母が亡くなってから約1ヶ月半あまり経つのに、まだ朝5時には目が覚めてしまう。
介護する相手はもういないのに……

介護用ベッドは早々に撤去されている。
ポッカリ空いたスペースにうずくまっていても、悲しみが増すばかり。
母のお気に入りの島根のお茶を供え、遺影を見ながら私もお茶を飲む。
遺骨はまだ置いてあるが、量があまりに少なかった、母の骨。あんなに小ちゃくなるまで母は私を守って戦ってくれたのだ。
楽しかったこと・苦しかったこと、一時母と疎遠になったことなど思い出す。

「ママ、ごめんね。いっぱい苦労をかけて」

私の母になっていなかったらもっともっと幸福になれたのかも知れなかったのにね。

私が母に一番苦労をかけたのは、若い時になった重度の鬱病だ。
まだスターだった私は精神科にいくわけにいかず、内科に行った。まだ鬱病という病名もほとんど知られていなかったと思う。内科の先生を通して精神科の医者から薬を処方してもらい、内科で受け取っていた。一時週刊誌にかぎつけられそうになったこともあった。

コンサートの当日になっても、劇場に足が向かない。踊れない。歌えない。芝居が出来なかったらどうしよう……お客様の期待に応えられない不安に苛まれ、母の車の運転で何十回劇場の周りをグルグル周ったことだろう。
最後は

「あなたプロでしょ、満員のお客様を待たせてどうする!」

と、母に一喝される。
そんなことが何回あったろう。
薬の副作用で開演直前まで眠り込んでいたこともある。そんなことも母のおかげで何とか乗り越えてきた。

そんな母も、もういない。

いい年をして、まだ母を恋しがっている。
母は今どこにいるのでしょう。
父と逢っているのでしょうか。

「どうして再婚しなかったの?」

と、母に聞いたことがある。

父が出征する時、こう言ったそうだ。

“絶対生きて帰ってくる。生きて帰ってくるから、待っていてくれ”

「こう仰ったの。たったひとつのお約束ですもの。守ってあげなければ。だって私はお父様に何もしてあげられなかった」

その約束を守り続けた母。
たった半年の結婚生活だったのにね。

私は母を父に返してあげるのが、遅すぎました。
父は待ちくたびれているだろう。

「お父様、ごめんなさいね」

小さな小さな、ありがとう、と書かれたロウソクをいただいた。8分間灯る。
8分間の「ありがとう」。

寂しくてたまらなくなったら、ありがとうのロウソクを灯すことにしましょう。

ママ、ありがとう。