有名な劇団、テアトルエコーの演目の一つに「もやしの唄」という、昭和30年代のもやし屋さんが舞台の話があって、それが深谷で公演される…なんて話を深谷もやし納品先の深谷の農産物直売店で聞いたのは2か月前のことだ。昭和30年代の小さなもやし屋?…それじゃあまんま飯塚商店と重なるじゃあないか。どんな話だろう?
配達の後、早速ネットで「もやしの唄」を調べた。便利なもので動画サイトでその一部を公開していた。着目したのはあまりにもリアルなもやし栽培の内容。これはもやし屋を知ってる人じゃなくちゃ書けない。よく調べると原作者の父上の実家が神奈川のもやし屋さんだったという。見内にもやし屋さんが。それなら納得だ。 折角真面目に旧きもやし屋を描いた話を深谷でやるんだから、深谷のもやし屋がなにか協力しなきゃならんだろう。それはもう勝手に自分に課した使命のようなものだ。この度の「もやしの唄」深谷公演の主催者は深谷を中心に活動している「虹の演劇鑑賞会」。この団体と飯塚商店の取引先が繋がっていることもわかった。
その後、虹の演劇鑑賞会の代表の方から連絡があり代表の方々が来社された。その時に「公演当日にもやしを売ってもらえないか」と依頼された。二つ返事で引き受けたのはもちろんの事。その日は作業現場を見てもらい、飯塚商店を語った。次は俺が本部に出向いて会員の皆さんにもやし屋のあれこれを話した。その時に会が所有していた小川商店(もやしの唄の舞台となった横須賀のもやし屋さん)の写真を見せてもらった。昭和30年代のもやし屋さんの姿だ。

もやしの樽をバックに写っているのは原作者の伯父さんの姿。おおう迫力あるな。恐怖の大王だった俺の親父によく似ているような。昭和30年代のもやし屋…いろいろな思い出が蘇ってきた。
木樽仕込みの直浸けもやし栽培。豆の仕込みともやしの栽培をこの樽ひとつで賄う、かつては飯塚商店もやっていたが、今やもう失われた古のもやし栽培法だ。もやしがギュッと詰まった樽は相当重くなる。樽ひとつ分のもやしで40~50kgはあったんじゃあないか。この大きさであれば、それこそ樽は二人がかりでなければ動かせなかったのだろう。
…かつての親父の姿が重なる。真冬の作業、親父は上半身シャツ一枚で汗だくになって樽のもやしを移し替えてムロから出て作業場に現れた…体からもくもくと立ち昇る湯気が親父を包み込んでいた…
「飯塚さん、これを」
帰り際、会の人から封筒を手渡された。それは「もやしの唄」のチケット。それも妻の分と二枚。
俺も「もやしの唄」を観ることが出来る。主催者の特別な計らいに俺は大喜びで帰り、妻にチケットを見せた。
4月21日の公演当日、開演30分前である午後3時、俺と妻は販売用の深谷もやし100個(大型の発泡スチロール箱2個)を会場である深谷市文化会館大ホールのロビーに持ち込んだ。主催者(深谷市虹の演劇鑑賞会)のよってすでにもやし売り場は用意されてた。演劇鑑賞会の案内係が、俺たちを見つけ「これから深谷もやしの販売を始めます!」と上演待ちで集まってきている観客に呼びかけた。発泡スチロールの箱をテーブルに乗せるや否や、箱のふたを開く前からわっと客が押し寄せて、俺たちは一瞬パニックに陥った。表現は悪いが鯉の池にエサを放り込んだ状態によく似ている。あっという間に60個ほど消えていった。このままじゃ売れ切れそうと思ったが、おっと開演の時間だ。残りのもやしを案内の人に任せ、俺たちも会場入りした。
「もやしの唄」は昭和30年代、昼夜寝ずに働くある家族経営のもやし屋さんの日常話だ。ユーモアあふれる展開から途中銀行から「残高不足」のお知らせの電話がくる。リアルだ。うちもそんなのしょっちゅうだからリアルすぎる。もやしの栽培の部分はほぼ完ぺき。室温、30℃、水やりの温度を調整し1日に4回の水やり。完璧だ。エチレンはあったかもしれないが、当時の写真を見る限りここのもやし屋さんは使っていなかったかもしれない。もやしと共に生きてきた家族…
「いろいろ考えたけど、やっぱりこの仕事私にはむりです。ごめんなさい」
30数年前、俺は当時好きだった女性にそう言われて断られた。悲しかったが仕方ない。ただもやし屋という仕事、この仕事しかしらない自分にとっては当たり前のことが、やっぱり他人にはそう映るのか。もやし屋じゃ幸せになれない、そういうことなのか。
「もやしの唄」の中にこんなセリフがある。
「お金で買えるものは欲しくない」
飯塚商店を立ち上げた父親は絶頂期に取引先に太いもやしへの切り替えを勧められたがあっさり断った。最終的にその判断は飯塚商店を転落させ、親父の命を縮めたことになるのだが「納得できないもので得た金」は欲しくなかったのだろう。
「もやしの唄」は、時代の変化に抗えず、主人公がもやし屋を廃業したところで幕を閉じた。飯塚商店は途中までは設備投資をしたりして設備産業化、大量生産化に進んだところで、先ほどの太いもやしに抵抗して多くの取引先を失ってしまった。倒産寸前まで追い込まれた。納得できないもやしを育てる、その最後の一線だけは譲れなかったのだ。
「もやしの唄」の物語はここで終わった。だが深谷のもやし屋、飯塚商店の物語はここから折り返し点を過ぎたところだ。俺はもやし屋としてこの「もやしの唄」に特別な共感を覚えた。
舞台では閉じた幕が再び上がり、出演者たちがずらりと並ぶいわゆる「カーテンコール」が始まった。虹の演劇鑑賞会代表が記念品を渡す。その中には深谷もやしも入っていた。出演者の一人、長男役の役者さんがそのもやしを取り出し観客に見せた。観客席から笑いの声があがった。俺と妻は再びロビーに向かい残りのもやし販売を始めた
残り、40個ほどの深谷もやしは瞬く間に完売。もっと持ってくればよかったかな。いやちょっと足らないくらいがいいかもしれない。
・・・・・・・・・・
「テアトルエコーのものです。今日はお世話になりました」
売れ切れたもやしの片付けをしていたら、いつの間にか近くに若い男性が、いて話しかけてきた。
俺はびっくりして、良い言葉が見つからず、ただ思いつくままに
「良い話だった」
「もやしの描写はほぼ完ぺきだった。原作者とお話したかった」
「おそらく俺たちは『もやしの唄の続き』をやっている」
と、感謝というか感想というか。ともかく思いのままに話した。そして名刺交換をすると、彼の名刺には「演劇製作部長」とあった。
この日、もやし屋がくることは知っていたそうだ。その現役のもやし屋ですら、今回の演出にはツッコミの入れようがなかった。ほぼ完ぺきだ。ただ一つ豆の入っている原料の麻袋がやけに軽そうだったが。もっとも50~60kgの重い原料をリアルに担ぎあげなどしたら芝居にならないだろう。
最後に「お体に気を付けて」と言葉を残して別れた。もやし屋という商売を知ってるから心配してくれてるんだろう。大丈夫、もやし屋は意外と強いんだ。常に生命を扱っている仕事だから。
もやし販売の荷物を配達車に積み込んで俺たちは会場を後にした。俺も妻もふわふわとして、頭の整理がつかないが「良き時間を過ごした」ということでは一致していた。
その後、演劇製作部長のSさんから手紙が届いた。そこにはモデルとなった横須賀のもやし屋さんの在りし日の作業風景の写真や、そのもやし屋さんの思いを原作者が書き留めたメモ書きなど、貴重な資料が同封されていた。まるで親父が話しているかのように俺はメモ書きを読んだ。さらに手紙には「これからももやしを作り続けてください」さらに「いつか出演者と一緒に訪問します」と書かれていた。

たとえ苦しくても少しでも良いものを…うちが太いもやしを拒否したように、この人たちも闘っている。俺は幸せだ。もやし屋でよかった。もやしを通じてこんな素敵な方々と知り合うこともできたのだから。