山村俊雄のブログ -3ページ目

2019.08.16

だらだらと

決して嫌いでは無いのです。だらだらと、諾諾と時に寄り添い溶けた飴のように過ごす時間。特に夏の昼下がり軽いうたた寝の遣る瀬無い無抵抗な時間。但し、あくまで一人で過ごす時間であって、他の方々とそこまで時間共有は余程の信頼関係と言いますか、気心知れあった間柄に限りますが、時にそんなでも無い方と其の様な時を共有するのは、生き地獄そのものです。

最たるものはお互い何かの表現に対して共通事項を共有して作業している時は遣る瀬なさで気持ちが沈み込みます。其の逆に此方の発想をどんどん連鎖的に拡げてくれる方は最高です。其の様な方々とこれからは付き合いを深めていけたならと思っています。

総体としての生命力も残すところあと少し故に此れからの人間関係とやら少しばかり気を付けようと思う次第です。

 

矢張り、愚かさにしても自覚持った方はわかります。タチが悪いのは何につけてもですが、自覚なき感情の垂れ流しは頂けないです。

其の様な方は無自覚故に意外とふてぶてしくて、此方の気持ちが消耗してしまいます。

 

重ねて、もう〜充分です。

 

終わり無き制作

一連のデカルコマニー制作は自分にとってはフォルムの探求。同じ像は二度と現われず毎度予測を裏切る。絵の具の粘度であったり、紙質だったり力の加減絵具の分量などにより紙を開くまでは全く解らない。それでも、枚数を重ねていると大方の予測はつくようなものだが、矢張り裏切られる。この作業は多分死ぬまで断続的に行われると思われる。

 

僕にとってのスケッチ。速記。其の時々の自分や取り巻く環境が二つ折りの紙の中から立ち現れる。

日々の事など。

30歳過ぎてから作品制作及び発表を行ってきた自分は、所謂美術界や取り巻く世界からは遠く殆ど無関係故に制作を続けてきた。

今年で62歳を迎えるから。多分人生の半分近くを表現とやらに費やしてきた。正に浪費そのものの何と贅沢な生き方だろうか。

無論其のような生き方故に経済活動からはほど遠く年中貧乏である。

が、独り身プラス同居猫二匹の生活故勝手気儘に生きている。お金に困窮すること度々現象として起こるのだが、そこは何とか凌いできた。

 

日常生活する分には取り立てて趣味らしきものもなく、自炊して、本を読んで、絵を描いて、猫達の蚤を櫛で梳いて、お気に入りの映画を眺めて、

淡々と暮らしている。ほとんどが家の中に籠っているのでそんなにお金を使う事も無い。街に出歩く事も無く、車の免許も無いので移動には主に自転車を使用して買い物などは済ます。

 

そんな生活の流れを偶に攪拌するのが個展を開催する時。まず始めにお金をなんとかしなければならず、企画展なぞ先ず持ってお声は掛からないので自力で開催せねばならず会場費やら作品制作費やら等々お金がかかる。其の上制作作品が大きな作品が大多数であり販売等は先ず見込めない。そんな事してまでもやはり辞められない。今流行りの生産性で言えばほぼ皆無の脱落者、人間のクズ。故に結構開き直って生きている。

歳も歳だし。

 

益々我儘に歯止めがかからず爆走老人何処へ行くー

 

 

今年上半期の事など。

2019年も早いもので3分の2ほど過ぎた時点で自分なりに思う事などを今日から徒然なるままに書き起こしていこうと思います。

 

昨年来富山との関わりが緊密になり一つには知人と企画した個展等があり、また富山県利賀村にアトリエを設営する事となり幾多も行き来しつつ6月には比較的大きな個展も開催しまして、やっと疲れも取れてひと段落。沢山の方々との出逢いを通して色々と思う事多き日々でした。

 

一つには自分のツメの甘さが露見した事です。何も作品に限らず人との交流についても言える事で、つい最後になって何処かで放棄してしまう、面倒になっても〜いいや〜ってなってしまう。作品の場合ならば未だしもある程度自分でコントロールもできますが、事人との付き合いと成りますと色々と有り、つい我慢してウジウジと考え込むこむ事が多々ありまして、精神的に参ってしまいました。

このくだりはこの後少しづつ整理しては記載していこうと思っています。

 

 

 

 

来週からです。

「僕は信用していません。山村さんのこんな処やあんな処、、、。」

つらつら思うに、そこまで懇意にした関係性無きとこから発言して頂いてもこちらとしては、はーそうですか。としか言えずに一体僕の何を欲しているの?でしょうか。

僕は極めて我儘で臆病で、とてもでは無いですが人様に誇れる様な事殆どなく即ちこの歳になっても迷妄甚だしくまぁー人間の屑ですね。
そもそも、信用って胡散臭く感じる自分が居て何か相手に対しての担保と言いますか其処求められても自分は殆ど資産無き還暦過ぎの只の気の小さい人間でして、そんな僕がこの度富山市民プラザと言う大層立派な場所で来週から個展を開催することとなりまして、連日連夜あたふたしております。

アートと言えば聞こえは良いですが、本来へそ曲がりの天邪鬼。

正しい姿勢が苦手な僕の世界ですが、そんな僕を信用では無く信頼してくれる人達とひと時時間共有出来れば幸いです。

ご来場宜しくお願い致します。 山村俊雄。


6月になれば。

6月の展覧会に向けて

6月に富山市民プラザにて展覧会を行います。期間等詳しい情報は随時更新してFacebook等にて告知していきます。

 

想えば30年近く作品制作に関わりその都度色々なことがありましたが、まあまあの生き方だったかなぁって思います。しいて言えば、あいも変わらず貧乏とは二人三脚。

それでも今こうして制作し続け展覧会を今尚行えることは幸せです。

 

沢山の方々に支えられて此処まで来れました。後は死ぬ迄作品制作し続けて生きれればいいなぁって感じですかねー。

年の瀬に妖怪画を描く日々




今年もあと僅かな日を残すところの所謂年の瀬に独りちびちびと妖怪画を描いて過ごす日々。
巣篭もりに近く、同居猫達と小さいアトリエの片隅に埋もれています。
手のひらに乗る寸法の作品もいいものです。

とは言え来年末の「妖怪無礼講」は又もや大きな作品群になると思います。パネル仕立てと屏風仕立ての発表になる予定です。
その為にも身体で筆の動きを染み込ませとかねばなりません。

6月には富山市民プラザにおいて「山村俊雄・展覧会」を開催致します。
其の他にも舞台美術等数本ある中で、平行して妖怪画制作。
歳を取るごとにより軽やかに振る舞えれば良い感じなのではないかと思います。


制作の根底




この数日兎に角デカルコマニーにはまってしまい日々せっせと紙を折っては開き絵の具を垂らした後に再び折り指の動きでササット押さえつけては開く。
左右対象の図が現れ予期せぬモノの出現に単純な喜びを感じる。
時には種子を思わせ又ある時には人体の一部を感じたり色々な思いが観ていると湧き上がってくる。
絵の具の乾き待ちの間に鉛筆ドローイングを行うと色々なモノが白い紙の上に現れる。
此の世に存在しないナニモノかが蠢く。
平行作業としての「妖怪無礼講」もその様に深く関わっている事を感じる。