シナの周囲に在する非漢人系種族が心すべき二番目の教訓に移ろう。

教訓2: 自分のライフスタイルに自信を持つ

これは、モンゴルに顕著に見ることができる。

中原に入っても、遊牧民のモンゴル(註1)は自分たちのライフスタイルを変えなかった。

遊牧生活を部分的に続行できるように、首都大都の真ん中に野営用の緑地帯を作り、そこにテントを張った。

大都は冬営地とし、夏場は夏営地の上都に滞在し、高低差のある首都圏を君主自らが移動し続けた。これは遊牧民の生活形態だ。

モンゴル語を公用語として使用した。文書行政も中央政府についてはモンゴル語で行われた。(註2)

朱元璋が起こした明軍に北京を追い出されたときも、君主自らが即座にモンゴル高原に移動することができ、その後も明と対立し続けることができた。

また、モンゴル政権は後期にいたるまで騎馬戦力を維持することができた。従い、草原に戻った後も騎馬戦力を南のシナ社会に対して発揮し続けることができた。

これと比較して、女真の金皇帝の最後や唐朝後期を見ると、農耕民化が進んでいることがうかがえる。かつては強かった騎馬戦力が落ち込んでしまい、新手の騎馬民が攻めてくると対抗できなくなってしまっている。

シナ社会に混じって農耕民化すると、結局同化し、最終的には ethnic group としては消滅することになる。

漢人社会に埋没しないようにしたければ、自分のライフスタイルをどこかで頑固に維持しなければならない。モンゴルはそれに成功し、故地モンゴル草原に帰ったとき、かつて同様に暮らすことができた。

これには一番目に挙げた言語の維持を含む。言語は特に重要な要素の一つと思うので、敢えて独立して一番目に持ってきた。

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註1: 遊牧民でない「モンゴル」もいた。漢人で「モンゴル」の仲間入りした者もいた。13世紀後半~14世紀前半において「モンゴル」とは政治的な名称であり、ethnicity をあらわす名称とは言いがたかった。

註2: 今日でも、元代モンゴル語碑文は中共領域内にはいくつも残っている。

例えば、北京から万里の長城へ行く観光ルートの途中に元代の関所跡がある。その建物には、「モンゴル語(パスパ文字)、サンスクリット語、西夏語、漢語、ウイグル語」の碑文が残っている。モンゴル政権下の社会が多言語だったことをよくあらわしている。