私ども(有)飯塚商店は1959年(昭和34年)の4月に創業したので、今年の4月で開業60年になります。

 

 いつ潰れても不思議じゃない小さなもやし屋が60年続けてこられたのは、もやしを愛し、飯塚商店を信じてくれる皆様のおかげです。ありがとうございました。

 

 昭和22年、戦地の捕虜収容所から日本に帰還した父。そして母を連れて群馬の農家の実家からここ深谷市新井に移り住んだのが昭和33年頃…、そこでそれまで続けていた野菜卸(山だし)業を営んでましたが、不渡り手形を掴まされて倒産。どんぞこから深谷の地で初の産業「もやし生産・販売業」、つまりもやし屋を立ち上げたのが昭和34年でした…あれから60年…

 

 一度はブームに乗って上り調子だった飯塚商店は平成に入ったあたりからスーパーを中心とした同一規格、大量生産、大量消費の流れ、つまりグローバリズムと申しましょうか、その流れとあくまでも農家視点である父親の強い個人の思いとの差が明確になってきました。

 

 1990年代、威張り散らしていたスーパーのバイヤーと対立もよくしていたし、理不尽な要求に対して

 

「あんなやつらなんかいらねぇ。俺は俺で好きにもやし屋やってくんだ」

 

とよく父は強がりのような負け惜しみのようなことを漏らしてました。今思うとこれじゃあスーパーと取引出来るはずありません(笑)。

 

 案の定、経営が苦しくなり心労で父が脳梗塞で倒れたのが平成13年、私も父の意志をそのまま継いで「もやし重視路線、気に入らないことはやらない路線」、をすすめたものからどんどん太い客が離れて、倒産が目前に迫るまでに。

 

 平成22年に父が亡くなり、3年後の25年に母も亡くなって、それでも残された私と妻は「もやし重視路線」を進み続けました。すでにこの路線はもやし業界でもほとんどいなくなりましたが。そして多くの人の協力を得て関東を中心に私らのもやしの理解が得られ、そして気が付けば今に至ってました。そんな60年でした。もやし屋を始めた父も母も、まさか自分の事もがここまでやってこれたとは思わなかったでしょう。

 

 私を育ててくれた父と母、そしてもやし屋という仕事。その気持ちを尊重しながら、そのもやし屋で私らが元気に生きていくことが両親への最大の親孝行と考えています。