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あなたの心と魂を励ます[ちゃぷれんろごす]

メンタルケア心理士®・上級心理カウンセラーな県内初のチャプレンによる心と魂を励ますブログ

 
 新社会人となられた方も、ほぼ半月経ちましたが仕事環境には少し慣れてきましたか?
 
 新社会人だけでなく、転職や部署異動などでも新しい環境に置かれている方もいらっしゃるのではないでしょうか。 
 
 今回は何かを「する」前に大切なことはなんだろう?というお話です。  
 
 
 「まったく!○○は、言われないとできないのか!」  
 「自分でやれること考えて動いてよ!」  
 「君の代わりはいくらでもいるから辞めてくれてもいいんだよ?」  
 「お前、本当にダメだな!」 
 
 など、会社で上司や同僚から言われる事はありませんか?または、部下や同僚にこう言っていませんか?
 
  ちなみに私は、報告をしようとしたら上司の方に「は?」と呆れ声で言われたり、記録を書いている背後で腰に手を当てて仁王立ちで立たれ、「そんなこと書いてどうすんのwwwww」と嘲笑されたりした経験があります。  病欠して復帰後に「なんで出勤してんの。役に立つの?」と言われたことも。
  本当に、今思い出しても嫌な気分にしかならないですね。
 
 
 

主は心の打ち砕かれた者を癒し

彼らの傷を包まれる。

詩篇147:3

 

 そもそも「癒し」とは何でしょうか。

 辞書では「悩みや苦しみを何かに頼って解決したり和らげること」また「心理的な安心感を与えること」とあります。

 ですから、癒しは「治す」「直す」とは違います。癒しは精神医学用語のデカセクシスと同義と言ってよいでしょう。

 

 

 デカセクシスは現実を現実としてそのまま受け止め、受け入れ、苛立ちや焦りを越えた心の落ち着いた心境です。解脱とも言われます。神学で見ると、デカセクシスはシャロームとも同義です。ヘブル語のシャロームשָׁלוֹםは「平和」です。

 主イエスは復活後、弟子たちの前に現れる時、平安があるようにと声をかけておられました。

 

 この「平安」を、主は、心が打ち砕かれた悩めるあなたに、嘆きのただ中にいるあなたに、こうありたいと思う理想とは違う現実の差に苦しむあなたに与えてくださいます。それだけではありません。あなたが他者から受ける心や魂に負う傷だけでなく、自分で自分に付けてしまったその傷も包んで、癒し、慰め、安心感を与えてくださいます。

 

 悲しい時こそ、心が折れそうな時こそ、折れてしまった時こそ、主に現状を訴えてください。

 「こうしたいのにこうなんです。なぜですか。どうすればいいのですか」と訴えてください。

 人に言うと嫌がられたり煙たがられる愚痴でも、主に言えば祈りとなります。魂のうめきとともに、言葉にならない思いもすべて主はその耳に入れ、目に入れてくださいます。そして安心感という平安、癒しを与えてくださるのです。

 それから、主がもっともよいと、益となるとされるものや方法を備えてくださいます。

 

 安心して、弱い自分を主に委ねていきましょう。

 

 

 

主よ 私は知っています。

あなたのさばきが正しいことと

あなたが真実をもって

私を苦しめられたことを。

詩篇119:75

 

 主は、無意味にあなたを苦しめることはなさいません。

 なぜそう言えるのでしょうか。それは主はあなたを心から、目に入れても痛くないほどに、愛しておられるからです。主の目には、あなたはとても高価であり、尊い人なのです。

 今、置かれている苦しい状況は、この先に何かしらの意味があるからこそ苦しいのです。この苦しみには意味があります。

 

 主がされることは全て真実です。主は愛であるので、愛されているからこその苦しみであるといえます。また、主はあなたのために伴におられ、あなたのために働かれて、益とされますから、この苦しみも益としてくださいます。

 

 主は、あなたの先まですべてご存じで、そのうえでこの苦しみを与えられました。今この時の苦しみを、少し乗り越えやすくしてくださいと祈りつつ、また、逃れの道を備えてくださいと祈りつつ、一歩踏み出しましょう。主は必ずあなたによくしてくださいます。

 

 

 

 こんにちは。
 メンタルケア心理士のなぎさです。
 今日は「傾聴(けいちょう Active listening)」について書いていこうと思います。

 傾聴はカウンセリングの場だけではないですね。臨床(医療現場)では頻繁に目にして耳にしますし、医学生さん、薬学生さん、看護学生さんなども座学で習っていることと思います。
 臨床心理学者ロジャースが提唱しているカウンセラーの基本的態度にも傾聴が出て来ますね。
 傾聴は患者さんやクライエントだけでなく、そのご家族などとお話する時にもとても重要なものだと思います。
さてこの傾聴。カウンセリング辞典によるとこう説明されています。
  積極的な聴き方。相手の話を文字通りの意味だけを受動的に聴くというのではなく、「この人はどうしてこんな風な話し方をするのだろう」「どんな気持ちでこの話をしているのだろう」ということをわかろうとする積極的な姿勢で話を聴く事。聴き手が話し手を大切にする心構えで、このアクティブ・リスニングをしていくと、話し手は、自分の気持ちを率直にのびのびと話すことができ、内面的に変化する可能性がある。
(カウンセリング辞典/誠信書房 6r)

 「聞く」のではなく「聴く」のですね。「聞く」は自然と耳に入ってくる音を受信したものに対して「聴く」は自ら積極的に耳に入れることなので、ここにカウンセラーの態度の違いを見る事ができますね。
 「私はあなたに関心があります。あなたのお話を聞かせてください」という態度と気持ちをもってお話を聴くのが傾聴です。
 この傾聴があることで話し手は内面的に変化するとあります。

 さてここで、カウンセリングの定義を見てみましょう。カウンセリングには種類がとても多いですね。学派や理論が多くあるわけですが、それらすべてをとらえられる定義はこうです。

「カウンセリングとは、言語的および非言語的コミュニケーションを通して行動の変容を試みる人間関係である」

 傾聴をすることにより、話し手であるクライエントは「あ、この先生は私の話を聴いてくれるんだ」「私はこの人に受け入れられているんだ」という安心感を得られます。これが自己開示に繋がります。
 話を聴いてくれない、聴いているようで「聞いている」だけで関心を全然寄せてくれない、または聴いてくれてはいるのだけど荒探しをしている態度の相手に、心の奥底の辛い気持ちを打ち明けられません。
 ではどう安心感を与え、辛い思いを話しても良い相手だと思ってもらえるのか?ここで【共感的態度】が出てくるのです。これについてはまた後日、書いていこうと思います。

 傾聴していくことでクライエントの内面の変化が出てくる。これはカウンセリングの定義にある変容ですね。心のあり様が変化すると、行動にも表れていきます。
 カウンセラーは言葉だけではなく態度や姿勢、服装、表情、声色などの非言語的コミュニケーションも合わせて話し手と対話していくことにより、相手の「現状から一歩前に踏み出す」お手伝いをするのですね。話し手と一緒に考えて前に進む伴走者です。決してカウンセラーが「治す」のではないです。


 と、ここまで書いてきましたが、看護師として思うことを少し書きます。
 私は看護学生の頃から「もっとしっかりと患者さんのお話を聴きたい」と思っていました。しかし学生ですと実習中にそこまでの自由時間はありません。看護師になってからどうだったかと振り返ると、病棟勤務の頃は日々、やらなければならない業務に追われて傾聴したくてもその時間がありません。定期的なバイタルチェックの時間に「どうですか?」「痛みの変化はありますか?」など病状のアセスメントは多かったのですが、メンタル項目をほとんど聴けていなかったように思います。
 外来勤務のほうが長いのですが、社交的会話(今日の天気、気温、季節の話など)や病状に関する話は頻繁にしますが、やはりメンタルに関しては聴けていませんでした。なぜ聴けなかったのか考えてみると、そこまでのリレーションがついていないことと、その話をお聴きするだけの時間がないことです。

 そして今、私はとあるがん治療に関わっていて、治療時間の60分を患者さんとの対話に使っています。ここで出て来た患者さんからのお話で多くあるのは「こういう話は先生には言いづらいし、外来とか病棟とかの看護師さんは忙しそうだから言えないし、そういう雰囲気じゃないし、どこで誰に言えばいいのかわからない。」というものです。
 臨床心理士さんがいるとお伝えすると「いや、精神科とか心療内科ってわけじゃない。薬が欲しいとかナントカ療法で治したいとか、そういう深刻なのじゃないんだけど悩んでたり困ってたり言いづらいことが病院の中の誰に言えばいいのか。」となります。
 院内には多くのコ・メディカルスタッフがいますが、どの人にも該当していない悩みがあるのですね。

 私は幸いそれらのお話を語っていただけます。例えば異性関係、性についてでは特に高齢の性の問題も話します。こういう「人にちょっと言いづらい話」や、病状が進行している時に感じる虚無感や絶望感、自責感など自分の存在に関わるなんとも表現しがたい気持ちをお聴きすることも多いです。もちろん、伺う中で、これは精神科領域に差し掛かってるだろう状態であれば、主治医に相談して、主治医の判断のもと、精神科にリファーをお願いしています。また、栄養関係であれば、管理栄養士さんに繋げるなど、必要箇所へリファーは必須です。

 もちろん緩和ケアがあり、この中に心のケアもあります。その中で、果たしてこれらの「言いづらい話」「自分のあやふやな存在に関する気持ち」をお聴きする時間が臨床現場にあるのだろうか?対応者は誰なのだろうか?と思っています。(当院に関して)

 なんとか、微力ながらもそういうところをお手伝いさせていただければと思っています。

 私はなんでもお聴きします。受療の悩みから痛みの話から、主治医や看護師に対する思いから、旅行や温泉、カキフライの話までなんでも。



 
こんにちは。渚です。
今回はエンディングノートについてお話したいと思います。

最近はなんでも短く省略することが増えましたね。
就職活動は就活ですし結婚するために様々に活動することも婚活と呼びます。
同じように、人生の終末について見据えてどうするか動くことを終活と呼んでいたりも。

この中で私が頻繁に言うことがあります。
それは「元気なうちにエンディングノートを書いておきましょう」です。
私自身は40代、まだ命にかかわる病にはいませんが、エンディングノートを所持しています。
ただ持っているだけではなく「元気なうちに書こう」なのです。

なぜ「元気なうちに」なのでしょうか。

まず、書く項目が膨大だからです。
あなたの基本情報だけでなく、病床に誰を呼んでほしいのか、誰は呼ばないでほしいのか。
また死後に連絡すればいい人は誰か。
葬式はどの形式なのか、予算はどれくらいでどこでやるのか。
誰を呼ぶのか。葬儀が終わった後連絡すればいい人は誰なのか。
墓はどうするのか。どこにするのか。散骨にするのか。
保険は?株は?借金は?パソコンやタブレット、スマホなどは?
死後連絡しておくべき団体やサークル、企業などはあるのか。
新聞に載せる?
などなどなどなど、本当に数多くの項目があります。

これらの項目を、心身ともに疲弊している状態で「さぁ書こう!」とは思えないのではないでしょうか。

また、遺産など残すものがある場合、冷静な判断が必要とされることでしょう。
すべて法的な分配で良いならそうと書いておくといいでしょうし、遺言書にもそう一筆あるといいですね。
しかしそうではない場合、こうしたいという意思表示をしておかなければ残されたほうは大変です。
遺産相続は親子だけでなく兄弟姉妹で壮絶な戦いになりますが、これが借金だった場合でも大変なことになります。
お金がからむと本当に絆が立ち消えるほどのトラブルになります。

これらも、病床で心身が思うように動かず、倦怠感が強い状態であったり嘔気嘔吐で苦しかったりする場合、そんな時に冷静に穏やかにこれらの項目を書けるかと言えば、無理と言わざるを得ません。

ですから、「元気なうちに」です。
命にかかわる病気を患っていなくても、いやだからこそ、その元気な時こそ、書いてほしいと私は思っています。

そして時々読み返します。
年齢とともに考え方は変わっていきます。
PCを「家族が使ってくれてかまわない」という思いから「電源起動もせずに叩き壊してほしい」とか「○ドライブは見ないで完全に消してください」になるかもしれませんね。
そうなった時は、そのように書き直せばいいんです。
なので鉛筆書きになりますね。

エンディングノートは遺言書のように法的拘束力はありません。
あくまでも意思表示をしているノートです。
しかし何もないよりはあなたの気持ちを残しておけます。

書店でも売られていますし、ネットで探せば様々なニーズに適したものがあります。
物は試しに、と一冊手に取られてはいかがでしょうか。