矛・盾 の e-Note (清範 剛)

矛・盾 の e-Note (清範 剛)

徒然なる備忘録・・・Bloggerから、少し気分転換でAmebaに・・・

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いよいよ戦局が変わって互いが衝突場面となる。先を急いでみよう。引用は青字で示す。日本語訳は、こちらこちらなどを参照。

 

丁亥、高市皇子、遣使於桑名郡家、以奏言「遠居御所、行政不便。宜御近處。」卽日、天皇留皇后而入不破。比及郡家、尾張國司守小子部連鉏鉤、率二萬衆歸之。天皇卽美之、分其軍塞處々道也。到于野上、高市皇子自和蹔參迎、以便奏言「昨夜、自近江朝驛使馳至。因以伏兵而捕者則書直藥・忍坂直大麻呂也。問何所往、答曰、爲所居吉野大皇弟而遣發東國軍、韋那公磐鍬之徒也。然、磐鍬、見兵起乃逃還之。」既而天皇謂高市皇子曰「其近江朝左右大臣及智謀群臣共定議、今朕無與計事者、唯有幼少孺子耳。奈之何。」皇子、攘臂案劒奏言「近江群臣、雖多何敢逆天皇之靈哉。天皇雖獨、則臣高市、頼神祇之靈、請天皇之命、引率諸將而征討。豈有距乎。」爰天皇譽之、携手撫背曰「愼不可怠。」因賜鞍馬、悉授軍事。皇子則還和蹔。天皇於茲、行宮興野上而居焉。此夜、雷電雨甚。天皇祈之曰、天神地祇扶朕者雷雨息矣。言訖卽雷雨止之。

 

戊子、天皇、往於和蹔、檢校軍事而還。己丑、天皇往和蹔、命高市皇子號令軍衆。天皇亦還于野上而居之。

 

六月二十七日になって、高市皇子が使者を寄越して、その言に従って、皇后を残し、その日不破に入ったと述べている。尾張國守が兵二万を率いて味方となっている。これは実に頼もしい限りなのだが、確か前記で近江朝廷の命令で集めた兵の筈であり、全くの寝返りであろう。馬來田兄弟のように初期に加わっていても、韋那公磐鍬が逃げ帰ったことで判断したり、どちらを味方するは極めて流動的な状況であったと伝えている。

 

その事件のあらましが記載されている。やはり東國への先発部隊、書直薬等が捉えられていたのである。近江側には左右大臣やら幾多の智謀の群臣がいるが、こちらは「幼少孺子」しかいない、とぼやくと、高市皇子がやる気を示し、彼に全軍を任せている。やや老獪な面を覗かせた記述であろう。この時、高市皇子は「和蹔」に駐留し、また大海人皇子は「野上」に行宮を造っている。

 

六月二十八日、天皇(大海人皇子)は「和蹔」との間を行き来している。軍事(作戦?)であろうか。翌日も同じ行動であったが、高市皇子を総大将とする軍隊編成を周知せしめたのであろう。三々五々に手勢を従えて参集した連中に加えて、二万の兵士が揃ったわけで、指示命令系統を徹底する要があったと推測される。それにしても、ゲリラ戦法しか行えないような有様から一気に正面切っての戦いを挑む戦略変更を行ったようである。

 

<野上(行宮)・和蹔>

野上(行宮)・和蹔

 

「不破」の「野上」で行宮を造られた。これが正に本陣であり、前図<近江朝初動作戦>を参照すると、北と南に貫山山塊を挟んで対峙する構図となったようである。

 

「不破」の地形は、当時は巨大な入江(湾)に突出た半島のようであったと推定される。現在名で言えば、東は朽網川の、西は貫山川及びその支流の河口付近である。

 

「不破」を抜けるにはその窪んだところを通過するしか道はなく、ここを封鎖すれば、東西陸路は遮断される。

 

「野上」はその道の上にあったと推定される。現在の朽網小学校辺りかと思われる。

 

現地名は北九州市小倉南区朽網西である。「和蹔」はその東方にあったと思われる。「蹔」=「斬+足」と分解される。和蹔=しなやかに曲がる山稜が切り離されて延びたところと読み解ける。現在の京都郡苅田町若久町である。拠点は、おそらく図に示した丘陵の西側辺りであろう。

 

図<近江朝初動作戦>を参照すると、この地は近江大津宮から東國へ向かう陸路・海路上の動静を監視するのに極めて好都合な位置にあることが判る。ここからの指令で「書直薬」等を捉え、「韋那公磐鍬」等を退却させることができたのであろう。山稜の端が海辺まで延びる地を横切る相手を待ち伏せるのに都合の良い場所が無数にある。それも活用した戦術、まるで罠に嵌まった状況を作り出したと推測される。

 

軍編成が可能となったわけだが、元来のゲリラ戦法を実行した「大伴連吹負」の話題が続くことになる。書紀編者の腕の見せ所でもある。

 

是日、大伴連吹負、密與留守司坂上直熊毛、議之謂一二漢直等曰「我詐稱高市皇子、率數十騎、自飛鳥寺北路出之臨營。乃汝內應之。」既而繕兵於百濟家、自南門出之。先秦造熊、令犢鼻而乘馬馳之、俾唱於寺西營中、曰「高市皇子、自不破至。軍衆多從。」爰、留守司高坂王及興兵使者穗積臣百足等、據飛鳥寺西槻下、爲營。唯百足、居小墾田兵庫、運兵於近江。時、營中軍衆、聞熊叫聲、悉散走。仍大伴連吹負、率數十騎劇來。則熊毛及諸直等共與連和、軍士亦從。乃舉高市皇子之命、喚穗積臣百足於小墾田兵庫。爰、百足乘馬緩來、逮于飛鳥寺西槻下、有人曰「下馬也。」時百足、下馬遲之。便取其襟以引墮、射中一箭、因拔刀斬而殺之。乃禁穗積臣五百枝・物部首日向、俄而赦之置軍中。且喚高坂王・稚狹王而令從軍焉。既而遣大伴連安麻呂・坂上直老・佐味君宿那麻呂等於不破宮、令奏事狀。天皇大喜之、因乃令吹負拜將軍。是時、三輪君高市麻呂・鴨君蝦夷等及群豪傑者、如響悉會將軍麾下。乃規襲近江、撰衆中之英俊爲別將及軍監。庚寅、初向乃樂。

 

「是日」(六月二十九日)に大伴連吹負が留守司の坂上直熊毛と謀って、一、二の漢直達に「自分が高市皇子と偽って、飛鳥寺の北の道から陣営に向かう。その時内からそれに呼応しろ」と指示している。その時既に「百濟家」で兵器を整えて南門から出るのだが、先に「秦造熊」に褌一つで寺の西側にある陣営で「高市皇子が不破より来た。皆従え」と言わさせている。

 

留守司の高坂王等は飛鳥寺の西槻の麓に集まっていたが、兵を起こした使者の穂積臣百足は小墾田の兵器庫から近江に運ぼうとして居なかった。陣中の兵士等は「熊」の叫びを聞いて散り去っている。その時「吹負」が数十騎を率いてやって来ると「熊毛」等が呼応し、他の兵隊等もそれに従ったようである。

 

高市皇子の命だと称して、小墾田の「百足」を呼び返したらノコノコと帰って来たところを殺害し、これによって他の連中は皆従うことになったと述べている。使者を不破に送ると天皇(大海人皇子)が大喜びで、「吹負」は、その思惑通りに、将軍となったようである。早速別将・軍監を定めている。呆気なく倭京を陥落させて、次は「乃樂」へ赴くと言っている。

 

多数の登場人物に加え、狭い範囲ではあるが、移動(場所)を伴う記述である。分り辛いと言える段であろう。補足しながら整理をしてみよう。

 

<飛鳥寺攻防>

「吹負」は、一旦地元に引揚げて、兄と相談の結果、大海人皇子側に付くことは決まりだが、自分は、ちょっと一旗揚げようと企んだと記載されていた。要するに僅かな手勢で「倭京」を落とそうとしたわけである。

 

彼の地元(現地名は京都郡苅田町山口)から味見峠を越えて、勿論「倭京」の前を通ることは無く、甘檮岡(現地名香春町長光辺り)から五徳峠越えで、向かったのは「百濟家」であった。


「留守司坂上直熊毛」には事前に協力の約束を取り付けていたのであろう、そこで具体的に策謀している。その一は、内通している漢直(宮の護衛)の呼応、混乱を生じさせること。その二は、「秦熊」に敵軍の中に走り込ませて、高市皇子軍が多勢で攻めて来ると吹聴させる。

 

この時に重要なのは、身包み剥がされた風体で、西から敵軍に向かうことであって、西に皇子軍が迫っているように見せ掛け、言葉は、北からと叫ぶようにする。敵軍に既に取り囲まれ、身動きできない雰囲気を醸し出すこと、である。

 

北から倭京に向かう時、道は「甘檮岡」で二手に分かれる。そのまま谷を下るのと、五徳峠越えで向かう道である。前者は穴戸國(現地名香春町瀬戸辺り)を通過せねばならず、後者は登りがある、と言う地形である。戦時ならば、峠も油断はできないが、おそらく後者になろう。

 

即ち、敵軍に高市皇子軍がそこで二手に分かれて進軍して来つつあるように思い込ませることである。思惑通り見事に的中したから、いとも簡単に武装解除となったと記述しているのである。そして「吹負」自身は、完全武装で騎乗して、一旦五徳峠に逆走して戻り、恰も北から進軍してかのように「飛鳥寺」に向かったのである。

 

「百濟家」(家=宀+豕=豚の口のような様)は「倭京」防備用の武器保管場所であり、「漢直」が常駐していた場所ではなかろうか。但し、保管武器はかなりお粗末な状態であったと思われる。殆ど必要がない、見掛けがそれなりであれば、であろう。「百足」は、まさか留守の間に乗っ取られているとは夢にも思わずで、命を落とす羽目に、何ともお気の毒な出来事だった。

 

「倭京」を陥落させた「大海人皇子」は、いよいよ近江朝の本陣に狙いを定めて「不破」からの全軍攻撃に入ろうとし、将軍「大伴連吹負」は「乃樂」へ進軍すると言うが、この続きは次回としよう・・・。

 

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今回も幾人かの人物が初登場している。詳細はこちらを参照。中に「鴨君蝦夷」がいる。鴨君は古事記の御眞木入日子印惠命(崇神天皇)紀に登場する、疫病対策で貢献した意富多多泥古命が祖となったと記載されている。葛城の地にその出自の場所を求めることができた。「記紀」を通じた地形象形表記であることを確信するに至ったようである。

 

 

 

 

大海人皇子一行が桑名に逃げ、不破道を封鎖したりしている時、一方の近江朝廷側は如何なる行動を取っていたのであろうか?…謀反と知れば、素早い対応が自慢の朝廷であった筈なのだが・・・大友皇子を中心とした群臣達の戦略は、果たして的を得たものであったのであろうか、書紀が語る顛末である。引用は青字で示す。日本語訳は、こちらこちらなどを参照。

 

是時近江朝、聞大皇弟入東國、其群臣悉愕京內震動、或遁欲入東國、或退將匿山澤。爰大友皇子謂群臣曰、將何計。一臣進曰「遲謀、將後。不如急聚驍騎乘跡而逐之。」皇子不從。則以韋那公磐鍬・書直藥・忍坂直大摩侶遣于東國、以穗積臣百足・弟五百枝・物部首日向遣于倭京、且遣佐伯連男於筑紫、遣樟使主盤磐手於吉備國並悉令興兵。仍謂男與磐手、曰「其筑紫大宰栗隅王與吉備國守當摩公廣嶋二人、元有隸大皇弟、疑有反歟。若有不服色、卽殺之。」於是、磐手、到吉備國授苻之日、紿廣嶋令解刀。磐手、乃拔刀以殺也。男、至筑紫時、栗隈王、承符對曰「筑紫國者、元戍邊賊之難也。其峻城深隍臨海守者、豈爲內賊耶。今畏命而發軍、則國空矣。若不意之外有倉卒之事、頓社稷傾之。然後雖百殺臣、何益焉。豈敢背德耶、輙不動兵者其是緣也。」時、栗隈王之二子三野王・武家王、佩劒立于側而無退。於是、男、按劒欲進還恐見亡、故不能成事而空還之。東方驛使磐鍬等、將及不破。磐鍬、獨疑山中有兵、以後之緩行。時、伏兵自山出、遮藥等之後。磐鍬、見之知藥等見捕、則返逃走、僅得脱。

 

當是時、大伴連馬來田・弟吹負、並見時否、以稱病退於倭家。然知其登嗣位者必所居吉野大皇弟矣。是以、馬來田、先從天皇。唯吹負、留謂立名于一時欲寧艱難。卽招一二族及諸豪傑、僅得數十人。

 

大海人皇子の東國入りで、朝廷内は大騒ぎのてんやわんやになったと記載している。東國に行こうかとか、山に隠れてしまおうかとか、真偽のほどは定かでないが・・・騎馬で追いかけては、と進言する者もいたが、大友皇子は同意せずに幾つかの行動に出ている。一つ目は、東國と倭京に使者を出すこと、二つ目が、吉備國と筑紫国に使者を出すのだが、これらの國が歯向かえば、即座に始末しろと仰っている。

 

そして吉備國守を有無を言わせず斬捨ててしまったが、筑紫國(栗隈王は筑紫大宰)は、対外的な場所である故に国内のいざこざには関与しないと突っぱねたようである。東國に向かわさせられた使者は、不破に到着する前に伏兵に出合って退散したと伝えている。こんな状況の中で、大伴連馬來田・弟吹負は勝つのは大海人皇子と確信し、それぞれの思惑は違ってはいるが、皇子に従うことにしたと伝えている。

 

近江側の使者は、謀反の張本人に接触することもできず、例え出来たとしても即刻首を刎ねられたであろうが、逃げ帰っては何の情報も得られなかったであろう。吉備と筑紫へ使者を出すとは?…通説に従えば、帰る頃には事件は決着した後であろう。勿論、この筑紫への派遣及び大宰が協力を拒んだことは、極めて重要な意味を持っている。後に詳述する。

 

<近江朝初動作戦>

進言である「遲謀、將後。」を絵に描いたような戦略だったわけで、結果論的に大したことはしていないと片付けられ、読み飛ばされて来たところであろう。いや、書紀の記述は継ぎ接ぎだらけで時系列など全く当てにならないとされるのかもしれない。

 

大海人皇子が桑名に辿り着いた時点での全体の配置を示してみた。大友皇子の作戦は、東國、倭京、吉備及び筑紫への使者の派遣であった。

 

倭京への経路は図に示したように思われる。詳細は後に判明する。東國への経路は、高安城の下を抜ける行程と推定される。倉山田石川大臣が謀反の嫌疑を掛けられて逃げようとした今來大槻近隣の「倭國境」を通る。

 

使者は「將及不破」と記されることから図に示した辺りで一部は捉えられ、また退却している。「和蹔」は後に登場するが、この地に大海人皇子側の先遣隊が駐留して場所で、これに挟まれた状況だったであろう。

 

吉備、筑紫は何度も登場であり、図に示した場所である(吉備は紙面の都合上割愛;下関市吉見)。ここには、間違いなく海路で進んだものと思われる。「筑紫大宰」の頑とした抵抗にあって敢無く帰還するのだが、あらためて地図を眺めると、極めて重要なことに気付かされる。

 

「筑紫」と「桑名」の距離である。直線距離で3km強に過ぎない。「桑名」で大海人皇子が留まったのは、中臣金連大臣の動向か、と前記で述べたが、もっと危険な状況の確認があったのである。「筑紫大宰」の動向である。おそらく、この状況は、大宰が動かないことも含めて、想定内であろうが(勿論根回しもあって)、殺害されてしまっては、もっと危険な状況になる。

 

倭國の主力軍団を抱える頭領が動かず、この最終確認は避けては通れない有様であったと推測される。書紀は、「筑紫」の場所をあからさまにしない。読み手に委ねた記述である。故にこの状況を省略したのであろう。当然のことながら、大海人皇子は、安全確認ができた桑名を離れ、単身で不破に移動することになる。

 

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本段にも多くの初登場の人物が記載されている。詳細はこちらを参照。中でも「栗隈王之二子、三野王・武家王」の出自の場所を求めた。上記の事件の時と同じような配置になっている。書紀編者の戯れかもしれない。

 

 

 

疲労困憊に上に雷雨に打たれてやっとの思いで三重郡に辿り着き、一夜を明かした。眼前には巨大な中州が広がる地、大河を渡って先を急ぐ計画であったろう。引用は青字で示す。日本語訳は、こちらこちらなどを参照。

 

丙戌旦、於朝明郡迹太川邊、望拜天照大神。是時、益人到之奏曰「所置關者、非山部王・石川王、是大津皇子也。」便隨益人參來矣。大分君惠尺・難波吉士三綱・駒田勝忍人・山邊君安麻呂・小墾田猪手・泥部眡枳・大分君稚臣・根連金身・漆部友背之輩從之、天皇大喜。將及郡家、男依乘驛來奏曰「發美濃師三千人、得塞不破道。」於是、天皇、美雄依之務。既到郡家、先遣高市皇子於不破令監軍事、遣山背部小田・安斗連阿加布發東海軍、又遣稚櫻部臣五百瀬・土師連馬手發東山軍。是日、天皇、宿于桑名郡家、卽停以不進。

 

日が変わって六月二十六日の早朝、「朝明郡⑰」の「迹太川⑱」の川辺で「天照大神」を「望拝」したと記載している。「朝明郡」の地形と関連付けて下記で述べることにする。と、そこに伊勢鈴鹿關に遣わした「路直益人」が戻って来て、「山部王・石川王ではなく、大津皇子だ」と告げている。そしてまた、新たな者が加わったと告げている。

 

「朝明郡家⑲」に着きかけた時に、「村國雄依」が「美濃の戦士三千人で不破道を塞いだ」と言う朗報をもたらした。あからさまな「男依」をリスペクトして「雄依」としている。その時高市皇子に命じて東海郡として「山背部小田・安斗連阿加布」、東山軍として「稚櫻部臣五百瀬・土師連馬手」のように編成を行ったと記載している。天皇(大海人皇子)一行は、「桑名郡⑳」に留まり、その先には進まなかったようである。

 

さて、吉野宮を脱出した一行がその目的地に向けて最後の力を振り絞って進んだ行程である。そこに待ち受けていた運命や、如何に・・・少々講談風になって来たが・・・。

 

⑰朝明郡

 

早朝に「⑯三重郡家」を発ち、「⑱迹太川」を渡って「⑰朝明郡」に入っている。そこで川辺で「天照大神」を「望拝」したと述べている。「朝明」は、そのまま読めば「朝が明るい」であろう。これは「朝倉」に対応する表記と思われる。すると地形を教えてくれていることになる。

 

即ち、「朝倉」のように東側が山稜に囲まれて朝日が差さない地形とは真逆な東側が開けて遮る山稜がない地形である。「朝倉」は特異な地形として情報として有用であろうが、「朝明」は多くの地が有していそうな地形である。では、何故その地名に「朝明」を用いたのであろうか?…特異なことでもあるのか?…広域の図を見ると、その理由が見出せる。

 

朝明郡・迹太川・桑名郡

この地は、既に逃げて来た東谷川、紫川の大河が流れる大きな谷間の中の中州の地形を示している。南から北に向かう時、その東側はずっと山稜が存在していたわけである。

 

それがほんの一部だが、途切れ、更にまたその東側にある山系(現在名貫山山系)も途切れる場所に重なり、何と遥か彼方の周防灘まで見通せる位置関係であることが判る。

 

即ち、この地の東方が貫山山系の北麓にある尾張國・美濃國となる。巨大な中州で「朝明」の地と呼ぶに最もふさわしい地が、ここなのである。

 

湾の西岸にある地は、全て「朝明」、その一部に名付ける理由を見出すことは叶わないであろう。この地形は「望拝」と密接に関連しているのである。夜が明けるに伴って、巨大な中州の西岸にある「伊勢神宮」が光り輝く様、正に「天照大神」と、そしてこの先の武運を示す輝きと受け取ったのであろう。朝敵となり、落ち延びて行く人々、幾らかの味方が増えたとは言え、先行きの不安を消し去ってしまうほどではない。

 

そこに現れた「天照大神」の再来のような光景に身体が震えるほどの感動を覚えたに違いなかろう。書紀編者達にとっては、ヤバイ状況、がしかし、この感動をスルーするわけには行かなった、と推測される。「望拜天照大神」と記し、決して「望拝伊勢神宮」とは言わないのである。1,300年間、彼らの感動が伝わっていない、悲しい現状である。ともあれ、現在に繋がる「皇祖天照」信仰が誕生した瞬間である。

 

⑱迹太川

 

上記の「⑰朝明郡」の考察からすると「⑱迹太川」は、現在の紫川である。「⑦横河」(横切る川)とは異なり川の様相を表現していると思われる。「迹」は「跡」(アト)の異字体であり、示す意味は同じと解説されている。ならば「迹」は「川が流れた(痕)跡」とすれば、迹=川が流れた痕跡=中州と解釈される。確かに川には「足」がないから、「辶」を用いたのであろう。

 

水が連続的に流れても何らの「痕跡」も残らないが、それを「中州」で捉えた表記である。纏めると迹太川=大きく広がった中州がある川と読み解ける。当時は現在よりももっと多くの中州が形成されていたと推測される。それを知る由もないが、現在の川に見られる中州で代用させてもらった。書紀編者が迹=中州を思いついたら、「朝明横河」では勿体ないと・・・当時の紫川を表す表記として真に相応しいものであっただろう。

 

「山部王・石川王」ではなく、天皇の後から来て追い付いた「大津皇子」であったことは、後の事件の伏線であろう。先取りになるが、近江朝側の総大将の位置付け(明記されてはいないが)の王が、殺害され、また殺害した本人も一線から引き下がるという不祥事に発展する。

 

この事件の詳細は一切語られないが…おそらく資料的根拠が乏しかったのであろう…「山部王が鈴鹿に居た」と言う噂が原因ではなかろうか。大津皇子、まさかの策謀?…憶測はそこまで、ともかくも、二人の皇子は同じ道ではなく、全く異なる道を選んで近江大津宮から脱出したと伝えている。

 

⑲(朝明)郡家・⑳桑名郡家

 

本文では、言わずもがなで「朝明」が省略されている。また「家」=「宀+豕」であり、「豚の口のような山稜の端」を表している。前記の「⑯三重郡家」、「⑳桑名郡家」もおそらくそうであったと思われるが、山稜の最末端で判別が困難である。一方、「⑲朝明郡家」の地は渡渉地点から東に進んだ山麓にその地形を見出すことができる。

 

この地で「天照大神」のお陰か、朗報が届く。戦は、何はともあれ、作戦通りに進捗することが肝要である。不破道の封鎖は、拠点の防衛を含めて極めて重要な作戦だったことが読み取れる。「男依」への信頼が一気に加速した模様である。勢い付いて軍編成まで作業が進んだとのことである。

 

そして、この日の内に「⑳桑名郡家」に到着し、逃亡の行程は完結した様子である。この背後が「忌部首」の地である。伊勢神宮と外宮を結ぶ地域は、神域であろう。それを司る「忌部首」一族は「中臣」の隆盛によって伊勢神宮の祭祀の主役であった座から引き摺り降ろされてしまった。中臣(藤原)鎌足が逝ってしまっても、今や右大臣中臣金連である。そんな背景からも神域に限りなく近い桑名の地が選ばれたのかもしれない。

 

現在の桑名市の背後に員弁(イナベ)がある。関係ありそうな地名を散りばめてみても、何も伝わって来ないことが解る。後の記述に拠るが、皇后等はこの地に留まったようで、戦略拠点である「不破」へは天皇のみが出掛けたと記載されている。

 

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吉野からの脱出行程は以上の通りとなった。よく知られた「壬申の乱」それ故に従来の説がかなり頭の中に蔓延っていたことが実感された。それを払拭しながら、地形象形のルールに徹して辿り着いた結論である。実に多くの新しい発見があった。「望拜天照大神」の記述は、誰が読んでも「朝明」から「伊勢神宮」を拝むか?(直線距離で60kmを越える)…の思いも、朝日に光り輝く伊勢神宮を目に浮かべられた瞬間、天空に飛び去ったようである。事実は「伊勢神宮」を「望拝」したが、その不合理な行為を読み手に解釈させた。冴え渡った書紀編者の筆さばきであろう。

 

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本段も多くの初登場の人物が記載されている。詳細は、こちらを参照。書紀28巻には、夥しく無姓の人々が登場する。如何に無名の連中が天武天皇側に集まり、支えたかを示す記述である。それだけに出自の場所を求めることが難しくなるのだが・・・。地形象形手法による解読力、鍛えられている感じである。

 

 

 

 

 

夜中に辿り着いた隱郡⑥から、いよいよ難所の伊賀に向かうことになった。追手の出現を心配しながら、急ぐ気持ちを抑えながらの逃避行であろう。引用は青字で示す。日本語訳は、こちらこちらなどを参照。

 

將及横河有黑雲、廣十餘丈經天。時、天皇異之、則舉燭親秉式占曰「天下兩分之祥也。然朕遂得天下歟。」卽急行到伊賀郡、焚伊賀驛家。逮于伊賀中山、而當國郡司等率數百衆歸焉。會明至莿萩野、暫停駕而進食。到積殖山口、高市皇子、自鹿深越以遇之。民直大火・赤染造德足・大藏直廣隅・坂上直國麻呂・古市黑麻呂・竹田大德・膽香瓦臣安倍、從焉。越大山、至伊勢鈴鹿。爰國司守三宅連石床・介三輪君子首、及湯沐令田中臣足麻呂・高田首新家等、參遇于鈴鹿郡。則且發五百軍、塞鈴鹿山道。到川曲坂下、而日暮也。以皇后疲之暫留輿而息、然夜曀欲雨、不得淹息而進行。於是、寒之雷雨已甚、從駕者衣裳濕、以不堪寒。乃到三重郡家、焚屋一間而令熅寒者。是夜半、鈴鹿關司、遣使奏言「山部王・石川王並來歸之、故置關焉。」天皇、便使路直益人徵。

 

六月二十五日の行程である。「横河⑦」に辿り着こうとした時に大きな黒雲が空に架かっていた。それを見た大海人皇子は早速占ったら、天下が二つに分かれるが、自分が最後にそれを得る」と出たそうである。急ぎ「伊賀郡⑧」に至って、「驛家」を焼いている。進んで「伊賀中山⑨」に近付いた時、その地の郡司等数百人が従って来たと述べている。

 

夜明け頃に「莿萩野⑩」に到着、そこで休息と食事をした。「積殖山口⑪」に達した時に「高市皇子」が「鹿深」を越えて、そして「民直大火・赤染造德足・大藏直廣隅・坂上直國麻呂・古市黑麻呂・竹田大德・膽香瓦臣安倍」を従えて、合流したと述べている。

 

「大山⑫」を越え、「伊勢鈴鹿⑬」に至っている。その時「三宅連石床・三輪君子首・田中臣足麻呂・高田首新家」等が参加したようである。五百人で「鈴鹿山道⑭」塞いでいる。「川曲坂下⑮」に差し掛かった時に皇后の疲れが酷く、休息していたら日暮れになって、その上雷雨が降り寒さが厳しくなって来た。急いで「三重郡家⑯」に辿り着き、家を一軒焼いて暖を取った言う。

 

夜中に「伊勢關司」がやって来て、「山部王・石川王」がやって来たので「關」に留めていると報告があり、確認するための「路直益人」を遣わしたと記している。

 

<横河・伊賀郡・伊賀中山>

夜中に到着した「隱郡⑥」から夜を徹しての行程である。夜中に「隱郡」の、まだ夜が明けきらない内に「伊賀郡」の両「驛家」を焼き払っている、これも計画通りの行動であろう。

 

逃亡開始二日以内に主要な「驛家」を使い物にならなくするのは賢明であろう。更に、高市皇子の仲間が加わり、また地の者達の合流も頼もしく感じられたことと思われる。参加者の出自の場所は、後に纏めて述べることにする。

 

登場した⑦横河~⑯三重郡家までを求めてみよう。北九州市小倉南区高津尾、東谷川の畔から、狭い谷間を縫うように抜けると多数の川が合流する地点に出合う。東谷川に加え、紫川、合間川の合流地域となる。

 

渡渉の記述は概ね省略される記述が多いように思われるが、この段の記述は、実に正確である。吉野を出てから「津振川」で一度渡渉して以来初めて出くわす「横河」である。

 

⑦横河・⑧伊賀郡

 

合間川と紫川の合流点近く、現在の地図では紫川となるが、蛇行部の端の浅瀬を選んで渡渉したのであろう。地形的にはそれまでの凹凸の激しい山麓から少しは穏やかになった、丘陵地帯を抜けたと推測される。「横河⑦」の名称は「進行方向に対して横たわる川」であろう。通過点に対する名称として十分な表記である。

 

到着した場所は「伊賀郡⑧」、「驛家」は現在の西谷郵便局~稲荷神社の間にあったのではなかろうか。大友皇子の出自の場所である。前記で彼の母親の名前が伊賀采女宅子娘であり、大友皇子の別名が伊賀皇子と記載されていた。そしてこの地は古事記の采女の地である。正に緊張が極限に達した状況なのである。ところが、味方が増えた(同じ伊賀でも南北の違いか?)。

 

⑨伊賀中山・⑩莿萩野

 

勢い付いて更に進むと「伊賀中山⑨」と書かれている。進行方向左手に見える小高いところかと思われる。山稜沿いに進むと莿萩野⑩」に至り、休息・朝食をしたと述べている。

 

莿萩野・積殖山口・大山・伊勢鈴鹿郡(關)
莿萩野」の「莿」=「艸+刺」と分解される。幾度か出現した「刺」の地形を表していると思われる。すると山稜の上に「刺(朿)」のように小高くなったところが見出せる。

 

また、その麓が「炎」のように山稜が延びた形であることが解る。「萩」=「艸+禾+火」と分解した中の「火」が表す地形である。

 

莿萩野=山稜に[朿]と[炎]のような形がある傍の野原と読み解ける。現地名は小倉南区徳吉西である。

 

⑪積殖山口・⑫大山

 

記述は休む間もなく「積殖山口⑪」に向い、それを登って先に進んだとなっている。「積殖」とは、何だか重苦しそうな名称であるが、そのまま読めば、「積殖」=「積重なって増えた様」であろう。

 

積殖=山稜の端が延びて広がった様を表していると思われる。すると、すぐ隣の登り口を上がれば広い台地に届く。そこに「大山⑫」があると述べているのであるが、頻出の大=平らな頂の山(盛り上がった)様を表すのであって、「大きな山」ではない。

 

その通りの地形が見出せる。それを越えて谷を下れば「伊勢鈴鹿⑬」に至ると記載されている。高市皇子との合流については後に述べる。重要な「鹿深」の地名が関わる解釈である。

 

⑬伊勢鈴鹿・⑭鈴鹿山道

 

「鈴鹿」は地形象形か?…と疑いたくなるような表記であるが、実に見事なものなのである。鹿=山麓(山稜の端)として、鈴=山稜が鈴の形をしているところと解読される。栗の雄花のように長く延びた山稜の端が、丸く寄り集まって、少し開いている様を表現したのである。いやぁ、お見事である。

 

「鈴鹿山道」を塞ぐのは、図に示したように「伊賀」への出入口を塞ぐことを意味することになる。最も恐れなければならない場所との遮断を試みたわけである。「關」(鈴鹿關)があったと知らされる。「大山」を越えて「莿萩野」へ向かう道と「伊賀」へ向かう道との分岐点、それを表している。

 

⑮川曲坂下・⑯三重郡

 

更に多くの味方を増やしつつ、先に進んだのだが、疲労困憊の上に雷雨までが行く手の邪魔をしたようである。それでも何とか踏ん張って「川曲坂下」を通過、この川は、東側の大河、紫川ではなくその支流である「鈴鹿」から流れ出る川と思われる。川曲坂下=川が曲がる隅の傍らの坂の麓であろう。そして漸く「三重郡」に到着したと記している。また暖を取るために家を焼いたとか・・・。

 

「三重」は、古事記の倭建命が東方十二道への遠征後に倭國に戻る際、伊服岐能山の神に痛め付けられて、この地で「身体が三重になってしまった」と嘆かれた地である。三重=山稜の端が三つ重なったところと読み解いた。「鈴鹿」の先が「三重」、山稜が長く延びた様を如実に表現してことが解る。鈴鹿も含めて、現地名は小倉南区長尾である。

 

夜中に「伊勢關司」が伝えて来た内容は、重要である。戦闘が始まって様々なことが起きる中で、勝敗を決める出来事かと思われるが、書紀の口が、やや重い感じがするところである。まだまだ逃亡は続くが、記述に従って以下は、この段の初登場人物の紹介である。

 

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高市皇子に従って「鹿深」越えで合流した連中である。皇子の人望なのか、単に若者の血気に任せた行動なのか、はたまた大海人ー高市親子の挙動が若者の感性に訴えるものがあったのか、妄想するだけでも楽し気な・・・命懸けの行為に失礼千万ではあるが・・・。

 

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※登場人物の出自の場所は、こちらを参照。

 

 

さて、いよいよ吉野を出立である。徒手空拳とは言え、総勢にすれば、そこそこの人数になる。目立たず、速やかに美濃の不破に辿り着けるのか、神のみぞ知るであろう。引用は青字で示す。日本語訳は、こちらこちらなどを参照。

 

是日、發途入東國。事急不待駕而行之、儵遇縣犬養連大伴鞍馬。因以、御駕、乃皇后載輿從之。逮于津振川、車駕始至、便乘焉。是時元從者、草壁皇子・忍壁皇子、及舍人朴井連雄君・縣犬養連大伴・佐伯連大目・大伴連友國・稚櫻部臣五百瀬・書首根摩呂・書直智德・山背直小林・山背部小田・安斗連智德・調首淡海之類、廿有餘人・女孺十有餘人也。卽日、到菟田吾城。大伴連馬來田・黃書造大伴、從吉野宮追至。於此時、屯田司舍人土師連馬手、供從駕者食。過甘羅村、有獵者廿餘人、大伴朴本連大國爲獵者之首。則悉喚、令從駕。亦徵美濃王、乃參赴而從矣。運湯沐之米伊勢國駄五十匹、遇於菟田郡家頭。仍皆棄米、而令乘步者。到大野以日落也、山暗不能進行、則壤取當邑家籬爲燭。及夜半到隱郡、焚隱驛家、因唱邑中曰「天皇入東國、故人夫諸參赴。」然一人不肯來矣。

 

六月二十四日、「駕」も使わずに発たれたが、途中供の鞍の付いた馬に乗った。勿論皇后は輿である。「津振川」に着いた時に「車駕」が間に合ったと述べている。この時に従者が列挙されている。「草壁皇子・忍壁皇子」以下二十余名、女孺(女官)が十余人であった。「菟田吾城」に着いた時に「大伴連馬來田」等が吉野宮から追って合流している。

 

「甘羅村」を過ぎる辺りで「獵者」二十余人を従えることでき、美濃王を呼び寄せ、従わせている。「菟田郡家頭」で米を運ぶ馬の米の代わりに歩行者を乗せて急がせたものの「大野」に至った時には既に日は落ち、歩行困難になったようである。「家籬」(家の垣根)を燃やして灯りをとりつつ、夜中になって漸く「隱郡」に辿り着き、早速に「驛家」を燃やした。村中に参加を呼び掛けたが誰も従わなかったようである。

 

「驛家」は「律令制で,駅使や官人の往来,あるいは文書の伝達のため,宿舎・食糧・人馬などを供した施設。駅長が駅子(えきし)を指揮して運営した。駅亭。うまや。」と辞書に記載されている。近江朝側の情報伝達遮断である。些かの抵抗があったと推測されるが、記載されず。勿論、これは予定通りの行動であったと思われる。

 

登場人物の出自は、後で纏めて述べるとして、逃亡ルート上に記載された地名を求めてみよう。到着した順は・・・①津振川 ②菟田吾城 ③甘羅村 ④菟田郡家頭 ⑤大野 ⑥隱郡(驛家)・・・出発時刻は不明であるが、夜中に⑥に到着したと記している。

 

吉野宮~津振川~菟田吾城

吉野宮を出て、古事記の言う宇陀之穿を抜け、崖を下ることになる。相当に急傾斜の崖を九十九折れながら下ると物部朴井連の地に入る。前出の朴井連雄君の出番であったろう。

彼の出自の場所を通過すると川に出合う。これを「津振川」、現在名は東谷川と思われる。

 

①津振川

 

どんな川だと言っているのであろうか・・・「振」=「手+辰」と分解される。「辰」=「二枚貝が舌を出した様」とすると「振」=「山稜の端が二枚貝の舌のような様」と解釈する。

 

すると津振川=山稜の端が二枚貝の舌のような地が集まった川と読み解ける。要するに蛇行が連続した川の様相を象形した表現であることが解る。

 

その表現に耐え得る東谷川であろう。渡渉の場所は定かではないが、おそらく現在の架橋されている辺りではなかろうか(現地名は北九州市小倉南区市丸辺り)。川向こうの山麓を歩んだと推測される。がしかし、結構な段差を歩まねばならず、歩行困難者が多く出たものと思われる。その後の馬の確保は必然だったと推察される。

 

②菟田吾城

 

やっとの思いで辿り着いた城で一休みなのであろう。「吾」=「五+囗」と分解する。「五」の古文字は「✖」であり、「囗」(区切られた地)が交差するような様を表すと解釈した。前出の譯語田宮御宇天皇(敏達天皇)に含まれる文字である。「言」がないので吾=山稜が交差するするようなところと読み解くと、図に示した場所と推定される。現地名は同区木下辺りである。

 

<菟田吾城~甘羅村~菟田郡家頭~大野~隱郡>

③甘羅村

 

この村を過ぎたところで「大伴朴本連大國」が率いる「獵者」集団が加わったと述べている。おそらく、彼らは「物部」の地を通過するショートカットをしたのであろう。現在名の井手浦川が合流する場所と思われる。「獵者」の集団も吉野での狩猟を生業としていたのであろう。

 

既出の「甘」=「動物の舌」を象った文字であり、地形象形的には甘=谷間で舌のような平らな地を覗かせる様と読み解いた。甘檮岡などで使われていた。羅=連なる様であり、「甘」の地が連なっているところを表している。現地名は同区新道寺である。

 

④菟田郡家頭

 

菟田郡の屯倉故に米を運ぶ馬がいたのであろう。米ではなく、馬が必要であった。この屯倉の場所は、勿論記載されている。「家」=「宀+豕」と分解され、「頭」と合わせて家頭=山稜に囲まれた豚の頭のようなところと紐解ける。

 

甘羅村からほんの少し北に向かった場所の左側に見える麓の光景であろう。五十人以上に膨らんだ一団、既に目立ち始めていたのではなかろうか。訊ねて来る連中はいなかったとは思うが、聞かれたら、ひょっとすると”お伊勢参り”とでも答えたのかもしれない。

 

⑤大野

 

山道に慣れて来たかと思うと、既に日没になったようである。道の段差も幾分少ないようではあるが、暗くては如何ともし難かったと思われる。遠慮なく家垣を松明替わりにしたのであるが、これもほぼ想定内の行動であったと思われる。生木を燃やすわけには行かない筈である。現地名は同区石原町である。

 

隱郡(驛家)

 

ここまで殆ど苦労なく追跡して来たが、ハタと止まった感じである。取り敢えず「隱」=「阝+㥯」と分解され、更に「㥯」=「爪+工+⺕+心」に分解される。「下向きの手(爪)と上向きの手()を合せた(工)の中心」と読め、これが「隠(カク)す」の意味をもたらすと解説されている。そのままではこれが示す地形は洞窟になってしまう。勿論立派に隠すことになるのだが・・・。

 

そんな時に通説は如何に納得しようとしているのかを見てみると、現地名の「名張」に宛てるのであるが、「隠」は・・・四方を囲まれていることを意味するが、どう見ても名張の地形ではない、がしかし、より広くみると山稜に囲まれているから、良しとしよう・・・のような解釈があった。これが重要なヒントを提供してくれたのである。上下で挟むのではなく、高い位置で四方が囲まれている場所ならば上下で挟まれた時と同様の”隠し効果”が生じる。

 

図に示した通り、尾根に四方を囲まれた地が見出せる。特異な山稜であるが、尾根に盆地が存在するのである。その谷間の麓に「驛家」があったと推定される。現地名は同区高津尾、現代風に読み解くと「高いところが集まった尾根」とでもなろうか。時間を掛けただけのことはあった、確度の高い場所となったようである。

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登場人物の出自の場所は、こちらを参照。

 

 

出家した大海人皇子は吉野でのんびりと余生を送ろうと思っていたが、近江朝、即ち大友皇子側が仕掛けて来た、と記載された。一ヶ月前後の期間を空けて具体的な行動に移る。時は「壬申」(672年)である。原文引用は青字で示す。日本語訳は、こちらこちらなどを参照。

 

六月辛酉朔壬午、詔村國連男依・和珥部臣君手・身毛君廣、曰「今聞、近江朝庭之臣等、爲朕謀害。是以、汝等三人、急往美濃國・告安八磨郡湯沐令多臣品治・宣示機要而先發當郡兵、仍經國司等・差發諸軍・急塞不破道。朕今發路。」

 

622日になって、三名「村國連男依・和珥部臣君手・身毛君廣」に具体的な指示を出された。美濃國に向い、「安八磨郡湯沐令多臣品治」に近江朝廷の「謀害」のことを告げ、兵を起こして「不破道」を急ぎ塞ぐようにせよ、と仰った。美濃國に拠点を構え、近江朝との決戦を行う、最初の具体的な命令である。

 

「湯沐令」とは、中国の古代からある「湯沐邑」の名称を使って、皇族の領地を表したものとある。それを独自に、しかも短期間のみ設置されたもののようである。大海人皇子の食い扶持を提供する地とでも受け取っておこう。勿論、いざっという時の軍事用兵糧確保(財源)であろう。

 

美濃國安八磨郡・不破道

 

ここで登場する地名が美濃國安八磨郡と不破道の二つである。美濃國不破郡・片縣郡は既に求めたところ、現地名の北九州市小倉南区朽網辺りと推定した。百濟の鬼室福信が連れて来た唐の捕虜を住まわせた地である。両郡との間の凹んだ場所が不破道であろう。

 

<美濃國安八磨郡・不破道>

当時は海に突出た半島のような地形であって、ここを塞げば陸路の東西往来を遮断できる、格好の場所であったと推定される。兵糧(財源)を守るためにも、死守すべき「道」であったと思われる。

 

後に不破の「野上」を拠点とする。図に示した現在の朽網小学校辺りと推定されるが、「近江大津宮」に対する「不破宮」と位置付けられる。

 

これらの戦略拠点の意義付けを含めて、最初に取り掛かった軍事行動だったと思われる。「安八磨郡」の安=山稜に囲まれた嫋やかに曲がる谷間と読み解いた。この谷間の出口から八=大きく広がった地形となる。更にこの広がった谷間の出口は、真ん中が少々窪んだ地形、図でも「八」の真ん中の標高が低くなっていることが伺える。その地形を磨=臼のような様と表現したと思われる。

 

安八磨郡=山麓に囲まれて嫋やかに曲がる谷間(安)が広がった(八)場所が臼のように窪んだ(磨)郡と読み解ける。現地名は北九州市小倉南区貫である。この谷間は現在も多くの棚田が作られていて、標高250m辺りまで広がる棚田が作られている。

 

◉ 多臣品治

 

「多臣」だから出雲系と片付けてしまっては勿体ないであろう。頻出の多=山稜の端の三角州品=段差のある麓治=治水された様と読み解いて来た。それらを纏めると、上図の「安」の谷間の中腹、貫川と上貫川の合流点付近の地形を表していることが解る。

 

「湯沐」も上記の解説だけでは、真に勿体ない、であろう。頻出の湯=飛び散る水が流れる谷間でとした。繰り返すが、「お湯、温泉」ではない。「沐」=「髪を洗う、恵みをうける」の意味があると解説されている。すると、湯沐=水が飛び散る谷間の恵みを受けるところと読み解ける。

余談だが、「多臣品治」の子に「太安萬侶」(古事記編者)がいた。父親の少し下流に太=平らな頂の麓(大+・=中腹の小高い山稜)、萬=蠍の地形侶=人+呂=谷間で積み重なった様である。これらの地形象形の要素満たす場所が、容易に見出せる。親子であるが、「多」と「太」(共に[オオ])を使い分けて出自の場所を表す、常套手段である。書紀では「萬」が好まれるようで、天萬豐日天皇(孝德天皇)などの例がある。1979年、奈良県奈良市此瀬町の茶畑で墓所が見つかったそうである。

 

◉ 村國連男依

 

「村國連」は、勿論書紀中の初登場である。少し調べると、美濃國の出身であるが、姓(カバネ)の「連」はこの戦いの後に授けられたようである。近江朝のような錚々たる「姓」の持主ではなく、名も無き士に主力隊を任せた大海人皇子との繋がりが知りたくなるところであるが、不詳。その一端を知るためには、どうしても彼の出自の場所を求めることであろう。
 

「村」は、白村江で読み解いたように村=木+寸=山稜が手(腕)のように延びた様と読み解いた。問題は「男」の解釈なのであるが、決して「田+力」=「田を耕す人」ではない。古事記の神倭伊波禮毘古命(神武天皇)紀に登場した紀國男之水門と類似の解釈と思われる。すると図に示したように逞しい「男」が見出せる。

 

男依=[男]に寄り添うところである。別名に「小依」があると知られている。「男」の真ん中辺りにある三角形の小山の麓が出自の場所と推定される。安八磨郡の片隅で、全幅の信頼ができる「品治」、秀でた軍事能力の持主「男依」であることを大海人皇子は熟知していたのではなかろうか。

 

<和珥部臣君手>

◉ 和珥部臣君手

 

「和珥」は、本ブログでは初登場であるが、書紀中の神武天皇紀以降、頻出である。古事記で言う「丸邇」に当たり、時代と共に、その勢力範囲の拡大に伴って、「宇遲」と表記される。邇藝速日命一族から派生した氏族と読んで来た。

 

それを書紀では「和珥」と表記する。図に示したように「珥」=「玉+耳」と分解され、珥=

耳にくっ付いた玉がある様と読み解ける。

 

簡明な表記、書紀は実に”洗練された”文字使いを行っていると言える。「部」=「分けた(一部の)地」である、「手」の形をした場所を表していると思われる。

 

古事記で登場する「宇遲能和紀郎子」の場所であろう。書紀では「菟道稚郎子皇子」と記載される。この時の「菟道」は、上図の「玉」の左側の窪んだところを表していると思われる。小ぶりだが奇麗な「菟」であろう。君手=整えられた台地がある[手]のようなところであるが、詳細な居場所までは求められないようである。正に古豪の末裔と言った感じである。

 

<身毛君廣>

◉ 身毛君廣

 

「身毛」は景行天皇の御子、大碓皇子について「是身毛津君・守君、凡二族之始祖也」と記載された「身毛津君」に含まれている。「守君」は

古事記で言えば、「大碓命、娶兄比賣、生子、押黑之兄日子王。此者三野之宇泥須和氣之祖。亦娶弟比賣、生子、押黑弟日子王。此者牟宜都君等之祖」の記述に対応すると思われる(こちらを参照)。書紀は「始祖」として簡略化している。

身=弓なりにふっくらとした様毛=鱗のような様と読み解いて来た。即ち、身毛=ふっくらとした鱗のようなところと読み解ける。

本題の「身毛君廣」には「津」が含まれておらず、かつ「廣」が付加されている。即ち、「宜」もしくは「毛」が寄り集まったところではなく、大きく広がった地がある「毛」の麓が出自の場所であることを表している。日本の耕地は、山の谷間から海辺へ、である。併記した「和蹔」は後に登場する地名である。古事記では、ここは「三野」と述べていた。

 

甲申、將入東時、有一臣奏曰「近江群臣元有謀心、必害天下、則道路難通。何無一人兵徒手入東。臣恐、事不就矣。」天皇從之、思欲返召男依等。卽遣大分君惠尺・黃書造大伴・逢臣志摩、于留守司高坂王而令乞驛鈴。因以、謂惠尺等曰「若不得鈴、廼志摩還而覆奏。惠尺、馳之往於近江、喚高市皇子・大津皇子逢於伊勢。」既而惠尺等至留守司、舉東宮之命乞驛鈴於高坂王。然不聽矣、時惠尺往近江。志摩乃還之復奏曰「不得鈴也。」

 

624日に臣下の情報によると既に道路を塞がれ、一兵卒もない、正に徒手空拳の状態では事は成遂げられないと悟り、「男依」等を呼び寄せようと思ったが、先ずは「驛鈴」が使えなくなっているかを確認し、そうならば子供達に連絡を取って、逃亡させようとした。危機状態の最終確認であり、同時に行動開始である。この辺りの指示が極めて簡潔明瞭である。軍事行動上、大切なことであろう。

 

ここで二人の皇子が登場する。高市皇子と大津皇子である。彼等の出自を整理しておこう。

 

<高市皇子・縣主許梅・高市社・身狹社・金綱井>

◉ 高市皇子

 

「高市」の登場は古く、天照大御神と速須佐之男命の宇氣比で誕生した天津日子根命が祖となった地、「高市縣」で出現する。

 

高=皺が寄ったような山稜が延びる様であり、市=寄り集まる様である。皺が寄り集まったような地形を表している。

「高」=「高い」としては、記紀は読み下せないのである。「大」=「大きい」と読んでは意味不明になるのと同様である。場所は図に示した山稜の端でぐちゃって山稜が寄り集まっているところである。現地名は田川郡香春町鏡山である。

後に登場する「高市縣主許梅」、「高市社」、「金綱井」及び「身狹社」の場所を併せて示した。詳細は、その時に述べるが、古事記の大帶日子淤斯呂和氣命(景行天皇)が坐した地に様々な「社」が建てられていたことが解る。

「高市皇子」の母親は、胸形(現在の宗像市)と伝えている。この地も実に古から「記紀」に登場する地であるが、決して天皇家との積極的な関わりを持たなかったのであろう。或る意味不思議な存在感のある地と思われる。

 

<胸形君德善・尼子娘>

胸形君德善・尼子娘

 

「胸形君德善女尼子娘」と記載されているのを頼りに母親の出自を求めてみよう。母親の父親に含まれる「善」は「記紀」を通じて同じように解釈できることを既に述べた。 

「善」=「誩+羊」と分解される。「言」=「耕地された地」であり、誩=耕地にされた地が並んでいる様と読み解いた。頻出の羊=谷間である。要するに、谷間に二筋の棚田並んでいるところを表している。

 

德=真っすぐな様を表すと読み解いた。通常も真っ直ぐな心に德が宿るのであろう。多くの山稜が釣川に向かって並んでいる地であるが、「真っ直ぐな山稜」は意外と少なく、一に特定される。現地名は宗像市吉留の松丸辺りである。「尼子」は「尼」=「尸+ヒ」と分解され、背中合わせの近付いては離れて行く様を表す文字である。そんな地形が、山稜の端で見出せる。宗像の東南の隅に当たる。

后の財力がものを言う時代ではなくなったであろうが、ことが生じた場合にはきっと大きな助けとなったであろう。残念ながら書紀の記述では露わにされることはないようである。

◉ 大津皇子

天智天皇の大田皇女に生ませた御子である。姉が大伯皇女である。この二人の名前は斉明天皇が「娜大津」から「大伯海」を経て熟田津に向かう時に因んで付けられたようである。大田皇女は天武天皇の即位前に亡くなられた。皇子五歳の時と知られる。世が世ならば皇后の子となり、その後の人生も変わっていたかもしれない。

 

<大分君惠尺・大分君稚臣>

◉ 大分君惠尺・大分君稚臣

 

「大分」は大分県ではなく、古事記の神倭伊波禮毘古命(神武天皇)の御子、神八井耳命が祖となった地である(詳細はこちら)。更に古くは、速須佐之男命が娶った櫛名田比賣の出自の場所である。大変古い土地柄なのである。現地名は北九州市門司区奥田である。

 

「惠」=「叀+心」と分解される。「叀」=「糸を巻き取る装置」を象った文字と知られる。「周辺から中心に向かって丸く抱え込む様」と解説されている。地形象形的には、惠=山稜に取り囲まれた中に小高いところがある様と読み解ける。

 

「櫛」のような二つの山稜に取り囲まれた地形を示していることが解る。更に尺=親指とたの指とを拡げた様(長さの計測)であり、谷間に中で更に山稜が二股に岐れているところを示している。即ち、これらの地形が集まったところがこの君の出自と推定される。

 

「乱」の最後に登場する「稚臣」に含まれる、幾度となく出現する「稚」=「禾+隹」と分解して、稚=山稜が鳥の形を表すところであろう。谷奥の突き当りにその姿を伺うことができそうである。「臣」が付けられているのは、現在の淡島神社ではなく、その西麓の谷間が出自の場所だったと思われる。彼らが如何様に大海人皇子に関わっていたのかは不詳だが、この二人は最初と最後に活躍されたようである。

 

◉ 黃書造大伴

 

既に登場した「黃書造本實」に併記したこちらを参照。黃=平たく広がった様、幾度か登場の書=聿+者=山稜が交差するように集まった様と読み解いた。その交差する山稜が谷間でくっきりと区切られた(大伴)ところを表していると思われる。現地名は京都郡みやこ町犀川大村である。垂仁天皇紀ぐらいまでは多くの御子達が誕生した地である。その後に入植した人々の中にいたのかもしれない。

 

<逢臣志摩・安斗連智德-阿加布>

◉ 逢臣志摩

 

「逢臣」については、極めて情報が少なく、かなりの豪族だったようだが、その素性は殆ど知られていないようである。書紀を検索すると、「逢臣讚岐」の名前が出現する。

 

欽明天皇紀の逸話のようなところで、馬飼何某(大伴連馬飼に関連)も併せて登場する。するとその近隣の地が出自の場所と推測して、「讚岐」の地形を探すと、棚田が奇麗に先で岐れた地が見出せる。

 

これがヒントになって「逢」の意味が読み解けた。「逢」=「辶+夆」と分解される。「夆」は「峰」、「縫」などに含まれる文字で「寄せて合わさり盛り上がった様」を表すと解説されている。

 

久々に出逢った見事な地形象形表記である。古事記では多米、隋書俀國伝では哥多毗と表記された場所である。文字使いとして書紀の完成度は極めて高い、と言わざるを得ないであろう。いやぁ、実に面白い。

 

「志摩」は、その北側の小ぶりな谷間、そこに地図に記載される川が幾本も流れているのが確認される。志摩=蛇行する川が近接しているところと読める。「大伴」の狭い谷間から溢れんばかりに人材が輩出し、それに伴って地域を拡大、古豪は押し流されんばかりの状況にあったのかもしれない。何かを求めて古豪の末裔は”謀反”に加担した、のではなかろうか。溢れた人々であろうか、「安斗連」は登場した時に述べることにする。

 

◉ 高坂王

 

調べるとこの王は敏達天皇の御子、難波皇子の子と記載されている。前出の栗前(隈)王と兄弟だったのかもしれない(栗前王に併記)。現地名は田川郡赤村赤の浦山辺りが出自の場所と推定される。倭京の「留守司」を命じられていたが、やる気満々の相手をするには、些か荷が重かったようである。

 

「惠尺」の連絡を受けた高市皇子・大津皇子の逃亡が始まる。その詳細は語られないが、前者は「鹿深」を越えて、後者は父親の後を追って、約束通り、「伊勢」で落ち合う。さて、如何なることになるのか・・・。

 

 

 

天皇のプロフィールから始まるのであるが、一部既に天武天皇が即位した年として記載されたり、ややこしい記述となっている。また、本紀は、ほぼ後に言われる「壬申の乱」の詳細であり、多くの地(人)名が登場する。錯綜とした内容となっており、極めて難解な文章と言われている。加えて、記述内容が同時代的であって、世に言う、恣意的な書換えが行われているようでもあるが、果たしてどうであろうか・・・。
 
古事記から始まった”地形象形表記”(Blogger参照)としての解釈が通用するのか、通説の数多ある不明、不詳の記述を納得の記述に変え得るのか、いよいよ正念場、”瀬田橋の戦い”に突入である。原文引用は青字で示す。日本語訳は、こちらこちらなどを参照。
 
天渟中(渟中此云農難)原瀛眞人天皇、天命開別天皇同母弟也。幼曰大海人皇子。生而有岐㠜之姿、及壯雄拔神武、能天文遁甲。納天命開別天皇女菟野皇女、爲正妃。天命開別天皇元年、立爲東宮。

(渟中此云農難)が開示されている。幼名が「大海人皇子」であり、「岐㠜」(たかくさとい:幼にして秀でぬきんでる)の意味だそうで、古事記で「賢帝」と解釈した垂仁天皇にも用いられている。「道教神仙思想」に基づく命名と言われているようである。勿論、お構いなく地形象形表記として紐解くことにする。
 
天渟中原瀛眞人天皇・菟野正妃
 
「壯雄拔神武」は「壮年になっては雄々しく卓抜し、人間離れした武勇」の意味であろうが、後に明らかとなるが、神倭伊波禮毘古命(神武天皇)の倭国侵攻の戦略である「日を背にして向かう」を採用する。それに重ねた表記であろう。「神武を抜く雄々しさ」と読めるかもしれない。
 
<天渟中(農難)原瀛眞人天皇>
正妃「菟野皇女」は天智天皇の次女、「鸕野皇女(娑羅々皇女)」の別称である。他に「讚良皇女」とも言われる。纏めて読み解くことにする。
 

「天渟中原瀛眞人天皇」の文字を一文字一文字読み取いてみよう。既出の「天」=「阿麻」(擦り潰されたような台地)、「渟」=「氵+亭」(「水が止まる様)、「眞」(一杯に満ちている様)、「人」(谷間)などは、そのまま使うとしよう。

 
それにしても「瀛」、なんとも凄い文字を使ったものである。通常これで「大海」を表すそうであるが、幼名「大海人皇子」から拝借したように受け取れる。
 
この「海」も所謂「ウミ」とは読まないが、何と解釈できるであろうか?・・・「瀛」=「氵+亡+囗+月+女+凡」と分解される。参考文献が見つからず、筆者の独断であるが・・・。
 
すると既出の地形要素を示す文字から成り立っていることが解る。そのまま読み下して行くと、瀛=水が地を覆う場所で嫋やかに曲がる台形の山稜の端の三角州がある様となり、瀛眞人=[瀛]が一杯に満たす谷間に展開し、最後に天渟中原瀛眞人天皇=[阿麻]の地で[渟]の真ん中突き通す野原があって[瀛]に満ちている谷間に坐す天皇となる。現地名は福岡県田川郡香春町長畑辺りである(以後福岡県は省略)。飛鳥淸原大原(記)、飛鳥淨御原宮(紀)の場所を示している。
 
「渟中」=「農難(ノナ、ヌナ)」と訓されている。幾度か登場の、例えば信濃美濃など、「農」=「臼+囟+辰」と分解される。「貝殻を使って地を柔らかくする様」を表すとのことであるが、地形象形的には「農」=「二枚貝が舌を柔らかく伸ばしたような様」と読み解いた。すると農難=二枚貝が舌を柔らかく大きく曲げて(難)伸ばしたようなところと読み解ける。
 
<菟野皇女(讚良皇女)>
「渟中此云農難」としながら、補足の表記であろう。「道教神仙思想」に拠る命名とか、「渟中原」を「渟・中原」と区切って、「中原を統治する」かのような解釈がなされている。これはあり得ない。「渟中・原」の注記を無視しては・・・これが罷り通っているから不思議である。
 
「鸕野皇女(娑羅々皇女)」は既に読み解いた「鸕」が示す地形は、微妙である。当時でも判別が難しかったのかもしれないし、字画が多いのも別表現が好まれた理由かもしれない。
 
「菟野皇女」の「菟」も書紀で多用される。古事記の「菟(ト)」(大斗の「斗」に重ねる)の使用を徹底的に排除された様相である。繰返しになるが「菟」=「艸+免」と分解され、菟=山稜に囲まれた谷間が[分娩]の様のようなところを表すと読み解いた。それなりにあからさまな表記である。
 
父親である中大兄皇太子の谷間の出口、多くの御子に囲まれた場所である(詳細はこちら、但し伊賀采女などの御子、大友皇子等は別途)。すぐ東隣が建皇子、その東が大田皇女(天武天皇との間に大伯皇女、大津皇子を生むが、早くに亡くなられた)の出自の場所となる。
 
「讚良皇女」の「讚」は讚岐國に使われた文字である。「讚」=「言+贊」と分解し、「言」=「辛+囗」=「刃物で耕地にされた地」、「贊」=「山稜の端が並んでいる様」として、讚岐=耕地にされた地が谷間の端で岐れて並んでいるところと読み解いた。図に示したように山稜の端がくっ付く様に集まっている様を表している。その場所が良=なだらか様と伝えている。
 
古事記も書紀も一文字一文字に込められた内容は”濃厚”である。それを漢字の成立ちに遡って考察しない限り、記紀編者の伝えんとするところは、全く見えて来ない。巷で人気のようである「白川漢字学」では全くあらぬ方に向かうことになるであろう。
 

四年冬十月庚辰、天皇、臥病以痛之甚矣。於是、遣蘇賀臣安麻侶、召東宮引入大殿。時安摩侶、素東宮所好、密顧東宮曰、有意而言矣。東宮、於茲疑有隱謀而愼之。天皇勅東宮授鴻業、乃辭讓之曰「臣之不幸元有多病、何能保社稷。願陛下舉天下附皇后、仍立大友皇子宜爲儲君。臣今日出家、爲陛下欲修功德。」天皇聽之。卽日出家法服。因以、收私兵器悉納於司。

 
「天智天皇即位四年」だが、天智天皇紀では即位十年に(671年)当たる。中大兄皇太子の称制が長く、どこからを即位とするかで異なってくるようである。また本段(1017日)の記述は天智紀に記載された内容を若干補足している。そこには登場しなかった「蘇賀臣安麻侶」が天皇に会われるならご注意を!と耳打ちしたようである。大海人皇子は固辞して、出家となっている。「兵器」も返上したと付け加えられている。
 
「蘇賀」と記載されているが、これに注目されて、いや、しない方が「記紀」を読み解いていないことになるのだが、本紀の編者達にも、既に「蘇我」の威光(?)が影を薄くしつつあったことを物語っているように感じられる。古事記の蘇賀石河宿禰から始まった蘇賀の地に一族が広がって行った経緯を纏めたこちらを参照。「蘇賀」は現在の京都郡苅田町の大きな谷間全体を示し、「蘇我」はその東側の、現地名では稲光・葛川辺りを示す表記と思われる。「蘇我」は「蘇賀」の一支族だった わけである。
 
◉ 蘇賀安麻侶
 
蘇賀臣安麻侶
「蘇賀臣安麻侶」は「蘇我(賀)連大臣」(倉山田石川大臣:乙巳の変の立役者と兄弟)の子で、歴とした「蘇賀」の一員である。
 
安=宀+女=山稜に囲まれた嫋やかに曲がる谷間と読む。すると「連」(繋がり延びた山稜)の西側の谷間の出口辺りにある凹凸のない(麻)積重なった(侶)場所が見出せる。
 
祖父である「蘇我倉麻呂」は「蘇我馬子」の子であり、「蘇我蝦夷」とは兄弟、競争に負けて西に飛ばされたのかもしれない。豊かになった故に「蘇賀」の東西における確執を引き摺っているようである。
 

壬午、入吉野宮。時、左大臣蘇賀赤兄臣・右大臣中臣金連及大納言蘇賀果安臣等、送之、自菟道返焉。或曰、虎着翼放之。是夕、御嶋宮。

癸未、至吉野而居之。是時、聚諸舍人謂之曰「我今入道修行、故隨欲修道者留之。若仕欲成名者、還仕於司。」然无退者。更聚舍人而詔如前。是以、舍人等半留半退。十二月、天命開別天皇崩。

 
1019日、天智天皇に出家すると告げた二日後、いよいよ出立し、吉野に入る記述である。20日には舎人達を集めて、去る者は追わず、と仰っているわけだから、17日近江大津宮から吉野までの移動日数は、僅か二日強と書かれている。通説(奈良大和中心)では、とても不可能な距離を移動することになるので、なんとも”難解”な文章になっている。勿論、間違いの多い書紀のことだから、日にちを・・・矛盾なしであろうか・・・。
 
本著が”難解”と述べているのは、日にちのことではなく、「入吉野宮。時、左大臣蘇賀赤兄臣・右大臣中臣金連及大納言蘇賀果安臣等、送之、自菟道返焉」の記述である。即ち、大海人皇子が大津宮から退去した後、吉野に入るまでに、「菟道」と「嶋宮」の二つの場所を経由しているが、どちらが先なのか、大津宮との距離である。登場順では「菟道」が先となる。だが、その行為の時系列は曖昧である。
 
近江大津宮・菟道・嶋宮・吉野
 
これら四つの場所は既に求めており、詳細は各リンクの地図を参照願うとして、現地名を挙げると・・・、
 
近江大津宮:行橋市天生田(天智天皇紀)
菟道:北九州市小倉南区呼野(天智天皇紀、固有の地名ではない、「菟」は菟野正妃と同様)
嶋宮:田川市糒(欽明天皇:磯城嶋宮、古事記では師木嶋大宮)
吉野:北九州市小倉南区平尾台(神武天皇紀)
 
・・・である。これらの拠点を念頭に置いて「壬申の乱」が如何に戦われたかを読み解くことにする。いずれにせよ、舎人達の半数が去った後の静かな日々が流れようとしていたのであろう。
 

元年春三月壬辰朔己酉、遣內小七位阿曇連稻敷於筑紫、告天皇喪於郭務悰等。於是、郭務悰等、咸着喪服三遍舉哀、向東稽首。壬子、郭務悰等、再拜進書函與信物。

夏五月辛卯朔壬寅、以甲冑弓矢賜郭務悰等。是日賜郭務悰等物、總合絁一千六百七十三匹・布二千八百五十二端・綿六百六十六斤。戊午、高麗遣前部富加抃等進調。庚申、郭務悰等罷歸。

 

元年?…気が早い、と言うか、完全なるフライングであろう。クーデターを起こして政権奪取した年に間違いないのだが・・・それは無視して672年三月の出来事である。筑紫に「小七位阿曇連稻敷」を遣わして、天智天皇の喪を郭務悰等に知らせたら、「東」に向いて額づいたと述べている。勿論、大海人皇子が命じる立場ではない。

 

劉德高・郭務悰等は、既に大閲菟道」を経て「飛鳥」に入った。その時に、彼らの関心事である天智天皇の宮は、”ずっと”「東」にあると聞かされたことであろう。故に、「東」に向いたのである。「奈良飛鳥」なら”ずっとずっと”「北」にあると知らされた筈である。

 

全てを省略して記述すれば、都合よく収まった、あまり都合好過ぎて、記載したのは良いが、「小七位」は、これまたフライングである。この時期、この冠位は存在しない。要するに、この段は信用しないでくれ、と告げているようである。阿曇連稻敷の出自の場所についてはこちらを参照。

 

度々登場の「郭務悰」については、また、別の機会に纏めて述べようかと思うので、ここでは省略する。上記したように彼の倭國における滞在場所は極めて重要である。(筑紫大宰筑紫都督府の場所は、各リンクを参照)。

 

是月、朴井連雄君、奏天皇曰「臣、以有私事、獨至美濃。時、朝庭宣美濃・尾張兩國司曰、爲造山陵、豫差定人夫。則人別令執兵。臣以爲、非爲山陵必有事矣、若不早避當有危歟。」或有人奏曰「自近江京至于倭京、處々置候。亦命菟道守橋者、遮皇大弟宮舍人運私粮事。」天皇惡之、因令問察、以知事已實。於是詔曰「朕、所以讓位遁世者、獨治病全身永終百年。然今不獲已應承禍、何默亡身耶。」

 

同じく五月のこと、「朴井連雄君」が天皇(フライング表記)に、偶々私用で美濃、尾張に出向いたら、朝廷が天智天皇の陵を造ると称して人を集め、兵器を与えているとの噂を聞き、これは一大事になるかと思う、と告げて来た。また、近江京から倭京に間に監視役を置いたり、皇大弟宮(これが真面な表記)の舎人が菟道で食料を運ぶのを止められているとも告げられた。そこで、皇大弟宮が漸くにして立ち上がった、と記述されている。

 

朴井連雄君

◉ 朴井連雄君

 

省略されているが、「物部」の「朴井一族」である。吉野から「宇陀之穿」を抜けて、崖下に降りたところと推定した場所である。

 

出家中の皇大弟宮のご機嫌伺いを兼ねて伺っただけでは、ご登場の役割は果たせないようで、実は吉野宮から脱出は、彼の出自の場所を通過、と言うか、彼の先導で険しい崖を下ったと思われる。

 

「朴井」の北西端の山稜が「鳥」、しかも尾の長い「雄」の地形を示している。山麓の小高いところに居たのであろう。この地の少し南側が「菟道」である。皇大弟宮の舎人達が日常の生活を営むためには通行せざるを得ない道筋に当たる場所と思われる。最後に、なかなかに興味深い地名が登場するので、「菟道守橋」を求めてみよう。

 

<菟道守橋>

◉ 菟道守橋

 

上記の「菟道」の近隣であろう。守=宀+寸=山稜に囲まれて蛇行する川があろところと読み解いた。道=辶+首=首根っこの様である地の山稜に囲まれたところを表している。

 

勿論、その谷間に蛇行する川が流れているのを確認することができる。続く「橋」の文字解釈が面白いのである。「橋」=「木+夭+高」と分解される。橋=山稜の端が高く曲がっている様を表す文字である。

 

通常の「橋」は高く曲がる様を垂直方向に見るわけで、錦帯橋のイメージである。地形象形的には、水平方向に見た橋と言うことになる。これが天浮橋の地形を表している。地図が見えたので、ついでながら、この「守橋」の西側が「名張」(山稜の端の三角州が張り出しているところ)である。「宇治」に隣接する「名張」とは、記紀編者達の生真面目さが伺える配置であろう。

 

さて、いよいよ壬申の乱へと物語は進んで行く・・・。