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あなたの心と魂を励ます[ちゃぷれんろごす]

メンタルケア心理士®・上級心理カウンセラーな県内初のチャプレンによる心と魂を励ますブログ

 

こんにちは。

メンタルケア心理士®のなぎさです。

 

 

私たちは、とかく「がんばれ!」「負けるな!」と言われます。

心が限界であっても、周囲から「逃げるな!」と言われることもあります。

 

 

目標としているものがあり、その道筋にあるハードルであればどうしてもそれを越えなければならない──というものも確かにあります。

ですから、こういう場合は時間がかかってもいいのでハードルを越えられるように足元を固めていく必要があります。

 

そうではない場合、このままここにいると自分が明らかに将来の事を考えても良い方向にいかない場合、逃げてもいいのでしょうか?

 

 

今回は、エリヤという預言者から見る「逃げてもOK」なお話です。

第1列王記19:1~8です。

 

 

──北イスラエル王国7代目国王のアハブは、ツロとシドンの王様(兼祭司)エテバアルの娘イゼベルと政治的同盟を締結するために結婚しました。

この夫妻は王妃のほうが王よりも主導権を握っています。いわゆる「かかあ天下」の強化した感じです。

王妃となったイゼベルにより北イスラエル王国にバアル信仰というが流入します。

バアル信仰は、恍惚状態になって自傷行為を行ったり、宗教儀式として淫行が行われるものです。

 

北イスラエルにいた預言者エリヤは男神バアルの預言者450人と「どっちが本物の神様か勝負」をすることになります。

男神バアルを450人の預言者がいくら大声で呼んでも、自分の身体に刃物で傷をつけて呼んでもウンともスンとも。何も起こりません。

エリヤが主を呼ぶと、祭壇があっという間に火で焼かれました。エリヤの勝ちです。

 

その続きが今回の19:1~8の箇所になります。

 

イゼベルお抱えのバアル預言者たちが全滅したのを知った北イスラエル王国の王アハブは王妃イゼベルに「こんなことがあった!」と言います。

すると王妃イゼベルは「明日の今ごろまでにエリヤ!お前を○す!!」と殺害宣告をします。

 

エリヤは逃げます!命の危機です。

相手は国王と王妃です。実力行使をされたら、ただのおじさんであるエリヤは一捻りで○されてしまいます。

エリヤは主の言葉を預かる預言者ですが、貧しい地方出身で身分は決して高くない普通のおじさんなのです。

 

荒野に1人で逃げて、エリヤは主に命を取ってくださいと懇願します。

恐ろしい国王と王妃に○されるより、主に命を取ってもらったほうがまだマシ!という危機的状況です。

 

 

さて、ここで主の御使いが現れるのですが、エリヤに何を言うでしょうか。

 

「起きなさい。立って、アハブとイゼベルに向かいなさい。わたしは彼らをあなたの手に渡している。恐れるな。わたしがお前と共にいる。」

と言うでしょうか。

 

違うんですね。

御使いを通して主が語られたのは、奮い立たせる言葉ではなく「起きて食べなさい」です。

 

エリヤは主が用意してくれたパンと水を摂って食べました。

 

 

 

 

それからどうしたでしょうか。

力がみなぎって奮い立ち、アハブとイゼベルに向け顔を上げ、残る女神アシェラの預言者たちと対決するために行動したのでしょうか。

 

違うんですね。

エリヤは食べて飲んで、そして横になって寝たのです。

 

 

 

 

また御使いが来てエリヤに声を掛けます。

何と言ったのでしょうか。

「わたしの霊をお前に与えた。行け。彼らを打て」

と言ったのでしょうか。

 

違うんですね。

「旅路はまだ長いから、起きて食べなさい。」

休息を勧めたのです。

 

 

エリヤはどうしたでしょう。

彼はただ、起きて、食べて、水を飲んで、歩いた。それだけです。

 

歩いていたら、神の住まう山とされるホレブ山に到着していました。

 

 

私たちが生きていく上で、なんだかんだといつも危機的状況が訪れます。

命の危険を感じるものから精神の安定を脅かすものから、経済や社会的意義などを脅かすものから、あらゆる危機的なことが起きます。

 

戦うべき時は戦えと主は言いますが、そうではない時に主は「逃げるな!戦え!!」とは言っていないんですね。

むしろ「食事して、水分摂って、寝て、体力と気力を回復しなさい。そして歩きなさい」と言うのです。

 

歩くというのも、体力づくり的な意味で確かに鬱々とした時には有効です。

体を動かすことで抑うつ気分は確かに解消されていきます。

そういう医学的見地だけではなく、この場合の歩くというのは「前に進む」ということでもあります。

 

 

食べて飲んで寝るだけではなく、自分の置かれている状況から脱するために、自分の足で小さくてもいいので一歩踏み出すことが必要です。

歩幅は本当に小さくてもいいのです。一歩は一歩です。

 

どんな一歩になるでしょうか。悪くなる方向に向かう一歩にならないようにするには、どうすればいいでしょうか。

 

ここでこそ祈るチャンスです。

主に「前に進ませてください」「神様、私の手をどうか引っ張ってください」「神様、私の背中を押してください」と祈るのです。

これはキリスト教だけでなく仏教でも他の宗教でもそうですよね。

ツライ時こそ「神様!」とか祈ります。苦しい時こそ、祈ることができるのです。

 

この「少しだけ行動」をしてみる。

その少しを繰り返す。

そうしたらホレブ山に着くのです。

危機を脱することが叶うのですね。

 

少し危機を脱することができたら、主に感謝の祈りも忘れずにしたいですね。

 

 

 

完全に問題が解決することとはまた違います。

ここでは「その時の最悪な危機的状況からの脱出」です。これが出来る。

 

エリヤ40日40夜歩きました。

一カ月半くらい歩き通しだった、というのとは違います。

”鶴は千年亀は万年”のように、40日40夜は「長い間」みたいな意味合いの言葉です。

 

 

 

脱するのには時間がかかる事もあります。

それでも小さな一歩は積み重なると、継続すると、大きな一歩なのです。

 

 

戦わなくてはならない時同様、逃げなくてはならない時があります。

逃げるのは負けではありません。

戦うのと同じ神経伝達物質が逃げる時にも放出されますが、逃げるのは更に体力気力が必要だったりします。

逃げることも戦いであるのです。

必要であれば、逃げても大丈夫なのです。

 

 

 

そこでイエスは口を開き、彼らに教え始められた。

『心の貧しい者は幸いです。

天の御国はその人たちのものだからです。

──マタイ5:2-3

 

「あの人、心が貧しいよねぇ」

と言われると、私たちは嫌な気持ちになります。

良識がないとか、知恵がないとか、育ちが悪いとか、しつけがなっていないとか、そういう意味合いで受け取るからです。

 

 

この3節は英語翻訳ではこう翻訳されています。

Blessed [are] the poor in the spirit for theirs is the kingdom of the heavens,

spiritがpoorな人です。やはりpoorですから貧困です。

 

原語のコイネーギリシャ語で見ると、

ΜΑΚΑΡΙΟΙ οἱ  πτωχοὶ  τῷ  πνεύματι , ὅτι αὐτῶν ἐστὶν ἡ βασιλεία τῶνοὐρανῶν. 

こうなっていて、πνεύματι(プニューマティ)がπτωχοὶ (プトーコイ)な人です。

プニューマティを英語にするとspiritになり魂(霊)のことになりますし、プトーコイはpoorなので貧しいのですが、問題は何がどう貧しいのかです。

 

 

 

お金がない、そんな高いものは購入できないというような貧困ではなく、プトーコイは縮こまる・うずくまるが変化した単語なので、霊が縮こまる、つまり生きる精神的な余力がもう残っていない差し迫った心の貧困になります。

聖書でいう霊は幽霊の霊ではなく、魂とほぼ同義のものです。

 

ですから、

「頼るものがもう何もなく(誰もおらず)藁をもすがる思いの絶望的な悲しみのどん底にいる人は、幸せなことです。」

という意味になります。

 

しかし、孤独感の中に居て不安な状況はまったく幸せではありません。

一体何が幸せだというのでしょうか。

 

天国は今、こうして苦しんで悲しんでいるあなたのものだから幸せだ、というのです。

 

この聖書箇所は「山上の垂訓」と呼ばれているのですが、決して主イエスは物静かに語ったのでありません。

集まった多くの人々に向かって大声で叫んで言っています。

 

ギリシャ語原語の【ΜΑΚΑΡΙΟΙ】は感嘆詞なので、正しく解釈して分かりやすく表現するとこの箇所は

 

「自分にも他人にも頼れなくなって、残るはもう神頼みなほど霊のレベルで苦しんでいる人は、なんて幸せなことだろう!天国は、そういう人たちのものなんだよ!!」

 

みたいになります。

 

人は、将来に希望を持つ時、現状の苦しさを耐えることができます。

例え現状が幸せに満ち溢れていても、将来に希望がなければ不安の中にいることになるのです。

 

病に倒れた時、闘病のさ中にある時、いつ治るか先が見えない不安が押し寄せてきます。

ですが、天国は既にあなたのものです。

主イエスを私の救い主と口をついて言えた瞬間、そう確実に思ったその瞬間、あなたは既に天国にいます。

 

天国は私たちの目には見えていませんが、死後だけのものではなく、今こうして生きている間にも居ることができるのです。

そこでは主イエスがいつもあなたを支え、手を握り、顔を上げさせてくれます。

 

今がどれほど辛くても、あなたの将来の希望は確かにあります。

ですから、今より少しだけでいいので顔を上に向けて生きましょう。あなたは苦しみの中にいても、なお幸いな人なのです。

 

 

 

 

 
こんにちは。 
メンタルケア心理士®のなぎさです。 
 
今回は「ストレス」のお話です。 
 
  • ストレスって何?
  • 年代別のストレスとは? 
  • ストレスを感じたら心と身体はどうなるの? 
  • ストレスはすべて悪いモノ? 
 
これらをお伝えしていきます。

そもそも「ストレス」って何?

「ストレスという言葉はみなさんもよく耳にしていますし、口にもする機会が多いのではないでしょうか。 
 
ではそもそも、その「ストレス」って何でしょうか。 
改めてこう問われると説明しづらいですね。 
 
ストレスという言葉は元々工学から来ています。
木片などに圧力をかけて行うストレス実験というところから広まったのですが、心理学的にストレスを定義するとこうなります。
 
 
 
 
こんにちは。メンタルケア心理士®のなぎさです。 早速ですが以下の14項目で、あなたやあなたの周囲の人はこういう人とお付き合いいていませんか?または、されていませんか?

14項目で自分の付き合い方をチェック!

当てはまるものをチェック☑してみてください。 ──────────────────────────── 
☑ いつも一緒にいることを要求する
☑ 嫉妬深い 
☑ 異性の友人との交流を許さない 
☑ 電話やメールがとても多い上に、すぐに返信しないと怒る 
☑ 行動のすべてを知りたがる 
☑ デートの内容は全部相手が決める 
☑ 服や髪型などで、好みを押し付ける 
☑ 感情の起伏が激しく、突然怒り出す 
☑ 手をつないだり、腕を組んだり、いつも身体に触れる 
☑ 相手が意見を述べたり、主張したりすることを嫌う 
☑ 相手の家族の悪口を言う 
☑ 交際相手を所有物のように扱う 
☑ 別れ話になると「自殺する」と脅す 
☑ 重要な判断を相手に任せ「お前(あなた)次第だ」と言う ────────────────────────────
 
 どうでしたか?いくつか当てはまるものはありましたか?
 
 
 

 「こんなに苦しいのは、私が神様から見捨てられてしまったからではないだろうか?」

 

 こう思ったことはないですか?しかしご安心ください。主はあなたを絶対に見捨てることはありません。

 

 

 

 

 主は、あなたのことをすべて知っています。弱いところも、強いところも、強がっているところも、すべてです。

 それこそ、あなたが立つも座るも、寝るのも食べるのも知っていますし、言葉を発する以前の、まだ心に思いを秘めている時も、いえいえそれより前の、まだあなたがその感情を意識する前の時もすでに主はあなたが何をどう思いどう感じるかも知っています。そして、どう苦しみ、悲しい思いをしているのか、どうしたいと願っているのかも知っています。

 

 こうして、あなたのなにもかもを知っている主は、あなたの全方向を守っていて、あなたの上に守りと祝福の手を置いておられるのです。

 

 主は、神様を信じている人にも信じていない人にも、例え神様を憎んでいる人にも分け隔てなく、依怙贔屓もなく目を注いでいます。あなたも例外なく、創造主の目が注がれています。

 なぜ主なる神様はあなたにも目を注いでくれるのでしょうか?

 

 それは親心だからです。

 

 我が子は本当に可愛いものです。赤ちゃんの頃、幼少期も、学童期も可愛いですし、中高の大人になっていく姿は頼もしくあり可愛い。大人になっても我が子はやはり可愛いのです。

 寝ても醒めても可愛いですし、ご飯を食べているその姿も可愛い。子供が二人、三人とおられる方はすぐにご理解できると思いますが、子供たちに50%ずつの愛情を分けるとか、33%ずつ公平に愛情をかけるとかそういうものではないですね。

 子供には一人ひとり、100%の愛情を注ぎます。一人ひとりが可愛いのです。

 

 

 

 主は「創造主」です。すべてを創造した方です。この被造物の中にはあなたも含まれています。主なる神様と人は親子関係なので、クリスチャンは祈る時に「天のお父様」と言うのです。

 ここからわかるように、主は親としてあなたを見ています。

 

 人でも我が子に対してこれほどの愛情を注ぎます。見返りを求めない一方的な愛です。主は想像もつかないほどのこれ以上の愛であなたを見ています。

 

 人は成長の過程で親離れ・子離れをして自立していかなければなりません。これは人も動物もそうですが、世代交代をしていくからです。寿命があるため、親離れ・子離れをして自立しなければ、生きながらえることができないのです。

 しかし、主は時間の概念に一切とらわれない永遠に生きている方なので、主とあなたの親子関係では、親離れ・子離れをする必要がありません。

 

 

 

 

 親である主が「わたしを頼りなさい」「わたしに祈りなさい(訴えなさい)」と言っているのですから、子供であるあなたは遠慮なく「お父さん、あのね、」と言っていいのです。

 

 親は子供の成長が気になります。間違いを犯して将来悲しい思いをしてほしくないと思います。ですから時には厳しく叱られることもあります。主との親子関係でも同じで、主はあなたを育てるために時に厳しく接する時もあります。

 しかしこの厳しさは、あなたを見捨てたのではなく、あなたを愛しているからこその、あなたを守りたい一心の厳しさだとわかってください。

 厳しすぎてツライ時も、子であるあなたは親である主に遠慮なく訴えることができるのです。

 

 イエス様は「わたしはあなたがたを捨てて孤児にはしません。」(ヨハネ14:18)と言いました。

 あなたも絶対に見捨てられません。

 

 人は状況によって裏切ったり見限ったりすることがあります。しかし、あなたの魂の親は全能のすべてを創造した主であり、約束を破ることは絶対にしない主です。

 主は「あなたを見放さず、あなたを見捨てない」(申命記31:6)と断言し、約束しています。ですから、あなたがどんな苦しい状況にあっても、あなたは絶対に見捨てられないのです。