壬申の乱 (二) [日本書紀 巻廿八] | 矛・盾 の e-Note (清範 剛)

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徒然なる備忘録・・・Bloggerから、少し気分転換でAmebaに・・・

出家した大海人皇子は吉野でのんびりと余生を送ろうと思っていたが、近江朝、即ち大友皇子側が仕掛けて来た、と記載された。一ヶ月前後の期間を空けて具体的な行動に移る。時は「壬申」(672年)である。原文引用は青字で示す。日本語訳は、こちらこちらなどを参照。

 

六月辛酉朔壬午、詔村國連男依・和珥部臣君手・身毛君廣、曰「今聞、近江朝庭之臣等、爲朕謀害。是以、汝等三人、急往美濃國・告安八磨郡湯沐令多臣品治・宣示機要而先發當郡兵、仍經國司等・差發諸軍・急塞不破道。朕今發路。」

 

622日になって、三名「村國連男依・和珥部臣君手・身毛君廣」に具体的な指示を出された。美濃國に向い、「安八磨郡湯沐令多臣品治」に近江朝廷の「謀害」のことを告げ、兵を起こして「不破道」を急ぎ塞ぐようにせよ、と仰った。美濃國に拠点を構え、近江朝との決戦を行う、最初の具体的な命令である。

 

「湯沐令」とは、中国の古代からある「湯沐邑」の名称を使って、皇族の領地を表したものとある。それを独自に、しかも短期間のみ設置されたもののようである。大海人皇子の食い扶持を提供する地とでも受け取っておこう。勿論、いざっという時の軍事用兵糧確保(財源)であろう。

 

美濃國安八磨郡・不破道

 

ここで登場する地名が美濃國安八磨郡と不破道の二つである。美濃國不破郡・片縣郡は既に求めたところ、現地名の北九州市小倉南区朽網辺りと推定した。百濟の鬼室福信が連れて来た唐の捕虜を住まわせた地である。両郡との間の凹んだ場所が不破道であろう。

 

<美濃國安八磨郡・不破道>

当時は海に突出た半島のような地形であって、ここを塞げば陸路の東西往来を遮断できる、格好の場所であったと推定される。兵糧(財源)を守るためにも、死守すべき「道」であったと思われる。

 

後に不破の「野上」を拠点とする。図に示した現在の朽網小学校辺りと推定されるが、「近江大津宮」に対する「不破宮」と位置付けられる。

 

これらの戦略拠点の意義付けを含めて、最初に取り掛かった軍事行動だったと思われる。「安八磨郡」の安=山稜に囲まれた嫋やかに曲がる谷間と読み解いた。この谷間の出口から八=大きく広がった地形となる。更にこの広がった谷間の出口は、真ん中が少々窪んだ地形、図でも「八」の真ん中の標高が低くなっていることが伺える。その地形を磨=臼のような様と表現したと思われる。

 

安八磨郡=山麓に囲まれて嫋やかに曲がる谷間(安)が広がった(八)場所が臼のように窪んだ(磨)郡と読み解ける。現地名は北九州市小倉南区貫である。この谷間は現在も多くの棚田が作られていて、標高250m辺りまで広がる棚田が作られている。

 

◉ 多臣品治

 

「多臣」だから出雲系と片付けてしまっては勿体ないであろう。頻出の多=山稜の端の三角州品=段差のある麓治=治水された様と読み解いて来た。それらを纏めると、上図の「安」の谷間の中腹、貫川と上貫川の合流点付近の地形を表していることが解る。

 

「湯沐」も上記の解説だけでは、真に勿体ない、であろう。頻出の湯=飛び散る水が流れる谷間でとした。繰り返すが、「お湯、温泉」ではない。「沐」=「髪を洗う、恵みをうける」の意味があると解説されている。すると、湯沐=水が飛び散る谷間の恵みを受けるところと読み解ける。

余談だが、「多臣品治」の子に「太安萬侶」(古事記編者)がいた。父親の少し下流に太=平らな頂の麓(大+・=中腹の小高い山稜)、萬=蠍の地形侶=人+呂=谷間で積み重なった様である。これらの地形象形の要素満たす場所が、容易に見出せる。親子であるが、「多」と「太」(共に[オオ])を使い分けて出自の場所を表す、常套手段である。書紀では「萬」が好まれるようで、天萬豐日天皇(孝德天皇)などの例がある。1979年、奈良県奈良市此瀬町の茶畑で墓所が見つかったそうである。

 

◉ 村國連男依

 

「村國連」は、勿論書紀中の初登場である。少し調べると、美濃國の出身であるが、姓(カバネ)の「連」はこの戦いの後に授けられたようである。近江朝のような錚々たる「姓」の持主ではなく、名も無き士に主力隊を任せた大海人皇子との繋がりが知りたくなるところであるが、不詳。その一端を知るためには、どうしても彼の出自の場所を求めることであろう。
 

「村」は、白村江で読み解いたように村=木+寸=山稜が手(腕)のように延びた様と読み解いた。問題は「男」の解釈なのであるが、決して「田+力」=「田を耕す人」ではない。古事記の神倭伊波禮毘古命(神武天皇)紀に登場した紀國男之水門と類似の解釈と思われる。すると図に示したように逞しい「男」が見出せる。

 

男依=[男]に寄り添うところである。別名に「小依」があると知られている。「男」の真ん中辺りにある三角形の小山の麓が出自の場所と推定される。安八磨郡の片隅で、全幅の信頼ができる「品治」、秀でた軍事能力の持主「男依」であることを大海人皇子は熟知していたのではなかろうか。

 

<和珥部臣君手>

◉ 和珥部臣君手

 

「和珥」は、本ブログでは初登場であるが、書紀中の神武天皇紀以降、頻出である。古事記で言う「丸邇」に当たり、時代と共に、その勢力範囲の拡大に伴って、「宇遲」と表記される。邇藝速日命一族から派生した氏族と読んで来た。

 

それを書紀では「和珥」と表記する。図に示したように「珥」=「玉+耳」と分解され、珥=

耳にくっ付いた玉がある様と読み解ける。

 

簡明な表記、書紀は実に”洗練された”文字使いを行っていると言える。「部」=「分けた(一部の)地」である、「手」の形をした場所を表していると思われる。

 

古事記で登場する「宇遲能和紀郎子」の場所であろう。書紀では「菟道稚郎子皇子」と記載される。この時の「菟道」は、上図の「玉」の左側の窪んだところを表していると思われる。小ぶりだが奇麗な「菟」であろう。君手=整えられた台地がある[手]のようなところであるが、詳細な居場所までは求められないようである。正に古豪の末裔と言った感じである。

 

<身毛君廣>

◉ 身毛君廣

 

「身毛」は景行天皇の御子、大碓皇子について「是身毛津君・守君、凡二族之始祖也」と記載された「身毛津君」に含まれている。「守君」は

古事記で言えば、「大碓命、娶兄比賣、生子、押黑之兄日子王。此者三野之宇泥須和氣之祖。亦娶弟比賣、生子、押黑弟日子王。此者牟宜都君等之祖」の記述に対応すると思われる(こちらを参照)。書紀は「始祖」として簡略化している。

身=弓なりにふっくらとした様毛=鱗のような様と読み解いて来た。即ち、身毛=ふっくらとした鱗のようなところと読み解ける。

本題の「身毛君廣」には「津」が含まれておらず、かつ「廣」が付加されている。即ち、「宜」もしくは「毛」が寄り集まったところではなく、大きく広がった地がある「毛」の麓が出自の場所であることを表している。日本の耕地は、山の谷間から海辺へ、である。併記した「和蹔」は後に登場する地名である。古事記では、ここは「三野」と述べていた。

 

甲申、將入東時、有一臣奏曰「近江群臣元有謀心、必害天下、則道路難通。何無一人兵徒手入東。臣恐、事不就矣。」天皇從之、思欲返召男依等。卽遣大分君惠尺・黃書造大伴・逢臣志摩、于留守司高坂王而令乞驛鈴。因以、謂惠尺等曰「若不得鈴、廼志摩還而覆奏。惠尺、馳之往於近江、喚高市皇子・大津皇子逢於伊勢。」既而惠尺等至留守司、舉東宮之命乞驛鈴於高坂王。然不聽矣、時惠尺往近江。志摩乃還之復奏曰「不得鈴也。」

 

624日に臣下の情報によると既に道路を塞がれ、一兵卒もない、正に徒手空拳の状態では事は成遂げられないと悟り、「男依」等を呼び寄せようと思ったが、先ずは「驛鈴」が使えなくなっているかを確認し、そうならば子供達に連絡を取って、逃亡させようとした。危機状態の最終確認であり、同時に行動開始である。この辺りの指示が極めて簡潔明瞭である。軍事行動上、大切なことであろう。

 

ここで二人の皇子が登場する。高市皇子と大津皇子である。彼等の出自を整理しておこう。

 

<高市皇子・縣主許梅・高市社・身狹社・金綱井>

◉ 高市皇子

 

「高市」の登場は古く、天照大御神と速須佐之男命の宇氣比で誕生した天津日子根命が祖となった地、「高市縣」で出現する。

 

高=皺が寄ったような山稜が延びる様であり、市=寄り集まる様である。皺が寄り集まったような地形を表している。

「高」=「高い」としては、記紀は読み下せないのである。「大」=「大きい」と読んでは意味不明になるのと同様である。場所は図に示した山稜の端でぐちゃって山稜が寄り集まっているところである。現地名は田川郡香春町鏡山である。

後に登場する「高市縣主許梅」、「高市社」、「金綱井」及び「身狹社」の場所を併せて示した。詳細は、その時に述べるが、古事記の大帶日子淤斯呂和氣命(景行天皇)が坐した地に様々な「社」が建てられていたことが解る。

「高市皇子」の母親は、胸形(現在の宗像市)と伝えている。この地も実に古から「記紀」に登場する地であるが、決して天皇家との積極的な関わりを持たなかったのであろう。或る意味不思議な存在感のある地と思われる。

 

<胸形君德善・尼子娘>

胸形君德善・尼子娘

 

「胸形君德善女尼子娘」と記載されているのを頼りに母親の出自を求めてみよう。母親の父親に含まれる「善」は「記紀」を通じて同じように解釈できることを既に述べた。 

「善」=「誩+羊」と分解される。「言」=「耕地された地」であり、誩=耕地にされた地が並んでいる様と読み解いた。頻出の羊=谷間である。要するに、谷間に二筋の棚田並んでいるところを表している。

 

德=真っすぐな様を表すと読み解いた。通常も真っ直ぐな心に德が宿るのであろう。多くの山稜が釣川に向かって並んでいる地であるが、「真っ直ぐな山稜」は意外と少なく、一に特定される。現地名は宗像市吉留の松丸辺りである。「尼子」は「尼」=「尸+ヒ」と分解され、背中合わせの近付いては離れて行く様を表す文字である。そんな地形が、山稜の端で見出せる。宗像の東南の隅に当たる。

后の財力がものを言う時代ではなくなったであろうが、ことが生じた場合にはきっと大きな助けとなったであろう。残念ながら書紀の記述では露わにされることはないようである。

◉ 大津皇子

天智天皇の大田皇女に生ませた御子である。姉が大伯皇女である。この二人の名前は斉明天皇が「娜大津」から「大伯海」を経て熟田津に向かう時に因んで付けられたようである。大田皇女は天武天皇の即位前に亡くなられた。皇子五歳の時と知られる。世が世ならば皇后の子となり、その後の人生も変わっていたかもしれない。

 

<大分君惠尺・大分君稚臣>

◉ 大分君惠尺・大分君稚臣

 

「大分」は大分県ではなく、古事記の神倭伊波禮毘古命(神武天皇)の御子、神八井耳命が祖となった地である(詳細はこちら)。更に古くは、速須佐之男命が娶った櫛名田比賣の出自の場所である。大変古い土地柄なのである。現地名は北九州市門司区奥田である。

 

「惠」=「叀+心」と分解される。「叀」=「糸を巻き取る装置」を象った文字と知られる。「周辺から中心に向かって丸く抱え込む様」と解説されている。地形象形的には、惠=山稜に取り囲まれた中に小高いところがある様と読み解ける。

 

「櫛」のような二つの山稜に取り囲まれた地形を示していることが解る。更に尺=親指とたの指とを拡げた様(長さの計測)であり、谷間に中で更に山稜が二股に岐れているところを示している。即ち、これらの地形が集まったところがこの君の出自と推定される。

 

「乱」の最後に登場する「稚臣」に含まれる、幾度となく出現する「稚」=「禾+隹」と分解して、稚=山稜が鳥の形を表すところであろう。谷奥の突き当りにその姿を伺うことができそうである。「臣」が付けられているのは、現在の淡島神社ではなく、その西麓の谷間が出自の場所だったと思われる。彼らが如何様に大海人皇子に関わっていたのかは不詳だが、この二人は最初と最後に活躍されたようである。

 

◉ 黃書造大伴

 

既に登場した「黃書造本實」に併記したこちらを参照。黃=平たく広がった様、幾度か登場の書=聿+者=山稜が交差するように集まった様と読み解いた。その交差する山稜が谷間でくっきりと区切られた(大伴)ところを表していると思われる。現地名は京都郡みやこ町犀川大村である。垂仁天皇紀ぐらいまでは多くの御子達が誕生した地である。その後に入植した人々の中にいたのかもしれない。

 

<逢臣志摩・安斗連智德-阿加布>

◉ 逢臣志摩

 

「逢臣」については、極めて情報が少なく、かなりの豪族だったようだが、その素性は殆ど知られていないようである。書紀を検索すると、「逢臣讚岐」の名前が出現する。

 

欽明天皇紀の逸話のようなところで、馬飼何某(大伴連馬飼に関連)も併せて登場する。するとその近隣の地が出自の場所と推測して、「讚岐」の地形を探すと、棚田が奇麗に先で岐れた地が見出せる。

 

これがヒントになって「逢」の意味が読み解けた。「逢」=「辶+夆」と分解される。「夆」は「峰」、「縫」などに含まれる文字で「寄せて合わさり盛り上がった様」を表すと解説されている。

 

久々に出逢った見事な地形象形表記である。古事記では多米、隋書俀國伝では哥多毗と表記された場所である。文字使いとして書紀の完成度は極めて高い、と言わざるを得ないであろう。いやぁ、実に面白い。

 

「志摩」は、その北側の小ぶりな谷間、そこに地図に記載される川が幾本も流れているのが確認される。志摩=蛇行する川が近接しているところと読める。「大伴」の狭い谷間から溢れんばかりに人材が輩出し、それに伴って地域を拡大、古豪は押し流されんばかりの状況にあったのかもしれない。何かを求めて古豪の末裔は”謀反”に加担した、のではなかろうか。溢れた人々であろうか、「安斗連」は登場した時に述べることにする。

 

◉ 高坂王

 

調べるとこの王は敏達天皇の御子、難波皇子の子と記載されている。前出の栗前(隈)王と兄弟だったのかもしれない(栗前王に併記)。現地名は田川郡赤村赤の浦山辺りが出自の場所と推定される。倭京の「留守司」を命じられていたが、やる気満々の相手をするには、些か荷が重かったようである。

 

「惠尺」の連絡を受けた高市皇子・大津皇子の逃亡が始まる。その詳細は語られないが、前者は「鹿深」を越えて、後者は父親の後を追って、約束通り、「伊勢」で落ち合う。さて、如何なることになるのか・・・。