深谷のもやし屋(有)飯塚商店創業者であり、初代代表取締役社長飯塚英夫(平成22年没 享年八十八歳)は第二次大戦において凄惨を極めた【インパール作戦】の帰還兵であった。日本陸軍参加将兵8万6千のうち戦死者3万2千あまり。その大半が病死もしくは餓死だったと言う。生き延びた英夫は帰国後、その体験あって食に絡んだ仕事に従事、農業、青果卸と営みそして昭和34年に地元でも珍しいもやし生産業(有)飯塚商店を立ち上げた。
『戦争ってのは食えなくなったらお終いなんだ。あれがいやだ、これがいやだなんて言っているやつらからどんどん死んでいった。俺は食えるのものなら何でも喰った。それで生き延びた』
生前、英夫が家族の前で何度も語った言葉だ。このインパール作戦では多くの犠牲者が出たが戦闘で死んだものより、病気(マラリア)と餓死で命を落とした兵隊が大部分だったという。父がこの戦争で学んだのは「生き残り方」だったのではなかろうか。教訓として飯塚家に残したわけではないが、自分の覚えている生前の父の生きざまを見るに、父の中で戦争はずっと続いていたのだなと感じることがあった・・・・・
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「…靖国か…一度は行ってみてぇな」
2007年の夏だったと思う。テレビを観ていた父親がふと夕食時に呟いた。
「そうか。じゃあ丁度家族でドライブ行こうと思ってたから一緒に行こう」
と、トヨタレンタリースで1ボックス車を借りて家族みんなで行ってみた。
脳梗塞で倒れてから右半身に障害が残ったままの父、広い靖国神社に着くやいなや、
「こんなに歩くのは嫌だ」
とわがままを言って(歩けないことはないのに)車いすを借りた。靖国神社には車いすも貸し出していた。まあそうだろうな。
車いすを押しながら拝殿に着く。父は車いすから降り、賽銭箱に小銭をチャリーンと投げ入れ、大して拝みもせず、再び車いすに乗り、
「もういいや。いくべや」
と言うので、そのあまりのあっけなさに拍子抜けした。映画みたいに戦場で「靖国で会おう!」なんて言ってないのか?拝みながら戦友たちの事を思い涙するとか…あ、そういう父じゃないわな。戦って死ぬ、というよりは、いかにして生き残るかという戦地だったからな。拝殿でチャリーンと投げ入れた賽銭は、もしかしたら父にとっての戦争物語のピリオド「。」だったのかもしれない。
俺たちが訪れた時は、明らかに戦争に行ってない世代や、まるで知らない若者たちが割といて、妙に一生懸命拝んでいた気がして、実はそこにも違和感を覚えた。
遊就館へ行った。様々な先の戦争の資料が展示されていたが、父はまるで興味を示さない。戦没者の名前も刻まれていたが、めんどくさそうに見ようともしない。
唯一、インパール作戦に持ち込んだらしき歩兵砲を見た時、
「こいつがまるで役に立たなかったんだい」
と思い出したように呟いた。こんなのを道なきジャングルへ持ち込んだのか。よほど苦しい目にあったのだろう。父の声は老いても結構響くので、その時近くにいた来館者の数人が父の方を見た。車いすに乗っているがガタイのいい父はまさしく戦争を知っている「ホンモノ」だったからだ。それからはまったく喋ることもなく、展示物をさらっと見ながら退館、そのまま靖国を後にした。
「行きたい」と言ったくせに、なんであんなにあっけなかったのだろう。今では知る由もないが、その時も「ヘタに聞いちゃいけない」と思っていた。
もしかしたら拝殿でチャリーンと投げ入れた賽銭は、もしかしたら父にとっての戦争物語の終止符「。」だったのかもしれない。
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父にとって戦争とはなんだったのか?
『どんなに苦しい状況であっても、理不尽に押し付けられ、狂わされた人生であっても生き延びなければならない』
父、英夫が戦争で最も学んだことじゃないだろうか。
そして苦しい状況で生き延びるにはなにか「希望」が必要だったのではないか。そこに戦地ではたいして役に立たなかった「金」よりも「食」に見出したのではないだろうか。
生きるためにジャングルの中で貪り食った野草、捕まえて殺して喰った野生の牛や馬・・・その強烈な食体験は父に
『ありのままの食の偉大さ』
をいやがおうなく知らしめたはずだ。
『野菜はこんなんじゃねぇ・・』
『本当の肉ってのは噛めば噛むほど味があるもんだ』
晩年父が残した食に対する言葉の数々。父には『ありのままの食』という強い基準があったのだろう。
父が興した(有)飯塚商店のもやしはその父の『ありのままの食の精神』が強く根付いている。
出兵時、苦しい青春時代をすごしたビルマの地で栽培されたブラックマッペ種の豆を育て、細く、根の長いもやしにする。現在の価値観で言えば見た目はみすぼらしいだろう。だがその鮮烈なもやしの味は、まさしく戦地で父、英夫の命を救った『ありのままの味』に他ならない。
『これはうちじゃあ作れない』
現在の主流である緑豆太もやし。1988年、取引先がこういうのを作れないかと言って置いていったそのもやしを、父は拒否した。そのもやしには父の信じていた「ありのまま」がなかったからだ。それは結果的に深谷のもやし屋飯塚商店にとって転落への舵を切った判断だった。
『もやしは本当はこっちの方が美味いけど、ビジネスだから仕方ない』
これが当時のもやし業界の主流の意見だった。
しかし父にとって経済的に潤うことと、生き残るは必ずしも一致しない。父はそう感じていたのかもしれない。
飯塚商店の『深谷もやし』は創業者飯塚英夫の戦争体験で学んだ価値ある食を体現している。見た目がどうか、どれだけ儲かるか、ではない。その食が人に提供する価値があるものかどうか。
英夫の長男であり、現飯塚商店社長の私は戦地で培った英夫の食に対する価値観を受け継いだ。
インパール作戦の遂行時、ジャングルでバタバタと倒れていく仲間を見てきた父英夫、絶望的な状況下で何を思っていたのだろうか。何らかの希望無くしてとても生き残れないと私は思うのだ。
戦後70年の今、日本は戦争はしていないが、一部の権力者の都合によって起こされたいつくかの悲劇で多くの犠牲者が出ていることは戦時中と変わらないのじゃないか。特にインパールは戦地というよりも軍部の暴走が生んだ悲劇の要素が高い。だからこそ70数年前、父がビルマのジャングルで見ていたもの、今私が見ているものはもしかしたらとても似ているような気がする。
私は絶望から生き残り復活した父の精神を信じたい。そして価格競争の中、飯塚商店の敗戦が色濃くても自分の信じる『深谷もやし』を育て、提供し続けなければならないと思うのだ。