訪問日:2026/5/1
本日の天候、晴れ時々曇り
【10城目 島原城(日本100名城No.91)】
有明海を臨み、雲仙岳の麓に位置する島原城は、元和4年(1618年)から松倉重政公が、7年の歳月を費やして築いたものです。別名「森岳城」と呼ばれ、森岳と呼ばれた高地を城のかたちに切り取って石垣を積み、堀を掘って造りあげています。城郭は南北に曲輪が並ぶほぼ長方形の連郭式の平城で、南から本丸・二の丸・三の丸が並び、水堀で囲まれた本丸と二の丸は廊下橋形式の木橋1本で繋がれていました。城郭の規模は東西約360m、南北約1260m、全て塗籠で白亜の五層天守閣を中核として、大小50の櫓を要所に配置し、これを囲む矢狭間塀の長さは総延長2233mという規模で、4万石の大名の居城としては過分な城であったようです。
築城以来、約250年間4氏9代の居城として島原藩政の中心でしたが、明治維新により廃城が決定、天守を含む全ての建物が解体され石垣と堀を残すのみとなってしまいましたが、昭和35年に「西の櫓」を復元、次いで昭和39年「天守閣」、昭和48年「巽の櫓」、昭和55年「丑寅の櫓」などが矢狭間・鉄砲狭間を備えた長塀と共に復元されています。

本丸登城口と西の櫓
島原城案内板-1
島原城天守閣(西面)、
天守の高さは33mで、大阪城、名古屋城に次いで全国3位の高さです。層塔型の天守の屋根には、全国の他の城に見られる様な破風を設けていないシンプルな造りになっています。

島原城天守閣(南西方面からの眺め)
島原城天守閣(北東方面からの眺め)
島原城天守閣(北西方面からの眺め)
西の櫓入口、
城内の建築物の中でいち早く復元された櫓です。全国のお城の絵や各県の特徴あるこけしを展示しています。
西の櫓からの天守閣の眺め
島原城案内板-2
島原城天守閣入口、
天守内では、キリシタン資料並びに藩政時代の郷土資料・民族資料などが展示されています。最上階の展望所では島原市内と眉山、平成新山、有明海越しに熊本県までが一望できます。

天守内展示物-1、
「島原の乱」の舞台となった「原の城攻防図」の模型

天守内展示物-2、
島原藩が用いた大砲

天守からの眺め-1、
西方面、島原市内と眉山・平成新山(奥)の眺め

天守からの眺め-2、
南西方面、西の櫓と島原市内の眺め

天守からの眺め-3、
南東方面、巽櫓と島原市内、有明海の眺め

天守からの眺め-4、
北東方面、丑寅櫓と島原市内、有明海の眺め

天守からの眺め-5、
北方面、二の丸・三の丸方面の眺め
巽櫓(西面)、
地元出身の彫刻家で、文化勲章を受章された北村西望氏の作品を展示する記念館です。

巽櫓(北面)
島原城天守閣(東面)と野外に展示されている北村氏の作品
丑寅櫓(南面)、
内部は島原地域の民具資料館となっています。

丑寅櫓(西面)
野外展示物、
右からキリシタン墓碑、水道管、籠城戦の際に使用される甕
ここから本丸を出て反時計周りに散策して行きます。
南西側からの西の櫓の眺め
南側からの西の櫓の眺め
南西側からの巽櫓の眺め
北東側からの巽櫓の眺め
南側からの天守閣と巽櫓の眺め
南東側からの天守閣、巽櫓、丑寅櫓の眺め
東側からの巽櫓と天守閣の眺め
南東側からの丑寅櫓の眺め
本丸北側の石垣と眉山、平成新山(奥)の眺め

西側からの丑寅櫓の眺め
北西側からの本丸方面の眺め
島原武家屋敷跡
島原城の北西に立ち並んでいる島原藩士の屋敷跡です。街並みは400mの長さで道路の中央には水路が設けられています。
鳥田邸・篠塚邸・山本邸の3家が無料公開されています。
島原武家屋敷街と水路
島原武家屋敷、篠塚邸入口

島原武家屋敷、篠塚邸内部
【ちょこっと寄り道 その6】
次のお城巡り前に雲仙岳を間近に臨む妙見岳山頂展望所を目指します。
仁田峠第二展望所からの眺め、
正面に平成新山、左端が普賢岳です。

案内板-1

案内板-2
雲行が怪しくなってきましたが雲山ロープウェイを目指します。
妙見岳山頂展望所へは雲仙ロープウェイを利用します。約3分で妙見岳駅に到着します。
妙見岳駅から仁田峠駅と仁田峠第一展望所を眼下に望む、仁田峠駅との標高差約174m、距離約500mです。
妙見岳駅展望所
妙見岳駅展望所からの眺め-1

妙見岳駅展望所からの眺め-2

妙見岳駅展望所からの眺め-3、
妙見岳山頂展望所(1333m)の眺め、妙見岳駅展望所から徒歩で約5分で行けます。
妙見岳山頂展望所

案内板-1
案内板-2
南西方面の眺め-1

南西方面の眺め-2
南方面の眺め

普賢岳と平成新山(奥)の眺め、
天候悪くて雲でほぼ見えませんでしたが、粘った甲斐があって一瞬だけ見えました。
雲仙をあとにして次のお城巡りに向かいます。
【11城目 原城(続日本100名城No.188)】
明応5年(1496年)、日野江城の支城として有馬貴純公によって築かれました。その後、慶長4年~慶長9年(1599年~1604年)にかけて有馬晴信公によって改修、近世城郭に生まれ変わりました。有馬氏が日向国延岡城に転封となった後の、元和2年(1616年)に板倉重政公が日野江城に入城しますが、一国一城令によって不便な日野江城を放棄して島原城を築き移ったため、日野江城と共に原城も廃城となりました。
島原藩主の板倉重政・勝家父子は島原城建設による財政逼迫により厳しい年貢の取り立てを行い、また過酷なキリシタン弾圧を行ったことにより、寛永14年(1637年)に農民一揆「島原の乱」が勃発しました。一揆軍は小西行長公の家臣の子孫と言われる天草四郎を総大将とし、廃城となった原城に約3万7千人が立て籠もり幕府軍と戦いました。翌年、幕府軍によって一揆は鎮圧され、再び一揆の拠点として使用されることのないよう原城は徹底的に破壊されました。また、島原藩主の板倉勝家公は苛政により一揆を引き起こした責任から、罪人として、大名としては前例のない斬首に処せられました。
本丸遠景-1
原城跡の石碑

本丸遠景-2
櫓台跡
本丸正門前に設置されている原城案内板
本丸正門前から北側、二の丸・三の丸方面を望む
本丸北側の石垣-1

破壊された石垣

本丸北側の石垣-2
本丸北側の石垣-3(池尻口門跡より撮影)
骨カミ地蔵、
一揆終結より130年ほど後の明和3年(1766年)に、地元民らが原城に残されていた遺骨を敵味方の区別なく拾い集めて供養した地蔵塔です。
本丸正門跡

本丸正門跡(内側より撮影)
本丸正門から埋門へ繋がる虎口
埋門跡、
本丸に入って中程に位置する2つ目の門です。一揆の後、幕府軍に壊され埋められていましたが、発掘調査により石垣や階段、水路の跡などが確認されています。
本丸門跡、
本丸へと繋がる最後の門です。入口には礎石が並んでおり、櫓門が建てられていたと考えらえます。櫓門を抜けるとその先に階段が設けられています。
本丸跡
破却された石垣
佐分利九之丞の墓、
佐分利九之丞は、鳥取藩池田家の家臣で一揆の時に息子らと共に使者として島原の地に来た人物です。寛永15年(1638年)2月27日の幕府軍の総攻撃の時に討たれ、死の直前、そばにあった石に自分の名と日付を刻んだと言われています。
天草四郎時貞の碑、
この碑は、西有家町にある民家の石垣の中にあったものをこの地に移したものです。
15歳で島原の乱の総大将となった天草四郎時貞の像、
この像は、長崎平和記念像で有名な南島原市出身の彫刻家・北村西望氏の作品です。

本丸からの有明海に浮かぶ湯島の眺め、
湯島は島原・天草一揆の作戦が練られたことから、江戸時代には「談合島」とも呼ばれていました。
池尻口門跡、
本丸の搦手にあたる門です。この場所も一揆後に幕府軍により破壊されています。
天守跡
天守跡からの眺め(天草丸方面)
北側からの本丸の遠景
本日のお城巡りはここまで
今晩は佐世保市にある「弓張の丘ホテル」にて宿泊します。
ホテルからの佐世保市内と佐世保港の眺め、
ホテルは標高364mの弓張岳山頂付近にあるので展望は最高でした。
九十九島の眺め
ホテルからの夕景
ホテル入口
佐世保市内の夜景