さて、過去のブログ記事を電子書籍化するために読み直していたら、胸にぐっとくる記事がありました。
2011年、ヒプノの勉強真っ最中のころの記事です。
仲間とヒプノセラピーの練習をしていたときに出てきた私の過去世です。
それはかなり古い時代。
中近東近くの乾燥地帯。
人々はわずかな野菜を育てて、どうにか生きている。
私は当時6歳ぐらいの男の子。
褐色の肌に一枚の布をまとっている。
畑仕事をしている人々をぼんやりと眺めながら、「これが人生というものなのか」と考えている。
「人は何のために生きているんだろう?」
このような乾いた大地で、わずかばかりの作物を育てて生活し、そして死んで行くのか……。
「不条理」という言葉が頭をよぎる。
次の場面に進むと、私は16才くらいになっていた。
ひとりで旅をしている。
もっと他の世界があるはずだ、
もっと他の人生があるはずだ。
そう思いながら、道なき道をひたすら歩き続ける。
誰にも出くわすこともなく、ただひたすら、「不条理だ」と思い続けながら。
来る日も来る日も、歩き続けた。
そして。
次の場面では、24歳になっていた。
広い砂漠にいた。
ぎらぎらの太陽を見上げながら。
深い絶望感とあきらめ。
違う世界は見つからなかった。
何も見つからなかった。
答えは、どこにもなかった。
周囲は見渡す限りの砂漠。
もう行くべき道もない。
私は深い絶望感に打ちひしがれていた。
力なく膝まずき、真っ赤な太陽を見つめながら、
やがて倒れこみ、息を引き取る。
人生は不条理だ……。
そう思いながら。
亡くなった後、中間世でガイドにこう言った。
「答えは何も見つからず、絶望だけの人生でした」
でも、ガイドはこんなふうに答えた。
「そうではない。
育つ作物もない乾いた大地で、貧しく暮らして死んでいくこともできたけれども、それに不条理を感じて、世界はこうではないはずだと疑問をもったこと。
そして、答えを探しに出たこと、そのことに意味がある」
さらに、続けて、
「人間は輪廻転生を繰り返す中で、必ずどこかの人生において、真理について考えたり、追求したりする、そういう人生が必要です。
このときの人生もその中のひとつ。
なぜこんな不条理な世界なんだって、まず疑問を持ち、疑問を持ったことで、この世界がすべてなんだろうかと探しに行くこと。
たとえそれが1回の人生で完結しなくても、そういった人生を何回も何回もやっていくうちに、全ての真理がつながるときがきます。
この人生は(そのための)ひとつの重要な人生だったのです。
疑問を持たなければ、追求はできません」
そして、最後にこんな言葉を残した。
「この人生は、あなたが真理を求め始めた、最初の頃の人生。
その後、何回も何回も同じようなことをやっています。
そうやって学んだことや、気づいたことを、今度は人に伝えなければいけません」
・・・・・・・・・・・・・・
10年経った今、こうして真理を伝えたり、生徒さんたちとミラクルで面白い出来事にワクワクする日々を送るようになるなんて想像もつきませんでした。
あのころは自分が何のために生まれてきたのか、その意味がわからなくて、このまま何もせずに人生が終わるのだろうかと悶々としていたのですから。
生徒さんたちの中にも、当時の私と同じような気持ちを抱えている方はいらっしゃいますし、能力が花開く方を間近で見て、自分には何もできないのかと焦る方もいらっしゃいます。
でも、私が10年以上この仕事をやってきて思ったのは、「生きる」ことにこそ意味があるということです。
生きる意味を見い出せなかったとしても。
何も成し得なかったとしても。
周囲に認められるような能力が開花しなかったとしても。
どんな人も「存在している」だけで価値があるのです。
なぜなら、日々生きるうえで悩んだり、苦しんだりしながらも懸命に生きようとする「想い」は、どこかで同じように辛い思いをしている人の「光」となって、その人の暗闇を照らしてくれますし、
たとえ一瞬でも嬉しい、楽しい!と感じた「想い」は、どこかで同じような思いをしている人の「光」を増幅してくれます。
日々の中でくるくると発生している私たちの感情や想いは、あずかり知らぬところで、互いに影響し合っています。
ですから、その人が存在していること、生きていること、毎日何かを感じたり思ったりすること、それだけで価値があるのです。
★参考記事
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