「中国社会の超安定システム」(原題:在歴史表象背後 - 対中国封建社会超穏定結構的探索、金観涛・劉青峰共著、1983年四川人民出版社刊、日本語訳は1987年研文社刊)
という本について、もう一つのブログが「もっとSinology」と称していた頃に書き始め、ずっと止めていた。
それを再開するとともに、もう一冊の興味深い本の紹介を併せて行おうと思う。
シナ史関連本を読んでいると、次から次へと政権が変わっていくことに気づく。「一治一乱循環の如し」という言葉を見たことがあるが、まさにそんな感じだ。
これは、その治乱興亡の背後にあるとされる一貫性、法則を探る企画だ。
魏晋南北朝期の南匈奴や鮮卑にとって、「富裕な文明」と言えばシナ社会のことだった。
ウイグルにとってもそうだった。イスラムとの接触はあったろうが、中東まで直接に出て行ってはいない。
キタンや女真にとってもそうだった。
しかし、モンゴルは違った。
中東・インドまで直接に遠征している。ヨーロッパにも(ハンガリー盆地にまで)直に出向いている。
当然、クビライの下にもそれら地域の情報が入ってきていたはずだ。
そして彼は、イスラム圏出身の商人階層を中心に西方の人材を大胆に採用した。首都をシナ北部においていたにもかかわらずだ。
モンゴルにとって、「富裕な文明」はシナ社会だけではなかったわけだ。
史書にはどこにも出てきていないが、このことがモンゴルのシナ社会に対する態度に影響していると考える。結果としてモンゴルは鮮卑や女真のようにシナ社会に溶け込んでしまうことはなかった。
「胡と漢」シリーズはしばらくお休みする。次回は明初から再開する。
教訓3: 地理的にシナ社会の外に居続ける。
匈奴・鮮卑
ウイグル⇒沙陀
キタン
女真
モンゴル
と見てくると、
① 匈奴、鮮卑、沙陀、女真 ・・・ シナ社会に入り込み、本拠地を移した集団
② ウイグル、キタン ・・・ シナ社会の外に本拠地を置き続けた集団
③ モンゴル ・・・ 本拠地を農耕地帯と牧畜地帯とにまたがらせ、その間を移動生活することにより、自分たちのライフスタイルを維持し続けた集団
とに分類できる。
彼らの運命を比較すると、「シナ社会に飲み込まれたくなかったら、本拠地は地理的にシナ社会の外に置くべきだ」ということが分かる。
もしシナ社会に地理的に入り込むのなら、教訓2を考え、自分たちのライフスタイルを維持する「装置」を社会に組み込むべきだということになる。
そのためには、まず第一に「自分たちは、彼らとは違う」という明確な意識が必要で、その意識を維持するには言語的独立が望ましいと考える。
シナの周囲に在する非漢人系種族が心すべき二番目の教訓に移ろう。
教訓2: 自分のライフスタイルに自信を持つ
これは、モンゴルに顕著に見ることができる。
中原に入っても、遊牧民のモンゴル(註1)は自分たちのライフスタイルを変えなかった。
遊牧生活を部分的に続行できるように、首都大都の真ん中に野営用の緑地帯を作り、そこにテントを張った。
大都は冬営地とし、夏場は夏営地の上都に滞在し、高低差のある首都圏を君主自らが移動し続けた。これは遊牧民の生活形態だ。
モンゴル語を公用語として使用した。文書行政も中央政府についてはモンゴル語で行われた。(註2)
朱元璋が起こした明軍に北京を追い出されたときも、君主自らが即座にモンゴル高原に移動することができ、その後も明と対立し続けることができた。
また、モンゴル政権は後期にいたるまで騎馬戦力を維持することができた。従い、草原に戻った後も騎馬戦力を南のシナ社会に対して発揮し続けることができた。
これと比較して、女真の金皇帝の最後や唐朝後期を見ると、農耕民化が進んでいることがうかがえる。かつては強かった騎馬戦力が落ち込んでしまい、新手の騎馬民が攻めてくると対抗できなくなってしまっている。
シナ社会に混じって農耕民化すると、結局同化し、最終的には ethnic group としては消滅することになる。
漢人社会に埋没しないようにしたければ、自分のライフスタイルをどこかで頑固に維持しなければならない。モンゴルはそれに成功し、故地モンゴル草原に帰ったとき、かつて同様に暮らすことができた。
これには一番目に挙げた言語の維持を含む。言語は特に重要な要素の一つと思うので、敢えて独立して一番目に持ってきた。
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註1: 遊牧民でない「モンゴル」もいた。漢人で「モンゴル」の仲間入りした者もいた。13世紀後半~14世紀前半において「モンゴル」とは政治的な名称であり、ethnicity をあらわす名称とは言いがたかった。
註2: 今日でも、元代モンゴル語碑文は中共領域内にはいくつも残っている。
例えば、北京から万里の長城へ行く観光ルートの途中に元代の関所跡がある。その建物には、「モンゴル語(パスパ文字)、サンスクリット語、西夏語、漢語、ウイグル語」の碑文が残っている。モンゴル政権下の社会が多言語だったことをよくあらわしている。
胡と漢(21)~(64)で描いた時代における騎馬民社会は、シナ農耕社会とのかかわり方において、それより前の時代の騎馬民とは異なって見える。そこから教訓を引き出せる。
教訓1: 固有の言語を維持する努力をすべき
ウイグルは、中東発祥のアルファベットが中央アジアに伝わってきた文字を採用し、それで彼ら自身の言葉を綴った。
この表音文字は後にモンゴル、満洲(女真)に取り入れられ、現在でも使われている。
キタン(契丹)、女真、西夏のタングトは独自の文字を創製した。
匈奴や鮮卑は自分たちの言語を書き表す文字は持たなかった。彼らの記録は漢語で残っている。
この間の差は大きい。
自分たちの言語を自分たちの文字体系で書き表す努力それ自体が、自らの ethnicity に対する意識の現われだ。匈奴や鮮卑には明確には無 かったものだ。そして匈奴や鮮卑は最終的に自ら漢人化していった。
キタンやモンゴルは「我々は漢人とは違う」という意識をより強く有していた集団だったということだ。
だからこそ、モンゴルは今日も「漢人とは別」という意識を持ち続け、独立国家を樹立できたのだと考える。
もう一度繰り返すが、「胡と漢」シリーズの目的は「騎馬民とシナ農耕社会の歴史について書き連ねること」ではない。
「騎馬民とシナ農耕社会との関係から、現代の日本人がシナ社会と付き合う上で参考にできる歴史の教訓を抽出すること」が目的だ。
これまで書き綴ってきた歴史の経緯は、いわば「予備知識」だ。本論ではない。
ここからが本論だ。
胡と漢(21)から(64)で描いた時代は、
(a)ウイグル vs 元鮮卑系の唐
(b)キタン vs 五代~北宋( 華北に移住した旧ウイグル系と漢人の共同体)
(c)キタンに乗っかった女真 vs 南宋
(d)モンゴル vs 女真・南宋
(e)モンゴル vs 江南農耕社会
といった興亡があった。
この時代から得られる教訓を抽出しよう。
副題:崩壊へ(3)
白蓮教の乱以後「紅巾の乱」という反乱が起こり(1355年~)、長江中下流域でいくつもの勢力が成長した(註1)。
現在の江蘇省南部に根を張っていた最も有力な地方勢力張士誠をモンゴルは大部隊で攻撃した。(註2)
ところが作戦中に、首都にいた皇帝(大カン)トゴン・テムルは指揮官トクトを捕縛させてしまった(註3)。これでモンゴル部隊は機能しなくなってしまい、撤退した。
張士誠は長江中下流域で最大の軍閥だったが、これが中途半端ながら叩かれることにより、その周囲にいた中小軍閥の一人朱元璋が勢力を拡大した。
朱元璋はそのまま長江中下流域を制圧し、1368年南京で皇帝を称した。
各地の勢力を糾合した朱元璋は、北方へ軍を派遣した。
大都のモンゴル政権は、モンゴル高原やトルキスタン等の諸勢力に援軍を求めたが、誰も動かなかった。そこで、トゴン・テムルは北京地区を脱して北上し、モンゴル高原に移動した(註4)。
これでいわゆる「元朝」は終わり、モンゴルがユーラシア全域における覇権国となっていた状態も終わった。(註5)
では次回から、この「胡と漢」シリーズが本来目的としている作業に入ろう。
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註1: 経済の中心長江中下流域を喪ったため、モンゴル政権は商業活動に課される売上税と塩の専売収入の多くを喪うことになった。また、穀物を中心とするこの地の物産が大都へ輸送されなくなってしまった。
註2: 狙いはやはり、註1に書いた経済的利権の確保にあったようだ。
註3: 与えた部隊が大規模だったためトゴン・テムルがトクトにクーデターを起こされると恐れたためという。
註4: 個人的な意見だが、注意しておかねばならないことに、遊牧民にとって「退却は戦略・戦術の一つに過ぎない」ということがある。反攻するチャンスをうかがい、また後で攻めて奪回すればよいからだ。
それは匈奴以来彼らが何度もやってきたことだ。彼らは本来一箇所に定住しているわけではない。北京を放棄したこともモンゴル側にとっては「長い戦争における一局面」と認識していた可能性はあると思う。
ただ、matt個人としては、政治的・経済的・軍事的にみて、北京地区を喪ったのはモンゴル側にとって非常に痛かったと考える。
註5: この後もモンゴルの後継者たちはユーラシア各地で有力な勢力であり続けた。その話を綴っても面白いが、「胡と漢」シリーズの目的から外れてしまうので、ここでは扱わない。
FT.com 2月27日付記事 "Taiwan's Chen scraps unification pledges"
http://news.ft.com/cms/s/83573aa2-a779-11da-85bc-0000779e2340.html
李登輝以来の進展で、ようやくここまで漕ぎつけつつある。
もっとも重要なのは「台湾は中国ではない」と宣言することだと考えるが、まだ時間がかかるだろう。
しかし、五輪まであと2年強となった今、そんなに時間がなくなってきつつもある。アメリカが待てと言っても、待てないかもしれない。
このブログはSinologyなので、東アジアにおけるモンゴル政権の崩壊に焦点を当てる。
クビライは、政権を奪取した1264年から約30年後の1294年まで生き続けた。
その後はトルキスタンをめぐって宗室の血筋の者どうしで勢力争いがあったが、1310年頃には一応の決着をみた。
1328~1330: この時期、大都と上都との間で宗室内二勢力に分かれて内戦が行われた。
モンゴルは「男系相続」ということ以外、相続に絶対的な基準が無く、兄弟と息子たちが全員相続人足り得る。従い大カン位の相続争いがしばしばおこった。これが1328年のような大規模な内戦のきっかけとなり得、政局安定がなかなか長続きしなかった。
1330年のときはトルキスタンから部隊を China proper まで呼び寄せた側が勝利を収めた。
この頃からユーラシア全体で天変地異がしばしば発生するようになった。
モンゴル高原で寒波のため家畜が大量死し、上都-大都(北京)首都圏に多数の遊牧民が移住してきたこともあった。
China proper でも、10年ほど後の1342年頃から黄河が頻繁に決壊するようになった。(註)
1342年には現在の河南・山東・江蘇北部・安徽北部一帯が荒廃し、白蓮教という宗教集団を核とする反政府運動が拡がるようになった。
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註: 当時は、黄河は河南省開封市近辺からほぼまっすぐ東に流れ、現在の江蘇省北部で海に達していた。
副題:崩壊へ(1)
クビライが弟アリク・ブケを下した時点で、チンギス・カンの子孫たちは以下の地域を勢力下に収めていた。
クビライの勢力圏:
・モンゴル高原
・China proper の北部(※)
・マンチュリアと朝鮮半島
伯父チャガダイの曾孫バラクの勢力圏:
・トルキスタン南西部(キルギス~ウズベキスタン~タジキスタン近辺)
伯父オゴデイの孫カイドゥの勢力圏:
・トルキスタン東部(現在の新疆ウイグル自治区付近)
弟フレグの勢力圏:
・現在のアフガニスタン
・現在のイラン
・現在のトルコ東部~コーカサス南部
・現在のシリア~イラク
甥(兄ジョチの子)ベルケの勢力圏:
・トルキスタン北西部~西シベリア南部
・コーカサス北麓
・ヨーロッパロシア+ウクライナ
その後クビライが併合した南宋を加えたこれら地域(※※)は事実上独立した勢力圏となったが、それぞれ相互に交流は続き、いずれの地域の君主も「モンゴルの大カン(カガン)」はクビライ一人(とその後継者)と認識していた。
クビライの曾孫カイシャン(在位1308~1311)の代になると各地の君主同士の関係が良好となり、相互交流が一層進んだ。
緩やかな連合体として意識の上では一定の一体感があったようだ。
前述したような民間企業の通商は、もちろんこれら勢力圏を越えて行われた。
しかし、クビライが政権奪取して100年とたたないうちに、上述したモンゴル政権の広大な勢力圏は散り散りにされてしまう。
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(投稿後に訂正)
※ クビライが内戦を勝ち抜き、政権を掌握した時点では、まだ南宋は存在した。
※※ 上記に従い、訂正した。