壬申の乱 (四) [日本書紀 巻廿八] | 矛・盾 の e-Note (清範 剛)

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徒然なる備忘録・・・Bloggerから、少し気分転換でAmebaに・・・

夜中に辿り着いた隱郡⑥から、いよいよ難所の伊賀に向かうことになった。追手の出現を心配しながら、急ぐ気持ちを抑えながらの逃避行であろう。引用は青字で示す。日本語訳は、こちらこちらなどを参照。

 

將及横河有黑雲、廣十餘丈經天。時、天皇異之、則舉燭親秉式占曰「天下兩分之祥也。然朕遂得天下歟。」卽急行到伊賀郡、焚伊賀驛家。逮于伊賀中山、而當國郡司等率數百衆歸焉。會明至莿萩野、暫停駕而進食。到積殖山口、高市皇子、自鹿深越以遇之。民直大火・赤染造德足・大藏直廣隅・坂上直國麻呂・古市黑麻呂・竹田大德・膽香瓦臣安倍、從焉。越大山、至伊勢鈴鹿。爰國司守三宅連石床・介三輪君子首、及湯沐令田中臣足麻呂・高田首新家等、參遇于鈴鹿郡。則且發五百軍、塞鈴鹿山道。到川曲坂下、而日暮也。以皇后疲之暫留輿而息、然夜曀欲雨、不得淹息而進行。於是、寒之雷雨已甚、從駕者衣裳濕、以不堪寒。乃到三重郡家、焚屋一間而令熅寒者。是夜半、鈴鹿關司、遣使奏言「山部王・石川王並來歸之、故置關焉。」天皇、便使路直益人徵。

 

六月二十五日の行程である。「横河⑦」に辿り着こうとした時に大きな黒雲が空に架かっていた。それを見た大海人皇子は早速占ったら、天下が二つに分かれるが、自分が最後にそれを得る」と出たそうである。急ぎ「伊賀郡⑧」に至って、「驛家」を焼いている。進んで「伊賀中山⑨」に近付いた時、その地の郡司等数百人が従って来たと述べている。

 

夜明け頃に「莿萩野⑩」に到着、そこで休息と食事をした。「積殖山口⑪」に達した時に「高市皇子」が「鹿深」を越えて、そして「民直大火・赤染造德足・大藏直廣隅・坂上直國麻呂・古市黑麻呂・竹田大德・膽香瓦臣安倍」を従えて、合流したと述べている。

 

「大山⑫」を越え、「伊勢鈴鹿⑬」に至っている。その時「三宅連石床・三輪君子首・田中臣足麻呂・高田首新家」等が参加したようである。五百人で「鈴鹿山道⑭」塞いでいる。「川曲坂下⑮」に差し掛かった時に皇后の疲れが酷く、休息していたら日暮れになって、その上雷雨が降り寒さが厳しくなって来た。急いで「三重郡家⑯」に辿り着き、家を一軒焼いて暖を取った言う。

 

夜中に「伊勢關司」がやって来て、「山部王・石川王」がやって来たので「關」に留めていると報告があり、確認するための「路直益人」を遣わしたと記している。

 

<横河・伊賀郡・伊賀中山>

夜中に到着した「隱郡⑥」から夜を徹しての行程である。夜中に「隱郡」の、まだ夜が明けきらない内に「伊賀郡」の両「驛家」を焼き払っている、これも計画通りの行動であろう。

 

逃亡開始二日以内に主要な「驛家」を使い物にならなくするのは賢明であろう。更に、高市皇子の仲間が加わり、また地の者達の合流も頼もしく感じられたことと思われる。参加者の出自の場所は、後に纏めて述べることにする。

 

登場した⑦横河~⑯三重郡家までを求めてみよう。北九州市小倉南区高津尾、東谷川の畔から、狭い谷間を縫うように抜けると多数の川が合流する地点に出合う。東谷川に加え、紫川、合間川の合流地域となる。

 

渡渉の記述は概ね省略される記述が多いように思われるが、この段の記述は、実に正確である。吉野を出てから「津振川」で一度渡渉して以来初めて出くわす「横河」である。

 

⑦横河・⑧伊賀郡

 

合間川と紫川の合流点近く、現在の地図では紫川となるが、蛇行部の端の浅瀬を選んで渡渉したのであろう。地形的にはそれまでの凹凸の激しい山麓から少しは穏やかになった、丘陵地帯を抜けたと推測される。「横河⑦」の名称は「進行方向に対して横たわる川」であろう。通過点に対する名称として十分な表記である。

 

到着した場所は「伊賀郡⑧」、「驛家」は現在の西谷郵便局~稲荷神社の間にあったのではなかろうか。大友皇子の出自の場所である。前記で彼の母親の名前が伊賀采女宅子娘であり、大友皇子の別名が伊賀皇子と記載されていた。そしてこの地は古事記の采女の地である。正に緊張が極限に達した状況なのである。ところが、味方が増えた(同じ伊賀でも南北の違いか?)。

 

⑨伊賀中山・⑩莿萩野

 

勢い付いて更に進むと「伊賀中山⑨」と書かれている。進行方向左手に見える小高いところかと思われる。山稜沿いに進むと莿萩野⑩」に至り、休息・朝食をしたと述べている。

 

莿萩野・積殖山口・大山・伊勢鈴鹿郡(關)
莿萩野」の「莿」=「艸+刺」と分解される。幾度か出現した「刺」の地形を表していると思われる。すると山稜の上に「刺(朿)」のように小高くなったところが見出せる。

 

また、その麓が「炎」のように山稜が延びた形であることが解る。「萩」=「艸+禾+火」と分解した中の「火」が表す地形である。

 

莿萩野=山稜に[朿]と[炎]のような形がある傍の野原と読み解ける。現地名は小倉南区徳吉西である。

 

⑪積殖山口・⑫大山

 

記述は休む間もなく「積殖山口⑪」に向い、それを登って先に進んだとなっている。「積殖」とは、何だか重苦しそうな名称であるが、そのまま読めば、「積殖」=「積重なって増えた様」であろう。

 

積殖=山稜の端が延びて広がった様を表していると思われる。すると、すぐ隣の登り口を上がれば広い台地に届く。そこに「大山⑫」があると述べているのであるが、頻出の大=平らな頂の山(盛り上がった)様を表すのであって、「大きな山」ではない。

 

その通りの地形が見出せる。それを越えて谷を下れば「伊勢鈴鹿⑬」に至ると記載されている。高市皇子との合流については後に述べる。重要な「鹿深」の地名が関わる解釈である。

 

⑬伊勢鈴鹿・⑭鈴鹿山道

 

「鈴鹿」は地形象形か?…と疑いたくなるような表記であるが、実に見事なものなのである。鹿=山麓(山稜の端)として、鈴=山稜が鈴の形をしているところと解読される。栗の雄花のように長く延びた山稜の端が、丸く寄り集まって、少し開いている様を表現したのである。いやぁ、お見事である。

 

「鈴鹿山道」を塞ぐのは、図に示したように「伊賀」への出入口を塞ぐことを意味することになる。最も恐れなければならない場所との遮断を試みたわけである。「關」(鈴鹿關)があったと知らされる。「大山」を越えて「莿萩野」へ向かう道と「伊賀」へ向かう道との分岐点、それを表している。

 

⑮川曲坂下・⑯三重郡

 

更に多くの味方を増やしつつ、先に進んだのだが、疲労困憊の上に雷雨までが行く手の邪魔をしたようである。それでも何とか踏ん張って「川曲坂下」を通過、この川は、東側の大河、紫川ではなくその支流である「鈴鹿」から流れ出る川と思われる。川曲坂下=川が曲がる隅の傍らの坂の麓であろう。そして漸く「三重郡」に到着したと記している。また暖を取るために家を焼いたとか・・・。

 

「三重」は、古事記の倭建命が東方十二道への遠征後に倭國に戻る際、伊服岐能山の神に痛め付けられて、この地で「身体が三重になってしまった」と嘆かれた地である。三重=山稜の端が三つ重なったところと読み解いた。「鈴鹿」の先が「三重」、山稜が長く延びた様を如実に表現してことが解る。鈴鹿も含めて、現地名は小倉南区長尾である。

 

夜中に「伊勢關司」が伝えて来た内容は、重要である。戦闘が始まって様々なことが起きる中で、勝敗を決める出来事かと思われるが、書紀の口が、やや重い感じがするところである。まだまだ逃亡は続くが、記述に従って以下は、この段の初登場人物の紹介である。

 

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高市皇子に従って「鹿深」越えで合流した連中である。皇子の人望なのか、単に若者の血気に任せた行動なのか、はたまた大海人ー高市親子の挙動が若者の感性に訴えるものがあったのか、妄想するだけでも楽し気な・・・命懸けの行為に失礼千万ではあるが・・・。

 

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※登場人物の出自の場所は、こちらを参照。