拙著「闘うもやし」のご縁で、来る9月30日、東京城西ロータリークラブ様の例会で私がお話することになりました。タイトルはそのもずばりで「闘うもやし」です(笑)。会場はホテルニューオータニの「折り鶴・舞の間」です。

 

 この日は食事もするようなので、ならばもやしも出してもらえないだろうかと、ロータリークラブの担当の方にお願いしたところ、私どもの深谷もやしを使った料理も特別に作ってもらえることになりました。深谷もやしの味を知ってもらった方が私も話しやすいです。

 

 ロータリークラブの会員さんにお話をするのですが、皆様私よりも社会的地位の高い方々なのだろうと思います。その中で私が皆様に伝えることは何なのでしょうか。

 

ふと出版にいたるまでの講談社の出版に向けた会議のことを思い出します。

 

「だってこの人成功していないんでしょ?今だって大変なんでしょ?そういう人の本を出しても売れないのでは」

 

との出版化への慎重論に、当時の編集者の秋藤氏は

 

「そもそも成功とはなんなのか?」

 

と、食い下がったそうです。このやりとりはある意味この本の本質を示唆する内容であったと思います。

 

 当日は短い時間のなか、そのあたりを中心に話すことになりそうです。

 

出版こぎ着けてくれた功労者である、秋藤編集者も駆け付けてくれて、本の販売もするようです。ロータリー会員でなく、ビジターさんの参加も受け付けているようです。

 

詳細はのちほどお知らせします。

 

 

先月(8月)のこと、新聞を開くと大きくある、ある流通大手の一面広告が掲載されていて、そこには

 

『感謝の値下げ』

 

とありました。

そしてそこにはオーガニック緑豆もやしが。

 

有機JAS認定の圃場で栽培された緑豆のみを原料とし、日本の栽培室でエチレンを使わずに育てられた「オーガニックもやし」は、低価格販売で苦しんでいるもやし生産者にとって高付加価値で売れる希望のもやしであったと思います。

それが流通大手の広告にこうもあっさりと値下げの代表として。

 

もやし生産者協会の理事長が自ら価格をあげられないもやし生産者の窮状を訴えて、多数にマスコミによって報道されたのはつい最近のことです。各地のもやし生産者はどう思っているのでしょうか。

 

「仕方ない。所詮こんなもんだろう。流通大手には逆らえない」

 

と諦めているのでしょうか。

 

「協会が掲げた目標の(せめて)40円で売ってもらったのだから良しとしよう」

 

と、大人の解釈で一定の満足をしているのでしょうか。

 

私は

 

「このタイミングでふざけているのか?もやし生産者をなめるんじゃない」

 

と率直に思っています。

 

また腹立たしいのが「感謝」という言葉を使っている点です。生産者の心を踏みにじって出来上がった「感謝の気持ち」などごめんです。そのあたりが見えてないのが、いかにも流通大手の深刻な部分じゃないかと思います。

 

これまでずっともやしの価値を高めようと草の根的に奮闘してきましたが、今は偏った「感謝の気持ち」に敗北感を味わっています。

 

しかにどんな目に遭っても伸び続けるのがもやしの力です。心は燃え上がっています。

 私がこのブログを始めたのが、2009年の6月ですから、もう8年を越えました。

 

 あの頃は…乱立する郊外型スーパーの値下げ合戦が激しく、さらに2008年に起きたリーマンショックが低価格競争の火に油を注ぎました。

 

 あの頃は…もやしは製造設備が整っていて、形も緑豆太もやしが基本で、あとは安ければ安いほど「良し」とされていました。

 

そして当時は正しかったもやしが、今では生産者が

 

「もう、もやしだけじゃ経営が成り立たない」

 

というまでになってしまいました。

 

 「正しさ」というのは変わっていくというのを実感しました。

 

一方、取引先から「こんなのはもやしじゃない」と否定されていた飯塚商店のもやしは逆風に吹き飛ばされそうになりながらも、自らのもやしの「正しさ」を信じてしがみついてきましたが、ここへ来て地元深谷市を中心に価格も含めてかなり認められてきました。

 

もやしの納品に行くと、お客様から

 

「テレビでやってたやつよね?」

 

「これってどうやって食べると美味しいの?」

 

と良く聞かれます。お客様の誰もが興味を示し、価格のことなど誰も言いません。そして

 

「美味しかったよ~」

 

と、お礼の言葉を送ってくれます。これ本当ですよ(笑)。

 

 私は生産者なのでもちろん、私どものもやしは「美味い」と信じていますが、「美味い」は正しさとは言えません。先に話した通り「正しさ」は時代によって変わりますし、それぞれの心にあるものですから。しかし、時代を問わず個人差もない正しさがもやしにはあります。それこそが『発芽の生命力』です。どんな加工技術をもってしてもこの発芽の生命力は造りだせないでしょう。

 

 私どものもやしのファンになってくれた方はおそらく味だけでなく、そのあたりの正しさを感じ取ってくれるのだと思います。

 

 もやしは生命力の野菜、もやしを食べるというのは、その生命力を戴くということ。

 

 時代や人の価値観が変わってきても、もやし生産者としてはそこは外してはいけないものです。儲からなきゃ意味がない、というのはもうこの方向で進んできた私には通用しません。強い生命力が売れないようでは、それは私の伝え方が悪いだけです。もやしのせいじゃないんです。

本日(8月21日)、TBS朝の情報番組「あさチャン」の特集「“昔ながらの野菜”が人気」で私どもの深谷もやしも紹介されました。

 

昔ながらの野菜…もやしで言えば弊社の深谷もやしの様にブラックマッペ細もやしはまさに昔ながらでありましょう。

購入してくださったお客様が「ほんとうのもやしの味ってどんなものかと思って買ってみた」とおっしゃってました。これはここの売り場に貼りだしているポップ

を見てくださったのでしょう。このポップは私どものもやしを愛してくれる越生の豆腐屋さんに描いてもらったものです。

 

この深谷もやし、かつては

 

「こんなのもやしじゃない」

 

と言われていたこともあったのです。

 

他にも懐かしいファーストトマトや在来野菜を育てている菜園、宅配も紹介されていました。

 

ちょっと前まで(10年くらい前)、いわゆる専門家が糖度計をもって野菜の糖度を測り、

 

「すごいっ。この野菜、糖度がこんなに!」

 

と、テレビカメラの前ではしゃいで野菜の価値=高い糖度、みたいな伝え方をしたのが嘘のようです。

 

そう思うとずいぶん生活者の嗜好も変わってきたものです。人の好みとはかように流動的であり、特に食に関しては極端なことも起きます。

 

他の野菜と違ってもやしの豆(原料)は品種改良はしていないと思います。50年前も今と変わらない中国産緑豆であり、ビルマ(現ミャンマー国)産ブラックマッペです。豆は変わっていませんが、変わったのは人の部分、つまり売る手の意識、価格も含めた生活者の意識、そしてそれに流れを受けて栽培技術が変わり、生産者がより得をするようなもやしに、、、つまり現在の「緑豆太もやし」が生まれ、市場を席巻したのです。

 

もっとも結果的にはすべてが同じもやしになって価格競争が激化、まったく生産者の得にならないもやしになってしまいましたが…。

 

この番組では昔ながらの野菜を特集してくれましたが、だからと言って私は全部昔ながらに戻ることはないと思っています。非現実的であるし、それはそれで困る人も出てくるでしょう。

 

大事なのはいろんな食の選択肢が認められ混在している社会ではないでしょうか。その構築に向けてみんなが動き出すべきではないでしょうか。

 深谷のもやし屋(有)飯塚商店創業者であり、初代代表取締役社長飯塚英夫(平成22年没 享年八十八歳)は第二次大戦において凄惨を極めた【インパール作戦】の帰還兵であった。日本陸軍参加将兵8万6千のうち戦死者3万2千あまり。その大半が病死もしくは餓死だったと言う。生き延びた英夫は帰国後、その体験あって食に絡んだ仕事に従事、農業、青果卸と営みそして昭和34年に地元でも珍しいもやし生産業(有)飯塚商店を立ち上げた。

 

『戦争ってのは食えなくなったらお終いなんだ。あれがいやだ、これがいやだなんて言っているやつらからどんどん死んでいった。俺は食えるのものなら何でも喰った。それで生き延びた』

 生前、英夫が家族の前で何度も語った言葉だ。このインパール作戦では多くの犠牲者が出たが戦闘で死んだものより、病気(マラリア)と餓死で命を落とした兵隊が大部分だったという。父がこの戦争で学んだのは「生き残り方」だったのではなかろうか。教訓として飯塚家に残したわけではないが、自分の覚えている生前の父の生きざまを見るに、父の中で戦争はずっと続いていたのだなと感じることがあった・・・・・

 

・・・・・・・

 

「…靖国か…一度は行ってみてぇな」

 

 2007年の夏だったと思う。テレビを観ていた父親がふと夕食時に呟いた。

 

「そうか。じゃあ丁度家族でドライブ行こうと思ってたから一緒に行こう」

 

と、トヨタレンタリースで1ボックス車を借りて家族みんなで行ってみた。

 

脳梗塞で倒れてから右半身に障害が残ったままの父、広い靖国神社に着くやいなや、

 

「こんなに歩くのは嫌だ」

 

とわがままを言って(歩けないことはないのに)車いすを借りた。靖国神社には車いすも貸し出していた。まあそうだろうな。

 

 車いすを押しながら拝殿に着く。父は車いすから降り、賽銭箱に小銭をチャリーンと投げ入れ、大して拝みもせず、再び車いすに乗り、

 

「もういいや。いくべや」

 

と言うので、そのあまりのあっけなさに拍子抜けした。映画みたいに戦場で「靖国で会おう!」なんて言ってないのか?拝みながら戦友たちの事を思い涙するとか…あ、そういう父じゃないわな。戦って死ぬ、というよりは、いかにして生き残るかという戦地だったからな。拝殿でチャリーンと投げ入れた賽銭は、もしかしたら父にとっての戦争物語のピリオド「。」だったのかもしれない。

 

 俺たちが訪れた時は、明らかに戦争に行ってない世代や、まるで知らない若者たちが割といて、妙に一生懸命拝んでいた気がして、実はそこにも違和感を覚えた。

 

 遊就館へ行った。様々な先の戦争の資料が展示されていたが、父はまるで興味を示さない。戦没者の名前も刻まれていたが、めんどくさそうに見ようともしない。

 

 唯一、インパール作戦に持ち込んだらしき歩兵砲を見た時、

 

「こいつがまるで役に立たなかったんだい」

 

と思い出したように呟いた。こんなのを道なきジャングルへ持ち込んだのか。よほど苦しい目にあったのだろう。父の声は老いても結構響くので、その時近くにいた来館者の数人が父の方を見た。車いすに乗っているがガタイのいい父はまさしく戦争を知っている「ホンモノ」だったからだ。それからはまったく喋ることもなく、展示物をさらっと見ながら退館、そのまま靖国を後にした。

 

「行きたい」と言ったくせに、なんであんなにあっけなかったのだろう。今では知る由もないが、その時も「ヘタに聞いちゃいけない」と思っていた。

もしかしたら拝殿でチャリーンと投げ入れた賽銭は、もしかしたら父にとっての戦争物語の終止符「。」だったのかもしれない。

 

・・・・・・・

 

父にとって戦争とはなんだったのか?

 

『どんなに苦しい状況であっても、理不尽に押し付けられ、狂わされた人生であっても生き延びなければならない』

 

父、英夫が戦争で最も学んだことじゃないだろうか。

 

 そして苦しい状況で生き延びるにはなにか「希望」が必要だったのではないか。そこに戦地ではたいして役に立たなかった「金」よりも「食」に見出したのではないだろうか。

 

 生きるためにジャングルの中で貪り食った野草、捕まえて殺して喰った野生の牛や馬・・・その強烈な食体験は父に

『ありのままの食の偉大さ』

をいやがおうなく知らしめたはずだ。

 

『野菜はこんなんじゃねぇ・・』

『本当の肉ってのは噛めば噛むほど味があるもんだ』

 晩年父が残した食に対する言葉の数々。父には『ありのままの食』という強い基準があったのだろう。

 父が興した(有)飯塚商店のもやしはその父の『ありのままの食の精神』が強く根付いている。
 出兵時、苦しい青春時代をすごしたビルマの地で栽培されたブラックマッペ種の豆を育て、細く、根の長いもやしにする。現在の価値観で言えば見た目はみすぼらしいだろう。だがその鮮烈なもやしの味は、まさしく戦地で父、英夫の命を救った『ありのままの味』に他ならない。

 

『これはうちじゃあ作れない』

 

現在の主流である緑豆太もやし。1988年、取引先がこういうのを作れないかと言って置いていったそのもやしを、父は拒否した。そのもやしには父の信じていた「ありのまま」がなかったからだ。それは結果的に深谷のもやし屋飯塚商店にとって転落への舵を切った判断だった。

 

『もやしは本当はこっちの方が美味いけど、ビジネスだから仕方ない』

 

これが当時のもやし業界の主流の意見だった。

しかし父にとって経済的に潤うことと、生き残るは必ずしも一致しない。父はそう感じていたのかもしれない。

 

 飯塚商店の『深谷もやし』は創業者飯塚英夫の戦争体験で学んだ価値ある食を体現している。見た目がどうか、どれだけ儲かるか、ではない。その食が人に提供する価値があるものかどうか。

 英夫の長男であり、現飯塚商店社長の私は戦地で培った英夫の食に対する価値観を受け継いだ。

 インパール作戦の遂行時、ジャングルでバタバタと倒れていく仲間を見てきた父英夫、絶望的な状況下で何を思っていたのだろうか。何らかの希望無くしてとても生き残れないと私は思うのだ。
戦後70年の今、日本は戦争はしていないが、一部の権力者の都合によって起こされたいつくかの悲劇で多くの犠牲者が出ていることは戦時中と変わらないのじゃないか。特にインパールは戦地というよりも軍部の暴走が生んだ悲劇の要素が高い。だからこそ70数年前、父がビルマのジャングルで見ていたもの、今私が見ているものはもしかしたらとても似ているような気がする。


 私は絶望から生き残り復活した父の精神を信じたい。そして価格競争の中、飯塚商店の敗戦が色濃くても自分の信じる『深谷もやし』を育て、提供し続けなければならないと思うのだ。