壬申の乱 (三) [日本書紀 巻廿八] | 矛・盾 の e-Note (清範 剛)

矛・盾 の e-Note (清範 剛)

徒然なる備忘録・・・Bloggerから、少し気分転換でAmebaに・・・

さて、いよいよ吉野を出立である。徒手空拳とは言え、総勢にすれば、そこそこの人数になる。目立たず、速やかに美濃の不破に辿り着けるのか、神のみぞ知るであろう。引用は青字で示す。日本語訳は、こちらこちらなどを参照。

 

是日、發途入東國。事急不待駕而行之、儵遇縣犬養連大伴鞍馬。因以、御駕、乃皇后載輿從之。逮于津振川、車駕始至、便乘焉。是時元從者、草壁皇子・忍壁皇子、及舍人朴井連雄君・縣犬養連大伴・佐伯連大目・大伴連友國・稚櫻部臣五百瀬・書首根摩呂・書直智德・山背直小林・山背部小田・安斗連智德・調首淡海之類、廿有餘人・女孺十有餘人也。卽日、到菟田吾城。大伴連馬來田・黃書造大伴、從吉野宮追至。於此時、屯田司舍人土師連馬手、供從駕者食。過甘羅村、有獵者廿餘人、大伴朴本連大國爲獵者之首。則悉喚、令從駕。亦徵美濃王、乃參赴而從矣。運湯沐之米伊勢國駄五十匹、遇於菟田郡家頭。仍皆棄米、而令乘步者。到大野以日落也、山暗不能進行、則壤取當邑家籬爲燭。及夜半到隱郡、焚隱驛家、因唱邑中曰「天皇入東國、故人夫諸參赴。」然一人不肯來矣。

 

六月二十四日、「駕」も使わずに発たれたが、途中供の鞍の付いた馬に乗った。勿論皇后は輿である。「津振川」に着いた時に「車駕」が間に合ったと述べている。この時に従者が列挙されている。「草壁皇子・忍壁皇子」以下二十余名、女孺(女官)が十余人であった。「菟田吾城」に着いた時に「大伴連馬來田」等が吉野宮から追って合流している。

 

「甘羅村」を過ぎる辺りで「獵者」二十余人を従えることでき、美濃王を呼び寄せ、従わせている。「菟田郡家頭」で米を運ぶ馬の米の代わりに歩行者を乗せて急がせたものの「大野」に至った時には既に日は落ち、歩行困難になったようである。「家籬」(家の垣根)を燃やして灯りをとりつつ、夜中になって漸く「隱郡」に辿り着き、早速に「驛家」を燃やした。村中に参加を呼び掛けたが誰も従わなかったようである。

 

「驛家」は「律令制で,駅使や官人の往来,あるいは文書の伝達のため,宿舎・食糧・人馬などを供した施設。駅長が駅子(えきし)を指揮して運営した。駅亭。うまや。」と辞書に記載されている。近江朝側の情報伝達遮断である。些かの抵抗があったと推測されるが、記載されず。勿論、これは予定通りの行動であったと思われる。

 

登場人物の出自は、後で纏めて述べるとして、逃亡ルート上に記載された地名を求めてみよう。到着した順は・・・①津振川 ②菟田吾城 ③甘羅村 ④菟田郡家頭 ⑤大野 ⑥隱郡(驛家)・・・出発時刻は不明であるが、夜中に⑥に到着したと記している。

 

吉野宮~津振川~菟田吾城

吉野宮を出て、古事記の言う宇陀之穿を抜け、崖を下ることになる。相当に急傾斜の崖を九十九折れながら下ると物部朴井連の地に入る。前出の朴井連雄君の出番であったろう。

彼の出自の場所を通過すると川に出合う。これを「津振川」、現在名は東谷川と思われる。

 

①津振川

 

どんな川だと言っているのであろうか・・・「振」=「手+辰」と分解される。「辰」=「二枚貝が舌を出した様」とすると「振」=「山稜の端が二枚貝の舌のような様」と解釈する。

 

すると津振川=山稜の端が二枚貝の舌のような地が集まった川と読み解ける。要するに蛇行が連続した川の様相を象形した表現であることが解る。

 

その表現に耐え得る東谷川であろう。渡渉の場所は定かではないが、おそらく現在の架橋されている辺りではなかろうか(現地名は北九州市小倉南区市丸辺り)。川向こうの山麓を歩んだと推測される。がしかし、結構な段差を歩まねばならず、歩行困難者が多く出たものと思われる。その後の馬の確保は必然だったと推察される。

 

②菟田吾城

 

やっとの思いで辿り着いた城で一休みなのであろう。「吾」=「五+囗」と分解する。「五」の古文字は「✖」であり、「囗」(区切られた地)が交差するような様を表すと解釈した。前出の譯語田宮御宇天皇(敏達天皇)に含まれる文字である。「言」がないので吾=山稜が交差するするようなところと読み解くと、図に示した場所と推定される。現地名は同区木下辺りである。

 

<菟田吾城~甘羅村~菟田郡家頭~大野~隱郡>

③甘羅村

 

この村を過ぎたところで「大伴朴本連大國」が率いる「獵者」集団が加わったと述べている。おそらく、彼らは「物部」の地を通過するショートカットをしたのであろう。現在名の井手浦川が合流する場所と思われる。「獵者」の集団も吉野での狩猟を生業としていたのであろう。

 

既出の「甘」=「動物の舌」を象った文字であり、地形象形的には甘=谷間で舌のような平らな地を覗かせる様と読み解いた。甘檮岡などで使われていた。羅=連なる様であり、「甘」の地が連なっているところを表している。現地名は同区新道寺である。

 

④菟田郡家頭

 

菟田郡の屯倉故に米を運ぶ馬がいたのであろう。米ではなく、馬が必要であった。この屯倉の場所は、勿論記載されている。「家」=「宀+豕」と分解され、「頭」と合わせて家頭=山稜に囲まれた豚の頭のようなところと紐解ける。

 

甘羅村からほんの少し北に向かった場所の左側に見える麓の光景であろう。五十人以上に膨らんだ一団、既に目立ち始めていたのではなかろうか。訊ねて来る連中はいなかったとは思うが、聞かれたら、ひょっとすると”お伊勢参り”とでも答えたのかもしれない。

 

⑤大野

 

山道に慣れて来たかと思うと、既に日没になったようである。道の段差も幾分少ないようではあるが、暗くては如何ともし難かったと思われる。遠慮なく家垣を松明替わりにしたのであるが、これもほぼ想定内の行動であったと思われる。生木を燃やすわけには行かない筈である。現地名は同区石原町である。

 

隱郡(驛家)

 

ここまで殆ど苦労なく追跡して来たが、ハタと止まった感じである。取り敢えず「隱」=「阝+㥯」と分解され、更に「㥯」=「爪+工+⺕+心」に分解される。「下向きの手(爪)と上向きの手()を合せた(工)の中心」と読め、これが「隠(カク)す」の意味をもたらすと解説されている。そのままではこれが示す地形は洞窟になってしまう。勿論立派に隠すことになるのだが・・・。

 

そんな時に通説は如何に納得しようとしているのかを見てみると、現地名の「名張」に宛てるのであるが、「隠」は・・・四方を囲まれていることを意味するが、どう見ても名張の地形ではない、がしかし、より広くみると山稜に囲まれているから、良しとしよう・・・のような解釈があった。これが重要なヒントを提供してくれたのである。上下で挟むのではなく、高い位置で四方が囲まれている場所ならば上下で挟まれた時と同様の”隠し効果”が生じる。

 

図に示した通り、尾根に四方を囲まれた地が見出せる。特異な山稜であるが、尾根に盆地が存在するのである。その谷間の麓に「驛家」があったと推定される。現地名は同区高津尾、現代風に読み解くと「高いところが集まった尾根」とでもなろうか。時間を掛けただけのことはあった、確度の高い場所となったようである。

――――✯――――✯――――✯――――

登場人物の出自の場所は、こちらを参照。