宮原誠一の神社見聞牒(022)
平成29年(2017年)09月12日

No.22 老松神社シリーズ ④ 各地の七夕神社


1.小郡市の七夕神社
「No.20 老松神社シリーズ ② 稲吉の老松神社と牽牛社」にて、福岡県小郡市稲吉(いなよし)の老松神社の境内社、犬飼神を祀る牽牛社と宝満川を天の川に例えて、西岸の大崎(おおさき)の媛社(ひめこそ)神社の七夕神を紹介し、それぞれの神社の祭神を次のようにまとめている。

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小郡市大崎の媛社神社の祭神。
 1.主祭神 媛社(ひめこそ)神=天鈿女命
 2.磐船大明神=饒速日命(彦火々出見命) 天鈿女命の夫
 3.織女神 七夕姫=市杵嶋姫

小郡市稲吉の老松神社の合祀境内社・牽牛社
 1.犬飼神=天忍穂耳命
 2.老松神社の古宮=大国主

ここで、稲吉の牽牛社の祭神が牽牛神でなく、犬飼神であることに違和感を持たれた人は多いと思います。犬飼神は猟犬を飼う神様ですから当然のことです。
日本版の七夕祭りは、厳密に言いますと、牽牛神と織女神の物語ではないのです。
日本版七夕祭りは庶民の民俗的な行事でなく、日本の神社の七夕祭りであって、犬飼神(天忍穂耳命)と七夕姫(市杵嶋姫)の物語であり、この物語を中国版七夕祭(牽牛神と織女神)の物語に置き換えているのです。
よって、庶民の民俗的な行事としての中国版「七夕祭り」と日本の神社の神事「七夕祭り」は区別をする必要があります。しかし、実際には、民俗的な行事と神社の行事の「七夕祭り」はごっちゃにして運用されているのが実情です。

稲吉の牽牛社の祭神・犬飼神のご神体をみると、猟犬を連れていなくて、牛を連れておられる。犬飼神のご神体を作成する時、猟犬を共にすることは、行事の趣旨に向かず、犬を牛に無理に置き換えて、ご神体を作られたと推察する。さすがに、犬飼神の名前は変更できなかったのでしょう。神様の名前を変更したのであれば、神事になりません。

(織姫神像には「明和六年(1769)三月十日京寺町通三条上二丁目 大仏師 中村杢之丞」と彫られている。)


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2.佐賀県鳥栖市の姫古曽神社
佐賀県鳥栖市姫方町189 に小郡市大崎の媛社神社の起源となった神社・姫古曽(ひめこそ)神社がある。祭神は明治になるまでは、八幡大神が主祭神で、武内宿禰 住吉大神が祀られていた。主祭神は市杵島姫であったが、後に宇佐八幡宮より八幡神を分祀し、更に住吉高良の二神(玉垂命、住吉大神)を合祀して八幡宮と称して来た。主祭神の織女神(たなばた姫)=市杵島姫は、八幡宮の勧請の折、「たなばた屋敷」に遷され、明治維新後、主祭神を戻し、「姫古曽神社」と改称した。さらに無格社、祭神彦火々出見命、国常立神を追加合祀している。

しかし、残念ながら、2014年6月6日深夜、火災にあい、全焼焼失している。
鳥栖市姫方町の姫古曽神社は奈良時代に編纂された肥前国風土記に記述が残されているおよそ1300年の歴史を持つ神社で、社殿が全焼後、地元住民や企業からの寄付金、災害保険などをあわせ、3800万円をかけ社殿を再建されている。今年2017年8月6日、竣工式がなされた。


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当時の神社境内由来碑によると、祭神は市杵島姫命、八幡大神、住吉大神、高良大神、管原道真(1810年追祀)となっている。

由緒(神社境内由来碑)
当社の原初祭神は、織女神(たなばた姫)であった。このいわれは「肥前国風土記」姫神郷の段に詳しい。弘仁2年(811)、時の村長某が豊前国宇佐八幡宮の分霊をここ姫方の地に勧請、先ず徳丸というところに行宮を建てて祀り、のち現霊地に社殿を建立して奉還、住吉大神、高良大神を合祀して八幡宮と称し姫方村の氏神とした。・・・
この八幡宮勧請以後、本来の主神である織女神は疎外されていたが、明治の御一新に当たり村人は相はかって近くの「たなばた屋敷」におわした織女神を市杵島姫命の神名をもって主神の座に復し奉り、社名を姫古曽神社と改めた。以後、たなばた祭が執り行われるに至った。


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鳥栖市の姫古曽神社と小郡市大崎の媛社神社の関係を示す肥前風土記(730年頃)の記述がある。「筑後国三井郡小郡村大字大崎 郷社 媛社神社境内の図」の絵図に書かれている。
「No.20 老松神社シリーズ ② 稲吉の老松神社と牽牛社」を参照のこと。

媛社神社が祭る社、岩舟神社なり。後に、織女神を合祀する由縁は、肥前国風土記基肆郡(きいのこおり、今の三養基郡なり)媛社の郷の件に曰く。

この郷の中に川があり、名を山途川(やまぢ)という。その源は郡の北の山から出て、御井の大川と合流する。(今の媛社郷の東を流れる小川に千歳川と合流する)
昔、この川の西に荒ぶる神がいて、路行く人の多くが殺害され、死ぬ者が半分、死を免れる者が半分であった。そこで、この神が祟る理由を尋ねると、「今筑前国宗像郡の珂是古にわが社を祭らせ、もしこの願いがかなうなら凶暴な心はおこさない」とあった。珂是古は幡を手に持ち祈祷し、「誠にわが祀りを欲するならば、この幡は風のままに飛んで行き、わが願う神のもとに落ちよ」といい、そこで幡を放した。すると、その幡は飛んで往き、御原の郡の姫社の杜に落ちた。(今の三井郡大崎なり)
その夜の夢に臥機(くつびき)と絡垜(たたり)が出てきて、珂是古をうなし、「織女神を祀り社を建てよ」と諭される。この神の神格は織縫が巧みで、衣食の道を開く織女神と申すなり。それから路行く人も殺されなくなり、今は平安である。これ姫社神社のことなり。


今の佐賀県鳥栖市付近に山道川があり、この川の西に荒ぶる神がいて、路行く人の多くが殺害され、死ぬ者が半分、死を免れる者が半分であったという。そこで、筑前宗像の珂是古(かぜこ)が荒ぶる神をここに祀り、祈祷し申すには、荒ぶる神の願う所に願う神を祭るならば、凶暴は起さないといわれる。そこで、祀る所を占うために、幡を風のままに飛ばしたら、御原郡の姫社の杜に飛んで行き落ちた。そこで、姫社神杜に織女神を祀った。それから、路行く人も殺されなくなり、今は平安である。これは姫社神社の縁起なりと云う。

この肥前風土記の記述が云わんとすることは、鳥栖市の荒ぶる神が、ここに私を祀り、御原郡大崎の姫社神社に岩舟神と織女神を祀ってくれと頼んでいるのである。
姫社神は天鈿女命であり、岩舟神は夫の饒速日命(彦火々出見命)であり、織女神は市杵嶋姫である。後に、磐井・麁鹿火戦争、物部守屋の内乱を経て、物部氏は衰退する。饒速日、天鈿女命の祭神を隠さざるを得ない状況になる。しかし、織女神は難を免れ、神社は存続する。


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3.荒ぶる神
鳥栖市付近の山道川があり、この川の西に荒ぶる神がいる。「荒ぶる神」は誰かいうと「五十猛=饒速日命」とされる。荒ぶる神については、同様に筑後風土記にも出て来る。


筑後国風土記云、筑後国者本興筑前国合為一。昔、此両国之間山有峻狭坂。往来之人所駕鞍韉、被摩盡。土人日鞍韉盡之坂。三云、昔、此堺上、有麓猛神。往来之人、半生半死。其数極多。因日人命盡神。于時、筑紫君・肥君等占之。令筑紫君等の祖甕依姫、為祝祭之。自爾以降、行路之人、不被神害。是以日筑紫神。『風土記』

(訳)筑後国風土記に云う、筑後国は本(もと)筑前国と合わせて一つなり。昔、此の両国の間にある山に峻狭な坂があった。往来の人が駕(の)るところの鞍鞘は摩り蓋すので、土人(くにびと)は鞍韉を盡(つく)す坂という。三に云う、昔、此の堺の上に危猛(あらぶる)神あり。往来の人、半分は生き、半分は死ぬ。其の数は極めて多い。因りて曰く、人の命を盡す神であると。時に、筑紫君と肥君等がこれを占い、筑紫君等の祖甕依姫を祝(はふり)と為し、これを祭らしむ。これより以降、路を行く人は神の害を被らず。是れを以て筑紫神という。「伊都国と渡来邪馬壹国」佃収


筑前と筑後の間に険しい山があり、その山には荒ぶる神が居て通行する人の半分は死んだとある。筑紫君と肥君等は占い、筑紫君等の祖の甕依姫を祭祀者として祭らせると道行く人は神に害されずに通ることができるようになった。これを以て筑紫神というとある。
筑前と筑後の間にある山とは基山であろう。その地域は筑紫野市から小郡市にかけてとされ、「筑紫神」は今の筑紫神社の祭神で、荒ぶる神は五十猛とされる。


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また、基山町の荒穂神社にはニギハヤヒ(五十猛)が祀られていると云う。


4.七夕伝説発祥の地
有名な伝統行事が各地で行なわれると、行事発祥の地は何処何所と論議が提起される。1)小郡市大崎の媛社神社、2)鳥栖市の姫古曽神社の他に、九州では宗像大社の七夕祭りがある。

3)宗像大社の大島中津宮の七夕祭

宗像市の大島は七夕伝説発祥の地と云われ、七夕祭は鎌倉時代から行われている。宗像大社中津宮の境内に流れる「天の川」をはさんで牽牛神社・織女神社が祀られ、旧暦の7月7日に近い8月7日に島内にて七夕祭りが行われている。

宗像大社(福岡県宗像市)は宗像三女神を祀る神社で、大陸及び古代朝鮮半島への海上交通の平安を守護する玄界灘の神、要として、大和朝廷によって古くから重視された神々である。特に、田心姫は宗像三女神のなかでも海北の道主貴(みちぬしのむち)と呼ばれ、玄界灘に浮かぶ沖ノ島には沖津宮があり、田心姫を祀っている。中津宮の大島では湍津姫神(たぎつひめ・(鴨)玉依姫)が祀られ、本土の辺津宮では市杵島姫がまつられている。
この三女神を祀る神社の組み合わせは色々あり、古事記・日本書紀・宗像大社社伝の記載がある。
宗像三女神は次のように記載されている。

『古事記』
沖ノ島の沖津宮 - 多紀理毘売命(たきりびめ) 別名 奥津島比売命(田心姫)
大島の中津宮 - 市寸島比売命(いちきしまひめ) 別名 狭依毘売(さよりびめ)
田島の辺津宮  - 多岐都比売命(たぎつひめ・(鴨)玉依姫)

『日本書紀』本文
沖津宮 - 田心姫(たごりひめ)
中津宮 - 湍津姫(たぎつひめ・(鴨)玉依姫)
辺津宮 - 市杵嶋姫(いちきしまひめ)

宗像大社の社伝
沖津宮 - 田心姫神(たごりひめ)
中津宮 - 湍津姫神(たぎつひめ・(鴨)玉依姫)
辺津宮 - 市杵島姫神(いちきしまひめ)


七夕祭がある大島中津宮で七夕姫の市杵嶋姫を祀るのは古事記の記載である。
七夕祭からすると、三女神の祀り方は古事記がよろしいということになる。
ここの祭りでは牽牛神社・織女神社の名前は出ても、祭神の名前があがってこない。祭神が明確でないと、魂の抜けた祭りとなりかねなく、観光イベント色の強い行事と受けとめられそうです。

4)大阪北東部の枚方市・交野市

平安の往古、枚方市(ひらかた)、交野市(かたの)一帯は、交野ヶ原と呼ばれ、天野川が流れ、このあたりには七夕や星に関わる地名が多くあり、七夕伝説発祥の地と伝わる。右岸の交野市倉治には織姫(天棚機比売大神・あめのたなばたひめおおかみ)を祀る機物神社が、対岸の枚方市香里団地の中山観音寺跡には「牽牛石」と呼ばれる石があり、天野川を挟んで織姫と牽牛が対面するように位置する。また天野川上流の磐船渓谷にはニギハヤヒ命を祀った磐船神社がある。

庶民の民俗的な行事としての中国版「七夕祭り」が始まったのは江戸時代中頃といわれている。第1項に示したように、日本版神社の「七夕祭り」と庶民の民俗的な行事としての中国版「七夕祭り」は区別して考える必要がある。
庶民の民俗的な中国版「七夕祭り」とは七夕笹に願い事を架ける短冊等を伴うものであり、神事としての「七夕祭り」は元夫婦であった天忍穂耳命と市杵嶋姫が大河を挟んでの逢瀬を偲ぶものである。
神事としての「七夕祭り」は「肥前国風土記」に始まり、かなり古い。祭神の体裁が整っているのは福岡県小郡市大崎の媛社神社であろう。ここでは、織女神の七夕姫と牽牛社の犬飼神の祭神名がはっきりしており、ご神体を公表されている点は強い。


5.天忍穂耳命と市杵嶋姫
天忍穂耳尊は4名の姫君を妃としている。この4名の姫君は天忍穂耳尊を「ヒミコ」の日子にさせてくれた日女たちといわれる。

 拷幡千々姫  高木大神と「ヒミコ」の皇女 別名:天手長幡姫(あめのたなばたひめ)
 市杵嶋姫   素戔嗚尊と阿加流姫の子
 瀛津世襲足姫 素戔嗚尊と櫛稲田姫の子
 天鈿女命   素戔嗚尊と神大市姫(罔象女神)の子

拷幡千々姫は高木大神と「ヒミコ」の間の皇女とされ、別名・比咩御子という。
市杵嶋姫は素戔嗚尊の失態により「ヒミコ」の養女となり、名を奴奈川比売に変えられる。最初の夫は天忍穂耳命であり、長髄彦の反乱と関連して高木大神によって離婚させられ、大国主の妃となられる。
天鈿女命は天忍穂耳命と一緒の時期は1年未満であり、離縁後、彦火々出見命(饒速日命)の妃となられる。


百嶋由一朗先生講演 神社研究会 2011年5月28日
阿蘇大蛇伝説、その主な舞台は大分県大野郡緒方村、そこにはっきり残っています。大蛇伝説の主人公は市杵嶋姫です。阿蘇の蛇神伝説の頭領である市杵嶋姫を、阿蘇の蛇神の代表として、阿蘇の連中が勝手に担ぐんですよ。本人はご迷惑でしょうけれども。そして勝手に三つ鱗の紋章を市杵嶋姫に押し付けています。従って、市杵嶋姫は阿蘇の大蛇伝説の頭領にもなっています。この場合、自分の旦那さんである天忍穂耳尊も家来ですよ。この市杵嶋姫はあっちに利用され、こっちに利用されて、とにかく名前がいくつあるか、いちいち名前を挙げていたら限がない程です。とにかく大きな位置を占めておられます。

阿蘇の暴れん坊たち・大蛇一族たちが、暴れたときの総称が大神(おおが)一族です。従って、現在では大神が有名になっています。そして、これを大神(おおみわ)なんて読んだら価値ががたんと下がります。オオミワと勝手に呼んだのは恵比須さんです。自分たちの格式が低かったけれど、後に出世なさいましたけれども、最初は低かった。そういうことで、とにかく大神(おおがと)読んだら、阿蘇の暴れん坊を連想なさったらよい。オオミワと読んだら、これは後の話、恵比須を中心とした後の話。だから、オオミワなんていわないで大神(おが)とお読みになったらいい。これがいわゆる阿蘇を中心とした暴れん坊集団の総称です。そして、その中心人物はだれか、三つ鱗の市杵嶋姫です。決して、市杵嶋姫は自分から望んで中心人物になったわけではありません。あくまでも勝手に下っ端の連中が市杵嶋姫を担ぎ出して、大神一族と名乗ったんです。大神一族は九州を制覇しましたので、恵良、賀来とか、各地の地名をとって大神一族が分布しています。

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