本日、いつものようにもやしの収穫作業を始めて気が付きました。

「ああ。もやしの中では完全に夏が終わっているんだな」と。

一つの栽培容器の中で起きているもやしの変化。

一部はまだ夏の暑さの影響が残っているもやし。

そして徐々に秋、冬のもやしに代わろうとしている部分。

味は夏は力強く、秋から冬にかけて徐々に優しくなってきます。

今回ははっきりともやしの変化が現れたのでこうしてブログに載せました。

こういう季節を感じているもやしの姿を常に視ているからこそ、もやしは生きている野菜、ましてや加工品じゃないのです。

 

 深谷のもやし屋(有)飯塚商店創業者であり、初代代表取締役社長飯塚英夫(平成22年没 享年八十八歳)は第二次大戦において凄惨を極めた【インパール作戦】の生還兵であった。日本陸軍参加将兵8万6千のうち戦死者3万2千あまり。その大半が病死もしくは餓死だったと言う。生き延びた英夫は帰国後、その体験あって食に絡んだ仕事に従事、農業、青果卸と営みそして昭和34年に地元でも珍しいもやし生産業(有)飯塚商店を立ち上げた。そして令和元年の今年、飯塚商店は創業60年を迎えた。どんぞこから這い上がった父も母ももういない。

 

『戦争ってのは食えなくなったらお終いなんだ。あれがいやだ、これがいやだなんて言っているやつらからどんどん死んでいった。俺は食えるのものなら何でも喰った。それで生き延びた』

 生前、英夫が家族の前で何度も語った言葉だ。このインパール作戦では多くの犠牲者が出たが戦闘で死んだものより、病気(マラリア)と餓死で命を落とした兵隊が大部分だったという。父がこの戦争で学んだのは「生き残り方」だったのではなかろうか。家訓として飯塚家に残したわけではないが、自分の覚えている生前の父の生きざまを見るに、父の中で戦争はずっと続いていたのだなと感じることがあった・・・・・そして飯塚商店を継いだ長男の私も、今になって父の生き残る術の世話になっている気がするのだ。

 

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 1972年(昭和47年)の夏、飯塚家は珍しく家族で琵琶湖に来ていた。もやし屋で忙しい両親だったがこのときは業界団体の会議か親睦会があったようで、それで私の記憶でも数少ない家族旅行になったわけだ。

 

 海のような琵琶湖で水遊びをして、その後一緒に来ていた同業者の家族と一緒にボートを漕ぎを始めた。ボートはそれぞれの家族単位で。当然、父が漕いでいたのだろう。私はは水に手を入れながら遊んでいた。ある程度沖まで漕いでみんなが一休みしているとき、父がいきなり私の両脇を掴んで湖に放り投げた。「それっ」とか「ほらぁっ」と言ってたような気がする。あとで聞いた話だがそれを見た周りの家族は驚き凍り付いたらしい。琵琶湖の沖は当然足のつかない深いところ、私は一度ブクブクと緑色の湖に沈んだ後、再び湖面に浮かび上がった。それから父のいるボート目指して当時、泳ぎも知らなかった私は必死で犬かきで近づいた。そしてボート近くまでたどり着いた時に父はたくましい腕で私を引っ張り上げた。私は必死だったがその時父は笑っていた。

 

 あの時一緒にいた母は、私が投げられた時驚きはしたが、大騒ぎすることもなく「お父さんは泳いで助けられる自信があったからお前を投げたんだろうね」となぐさめだかなんだかわからないけど私にそう話した。

 

 今だったら児童虐待とかいろいろ言われるだろうな。ただ父はそういう人間だった。いきなり何かをやる、一度決めたらためらわずやる人だった。まわりがなんと言おうと。

 

 ふと考える。何故父はあの時私を琵琶湖に放り込んだのか。理屈じゃない「本能的に必死に生きること」を教えたかったのか。父の教育の一貫だったのか。ただウケ狙いだったのか。今となってはわからない。ただ父は先の戦争で「必死に生き延びた人」だ。これは敢然とした事実だ。

 

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 それから27年後、もう戦争もインパール作戦もない時代だが、飯塚商店は再び暗い水の底に投げ込まれた。お金もなければ、あの時助けれくれた力強い父もいない。でも死ぬわけにはいかない。私はもがき苦しみながら必死に浮かび上がろうとした。父も母もいないが支えてくれる妻や子供たち、もがき続けることで沢山の理解者も増えてきている。創業60年の今はまだまだ安定したボートにはたどり着けぬが、おぼれずに湖面で息をする事くらいはできている。

 

 父が若かった私を琵琶湖に投げ込んだこと、その判断は間違っていない気がしている。

 

 

 

 

 令和1年 6月6日(土) 玉川タカシマヤ B1青果売り場で

【もやしライブ】(深谷もやしの量り売りと試食のイベント)

を開催します。

 もうすっかり恒例になったようでライブしなくてもお客様が買い物かごに入れてしまいます。

「あ、試食はいいんですか?」と聞いても

「いいの。味はわかっているから」と(笑)。

 1年以上続けてますが、今やこうしてもやしに理解ある売り場、理解あるお客様に恵まれて生産者として幸せです。


 
 
 

 私ども(有)飯塚商店は1959年(昭和34年)の4月に創業したので、今年の4月で開業60年になります。

 

 いつ潰れても不思議じゃない小さなもやし屋が60年続けてこられたのは、もやしを愛し、飯塚商店を信じてくれる皆様のおかげです。ありがとうございました。

 

 昭和22年、戦地の捕虜収容所から日本に帰還した父。そして母を連れて群馬の農家の実家からここ深谷市新井に移り住んだのが昭和33年頃…、そこでそれまで続けていた野菜卸(山だし)業を営んでましたが、不渡り手形を掴まされて倒産。どんぞこから深谷の地で初の産業「もやし生産・販売業」、つまりもやし屋を立ち上げたのが昭和34年でした…あれから60年…

 

 一度はブームに乗って上り調子だった飯塚商店は平成に入ったあたりからスーパーを中心とした同一規格、大量生産、大量消費の流れ、つまりグローバリズムと申しましょうか、その流れとあくまでも農家視点である父親の強い個人の思いとの差が明確になってきました。

 

 1990年代、威張り散らしていたスーパーのバイヤーと対立もよくしていたし、理不尽な要求に対して

 

「あんなやつらなんかいらねぇ。俺は俺で好きにもやし屋やってくんだ」

 

とよく父は強がりのような負け惜しみのようなことを漏らしてました。今思うとこれじゃあスーパーと取引出来るはずありません(笑)。

 

 案の定、経営が苦しくなり心労で父が脳梗塞で倒れたのが平成13年、私も父の意志をそのまま継いで「もやし重視路線、気に入らないことはやらない路線」、をすすめたものからどんどん太い客が離れて、倒産が目前に迫るまでに。

 

 平成22年に父が亡くなり、3年後の25年に母も亡くなって、それでも残された私と妻は「もやし重視路線」を進み続けました。すでにこの路線はもやし業界でもほとんどいなくなりましたが。そして多くの人の協力を得て関東を中心に私らのもやしの理解が得られ、そして気が付けば今に至ってました。そんな60年でした。もやし屋を始めた父も母も、まさか自分の事もがここまでやってこれたとは思わなかったでしょう。

 

 私を育ててくれた父と母、そしてもやし屋という仕事。その気持ちを尊重しながら、そのもやし屋で私らが元気に生きていくことが両親への最大の親孝行と考えています。

 

 

 

 

 ちょっと前に「もやしは客寄せでお店は損して(安く仕入れて)売っている」という内容でテレビで放送されてました。

 

私は番組を観てなかったのですが、たまたま私どものもやしを扱っている方が観て写真付きで教えてくれました。私が10年前に観ていたら「またこんなくだらないことを放映しやがって!」と怒り心頭になりましたが、今は(もちろんがっかりはしましたが)「はあーまだこういう考えが残っているのか…」と半ば諦めている心情です。なぜこんなことになるのでしょう?誰がこういう流れを作っているのか?…いろいろ考えてしまいます。

 

 3年ほど前はもやしの原料(豆)の価格の高騰で多くの生産者が苦しみ、「みなさんもやし生産者の苦境を理解してください」的な悲痛な叫びがマスメディアに取り上げられてました。私はずっと前から「生活者に理解を訴えるのもいいけどまず自らもやしの価値を上げることに注力すべき」と信じて、そのために活動してきました。結果として多くのマスメディアに取り上げられ「もやしは安いだけの野菜でない」と、自分の「思いの拡散」に貢献してくれました。

 

 生産者が自分の気持ちを広く発信すればマスメディアは味方になります。が、あいまいな目的で、あいまいな発信をしていれば、マスメディアは時に自発的に強烈な逆風となる気がします。

 

 マスメディアという媒体が味方になるか、敵になるか、すべてはもやしを一番良く知る生産者次第だと思うのです。