疲労困憊に上に雷雨に打たれてやっとの思いで三重郡に辿り着き、一夜を明かした。眼前には巨大な中州が広がる地、大河を渡って先を急ぐ計画であったろう。引用は青字で示す。日本語訳は、こちら、こちらなどを参照。
丙戌旦、於朝明郡迹太川邊、望拜天照大神。是時、益人到之奏曰「所置關者、非山部王・石川王、是大津皇子也。」便隨益人參來矣。大分君惠尺・難波吉士三綱・駒田勝忍人・山邊君安麻呂・小墾田猪手・泥部眡枳・大分君稚臣・根連金身・漆部友背之輩從之、天皇大喜。將及郡家、男依乘驛來奏曰「發美濃師三千人、得塞不破道。」於是、天皇、美雄依之務。既到郡家、先遣高市皇子於不破令監軍事、遣山背部小田・安斗連阿加布發東海軍、又遣稚櫻部臣五百瀬・土師連馬手發東山軍。是日、天皇、宿于桑名郡家、卽停以不進。
日が変わって六月二十六日の早朝、「朝明郡⑰」の「迹太川⑱」の川辺で「天照大神」を「望拝」したと記載している。「朝明郡」の地形と関連付けて下記で述べることにする。と、そこに伊勢鈴鹿關に遣わした「路直益人」が戻って来て、「山部王・石川王ではなく、大津皇子だ」と告げている。そしてまた、新たな者が加わったと告げている。
「朝明郡家⑲」に着きかけた時に、「村國雄依」が「美濃の戦士三千人で不破道を塞いだ」と言う朗報をもたらした。あからさまな「男依」をリスペクトして「雄依」としている。その時高市皇子に命じて東海郡として「山背部小田・安斗連阿加布」、東山軍として「稚櫻部臣五百瀬・土師連馬手」のように編成を行ったと記載している。天皇(大海人皇子)一行は、「桑名郡⑳」に留まり、その先には進まなかったようである。
さて、吉野宮を脱出した一行がその目的地に向けて最後の力を振り絞って進んだ行程である。そこに待ち受けていた運命や、如何に・・・少々講談風になって来たが・・・。
⑰朝明郡
早朝に「⑯三重郡家」を発ち、「⑱迹太川」を渡って「⑰朝明郡」に入っている。そこで川辺で「天照大神」を「望拝」したと述べている。「朝明」は、そのまま読めば「朝が明るい」であろう。これは「朝倉」に対応する表記と思われる。すると地形を教えてくれていることになる。
即ち、「朝倉」のように東側が山稜に囲まれて朝日が差さない地形とは真逆な東側が開けて遮る山稜がない地形である。「朝倉」は特異な地形として情報として有用であろうが、「朝明」は多くの地が有していそうな地形である。では、何故その地名に「朝明」を用いたのであろうか?…特異なことでもあるのか?…広域の図を見ると、その理由が見出せる。
この地は、既に逃げて来た東谷川、紫川の大河が流れる大きな谷間の中の中州の地形を示している。南から北に向かう時、その東側はずっと山稜が存在していたわけである。
それがほんの一部だが、途切れ、更にまたその東側にある山系(現在名貫山山系)も途切れる場所に重なり、何と遥か彼方の周防灘まで見通せる位置関係であることが判る。
即ち、この地の東方が貫山山系の北麓にある尾張國・美濃國となる。巨大な中州で「朝明」の地と呼ぶに最もふさわしい地が、ここなのである。
湾の西岸にある地は、全て「朝明」、その一部に名付ける理由を見出すことは叶わないであろう。この地形は「望拝」と密接に関連しているのである。夜が明けるに伴って、巨大な中州の西岸にある「伊勢神宮」が光り輝く様、正に「天照大神」と、そしてこの先の武運を示す輝きと受け取ったのであろう。朝敵となり、落ち延びて行く人々、幾らかの味方が増えたとは言え、先行きの不安を消し去ってしまうほどではない。
そこに現れた「天照大神」の再来のような光景に身体が震えるほどの感動を覚えたに違いなかろう。書紀編者達にとっては、ヤバイ状況、がしかし、この感動をスルーするわけには行かなった、と推測される。「望拜天照大神」と記し、決して「望拝伊勢神宮」とは言わないのである。1,300年間、彼らの感動が伝わっていない、悲しい現状である。ともあれ、現在に繋がる「皇祖天照」信仰が誕生した瞬間である。
⑱迹太川
上記の「⑰朝明郡」の考察からすると「⑱迹太川」は、現在の紫川である。「⑦横河」(横切る川)とは異なり川の様相を表現していると思われる。「迹」は「跡」(アト)の異字体であり、示す意味は同じと解説されている。ならば「迹」は「川が流れた(痕)跡」とすれば、迹=川が流れた痕跡=中州と解釈される。確かに川には「足」がないから、「辶」を用いたのであろう。
水が連続的に流れても何らの「痕跡」も残らないが、それを「中州」で捉えた表記である。纏めると迹太川=大きく広がった中州がある川と読み解ける。当時は現在よりももっと多くの中州が形成されていたと推測される。それを知る由もないが、現在の川に見られる中州で代用させてもらった。書紀編者が迹=中州を思いついたら、「朝明横河」では勿体ないと・・・当時の紫川を表す表記として真に相応しいものであっただろう。
「山部王・石川王」ではなく、天皇の後から来て追い付いた「大津皇子」であったことは、後の事件の伏線であろう。先取りになるが、近江朝側の総大将の位置付け(明記されてはいないが)の王が、殺害され、また殺害した本人も一線から引き下がるという不祥事に発展する。
この事件の詳細は一切語られないが…おそらく資料的根拠が乏しかったのであろう…「山部王が鈴鹿に居た」と言う噂が原因ではなかろうか。大津皇子、まさかの策謀?…憶測はそこまで、ともかくも、二人の皇子は同じ道ではなく、全く異なる道を選んで近江大津宮から脱出したと伝えている。
⑲(朝明)郡家・⑳桑名郡家
本文では、言わずもがなで「朝明」が省略されている。また「家」=「宀+豕」であり、「豚の口のような山稜の端」を表している。前記の「⑯三重郡家」、「⑳桑名郡家」もおそらくそうであったと思われるが、山稜の最末端で判別が困難である。一方、「⑲朝明郡家」の地は渡渉地点から東に進んだ山麓にその地形を見出すことができる。
この地で「天照大神」のお陰か、朗報が届く。戦は、何はともあれ、作戦通りに進捗することが肝要である。不破道の封鎖は、拠点の防衛を含めて極めて重要な作戦だったことが読み取れる。「男依」への信頼が一気に加速した模様である。勢い付いて軍編成まで作業が進んだとのことである。
そして、この日の内に「⑳桑名郡家」に到着し、逃亡の行程は完結した様子である。この背後が「忌部首」の地である。伊勢神宮と外宮を結ぶ地域は、神域であろう。それを司る「忌部首」一族は「中臣」の隆盛によって伊勢神宮の祭祀の主役であった座から引き摺り降ろされてしまった。中臣(藤原)鎌足が逝ってしまっても、今や右大臣中臣金連である。そんな背景からも神域に限りなく近い桑名の地が選ばれたのかもしれない。
現在の桑名市の背後に員弁(イナベ)郡がある。関係ありそうな地名を散りばめてみても、何も伝わって来ないことが解る。後の記述に拠るが、皇后等はこの地に留まったようで、戦略拠点である「不破」へは天皇のみが出掛けたと記載されている。
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吉野からの脱出行程は以上の通りとなった。よく知られた「壬申の乱」それ故に従来の説がかなり頭の中に蔓延っていたことが実感された。それを払拭しながら、地形象形のルールに徹して辿り着いた結論である。実に多くの新しい発見があった。「望拜天照大神」の記述は、誰が読んでも「朝明」から「伊勢神宮」を拝むか?(直線距離で60kmを越える)…の思いも、朝日に光り輝く伊勢神宮を目に浮かべられた瞬間、天空に飛び去ったようである。事実は「伊勢神宮」を「望拝」したが、その不合理な行為を読み手に解釈させた。冴え渡った書紀編者の筆さばきであろう。
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本段も多くの初登場の人物が記載されている。詳細は、こちらを参照。書紀28巻には、夥しく無姓の人々が登場する。如何に無名の連中が天武天皇側に集まり、支えたかを示す記述である。それだけに出自の場所を求めることが難しくなるのだが・・・。地形象形手法による解読力、鍛えられている感じである。
