赤い指

東野 圭吾

こういうミステリーはね。

という人も多いだろう。

さらりと読めるが・・・

泣かせようとしたのかね。

そのあたりの作者の意図は見えないが・・・


屈折したそれぞれの家庭の事情を書くには、あえて殺人はいらないような気がしてしまう。

東野作品だから読んだんだけれどね。


永井 するみ
ボランティア・スピリット

永井 するみとい作家の本を初めて読む。かなり前に購入したが、積読状態。あまり期待せずに読む。

短編集ということもあり、休憩の合間に読む。読み始めると、なかなか面白く。アッと今に読み終えた。


日本語教師のボランティアや外国人労働者のそれぞれの視点からか書かれている。


外国人労働者と日本語教師のボランティアの交流。そこにある偏見。お互いの打算。文化の違いなどを上手く使いながら、ミステリータッチに書かれた本であった。



日本代表監督の発表をこんな形でしてもいいのだろうか。

そんな疑問が湧かないでもないが・・・

でも、オシム監督なら・・・

走るサッカー、考えるサッカーをしてくれるわけだし、サッカー文化が今だ根付いていない国ジャパンにとっては、最高の教師だろう。

発表の仕方や時期には、問題が多いが、多くの人は、オシムジャパンには賛同するのではないだろうか。


木村 元彦
オシムの言葉―フィールドの向こうに人生が見える

将棋の名人戦

いつ始まっていつ終わったのかわからないいうちに終わってしまったような気がする。

森内名人が谷川浩司九段を4-2で防衛した

それにしても、いつから将棋の名人戦のニュースとしての価値が下がったのだろう。

羽生がすべてのタイトルを持っていたときは、それなりに将棋ファン以外にもアピールしていただろう。

もちろん、米長や中原のような世代の時は、娯楽として将棋が世間に大きくアピール出来たよき時代でもあろう。

その、米長が仕掛けた盤外戦 の方が本家の名人戦よりも盛り上がってしまうのは、今の将棋界の悲しい現実だろう。

今や、ゲームの時代であり、娯楽の多様化の時代。

一方で、コンピュータ将棋全盛の時代である。


さて、坂口安吾全集〈17〉 を読む。坂口安吾時代は、升田幸三の時代である。

升田と同時代に生きていた。リアルタイムの升田は、なんとすごい!とういわけだ。

この時代は、囲碁には名人戦が無く、将棋の名人戦をうらやんでいるとことが面白い。

将棋は、ゲームではなく、勝負事。賭け事という要素が、ぷんぷんする時代と今のゲーム感覚の時代。

棋士から醸し出すすオーラが違うのだろうか。

村上 春樹
世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド〈上〉

再読。

といっても、以前読んだ記憶はほとんど無く、再読といってもね・・といったところだろう。

ただ、「面白かった!」という記憶だけが残っていた。


そして、ようやく読み終えて、小説のおおおよそ構造を知って、その細部をようやく落ち着いて読めるような気がする本だろう。

<私>の日常的な世界は、「組織」と「工場」の2つの相反する抗争に、老科学者の企みにより、知らないうちに巻き込まれていく。そこが、ハードボイルド・ワンダーランドの世界だろう。

そこは、インディ・ジョーンズ顔負けのハードボイルドな世界が待っていた。

世界の終わりは、<僕>が夢読む人として足を踏み入れた世界だ。そこには、記号として、多くの謎が潜んでいた。

交互に繰り返される物語を読む進めるうちに、村上ワールドの世界がひろがっていく。



乙一のZOOが文庫になったので、再読。

意外と忘れているもので、楽しめた。

乙一の傑作短編集という名に恥じない作品集だろう。


不条理があり、意外な落ちがあり、これがまさしく乙一なんだろうね。


沢木 耕太郎
杯(カップ)―緑の海へ

地元開催だった2002年日韓ワールドカップには、日頃サッカーに触れることが無かった人も、多くの思いを残したことだろう。

幸運にも、私も地元大分での開催であったため、ワールドカップの生での観戦を2試合もすることができた。開催国の人との交流は無かったが、ワールドカップという大きなイベントに観客として参加できたのは、いい思い出になったことは間違いない。


この大きなイベントに、ノンフィクション作家として参加した沢木の心を揺さぶったことなんだろうか。

沢木は、日本の対応をぶりを批判的に書いている。特に大分の印象は悪かったようである。

でもそうだろうか。私が同じバスに乗り合わせた若者たち。彼らは、日本代表を追いかけるのではなく、各会場でワールドカップそのものを楽しむフリークだった。彼らの印象は、日本の他の会場に比べると、大分に好印象だった。やはり、ワールドカップのチケットを海外で購入して、何箇所も見て回っていた親戚のM君も同じ意見だった。ノンフィクションって、ある意味では、あまりにこ個人的過ぎるんだなあと感じた。


いわゆる”マスコミ”系って、割と単純なんだなあと思う。自分にとって親切にしてくれた人がいれば、○。そうでなければ、×。でも、よく考えれば、同じの日本の旅行者に、普通どれだけ親切にするだろうか。単純に比較しても、多分そんなことをすれば、なんかあつかましいと思うだろうし、先ず私ならそんな親切は迷惑に思うだろう。海外で困っている日本人がいても、そう簡単に手助けするのは、失礼だし、しない方がいいだろう。


なんて、思いながらも、沢木の朝日新聞の記事を以前目を通したことがあったため、この本の内容には、そんなに斬新さは感じなかった。むしろ、ジャーナリストの”あつかましさ”だけが目に付いてしまった。それくらいでなければ、ジャーナリストになれないということだろうか。


三崎 亜記
となり町戦争

となり町戦争


現実感の無い”戦争”がいつのまにか始まられ、いつのまにか終わってしまった。

そこで、死者が出て、主人公は、その戦争に予告もなしに敵地偵察という使命を帯びて参加させられる。

そこでは、結婚やセックスさえもが工程表の中で決まられている。

現実の管理社会。

公共工事のような形式的な手続きで行われていく戦争という名の”殺人”。

シュールと言う表現がぴったりの小説であろう。

そういう意味では、シュールでなければ、本当に怖い話なんだろう。

もしかしたら、あなたにも明日、そうした通知がこないとも限らない・・・と思わせれられるシュールさだろう。

光原 百合
十八の夏

評判の「十八の夏」を読む。

短編が4つ。

青春ミステリーといえるだろうか。

個人的には、最初の「十八の夏」がいい。ミステリーとして読まなかったためもあり、2度読んだ。

2回目は、ストーリーがわかった上でのでの再読。


全体には、人の良い人の話。あるいは出来すぎな話にも感じるところがあり、「兄貴の純情」のように一方的な思い込みで、ちょと困った人だし、まあ、いまどきありえないよなあっていう気持ちがおこってしまう。

「イノセント・デイズ」にしても、なんだか殺人のところにリアル感が感じられなかった。自分の親への一方的な気持ちの正当化みたいなところもあって、そう簡単に人は殺せないという気持ちがあるので、ちょと”芝居”がかっているような気がするんですがね。

まあ、好き好きでしょうが・・評価が高すぎじゃない。


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