越中國一之宮
けたじんじゃ
住所:富山県高岡市伏木一宮1丁目10−1

二上山の東麓に鎮座しています。

越中国内で一宮を称する4社(高瀬神社雄山神社射水神社、当社)のうち唯一、所在地名に「一宮」の銘号が入っています。

 

滞在が長丁場になるかもしれないとのことで、腹ごしらえをして伺いました。
この時だったかどうかは定かではないけど、コンビニで買い物後、車に乗り込むとき
間違えて、知らない人の車のドアを開けたところを大伴氏に見られてしまいました💦
✱手水舎✱
神社に入る前の道路わきにあります。
✱気多神社の清泉✱
手水舎の横にあります。
✱社号標✱
13:10頃参拝スタート
この時、色んな意味でワク・ドキ💕75段の階段をのぼりますランニング
 
 
私はこちらの石碑の前あたりが気になり立ち止まりました。
何があるという訳でもないのですが、なんとなく。
すると、大伴氏がご自身の話をしてくださいました。
大伴氏が13年前、ご自分の意志ではじめて神社に足を運んだのが、氣多神社だそうです。大伴氏と同じ名前のお社がこちらにあると知り、話のネタ作りに寄ってみたとのこと。そして、この石碑の前あたりで、私服姿の神主様にお声を掛けられたことがキッカケとなり、大伴氏の『祈りの旅』ファースト・シーズンがスタートします。
この日は曇りの予報だったんだけど、氣多神社では真夏のような日差しに包まれましたキラキラ
第2の階段をのぼりますあしあと
 
✱拝殿✱
きれいに掃き清められ、スッキリとした境内です。
この日の数日前、大伴氏がお一人で氣多神社にご挨拶に行かれた際、滅多にお会い出来ない神主様がその日はいらっしゃり、ブロワーでお掃除をされていたとのこと。
数日後のこの日、私も神主様にお会いできたのですが、その時聞いたお話によると、神主様もその日お掃除をしながら「あいつ(大伴氏)何してるかな」と頭をよぎったそう。その約5分後に大伴氏が目の前に現れたと仰っていました。
社伝によれば、養老元年(717年)、能登・氣多大社からの勧請。
創始については諸説あり。

能登国は養老2年(718年)に越前国より分立し、天平13年(741年)に越中国へ合併された後、天平年間(757~764年)に越中一宮として能登一宮の氣多大社から勧請したとも言われています。

大伴氏のブログを拝見すると、7月17日を『神の日』と仰っているそうなので、

それは神主様の個人的なものであり、717年勧請と繋がるのかもしれないと想像いたしました。偶然かもしれないけど。

お寺にあるような六角天蓋がかかっていました。
神紋は『剣梅鉢』
 
◆御祭神

大己貴命(おおなむちのみこと)

奴奈加波比売命(ぬなかわひめのみこと)

 

相殿

事代主命(ことしろぬしのみこと)

菊理媛神(くくりひめのかみ)

 
射水神社の記事を書くときに薄っすら感じていましたが
二上神は大己貴命と奴奈加波比売命のことかもしれません。
こちらが本来の本当の一宮だとすればと考察してみました。
 
奴奈加波比売命は私ははじめて聞いた御神名です。

翡翠(ひすい)の女神とも称するようです(理由は割愛します)。

 

素戔嗚尊の失態により「ヒミコ」の養女となり、市杵嶋姫から名を奴奈川比売に変えられたという情報もありました。最初の夫は天忍穂耳命であり、離婚後、
大国主(大己貴命)のお妃となられたようです。
 
【参考】

 

大国主命様とは、「だいこくさま」として慕われている神様です。

「だいこくさま」は、「縁結びの神様」と申しますが、この「縁結び」ということは、単に男女の仲を結ぶことだけでなく、人間が立派に成長するように、社会が明るく楽しいものであるように、全てのものが幸福であるようにと、お互いの発展の為につながり結ばれる事です。「だいこくさま」が「福の神」と慕われ、多くの人々から広く深く信仰をお受けになっているのも、この「結び」の御神徳、つまり愛情を私たちに限りなく注いで下さる神様であるからです。(氣多神社由緒書きより)

大伴氏はこちらの神社さんと御神縁が結ばれたのち、そのような道を進まれていると私は感じます。

✱本殿✱ 国の重要文化財

三間社(さんげんしゃ)流造(ながれづくり)杮板葺(こけらいたぶ)きの本殿。柵がしてあり近づけません。

4月18日の春季例大祭に奉納される通称「にらみ獅子」は頭だけがゆっくり動き、睨んだ参拝客の厄を払うとされ、市指定無形民俗文化財に指定されています。
本殿向拝の額。『一宮』と書かれているのでしょうか。
 
✱大伴神社✱
そしてこちらが、大伴氏が神社巡りをするきっかけとなった大伴神社です。
境内の中でも厳重に守られている感じを受けました。
2重の玉垣で内側は朱色。2対の狛犬さん。
御祭神は大伴家持です。
 
✱狛犬✱
☝小さくて、お社に近いほうの狛犬さん。妙に気になる存在でした。

「馬()めて いざうち行かな 渋谿(しぶたに)の 清き磯廻(いそみ)に 寄する波見に」

大伴家持氏が越中に赴任して最初に開いた宴の時に読まれた歌とされています。
ここは海の近くでもありますし、「皆で海に行こう」と歌われたのでしょうか。
私は大伴氏に旅のどこかで舞を舞わせていただきたいと言っていました。お世話になっている大伴氏ゆかりの神社さんですし、こちらで舞わせていただこうと思ったのですけど、他の参拝客が見えたので断念しました。私がもし逆の立場で、境内で踊っていたり、何かの儀式をしている人に遭遇したら、気分がシラケると思うし、見たくもないのに見せられて嫌な気分になり、せっかくの参拝が台無しになると思うのです。ですから私も人がいたら絶対に舞いません。
✱越中総社跡伝承地✱
高岡市伏木は、かつて国府や国分寺が存在した越中国の中心地だったようです。
総社とは、日本で特定地域内の神社の祭神を集めて祀った神社のことです。
この後、大伴氏より社務所に案内されました。
数日前、大伴氏がお一人で参拝された際、神主様に「数日後に知り合いを連れてくる」と仰っていたそうです。その時、9月17日は用があって不在だと言われたそうなのですが、タイミングが調整されたのでしょうか、この日、神主様ご夫婦とお会いすることが出来ました。大伴氏の経験上、氣多神社の神主様とはなかなかお会いすることはできないのだそうです。
社務所には還暦のご祈祷を受けにご夫婦がいらっしゃいました。神主様はとにかく沢山お話になられたあと、「今からご祈祷するから見て行って」と仰り、それが「ご祈祷受けて行って」に変わり、私達も急遽ご祈祷を受けさせていただく運びとなりました。ご祈祷の途中では神様から「施餓鬼供養をしなさい」と言われたそうで、引き続き供養もしてくださいました。頭の中は「施餓鬼供養ってお寺さんでするものですよね?ここ、神社さんですよね?」です。
神主様はその時々の直感や閃きで行動されるお方のようです。私も同じタイプなのでよくわかります。
施餓鬼供養では神社で祝詞を唱えようが祈祷を受けようが、何をしようが解消されない六道輪廻の「地獄 ・餓鬼 ・畜生」が癒されるというようなことを言わていました。
うろ覚えでスミマセン
方法が独特で、私も初めての体験でした。神主様にお任せするだけでなく、施餓鬼供養中は、イメージの中で自分でも色々しなくてはなりません。
 
ご祈祷と施餓鬼供養をしていただいた後、再び神主様とお話をさせていただきましたとき、私は自分のことを少しだけお話しました。
北陸へは突然、突き動かされるように「行きたい!」と思い、やってきたこと。
大伴氏とはブログで知り合い、今回が初対面だということ。
先月(8月)、一度も会ったことのない母方の祖父の菩提寺に初めてお参りさせていただき、祖父母全員にご挨拶を済ませていたので、偶然にも施餓鬼供養をする準備が整っていたこと。全ては、この日のことを知らずにやっていたことですけれど。
 
神主様は
「ここに来るためだったのかもしれないね」
「今日は九州の神様を連れてきてくれてありがとう、九州の神様好きなんよ、さっぱりして」
「神様は人につかないと来れないからね」
「会ったこともない人と怖くなかった?」
などとお話されていました。
 
「ブログを通じて、怪しい人かそうでないかはだいたいわかります」とだけお答えしたと思います。私が話す隙は殆どなく、大伴氏に至っては相槌打つくらいで、ほぼ無言。笑 大伴氏は本当に礼儀正しく、普段から物静かで人が話している時は黙って聞いておられる品の良い僧侶みたいなかたです。
今回このような機会を与えて下さり、ご縁を繋げてくださった大伴氏に心から感謝申し上げますキラキラ
 
金劔宮の記事でご紹介した『謝罪の祈り文』は、氣多神社の神主様から教えていただいたものでした。
✱御朱印✱
御朱印は社務所に書置きがございます。
「越中國弐宮」と書かれていますが。。なぜなのでしょう。
ネット上どこを探しても氣多神社が二宮の記述はありません。
神主様は神社が有名になることを目的としてなく、むしろ、有名になりたくないのだそうです。そのことと関係しているでしょうか。
帰る時、氣多神社で車に乗り込んだ直後、大雨に見舞われました。
一年に一度あるかないかくらいのマンガのような大雨で、次の神社までワイパー最大で走っていただきました。
 
【お知らせ】
新年祈願祭が令和3年1月3日(日)11時と13時より、本殿にて斎行されます。
 
***
 
2020年11月27日(金)19:00〜TNC『華丸・大吉のなんしようと?』で
ゲストに中川家のお二人をお迎えし、私の地元朝倉市甘木をぶらりされます。
 
その中の、
『畳の魅力をラップで発信!畳ラッパー』と
『日本酒と馬刺しが美味い店』で徳田畳襖店4代目の徳田くんが出演します。
 
徳田くんは数年前、私がパートをしていた時に一緒に働いていた仲間です。
その当時彼は、畳の学校に行きながら社会勉強でアルバイトをしていました。
この時も既に音楽活動をしていたので、一緒に仕事をしながら、MVの提案などしていました。徳田くんは目をキラキラさせながら話を聞いてくれていました。
今では立派に畳職人をしながら、ラッパーとしても活躍されています。
今後は、日本の伝統文化である畳を、ミラノサローネやジャパンエキスポに出展し、世界に広めたいという野望をお持ちです。
 
また、このブログでもどこかに書きましたが、私が産土神社に初参拝した翌日、
20年以上前に他界した父方の祖父が写真でテレビ出演したのですが、その同じ番組の別のコーナーにも徳田くんは『畳ラッパー』として出ていました。
そんな感じで、徳田くんとは何かとご縁を感じますし、今時スレていない、良い青年なので応援したくなります。
 
『華丸・大吉のなんしようと?』は九州のローカル番組ですが、UHB北海道文化放送(何週か遅れの分が24:55~)、関テレ(何週か遅れの分が4:28~)でも放送されます。良かったらご覧ください。『T・A・T・A・M・I』の歌は一度訊くと口ずさみたくなるから不思議です。
 

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