年末年始や行事ごとを盛大に祝うことは、
新年を迎えられることが当たり前ではないから、
その喜びもあるのかもしれない。
やはり冷たいコーヒー系のドリンクはないが、
食事もドリンクも現存するレストランやカフェに
比べると、お洒落感が半端ない。
そのお洒落なカフェSabores do bairro-maiaia-
(地元の味-マイアイア[地区名]-)は、
ナカラで青年海外協力隊員として活動する方から
教えてもらい、早速2人で冷やかしに行った。
ナカラにはないモダンな店構えにまず衝撃が走り、
店の中に足を踏み入れると、これまたナカラにはない
清潔感のあるいかにもカフェ的な家具とインテリアに興奮し、
日本人の私たちが食べても何ら違和感のない完璧な
ハンバーガーやサンドイッチ、クレープなどのスイーツに
感動すら覚えた。
オーナーはポルトガル人でいつも店にいるお姉さんは
26歳という若さである。
何がどうなってモザンビークのナカラくんだりに
店を出すことになったのかは分からないが、
お客さんはほとんどが外国人でにぎわっていた。
こんな場所があるというだけで、嬉しくってたまらない。
うちのコンロはオーブン付の電気コンロだが、
大家さんは毎回炭から火をおこして調理をしている。
そのため、なんと言っても「炭」が必要不可欠である。
うちは停電になると、(電気で汲み上げている)水道は止まるし
(電気コンロが使えないので)火はつかない、さらに(扇風機も
エアコンも稼働しないので)暑くてかなわないのだけれど、
大家さんは電気がなくても(水は手で汲んでいるし、
調理は炭だし、暑けりゃ外でゴザ敷いて寝ているので)、
まァテレビが観られないぐらいで生活にあまり支障がない。
そして近頃は雨期の影響で、市内の炭が高騰しているらしい。
それは普段高さ1mぐらいのズタ袋いっぱいに入っている
炭が100MT(約300円)なのが、あれよあれよと高騰し、
とうとう1袋250MT(約750円)にまでなってしまっているらしい。
しかも300MTまでは高騰が続く見込み。
そうなるともう3倍の値段である。
しかもたちが悪いのは、上の方だけ炭を入れておいて、
下にはゴミのようなものが詰まっていることすらあるという。
高騰しているのは、勿論これらの炭を郊外から持ってきているからで、
ナカラ市内を出て車で30分ほど離れたところまで行くと、
通常価格で取引が行われているという。
前日の夜に炭が切れてしまってから、何も食べていないという
腹ペコの大家さんを乗せ、炭を買いに行くために我らが
チャレンジャーの出番が来た(大家さんの所有する
ワンボックスが不調のため出動不可だったから)。
ナカラ市内から車で30分ほど走ると、ポツンと市がたっているところがある。

市内から15分も走れば雄大なアフリカの大地を感じる
(何もないだけ)
そこには炭と(市内で買うよりも)新鮮な野菜たちが
並べられており、ナカラ・ナンプラ間を移動する車が寄る
いわば道の駅のような場所になっている。
チャレンジャーが着くなり、威勢の良い売り子が
どこからともなく駆け寄ってくる。
「セニョーラ、ピーマンあるよ!トマトも!ナスもあるし、
バナナもいいのがあるよー!!」
とかなり威勢が良い売り子の青年たち。
あっという間に囲まれてしまう。
それらの青年をかき分け、10歳ほどの少年がザルに
小さい唐辛子を入れて、駆け寄ってきた。
「唐辛子!」・・・うん、そうだね。でも買いません。
こちらも売り子をかき分けて、自分の買いたいものを買う。
ぼぉーっとしていると、色々なものを手につかまされ
なんとなく買う羽目になるので、確固たる意志を持って
NO!と言うことが大事である。
大家さんが炭を物色している間に、私もひと通り
買い物を済ませると、今度は「写真撮って攻撃」が始まり、
そのうちに大家さんに「もう行くわよ~」と制され、
車に乗り込む帰り際には「結婚して攻撃」にあう。
売り子たちとのおしゃべりも途中になりながら、車を発進させる。
結局ここでも炭は高騰しており、
1袋130MT(約400円)で購入することができた。
安定した価格での滞りない物資の供給というのは、
実はすごいことなのだなァとつくづく思ったのである。
2005年にモザンビークの第3代大統領に就任してから、
2009年には再選を果たした。
2014年である今年、また大統領選挙がある。
そのためか今週、大統領がナカラにやってくるらしい。
そのことを私は幹線道路の横断幕で知ったのだけれど、
ナンプラ州知事が来るのとはやはり違い、横断幕の種類も多く、
雨期の雨でボッコボコになった道路も現在急ピッチで
補強工事が進められている。
港にも軍の方が下見に来ていたし、広場の塗装も新しく塗り替えがされていた。
モザンビーク北部で1943年に生まれたゲブーザ氏は、
20歳の時にFRELIMO(モザンビーク解放戦線)に入ったが、
その後まもなく1964年から1974年まではポルトガルに対する
独立戦争が続いた。
独立を果たした1975年までには重要な将軍であり指導者となっていた。
さらにその後、サモラ・マシェル初代大統領が飛行機事故で亡くなり、
国営企業の民営化など社会主義による経済政策を放棄した
ジョアキン・アルベルト・シサノ第2代大統領の下、
ゲブーザ氏は建設、輸出、水産業の経営者として成功を収め、
豊かになった。
現在でも国外からの様々な投資や援助に一族の企業が
かかわっており、カネがカネを呼んでいる。
2004年の選挙の際には63.7%の票を獲得して大統領に選出、
就任することになったが、選挙管理委員会が公平で透明な選挙が
行われなかったとして国際監視団から非難を受けた。
公務員や公立学校の先生などはFRELIMOに投票するようにとの
風潮があり、いまだに選挙の公平性は保たれていない気もするが、
他に主だった政党もないので、与党であるFRELIMOが
勝ち続けているという感じである。
選挙活動や党大会も平日の昼間に行われ、公務員は強制参加であったりする。
ということからも、次期大統領もきっとゲブーザ氏の
息がかかったFRELIMOの方が就任されると思われる。
大家さんの奥さん:「あら、こんにちは。旦那さんの具合はどう?」
わたし:「うん、もう大丈夫です。顎の腫れも引いたし」
私の具合が回復したのと入れ違いで、週末は旦那さんの
右顎がいきなりおたふくみたいに腫れた。
本人には申し訳ないが、ちょっと面白いぐらいに腫れていた。
病院行かない、薬飲まない、体弱くないの三拍子そろった人であるが、
相当に痛かったらしく、2日間抗生物質を服用していた。
そのうちに腫れは引き、原因は特定できなかった。
大家さんの奥さん:「やっぱり鶏肉だわね、私も娘も鶏肉食べると喉がイガイガするもの」
わたし:「はぁ・・・」
この揃いも揃った鶏アレルギー信仰の根拠の程はいかほどか
分からないが、皆神妙な面持ちで「鶏肉だわ」と言うので、
可笑しくなる。
もう何十年も彼の地で生きてきた彼らが言うのであるから、
まァ一理あるのであろう。
鶏肉のアレルギーってそんなに聞かないんだけどなァー。
なにかとんでもない化学飼料とかで育てているのかしら。
ちなみに日本では食物アレルギーの約40%が「卵」だそう。
雨期も終わりに差し掛かり、見違えるほどに草が生い茂っている。
勝手に生えてきちゃったものから、家庭菜園として
植えているものまで近頃はたくさんのマサロカが目につく。
大家さんの奥さんがたまに分けてくれる。
日本で一般的に食用とされているスイートコーンを想像して
調理すると痛い目を見る。しっかりとした歯ごたえがあり、
茹でても焼いても、1本食べれば顎が鍛えられるような代物である。
現代っ子である私はあいにく軟弱な顎しか持ち合わせていないため、
1日に1本か2本を食べるともう顎ががくがくする。
味は淡白で、噛めば噛むほどトウモロコシの微かな甘みが染み出てくる。
夕方になると道端に小さな七輪でトウモロコシを焼いている
売り子が出現する。1本5MT(約15円)。
みんなスナック感覚でそれをかじりながら歩いて家路につく。
実はトウモロコシは1492年にコロンブスがアメリカ大陸を
発見した時にヨーロッパに持ち帰られたことで伝来が
始まったものだけれど、早くも16世紀にはアフリカ大陸や
アジアにも広がりを見せていた。
アフリカにおいてはソルガムというコイコイ人が
すでに栽培をしていた作物の方が主流であったが、
19世紀にはそれよりも熟すのが早かったトウモロコシへの
転換が進んでいった。
日本には1579年にポルトガル人から長崎または四国に
伝わったという。ここでもアフリカ大陸とポルトガル、
日本の繋がりが垣間見えて、面白いなと思った。
モザンビーク島といい、弥助(織田信長の家臣であった
モザンビーク人)といい、モザンビークとポルトガル、
日本の関係は私が思っていたよりも遥かに古く、深く、
知れば知るほどモザンビークが身近に思えてくるのが不思議でならない。
































