侍ホリタンの続続100名城訪問記

侍ホリタンの続続100名城訪問記

惜しくも日本の100名城や続100名城に入らなかった隠れた名城が日本にはまだまだあります。
侍ホリタンが独断と偏見で選んだ続続100名城を紹介していきます。

訪問日:2026/5/30

 

熱海城は、静岡県熱海市街の東側、錦ヶ浦の山頂(海抜100m地点)に建つ観光施設として、昭和34年(1959年)に建てられた模擬天守です。実在した城郭ではなく、戦国~江戸期の熱海の城とは無関係の観光用レジャー施設です。。建築様式は日本の城郭技術が発展の頂点に達した、桃山時代~慶長初期の様式にのっとり、外装5層、内部9階の鉄筋コンクリート造りの建物です。館内は日本の武家文化に関する資料の展示、日本の城郭に関する資料、江戸体験コーナー、浮世絵コーナー、無料で楽しめるゲームコーナー、足湯コーナーなど大人から子供まで楽しめる内容となっています。また最上階の展望台からは、熱海市街、相模湾、大島などの伊豆諸島まで見渡すことができます。

 

熱海サンビーチからの遠望-1

熱海サンビーチからの遠望-2

熱海サンビーチからの遠望-3

 

熱海城入口からの眺め、

開城9時前だったので入城できずです。

 

登城道からの眺め

訪問日:2026/5/2

 
本日の天候、晴れのち曇り
 

ホテルからの佐世保湾の眺め、

お城巡り最終日、

本日も雨の心配はなさそうです。

ホテルからの九十九島の島々の眺め

ホテルの朝食-1

ホテルの朝食-2

 

ホテルで朝食を済ませ本日のお城巡りへ向かいます。

 

【12城目 平戸城(日本100名城No.90)】

平戸城は、別名亀岡城と呼ばれ、平戸港を見下ろす平戸瀬戸に突き出た丘陵地に築かれている平山城です。松浦鎮信公が慶長4年(1599年)に現在の城地である日之嶽に最初の築城を開始しましたが、関ケ原の戦いの頃に、徳川家康公からの疑惑を晴らすため、城の一部を破却したと伝わります。その後慶長18年(1613年)の火災により大半を焼失、豊臣氏と親交が厚かったことによる江戸幕府からの疑惑から逃れるために、自ら火を放ち城を破却したとも言われています。その後、長らく藩は城を再建せずに平戸港を挟んだ北側に居館を構えて、藩庁としていました。元禄15年(1702年)、4代藩主松浦重信公は幕府に平戸城の再築城を願い出て、翌年に許可されています。江戸時代中期に築城が許可されたのは異例で、東シナ海警備の必要性からだと言われています。築城は5代藩主松浦棟公によって、元禄17年(1704年)に着工され宝永4年(1707年)に完成しています。山鹿素行の軍学である、山鹿流で縄張りが行われた珍しい城郭で、天守は上げられず二の丸に建てた3重3階の乾櫓を代用していました。明治の廃城令によって、現存する狸櫓と北虎口門を残して、城の建物は解体されましたが、昭和37年(1962年)、模擬天守及び、見奏櫓・乾櫓・地蔵坂櫓・懐柔櫓が再建されました。

 

 

平戸城遠景-1、

九州本土側、平戸大橋付近より撮影

 

平戸大橋、
平戸島と九州本土を隔てる平戸瀬戸に架かる全長655mの吊り橋です。

 

平戸城案内板-1

 

北虎口門、

現存する建物で櫓門となっており、狸櫓とつながり、地蔵坂櫓とは土塀でつながっています。

 

北虎口門前からの地蔵坂櫓の眺め、

乾櫓と北虎口門を結ぶ中間地点にあり、城壁に張り出して、側面から北虎口門を守ることができます。

 

平戸城案内板-2

 

狸櫓付近にある石の狭間、

従来の狭間は、漆喰壁に設けられた穴から敵を襲撃するものですが、平戸城では、狭間を石垣で造っています。

 

北虎口門と地蔵坂櫓、

 

本丸門

本丸門(内側より撮影)

 

本丸虎口の石垣

 

天守閣(沖見櫓)、

平戸城では、天守閣は建てられることが無かったので旧沖見櫓跡に模擬天守閣が建てられています。内部は資料館となっていて松浦氏に関する資料や甲冑、陶器などが展示されています。最上階は展望台となっていて平戸の海を一望することができます。

 

見奏櫓付近から見た天守閣

 

見奏櫓、

平戸の絶景を見ながら休憩できる場所として開放されています。

見奏櫓は「五段ハグチ」と呼ばれる急な崖の上に石垣が積まれてその上に建てられています。

 

見奏櫓内展示物(ひうち石式の騎兵銃)

見奏櫓内部の様子-1

見奏櫓内部の様子-2

 

本丸から見た懐柔櫓と平戸大橋、

100名城初の常設の宿泊施設となっています。

 

本丸からの眺め-1

本丸からの眺め-2、

前方に見える建物は平戸オランダ商館です。

本丸からの眺め-3、

写真右側は黒子島、「黒子島原始林」として国の天然記念物に指定されています。

 

二の丸から見た見奏櫓と天守閣

 

二の丸から見た天守閣

 

亀岡神社と平戸城

 

愛子像、

9代藩主松浦清公の11女で、明治天皇の祖母の像です。

 

乾櫓、

二の丸御殿の守りと天守としての役割も兼ねていました。

 

平戸城遠景-2

平戸城遠景-3

 
長崎県から佐賀県へ移動
移動距離約65キロ
 

【13城目 唐津城(続日本100名城No.185)】

唐津城は、関ケ原の戦いの戦功で加増された寺沢広高公によって松浦川河口の半島状に突き出した丘陵に築かれた平山城です。城を中心とした砂浜と松原が翼を広げた鶴のように見えることから、別名「舞鶴城」とも呼ばれています。広高公は唐津城築城にあたって、松浦川と神田川の河口部分の大改修を行い、薩摩藩・肥後藩を中心とした九州各藩の協力や穴太衆の石工技術を用いて、慶長7年(1602年)から7年の歳月を費やして唐津城を完成させました。また築城に際しては、朝鮮出兵の拠点であった名護屋城の建材が活用されたと伝えられています。唐津藩は初代寺沢氏が2代で断絶後、大久保・松平・土井・水野・小笠原と譜代大名が藩主となっています。それは幕府が唐津藩を長崎監務と九州の外様大名の監視役として重要視していた証です。

 

唐津城案内板-1

唐津城案内板-2、

唐津城周辺は舞鶴公園として整備されており、3月下旬には満開の桜、4月下旬から5月上旬には藤が満開となります。天守閣最上階からは玄界灘や壱岐、虹ノ松原の雄大な景観、松浦橋と城下町唐津の風景を見ることができます。

 

城内へ向かう石段と石垣



総締門跡と藤棚

 

二ノ曲輪からの天守閣の眺め

 

藤棚

 

本丸櫓門へ向かう石段

 

本丸櫓門

 

天守閣、

唐津城には天守はなく天守台跡に他の城の天守を参考に、昭和41年(1966年)に文化観光施設として模擬天守が建てられました。天守内は郷土博物館になっており、唐津藩の資料や唐津焼などが展示されています。

 

天守閣と化粧櫓

 

唐津城址の石碑

 

亀頭櫓

 

天守閣入口に展示されている南蛮大砲、

昔から天守台に置かれていた大砲で近年、大砲の刻印によりイギリスで製造されたのものであることが分かっています。

 

本丸からの眺め-1、

玄海灘と高島(右)の眺め、高島には宝くじに御利益のある「宝当神社」があり、全国から観光客が訪れます。

本丸からの眺め-2、

松浦川と松浦橋の眺め

本丸からの眺め-3、

唐津湾と日本三大松原の一つに数えられる虹ノ松原の眺め、

虹ノ松原は唐津藩初代藩主寺沢広高公が、防風・防潮林として植林したのが始まりで、全長約4.5キロ、幅約500mにわたって続く松は約100万本と言われています。

 

唐津城遠景-1

唐津城遠景-2

唐津城遠景-3

 

船入門跡、

藩主の参勤交代の際の出入、御蔵への納入物品の出入として利用されていました。

 

唐津城遠景-4

 

今回1週間の九州お城巡りの旅はここまで。

今回で九州の続を含めた100名城は15城訪問しました(小倉城、中津城は以前に訪問済み)が、九州にはまだ続も含めた100名城が36城もあってまだ半分にも到達していません。沖縄や福江島、対馬にも100名城が存在することを考えると、九州制覇は程遠い道のりです。


佐賀県から福岡県へ移動

移動距離約120キロ


【ちょこっと寄り道 その7】


お城巡りの最後に、福岡県北九州市八幡東区にある河内藤園に立ち寄りました。昭和52年4月に開園した藤園で22種類の藤の花が咲き乱れています。山間にある藤園ですが、混雑を避けるためチケットの事前予約制を導入する程の人気スポットとなっています。


 全長110mの藤のトンネル

 

 

 

 

約1000坪の大藤棚

 

お城巡り最後の夜は、北九州市門司区にあるノーフォーク広場での車中泊です。

 

駐車場の様子、

道の駅のような休憩所はありませんが、トイレは24時間使用可能です。

 

 関門海峡と関門橋

 

ノーフォーク広場近くにある関門トンネル人道入口、関門海峡を繋ぐ全長780mの歩行者用海底トンネルです。上は車道となっています。エレベーターに乗り門司区側は地下60m、下関側は地下55mまで降りて通行します。

人道トンネル内の様子

トンネルの中ほどにある福岡県と山口県の県境の標識

九州本土から見た本州、下関の夜景

訪問日:2026/5/1

 

本日の天候、晴れ時々曇り

 

【10城目 島原城(日本100名城No.91)】

有明海を臨み、雲仙岳の麓に位置する島原城は、元和4年(1618年)から松倉重政公が、7年の歳月を費やして築いたものです。別名「森岳城」と呼ばれ、森岳と呼ばれた高地を城のかたちに切り取って石垣を積み、堀を掘って造りあげています。城郭は南北に曲輪が並ぶほぼ長方形の連郭式の平城で、南から本丸・二の丸・三の丸が並び、水堀で囲まれた本丸と二の丸は廊下橋形式の木橋1本で繋がれていました。城郭の規模は東西約360m、南北約1260m、全て塗籠で白亜の五層天守閣を中核として、大小50の櫓を要所に配置し、これを囲む矢狭間塀の長さは総延長2233mという規模で、4万石の大名の居城としては過分な城であったようです。

 

築城以来、約250年間4氏9代の居城として島原藩政の中心でしたが、明治維新により廃城が決定、天守を含む全ての建物が解体され石垣と堀を残すのみとなってしまいましたが、昭和35年に「西の櫓」を復元、次いで昭和39年「天守閣」、昭和48年「巽の櫓」、昭和55年「丑寅の櫓」などが矢狭間・鉄砲狭間を備えた長塀と共に復元されています。

 

本丸登城口と西の櫓

 

島原城案内板-1

 

島原城天守閣(西面)、

天守の高さは33mで、大阪城、名古屋城に次いで全国3位の高さです。層塔型の天守の屋根には、全国の他の城に見られる様な破風を設けていないシンプルな造りになっています。

島原城天守閣(南西方面からの眺め)

島原城天守閣(北東方面からの眺め)

島原城天守閣(北西方面からの眺め)

 

西の櫓入口、

城内の建築物の中でいち早く復元された櫓です。全国のお城の絵や各県の特徴あるこけしを展示しています。

 

西の櫓からの天守閣の眺め

 

島原城案内板-2

 

島原城天守閣入口、

天守内では、キリシタン資料並びに藩政時代の郷土資料・民族資料などが展示されています。最上階の展望所では島原市内と眉山、平成新山、有明海越しに熊本県までが一望できます。

天守内展示物-1、

「島原の乱」の舞台となった「原の城攻防図」の模型

天守内展示物-2、

島原藩が用いた大砲

天守からの眺め-1、

西方面、島原市内と眉山・平成新山(奥)の眺め

天守からの眺め-2、

南西方面、西の櫓と島原市内の眺め

天守からの眺め-3、

南東方面、巽櫓と島原市内、有明海の眺め

天守からの眺め-4、

北東方面、丑寅櫓と島原市内、有明海の眺め

天守からの眺め-5、

北方面、二の丸・三の丸方面の眺め

 

巽櫓(西面)、

地元出身の彫刻家で、文化勲章を受章された北村西望氏の作品を展示する記念館です。

巽櫓(北面)

 

島原城天守閣(東面)と野外に展示されている北村氏の作品

 

 

丑寅櫓(南面)、

内部は島原地域の民具資料館となっています。

丑寅櫓(西面)

 

野外展示物、

右からキリシタン墓碑、水道管、籠城戦の際に使用される甕

 

ここから本丸を出て反時計周りに散策して行きます。

 

南西側からの西の櫓の眺め

 

南側からの西の櫓の眺め

 

南西側からの巽櫓の眺め

 

北東側からの巽櫓の眺め

 

南側からの天守閣と巽櫓の眺め

 

南東側からの天守閣、巽櫓、丑寅櫓の眺め

 

東側からの巽櫓と天守閣の眺め

 

南東側からの丑寅櫓の眺め

 

本丸北側の石垣と眉山、平成新山(奥)の眺め

 

西側からの丑寅櫓の眺め

 

北西側からの本丸方面の眺め

 

島原武家屋敷跡

島原城の北西に立ち並んでいる島原藩士の屋敷跡です。街並みは400mの長さで道路の中央には水路が設けられています。

鳥田邸・篠塚邸・山本邸の3家が無料公開されています。

 

島原武家屋敷街と水路

 

島原武家屋敷、篠塚邸入口

島原武家屋敷、篠塚邸内部

 

【ちょこっと寄り道 その6】

 

次のお城巡り前に雲仙岳を間近に臨む妙見岳山頂展望所を目指します。

 

仁田峠第二展望所からの眺め、

正面に平成新山、左端が普賢岳です。

案内板-1

案内板-2

 

雲行が怪しくなってきましたが雲山ロープウェイを目指します。

 

 

妙見岳山頂展望所へは雲仙ロープウェイを利用します。約3分で妙見岳駅に到着します。

 

妙見岳駅から仁田峠駅と仁田峠第一展望所を眼下に望む、仁田峠駅との標高差約174m、距離約500mです。

 

妙見岳駅展望所

 

妙見岳駅展望所からの眺め-1

妙見岳駅展望所からの眺め-2

妙見岳駅展望所からの眺め-3、

妙見岳山頂展望所(1333m)の眺め、妙見岳駅展望所から徒歩で約5分で行けます。

 

妙見岳山頂展望所

案内板-1

案内板-2

南西方面の眺め-1

南西方面の眺め-2

南方面の眺め

普賢岳と平成新山(奥)の眺め、

天候悪くて雲でほぼ見えませんでしたが、粘った甲斐があって一瞬だけ見えました。

 

雲仙をあとにして次のお城巡りに向かいます。


【11城目 原城(続日本100名城No.188)】

明応5年(1496年)、日野江城の支城として有馬貴純公によって築かれました。その後、慶長4年~慶長9年(1599年~1604年)にかけて有馬晴信公によって改修、近世城郭に生まれ変わりました。有馬氏が日向国延岡城に転封となった後の、元和2年(1616年)に板倉重政公が日野江城に入城しますが、一国一城令によって不便な日野江城を放棄して島原城を築き移ったため、日野江城と共に原城も廃城となりました。

島原藩主の板倉重政・勝家父子は島原城建設による財政逼迫により厳しい年貢の取り立てを行い、また過酷なキリシタン弾圧を行ったことにより、寛永14年(1637年)に農民一揆「島原の乱」が勃発しました。一揆軍は小西行長公の家臣の子孫と言われる天草四郎を総大将とし、廃城となった原城に約3万7千人が立て籠もり幕府軍と戦いました。翌年、幕府軍によって一揆は鎮圧され、再び一揆の拠点として使用されることのないよう原城は徹底的に破壊されました。また、島原藩主の板倉勝家公は苛政により一揆を引き起こした責任から、罪人として、大名としては前例のない斬首に処せられました。

 

本丸遠景-1

 

原城跡の石碑

 

本丸遠景-2

 

櫓台跡

 

本丸正門前に設置されている原城案内板

 

本丸正門前から北側、二の丸・三の丸方面を望む

 

本丸北側の石垣-1

破壊された石垣

 

 

本丸北側の石垣-2

本丸北側の石垣-3(池尻口門跡より撮影)

 

骨カミ地蔵、

一揆終結より130年ほど後の明和3年(1766年)に、地元民らが原城に残されていた遺骨を敵味方の区別なく拾い集めて供養した地蔵塔です。

 

本丸正門跡

本丸正門跡(内側より撮影)

 

本丸正門から埋門へ繋がる虎口

 

埋門跡、

本丸に入って中程に位置する2つ目の門です。一揆の後、幕府軍に壊され埋められていましたが、発掘調査により石垣や階段、水路の跡などが確認されています。

 

本丸門跡、

本丸へと繋がる最後の門です。入口には礎石が並んでおり、櫓門が建てられていたと考えらえます。櫓門を抜けるとその先に階段が設けられています。

 

 

本丸跡

 

破却された石垣

 

 

佐分利九之丞の墓、

佐分利九之丞は、鳥取藩池田家の家臣で一揆の時に息子らと共に使者として島原の地に来た人物です。寛永15年(1638年)2月27日の幕府軍の総攻撃の時に討たれ、死の直前、そばにあった石に自分の名と日付を刻んだと言われています。

 

天草四郎時貞の碑、

この碑は、西有家町にある民家の石垣の中にあったものをこの地に移したものです。

 

15歳で島原の乱の総大将となった天草四郎時貞の像、

この像は、長崎平和記念像で有名な南島原市出身の彫刻家・北村西望氏の作品です。

 

本丸からの有明海に浮かぶ湯島の眺め、

湯島は島原・天草一揆の作戦が練られたことから、江戸時代には「談合島」とも呼ばれていました。

 

池尻口門跡、

本丸の搦手にあたる門です。この場所も一揆後に幕府軍により破壊されています。

 

 

天守跡

 

天守跡からの眺め(天草丸方面)

 

北側からの本丸の遠景


本日のお城巡りはここまで


今晩は佐世保市にある「弓張の丘ホテル」にて宿泊します。


ホテルからの佐世保市内と佐世保港の眺め、

ホテルは標高364mの弓張岳山頂付近にあるので展望は最高でした。



九十九島の眺め

ホテルからの夕景

ホテル入口

佐世保市内の夜景

 

訪問日:2026/4/30

 

天候は曇り一時雨、朝方と夕方に雨が降りましたがお城めぐりには影響なかったです。

 

【ちょこっと寄り道 その5】

 

お城巡りの前に福岡県朝倉郡筑前町にある「大刀洗平和記念館」に立ち寄りました。

 

熊本県から福岡県へ移動

移動距離約90キロ

 

第二次大戦中に東洋一と謳われた旧陸軍大刀洗飛行場跡に建つ資料館です。特攻隊の中継基地でもあった飛行場は1945年(昭和20年)3月、米軍の大空襲により壊滅的な被害を受け、多くの尊い命が奪われました。

大刀洗平和記念館は、大刀洗飛行場のあゆみと、当時の航空技術、特攻隊に関する資料や体験者の証言などを通して、戦争の惨禍を伝え、平和を大切さを語り継ぐ場となっています。

 

 

局地戦闘機「震電」、

映画「ゴジラ-1.0」の撮影用に製作された実物大模型です。戦時中に米軍のB29の迎撃用として開発されたものの、実戦配備されることなく試作機の段階で終戦を迎えています。

速度性能追求のため、機体後部にプロペラ、機首付近に小翼を配した前翼型の設計となっています。

 

 

零式艦上戦闘機三二型、

三二型は零式艦上戦闘機の最初の大規模改修タイプで、約340機が生産されました。主翼端を切り落とし速度とロール能力のアップを図っています。展示のものは三二型としては世界で唯一の現存機です。マーシャル諸島タロア島のジャングルで発見され、1983年(昭和58年)に日本に帰還、補強・修復されて展示されています。

 

零式艦上戦闘機三二型のコクピット

 

九七式戦闘機(キ-27乙型)、

九七式戦闘機は中島飛行機(現在のスバル)が開発した旧日本陸軍向けの戦闘機で、旧陸軍初の主翼が1枚構造である低翼単葉や、視界の良い水筒型風防を備えた近代的な設計で戦前の陸軍戦闘機の主力でした。

展示のものは、1996年(平成8年)9月に博多湾雁ノ巣鼻の東約600m、水深3mの海底で発見、引き上げられたのもので、九七式戦闘機全タイプ含めて世界で唯一の現存機です。

発見当時のまま塗装されずに展示されています。

 

大刀洗平和記念館をあとにして本日のお城巡り開始です。

 

【8城目 久留米城(続日本100名城No.183)】

久留米城は、筑後川沿いの小高い山に築かれた平山城で、1587年(天正15年)、豊臣秀吉公の「九州国割」により、毛利秀包公が入城しました。関ケ原の戦い後に田中吉政公が筑後一国の大名となり、久留米城には二男則正公が入城、元和7年(1621)年、田中氏の断絶を受けて有馬豊氏公が入城、以後幕末まで約250年間有馬氏の居城でした。

 

久留米城案内板-1

 

久留米城案内板-2

 

冠木御門跡

 

太鼓櫓跡

 

本丸御殿跡に鎮座する篠山神社、

明治10年に建てられ、久留米藩祖有馬豊氏公が祀られています。

 

篠山神社前建てれている小早川神社、

久留米城城主毛利秀包公が祀られている神社です。秀包公は毛利元就公の末子で、のちに小早川隆景公の養子となり豊臣秀吉公に仕えました。戦功により筑後三郡を与えられましたが、関ケ原の戦いで西軍についたため、敗戦により所領を失っています。

 

本丸南西部の高石垣と水堀

 

巽櫓跡の高石垣と水堀

巽櫓跡の高石垣(東側より撮影)

 

月見櫓跡高石垣-1

月見櫓跡高石垣-2

月見櫓跡高石垣-3

 

本丸東面石垣

 

福岡県から佐賀県へ移動

移動距離約25キロ

 

【9城目 佐賀城(日本100名城No.89)】

佐賀城は、龍造寺氏の居城、村中城を慶長13年~16年(1608年~1611年)までの総普請により、整備拡張された鍋島氏の居城です。城郭は幅50m以上もある堀と土塁で囲まれており、土塁上には城内が見えないように松やクスノキが植えられています。城が樹木の中に沈み込んでいることや、かつては外堀を何重にも巡らせ、攻撃にあった際には多布施川より送り込んだ水によって本丸以外を水没させる仕組みになっていたことから、「沈み城」とも呼ばれていました。本丸には小倉城天守の図面を参考にした、4重5階の天守が建造されていましたが、享保11年(1726年)の大火により焼失、その後も大火に見舞われたことや明治初期に起こった、「佐賀の乱」などにより現存する建築物は、鯱の門・続櫓のみです。

 

鍋島直正公像と鯱の門・続櫓

 

鍋島直正公像、

鍋島直正公は幕末の佐賀藩10代藩主で、様々な改革を断行して佐賀藩を幕末の雄藩にのし上げた人物です。

 

佐賀城公園案内板

 

 

鯱の門・続櫓

 

鯱の門・続櫓(内側より撮影)

 

鯱の門・続櫓前にあるカノン砲(複製)、

1820年頃頃アメリカで製造され幕末に輸入され、東京都渋谷区の旧鍋島邸に置かれていたのもを原型とした複製品です。

 

佐賀城本丸歴史館、

鍋島直正公によって建てられた佐賀城本丸御殿を、発掘調査の結果・古写真・江戸時代の絵図などを元に忠実に復元した博物館です。

 

 

 

 

 

歴史館入口に展示されているアームストロング砲(複製)、

アームストロング砲はイギリスのアームストロングにより1855年に開発された後装式ライフル砲です。幕末の日本では、幕府や諸藩が輸入していました。佐賀藩も6ポンド(口径64mm)、9ポンド(口径76mm)など各種の砲を所持していて上野戦争では6ポンドのものが使用されました。展示のものは9ポンドのものです。




歴史館入口に展示されているオランダ製モルチール砲、

天保4年(1843年)に来日したオランダ船により持ち込まれ、佐賀藩は、長崎奉行所を通じてこれを入手、長崎の神ノ島砲台に配備されたものです。モルチール砲は大射角で打ち上げる砲身の短い大砲で、城攻めなどに用いられました。

 

歴史館入口の様子

初代藩主・鍋島勝茂公が寛永14年~15年(1637年~1638年)の島原・天草一揆(島原の乱)において着用した具足です。

 

歴史館内の様子

 

 

「佐賀の七賢人」のパネル、

「佐賀の七賢人」とは幕末から明治維新に活躍し、新政府の要職にあって日本の歴史に足跡を残した佐賀県出身の政治家七人を指します。

 

佐賀城跡西門入口



本丸西側土塁石垣と本丸南西隅櫓台、

本丸西側土塁石垣は内側が土塁、外側は石垣となっています。


空掘


天守台石垣

 

天守台へ続く虎口

 

 

天守台の様子

 

天守台からの眺め-1、

本丸西側土塁石垣と本丸南西隅櫓台の眺め

天守台からの眺め-2

 

本丸南西隅櫓台からの南堀の眺め

 

本日のお城巡りはここまで

 

佐賀県から長崎県へ移動

移動距離約100キロ

 

今晩は長崎県諫早市、国道251号線沿いにある「251いいもりじゃがロード」にて車中泊です。

 

訪問日:2026/4/29

 

 

熊本市役所本庁舎14階展望ロビーからの眺め、

南東方向からの眺めになります。展望ロビーは午前8時半から午後10時まで利用できます。

 

長塀のライトアップ、

坪井川沿いに面した石垣上に直線で242mの長さを持つ長塀です。

 

平御櫓のライトアップ、

平御櫓は長堀の防衛線を一段高い位置から援護する役割や、須戸口門から侵入してくる敵を、東竹の丸との連携で挟み撃ちにするための櫓でした。

 

棒庵坂からの小天守・大天守のライトアップ

 

加藤神社からの眺め

 
ここで雨が降り出したのでホテルへ撤収(>_<)
訪問日:2026/4/29
 
本日の天候、晴れのち曇り夜より雨
 

【ちょこっと寄り道 その4】

 

お城巡りの前に阿蘇山観光、

早朝7時に「道の駅あそ」を出発して草千里展望所を目指します。

 

草千里展望所

展望所から見た草千里ヶ浜の様子(8時頃)、

霧が立ち込めて何も見えません。霧が晴れるのを待ちます。

 

ようやく霧が晴れてきました。

 

展望所から見た草千里ヶ浜の様子、 

阿蘇五岳のひとつ、烏帽子岳(標高1337m)の北麓に広がる火口跡にある大草原。草原にある二つの池は雨水が溜まってできたものです。

 

 

展望所から見た噴煙を上げる中岳の様子、

活火山である中岳の火口は間地で見学できますが、訪問時は立入禁止となっていました。中岳の奥に見えるピークは阿蘇最高峰の高岳(標高1592m)です。

 

 

展望所から見た立野火口瀬・熊本平野、

前方に見える山と山の隙間は、立野火口瀬と呼ばれ、阿蘇カルデラの唯一の切れ目です。この切れ目から土砂が流れて、堆積していったことで熊本平野ができあがりました。天気が良ければ、火口瀬の先に雲仙普賢岳を見ることができます。

 

展望所から見た阿蘇カルデラと米塚、

カルデラとは、火山の噴火でできた大きなくぼみのことで、奥に見える稜線(北外輪山)はその縁です。阿蘇カルデラは南北約25km、東西約18kmの規模で世界最大級とされ、カルデラ内部に人々が暮らしている点でも珍しいとされています。

米塚、

高さ約80m、おわんを逆さまにしたような美しい形をしています。頂上のくぼみは火口で約3300年前の噴火で形成されたと言われています。保全のため登山は禁止されています。

 

 

展望所から見た杵島岳(標高1321m)、

頂上まで階段が整備されているので気軽に登ることができます(展望所から約40分)。

 

阿蘇山上ターミナル

阿蘇山火口見学シャトルバスの発着拠点ですが、阿蘇山公園道路入口が閉門中のためしばらくの間は一般車両も含めて通行禁止となっていました。

 

阿蘇神社

阿蘇神社楼門、

阿蘇神社は2000年以上の歴史を持つ古社で、全国に約500社ある「阿蘇神社」の総本社です。写真の楼門は茨城県の鹿島神社、福岡県の筥崎宮と並んで日本三大楼門と言われています。

 

阿蘇神社近くでランチタイム、

「あか牛丼とあか牛だご汁セット」をいただきました。あか牛は、主に阿蘇地域で飼われている褐毛和種という和牛で、茶色い毛色が特徴の肉用牛です。阿蘇の広い草原で放牧され、牧草を食べて育つため、赤みが多くヘルシーで、ほどよい脂と柔らかさがあります。

 

大観峰

北外輪山の一峰、標高は約936mで、直下に眺める阿蘇谷(阿蘇市街地)との標高差は約400mにもなります。360度の大パノラマが楽しめ、阿蘇の街並みや阿蘇五岳を一望できる場所です。

阿蘇五岳と阿蘇谷の眺め、

左から根子岳、高岳、中岳、杵島岳、烏帽子岳と続きます。根子岳を顔に見立てて、お釈迦様が寝ているような姿から「涅槃像」にたとえられています。

外輪山と阿蘇の街並み

 

大観峰で遭遇したスーパーマリオ、

人形ではないです。人です。朝から夕方までマリオの格好で座っているそうです。隣に座って一緒に写真を撮ることもできます。

 

阿蘇観光はここまで、熊本市内へ向かいます。

移動距離約45キロ
 
【7城目 熊本城(日本100名城No.92)】
 熊本城は慶長6年(1601年)から約7年の歳月をかけて、茶臼山と呼ばれた台地に加藤清正公が当時の最先端技術と労力を投じて築城された平山城です。別名「銀杏城」と呼ばれ、日本三名城の一つです。加藤氏改易後の寛永9年(1632年)には、細川忠利公が熊本藩主として入城、以後幕末まで細川氏の居城でした。明治10年(1877年)に起こった西南戦争で天守・本丸御殿一帯が焼失してしまいますが、昭和35年(1960年)に鉄骨鉄筋コンクリートで外観復元されています。
平成28年(2016年)4月に起きた熊本地震で石垣の崩落•落下、建物の倒壊、天守•櫓の屋根瓦の落下・外壁の落下等大きな被害が発生しました。天守は令和3年(2021年)復旧済みですが、櫓や石垣など城全体の復旧は今も進められており、完全な復旧完了は2052年度予定とされています。

 

二の丸お休み処に設置されている加藤清正公着用の甲冑

 

熊本城案内マップ

 

小天守・大天守の眺め、

大小天守の左側には「三の天守」と呼ばれ、江戸時代から現存している宇土櫓がありますが、熊本地震の震災による復旧解体工事中です。2030年前半から中頃の復旧完了を目指していると報じられています。

震災前の大小天守と宇土櫓の眺めが示されている案内板

 

復旧工事中の西大手櫓門

 

復旧工事中の宇土櫓横の石垣

 

大小天守の眺め

 

 

いざ天守内へ向かいます。

 

天守内展示物(天守軸組模型)

天守内展示物(宇土櫓模型)

天守内展示物(天守最上階「御上段」の模型)

 

天守内展示物(熊本城下のジオラマ)

天守内展示物(10代藩主細川斉護公着用の甲冑)

 

天守からの熊本市内の眺め

熊本市内と阿蘇方面の眺め

城内南側の眺め、仮設通路が確認できます。

復旧工事中の宇土櫓


ここから天守内を出て南口を目指します。

 

連続枡形、

竹の丸から6回曲がってようやくたどり着く造りになっています。

 

大天守南面

天守右側の本丸御殿大広間の白壁がはがれ落ちています。
 

数奇屋丸二階御広間下の崩落したままの石垣

 

未申櫓

 

本日のお城巡りはここまで

 

今晩は熊本城近くの「カンデオホテルズ熊本新市街」にて宿泊します。

 

熊本城ライトアップの記事はこちらを参照願います。『熊本城ライトアップ』訪問日:2026/4/29  熊本市役所本庁舎14階展望ロビーからの眺め、南東方向からの眺めになります。展望ロビーは午前8時半から午後10時まで利用できます。…リンクameblo.jp



ー訪問日:2026/4/28

今日も良い天気になりそうです。

ホテル客室からの朝日



【ちょこっと寄り道 その3】


お城巡りの前に指宿市の隣、南九州市にある「知覧武家屋敷庭園群」「知覧特攻平和会館」に立ち寄りました。


「知覧武家屋敷庭園群」

江戸時代、薩摩藩は領地を「外城」と呼ばれる102の地区に分けて、地頭や領主の屋敷である御仮屋を中心に「麓」と呼ばれる武家集落を形成し、鹿児島に武士団を集結させることなく分散して統治していました。知覧武家屋敷庭園群もその一つで、約280年余り前の武家屋敷通りと屋敷庭園が保存されている国の重要伝統的建造物群保存地区です。


武家屋敷通りの様子、

電柱もなく、石垣と生垣が続く美しい景観


案内板、

約700mの通りに武家屋敷が立ち並んでいて、今でも屋敷には子孫の方が暮らしています。

また有料で7つある武家屋敷と庭園を見学できます。


「旧高城家住宅」、

こちらは無料で一般公開されていました。

案内板


テレビのロケ地として使用された通り


「知覧特攻平和会館」

知覧武家屋敷庭園群から車で5分ぐらいの所にあります。第二次世界大戦末期、知覧から飛び立った陸軍特別攻撃隊員の写真や遺書、遺品などが展示されていて、戦争の悲惨さ、平和・命の尊さを知ることのできる施設です。


「知覧特攻平和会館」正面入口


施設外展示物「陸軍一式戦闘機 隼」、

総生産数5751機で、海軍の零式艦上戦闘機に続き2番目に多く生産された戦闘機です。戦争末期になると特攻機としても使用され、知覧飛行場からは126機が出撃しています。

展示のものは映画撮影用に実寸大で製作されたレプリカです。


施設外展示物「特攻隊員の像と軍用機」、

像の隣りにある軍用機は、初等練習機として航空自衛隊防府北基地で使用されていましたが、用途廃止後に知覧町が借り受けて展示しているものです。


零式艦上戦闘機52丙型、

鹿児島県川内市の手打港沖合で、昭和20年(1945年)5月にエンジントラブルにより不時着水し、水深約35mの海底に沈んでいたものです。

昭和55年(1980年)6月、知覧町によって35年ぶりに引き揚げられました。





水上特攻艇「震洋艇」、

薩摩半島に配備され終戦に伴い海没処分されていたものを引き揚げ、一部の部品を使用して復元したものです。


施設外展示物「三角兵舎(復元)」

特攻隊員が出撃までの数日間を過ごした場所です。空襲を避けるために飛行場から少し離れた松林にの中に造られました。敵に見つからないように半地下式になっていて、屋根には偽装用の幼木がのせられていました。

内部の様子


鹿児島県から熊本県へ移動

移動距離約130キロ


【5城目 人吉城(日本100名城No.93)】
人吉城は相良氏が鎌倉時代に地頭として人吉荘に赴任して以来35代670年の長きに渡り在城し、江戸時代には人吉藩の藩庁でした。人吉城はもともと平氏の家臣が城主を務めていました。源頼朝公に仕えた遠江国相良荘国人の相良長頼公が肥後国人吉荘の地頭に任じられると、城のあけ渡しを命じますが応じなかったため、大晦日に鷹狩りと言って誘い出し、殺害したと言われています。建久9年(1198年)に人吉城城主となった相良長頼公は城を拡張し人吉城の基礎を造りました。戦国時代になると相良氏は球磨地方を統一し領土の拡大を図りますが、天正15年(1587年)の豊臣秀吉公の九州征伐により降伏、交渉の末に人吉城と領土を安堵されています。関ヶ原の戦いでは西軍方として伏見城などを攻めますが、関ヶ原で西軍方が敗れると東軍方に内応し戦功をあげて、2万2千石の領地を安堵されました。

人吉城は球磨川とその支流胸川の合流地点の山に築かれており、北側と西側は球磨川と胸川を天然の堀とし、東側と南側は山の斜面と崖を天然の城壁として、巧みに自然の地形を利用しています。


人吉城遠景


人吉城案内板、

球磨川沿いに三の丸、その南に二の丸、さらに丘陵上に本丸が配置された、悌郭式の平山城です。


胸川沿いに復元されている手前から隅櫓・続塀・大手門脇多聞櫓、北側より撮影

南側より撮影


大手門跡、

奥が無料駐車場となっています。

大手門案内板


城主の居館跡(御館跡)建てられている相良護国神社、明治13年(1880年)建立され、相良家の歴代藩主や地域の戦没者を祀る神社です。奥が本殿、左側の建物が社務所で御城印が販売されています。

相良護国神社鳥居前に架かる石橋

御館跡庭園


堀合門(内側より撮影)、

城主が住む御館の北側にある裏門で、人吉城で唯一の現存する建造物です。明治の廃藩置県後に、士族の新宮家に移築されていましたが、2007年(平成19年)に塀や排水溝と共に復元されました。

案内板

堀合門(外側より撮影)


堀合門西側のはね出し工法も用いた武者返しを持つ石垣(東側より撮影)

はね出し工法を用いた武者返しは、石垣の上部が突起状にはみ出していて、登って来た敵を上から石を落として撃退できる様に設計された西洋式築城技術です。西洋式城郭では五稜郭、龍岡城での採用例はありますが和式城郭で採用されたのは人吉城のみです。

堀合門西側のはね出し工法も用いた武者返しを持つ石垣(西側より撮影)


堀合門東側にある石柱


人吉城北側を流れる球磨川


球磨川沿いに設けられている水ノ手門跡、

船着場に連結した水上門で、球磨川の水運を利用して年貢米や塩などの物質を城内に運んでいました。

案内板

水ノ手門跡(内側より撮影)


水ノ手門跡近くの間米蔵跡


人吉城歴史館、

人吉城跡敷地内に建てられていて100名城スタンプが設置されています。訪問した火曜日は休館日でしたが、正面玄関は開いていて入ってすぐの所に設置されていました。


堀合門を出て右側(東側)へ進むと二の丸、本丸へと続きますが時間の都合上今回は見送り次の目的地へ向かいます。

【6城目 八代城(続日本100名城No.190)】
人吉城から車で1時間程の所にあります。

一国二城体制が認められていたこの地には、熊本城の支城である麦島城が存在していましたが、元和5年(1619年)の大地震により倒壊、廃城となったため、加藤清正公の次男加藤忠広公が江戸幕府の許可を得て麦島城北側の松江の地に新たな城が築かれました。なお松江の地に築かれた事から別名「松江城」とも呼ばれています。寛永9年(1632年)に加藤氏が改易、同年10月豊前小倉藩藩主の細川忠利公が肥後熊本藩に移封されると、忠利公の父細川忠興公が八代城に入城します。忠興公は北の丸を隠居所として、本丸には四男の細川立孝公を住まわせています。忠興公没後は細川家の筆頭家老で将軍直臣の身分をもつ松井興長公に八代城が預けられると、以後明治維新まで松井家が八代城を治めていく事になります。


八代城案内板-1

八代城案内板-2、

八代城本丸の北西隅には、外観4層地下1階の大天守が築かれ、渡り廊下を介して2層2階の小天守と繋がっていました。


天守台石垣(西面ー北面)

天守台石垣(北面)


本丸北側入口


唐人櫓跡石垣


天守台石垣


小天守跡の標柱

小天守跡からの眺め


大天守入口の様子

大天守跡の標柱


本丸東側入口、

江戸時代の本丸入口です。


本丸東側石垣-1

本丸東側石垣-2


本丸東側入口の様子-1

本丸東側入口の様子-2


本丸南側石垣-1


本丸南側、八代宮前に架けられている橋


本丸跡に建立されている八代宮、

後醍醐天皇の皇子で征西大将軍として九州における南朝方の全盛期を築いた懐良親王を主祭神として祀っています。


本丸南側石垣-2


本丸西側石垣-1、

奥が天守台石垣です。

本丸西側石垣-2


北の丸跡に建立されている松井神社、

北の丸は細川忠興公が隠居の地として茶室や庭園を整備しました。

細川忠興公が自ら植えたと伝わる臥龍梅

説明板

庭園跡


本日のお城巡りはここまで


今晩は八代城から車で1時間半程にある「道の駅阿蘇」で車中泊です。


阿蘇山近くの観光地に立地しているため車中泊の車で駐車場はほぼ埋まってました。


道の駅に隣接している阿蘇駅舎

阿蘇駅前のウソップ像

訪問日:2026/4/27


昨日の悪天候とは打って変わって晴天となりました。


【ちょこっと寄り道 その2】

お城巡りの前に道の駅から車で30分程にある

鵜戸神宮

に立ち寄りました。

鵜戸神宮は海に面した断崖絶壁の洞窟内にある珍しい神社です。



神門


楼門


鵜戸神宮の神使であるウサギ






本殿の様子、

縁結びや子授け、安産などの御利益があると言われています。


本殿裏の洞窟内の様子


本殿前にある「霊岩亀石」、

岩の窪みに男性は左手、女性は右手で運玉を投げて窪みの中に入れば願いが叶うと言われています。


「運玉」、

200円で5個購入できます。


宮崎県から鹿児島県へ移動、

移動距離約150キロ


【4城目 鹿児島城(日本100名城No.97)】

別名、鶴丸城と呼ばれる鹿児島城は、島津家久公が慶長6年(1601)年に築城を開始し約10年かけて完成させたもので、背後の山城(城山)と麓の居館からなる城です。麓の居館は御殿建築が建つ本丸と二の丸の二つの曲輪から構成され、御楼門以外は天守も櫓もないシンプルな城でした。現在、城跡には再建された御楼門と石垣、水堀が残っています。


御楼門、

明治6年(1873年)の火災で焼失しましたが、令和2年(2020年)に復元されています。

高さ幅ともに約20mある日本最大の城門です。




御楼門を抜けてすぐの石垣に残る弾痕跡、

明治10年(1877年)に起こった西南戦争で薩摩軍と新政府軍との戦い時に撃ち込まれた銃弾、砲弾跡です。当時の戦いの激しさを知ることができます。





石垣と水堀、

初夏には一面に蓮の花が咲きます。

石垣の角を削った「隅欠(すみおとし)」、

本丸の北東部分にあたる場所は、鬼(災いなど)が出入りする方角にあたるため、石垣の出隅を欠いて入隅とし鬼(災いなど)が入ってこないようにしています。


【ちょこっと寄り道 その3】


城山展望台からの桜島・錦江湾・市内の眺め

西郷隆盛公銅像


本日のお城巡りはここまで


本日の宿泊先、指宿シーサイドホテル


【ちょこっと寄り道 その4】

早目にホテルにチックインしたので入浴後にドライブに出かけました。


長崎鼻からの開聞岳の眺め


お土産物屋さんの前にある珍しい看板


日本最南端ある西大山駅

西大山駅からの開聞岳の眺め


訪問日:2026/4/25・26


ゴールデンウィークの大型連休を利用して九州にある100名城/続100名城を訪問しました。


前日に神戸より「さんふらわあ ごーるど」に乗船して大分港を目指します。


「さんふらわあ ごーるど」船首方向


「さんふらわあ ごーるど」船尾方向


19時50分神戸出航



出航から1時間後に明石海峡大橋通過



船内の様子



船内レストランの様子


客室の様子、ツーリスト(相部屋)


7時20分大分港到着


あいにくの雨です。

しかも時折雨足が強まる時間帯があり、結局夕方5時過ぎまで雨が止むことはありませんでした(>_<)


【1城目 府内城(日本100名城No.94)】

大分港から車で約6分、市役所・県庁などが立ち並ぶ大分市の中心部に築かれた平城です。

1597年(慶長2年)に豊臣秀吉公の命により福原直高公が築城を開始し、江戸時代に入ってからは竹中重利公が増改築を行い1602年(慶長7年)に完成しています。かつては、四層の天守を持ち、20の櫓と7つの門、3箇所の廊下橋が築かれていましたが、戦火などにより失われ、現存する江戸期の建築物としては宗門櫓、人質櫓のみです。



大手門、

昭和20年の空襲により焼失、昭和41年に復元されたものです。

100名城スタンプは大手門下に設置されていて24時間いつでも押す事ができます。



西ノ丸隅櫓、

昭和40年に復元されました。府内城には空襲で焼失した櫓が三基復元されています。



宗門櫓、

1859年(安政6年)に再建されたものです。

外側から見ると平櫓の様に見えますが、内側からだと二重櫓の様に見えます。

宗門櫓、内側より撮影



東丸着到櫓、

二重地下一階の造りになってます。


人質櫓、

1861年(文久元年)に再建されたものです。

後方右が本丸櫓台石垣、後方左が天守台石垣



廊下橋、

平成7年に復元されたものです。

廊下橋内部の様子



天守台、

かつては、四層の天守が建てられていましたが、1743年(寛保3年)の大火により焼失、以降天守は再建されませんでした。


天守台から見た廊下橋


二重櫓と帯曲輪、

帯曲輪はかつて大分川の河口に面していた本丸を囲うように造られた人工の土手です。


【2城目 臼杵城(続日本100名城No.193)】

1556年(弘治2年)、キリシタン大名として知られる大友義鎮(宗麟)公は、大友氏代々の本拠地であった府内を離れ、臼杵湾に浮かぶ小島(丹生嶋)に臼杵城を築きました。府内に比べて極めて高い防御性を持つ府内城は、豊後大友氏が最も栄えていた居城としてイエスズ会宣教師たちによって広く世界に知れ渡っていました。大友氏が改易された1593年(文禄2年)以降、豊臣秀吉公配下の武将である福原直高公・太田一吉公によって大友氏時代の臼杵城を石垣と瓦ぶきの櫓を数多く造る近代城郭へと改修されました。関ヶ原の合戦後は、美濃から入封した稲葉氏が臼杵城を居城として明治まで臼杵藩を支配していました。


臼杵城遠景、

臼杵市観光交流プラザ前駐車場より撮影、

右から畳櫓と大門櫓が見えます。

斜め上へ延びる白壁の土塀が美しいです。


古橋口の様子、

臼杵城への登城路入口の一つです。

ここから鐙坂を通って二ノ丸へと向かいます。



二ノ丸への登城路

二ノ丸への登城路、

鐙坂方面へ振り返った様子


畳櫓、

天保年間に再築された櫓で、1階と2階の面積が同じ「重箱造り」と言う構造になっています。


井楼櫓台石垣、

城下を一望できる重要な櫓で城内では最大規模のものでした。


大門櫓、

平成12年に復元されました。

大門櫓(内側)


時鐘櫓跡

城下に鐘で時を報せる時報施設です。


二ノ丸居館庭園跡


空堀と本丸側石垣

空堀と西ノ丸側石垣


武具櫓跡石垣の断面、

石垣内部に組み込まれている栗石が確認できます。


鉄門枡形石垣-1、

本丸への入口となる重要な場所です。

鉄門枡形石垣-2

鉄門枡形石垣-3


天守櫓西側の空堀


天守台石垣、

大正時代に上部4m程が壊されてしまいましたが、もとは7m程の石垣でした。


天守櫓跡、

3層4重の天守櫓が建てられていました。


卯寅口門脇櫓と卯寅稲垣神社


卯寅口門脇櫓

嘉永年間に再築された櫓で、1階と2階の面積が同じ「重箱造り」と言う構造になっています。


【ちょこっと寄り道 その1】

次のお城巡り前に臼杵城から車で15分程にある

臼杵石仏に行きました。

臼杵石仏は凝灰岩の岩壁に刻まれた磨崖仏群です。平安末期から鎌倉時代にかけて彫られたと言われています。平成7年に磨崖仏としては全国初の国宝に指定されています






大分県から宮崎県へ移動、

移動距離約210キロ


【3城目 飫肥城(日本100名城No.96)】

日南市にある飫肥城は、シラス台地の地形を利用して曲輪を幾つも並べた群郭式の平山城です。江戸時代は伊東氏飫肥藩の藩庁として栄えました。

南北朝時代に土持氏が築城したのが始まりで、戦国時代に入ると島津氏と伊東氏の争奪戦が繰り返されます。1572年(元亀3年)の木崎原の戦いで敗れ、飫肥城を失った伊東氏は豊臣秀吉公に仕えて、1587年(天正15年)の九州平定では先導役を務めた戦功から飫肥城主に返り咲きます。関ヶ原の戦いにおいても伊東氏は九州では数少ない東軍側として立ち回り領土を安堵されています。


飫肥城観光駐車場チケット販売所、

ここで御城印購入できます。

隣に無料駐車場あります。


大手門、

明治に入って取り壊されましたが、昭和53年(1978年)に国内に現存する大手門を参考に在来工法で再建されました。


大手門前の空堀


大手門の枡形


大手門、

内側より撮影


本丸の石垣と塀


本丸南東部の石垣と鐘楼


本丸へ続く階段


本丸跡に建てられている飫肥城歴史資料館、

100名城スタンプが設置されています。


旧本丸へ続く階段、

旧本丸は江戸時代前期の三度の地震による改修前に本丸が置かれていた場所です。


旧本丸の様子、

樹齢140年の飫肥杉木立と深い緑の苔のじゅうたんを敷き詰めた様な空間で「癒しの森」と呼ばれています。


旧本丸裏門


松尾の丸に建てられている松尾の丸御殿、

江戸時代初期の書院造りの御殿を参考に在来工法で昭和54年(1979年)に建てられました。


本日のお城巡りはここまで。


今晩は飫肥城から車で15分程の道の駅「きたごう」で車中泊です。


道の駅「きたごう」の様子、

100台程停めれそうな広い駐車場ですが、この日は私の他に5台程の車中泊の車のみでした。トイレ・休憩所は24時間使用可能ですが、ゴミ箱は見当たらなかった?ので持ち帰る必要あります。周りは田園地帯なので静か、快適に過ごせました。



訪問日:2026/1/1


あけましておめでとうございます。


2026年の初日の出は姫路城が展望できる人気スポット、男山山頂からです。


男山(標高57.5m)は、姫路城天守の北西、天守からの距離約500mに位置していて頂上は男山配水池公園として整備されています。

頂上からの姫路城の展望は素晴らしく、姫路城十景に選ばれています。


西小天守からの男山の眺め

(2024年2月17日撮影)


JR姫路駅から徒歩約25分で男山頂上へ登る一直線の階段に到着します。


197段の階段、勾配もキツいので一気に登り切るには体力的を要します。


登り切った先は姫路城天守が見える絶景スポットとなっています(6時20分頃の画像)。


6時47分頃の画像


6時53分頃の画像


7時12分頃の画像、

予報では姫路の日の出時刻は7時8分頃ですが、まだ出てきません。


7時13分頃の画像、ようやくです。







7時15分頃の画像



7時17分頃の画像


今年も良い一年になりますように!