A.ソブール著「フランス革命からコミューンへ」(その1) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

A.  ソブール著「フランス革命からコミューンへ ー 革命国家の問題」

Albert Soboul, De la Révolution française à la Commune; Problème de l’Etat révolutionnaire.

 

p.1

 『フランスの内乱』においてコミューンの政治的性格を分析したマルクスの著名な公式はよく知られている。公式とはすなわち、「労働の経済的解放の実現を可能とする、遂に発見された政治形態」である。レーニンは自著『国家と革命』においてこの公式をいま一度取りあげて拡充した。「コミューンはプロレタリア革命によって最後に発見された形態であり、その形態のもとで労働の経済的解放が達成されるのだ。コミューンはブルジョア国家の装置を破壊するためのプロレタリア革命によってなされた最初の試みであり、それは破壊されたものに取って代わることができるし、また、代わるべき最後に発見された政治形態である。」これらのテキストを貫いてコミューンは長期の歴史的省察の出発点として現れた。

 マルクスに引き続くレーニンの格言「最後に発見された政治形態」は1789~1871年の1世紀に及ぶ革命闘争の最中で、革命的国家の問題、とりわけプロレタリアートの独裁の問題が提起されたが、そこで示唆された解決法やフランスの歴史的経験を暗黙のうちに参照させる。p.2 フランス革命から1871年のコミューンを経由してロシア革命にいたるまでの、このような影響力ないしは継承関係は歴史家たちによって強調されてきた。なかでも、ジョルジュ・ルフェーブルは平等党の陰謀に関する「総裁政府」の中でこう書いた。「彼(バブーフ)はマラーとエベール派が厳密に顧慮することなく語ったこの人民独裁について明確な思想に到達した。ブオナロッティによって彼はブランキに、そして、それを実現させたレーニンに遺贈した。」

 こうして国家の諸問題と革命独裁に関してマラーとエベール派からバブーフとブオナロッティへ、次いでブランキへ、そしてコミューンの経験を通してレーニンへと行き着く政治実践と批判的省察のラインができあがる。

 コミューンの明確化または支持に人がそれほど顧慮しなければ、それはふつうに認められている非常に魅力的な仮説である。しかし同時に、それはまた、いくぶん単純化した仮設であり、マラーとエベール派を同列に扱うことによって国家と独裁の問題に直面しての2人の革命的気質の根本的対立 ― サンキュロットとジャコバン主義のあいだの敵対関係において歴史的に具体化された対立 ― を覆ってしまう。じじつ、フランス革命以降19世紀の全体を通して現われ、1871年のコミューンでも垣間見せた革命理論と革命実践についての2つの基本線がある。つまり、大衆の人民的運動と独裁がその一つであり、もう一つは革命党の組織、指導グループの手中への権力集中がそれである。

 フランス革命に関してこれらの問題を詳述するのは無用のようだ。かくて、コミューン当時における国家問題の幾つかの局面にふれなければならないだろう。すなわち、1871年のあれこれの革命的伝統は何に由来するのか? コミューンは革命的国家の「最後に発見された形態」であったであろうか? それとも一つの段階にすぎなかったのか?

 それゆえ、フランス革命にたち戻って考えると、革命的国家と独裁概念に関する省察はマラーからバブーフへ、一人の独裁から革命党の独裁へ、一人の護民官から一つの階級とまで行かなくとも、少なくとも「平民」と「貧民」の独裁への過程を明確化し、はっきりさせるのに役立つように思われる。けれども、マラー一個人またはバブーフ一個人の歴史そのものの革命的国家や独裁に関する個人的考察を孤立化させることはできないであろう。一方においてすべての単一のイデオロギー、すべての個人的思想は現存のイデオロギー領域やそれを支える社会的・政治的構造とそれらの関係に依存する。そして他方では、実際の歴史は個人のこの歴史への複雑な関係に応じて必然的にこの個人的発展に反映する。独裁と革命国家の観念が明確化されるのは革命闘争を通じてである。行動が理論的正当化に先行し、翻ってそれを正当化し理論化することは闘争を強化する。p.3 マラーの思想もバブーフの思想もサンキュロット主義とジャコバン主義という当時の2つの思潮と2つの大きな革命的実践とから独立することができなかったであろう。たとえマラーがその独裁と革命国家の概念を、サンキュロットの民衆運動ないしはジャコバン的方向での革命政府によって示唆ないしはもたらされた解決法に光を当て組織化させるにはあまりに早く他界したとしても、少なくともバブーフはこの2つの経験の批判的省察を豊富化することができた。彼は最後に、19世紀に対して系譜において明瞭であり、豊かな超越を少なからず刻印した革命理論と革命実践を遺贈した。

 1789年以降、革命の諸要求は革命権力の性格と独裁の必然性に関して反省を促した。そうした反省は最初、2つの方向、つまり権力の集中(シェイエスが代表格)、議会の集団的独裁と、一人の独裁者あるいは一人の護民官の要求(マラーが代表格)の必然性との方向に向かった。

 とりわけ政治的首魁としてのシェイエスは1789年以来、その著名な「第3階級と何か」という小冊子で角石を置いた。そのうえ、1789年の政治家たち、次いで1793年の政治家たちは彼らのあらゆるかたちの革命闘争を置いた。つまり、立憲権力の理論がそれである。それはすべての権力の立憲議会への、次いでは国民公会への集中化の理論の正当化につながった。

 唯一の主権者たる国民の特殊的・直接的覇権から結果する立法議会。その権力は憲法の制定を目的とする。一国民が新しい憲法の作成に没頭しているとき、国民は、あれこれの新権力をもつ特命を帯びる代表を指名する。憲法制定権をもつこれら特別の代表は国民そのものに取って代わり、以前の合法性によっては支えられることはない。「彼らにとって諸個人が望むと同様に、自然状態において欲することで十分である。」「特別の代表(ここでは憲法制定権を意味する)はけっして通常の立法機関に似ていない。彼らは明瞭な権力である。通常の立法機関はそれに課された形態においてのみ、そして条件下においてのみ動くことができる。一方、特別代表はどんな特殊なかたちにおいても従属しない。それはちょうど国民自身がそのようにおこなうように集まり、また、ごく少数の個人しか構成されていないため、国民がその政府に憲法を付与したがっているかどうかを議論する。」国民の意思は主権者であり、かつあらゆる市民形態から独立しており、憲法制定権をもつ議会の意思もそうである。「あらゆる形態は善であり、その意思はつねに至上権そのものである。」

 この理論に従って、立法議会が、次いで国民公会が例外なく全権力を僭取した。p.4 古い権力、つくられた権力は人民主権の代表者としての憲法制定権の前に消滅する。憲法制定権の理論は立憲議会に、次いで国民公会に対して、すべての領域における制限のない独裁権を付与する。これら2つの議会は行政を執行し、その委員会の手段によって統治する。権力の分立は消滅する。明らかに憲法制定権力の独裁は力の支えがあってこそ初めて実施が可能となった。国王に3身分と立法議会の結合を認めさせるには、バスティーユの奪取を必須とした。理論から実践への憲法制定権の独裁は同時に暴力の独裁ともなった。「権力を生むには、力の行使が必須だった。」

 それにもかかわらず、マラーの政治的考察はまったく別の道に導く。マラーの独裁理念は大衆の革命的自発性に関する明瞭な不信と結合している。「奴隷の鎖」から純粋に現れる「これらの不幸な人々は何を期待するのか? 彼らの施策は整理が行き届かず、とりわけ秘密性を欠いている。怨念の激しい盛りに、あるいは絶望の不安の最中で人民はその計画を打ち明け、その敵に対してそれを流産させてしまう機会を与えてしまう。」マラーはすでに歴史の悲観的ヴィジョンを胸に秘めていた。「かくて、自由はあらゆる他の人間的な要素の運命をもつ。それはすべてをぶち壊しにする時間を与え、すべてを混同してしまう無知を与え、すべてを腐敗させる悪徳を与え、すべてを踏み潰す力を与えるのだ。」したがって、運動を導くべき首領が必要なのだ。「不満を懐く者たちの先頭に立って、彼ら抑圧者を殲滅するような何らかの大胆な人間が、人心を抑制する何らかの偉大な人格が、並外れて大きい諸施策を導く何らかの賢人が必要なのだ。」かくて、バスティーユ奪取の15年前、マラーは革命それ自体の必然性の圧力下で精密化された革命権に関する考察の第一歩を踏み出していた。

 マラーの精神において革命権集中の必要性の観念から明瞭に姿を現わしたのは、1789年9月危機の最中だった。この思想は1792年の夏になって初めて公安委員会の手中で実現されるのだ。権力があまりに多くの者の手中に分散されているため、革命的行動はうまく捗らない。ジャン・ジョレスはその『フランス革命の社会主義史』の中で「フランスに対して極度に興奮して盲目的な群衆の無政府状態をもたらしてはいけないし、あまりに多すぎる議会の無政府状態であってもいけない。」p.5 マラーは人民の名において行使する革命的陪審制の樹立を、もっと正確な言い方をすれば、必要な弾圧 ― これはすでに1793年の「強制権」である ― を提案する。4分の1に減じられた立法議会の粛清。支離滅裂で無能な市役所の議会に取って代えて、数こそ少ないものの、決断力をもつ委員会の樹立を訴える。「政治的装置は暴力的動揺によってのみ、元気を回復する。」われわれはジョレスには付いていくまい。われわれはJ.マッソン(Masson)に従い、マラーの炯眼、予知能力に対し喜んでこれを強調しておこう。そうした先見の明がまだまったく理解されないとき、「人民の友」は革命の安寧が約束されるための唯一の道筋を予知していた。

 明らかに独裁に関するマラーの観念は、革命初期にはなんらかの細かい社会的取り決めもないような簡素なものであった。J.マッソンが言うように、「革命的独裁は階級闘争に結合されており、」それはマラーにとってはしばしば富者に対する貧民の、貴族に対する平民の闘争に矮小化された。というよりは、大雑把な観念であった。独裁に関して言うと、それが小グループあるいは唯一個人の手中への権力集中の必要性であったとすれば、それだけに革命的暴力の要求ではなかったか? 「10世紀前からわれわれをひどい目に遭わせ、われわれを略奪し、罪なきわれわれを抑圧してきた所有者階級が自ら進んでわれわれと同等者となり下がるだろうと主張することはまったく馬鹿げている。」(『人民の友』1790年7月30日号) そこから、暴力への訴えが生まれ、1790年7月26日のプラカードの有名な文言「500~600人の首を刈り取れば諸君に休息、自由、名誉が保証されるものとなろう。偽りの人類愛が諸君の腕を引きとめ、諸君の攻撃を中断させるのだ。このような愛は諸君の同胞の幾百万の生命に値するものとなるだろう。」極端な暴力、勇敢な独裁を。マラーは『人民の友』の同じ7月26日号で書いている。「もし私が人民の護民官であり、幾千という決断力ある人物から支持されていれば、6週間以内に憲法は完璧なものとなり、政治構造はよく編成され、よりよく事態を改善することを約束する。」護民官ないし独裁者は7月30日の『人民の友』によれば、「特に真実の国事裁判官を選出し、次いで危機の時代において人民により選ばれ、その権威が3日間しか続かないような独裁権をもつ職員が必要となろう。」

 マラーの政治思想は、よきローラン(Rollin)のマニュアルの教科書的思い出を通して理想化された古代ローマの追憶から苦労して引き出されたものである。護民官か独裁者かはどうでもよいことだ。しかし、人民によって選出されたのか、あるいは幾千という決断力ある人々の支えがあるということは重要である。古めかしい追憶にすぎないのか、p.6  あるいは、人民投票での独裁か少数者の革命的独裁か ― 歴史を選ばねばならない2つの道においてマラーは躊躇しているのか? さらに、以下のことを強調しておかなくてはならない。ここでは人はマラーからバブーフにいたるまでの距離を測ることができよう。すなわち、強制された革命運動に首魁を与えることに汲々としている『人民の友』は始めこそ不信を懐いていたが、勝利のために人民大衆の自発性に委ねているように思われる。マラーは彼らを、未来を構築すること少しも顧慮しない行為と呼ぶ。それには何らの細かい政治綱領もない。護民官あるいは独裁者、すべては6週間で、あるいは3日間で一掃される。そうなれば、「国民は自由で幸福になるであろう。」…「このために私は行動する必要はないだろう。祖国に対するわれわれの献身、正義に対する私の尊崇、自由に対する愛のみで十分であろう。」