A.ソブール著「フランス革命からコミューンへ」(その2) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

A.  ソブール著「フランス革命からコミューンへ ー 革命国家の問題」(その2)

 

 ここでマラーの政治思想の限界にぶつかる。明らかにもっと分析を進める必要があろう。1790年にマラーは「私はすべての既存思想をもって革命にたどり着いた」と宣言したが、彼は1780~90年当時の主張を超えていないように思われる。レジスタンスをうち砕き、繁栄を確立し、決定的な幸福を樹立するためには革命の暴力と権力を短期間での単一の独裁者の手中に集中させなくてはならない、これが彼の主張だった。

 いわれるところによれば、彼は預言者だった。明らかにそうであろう。理論家というよりは独裁に対しての彼の檄のほとんどは反響を呼ばなかったことを認めなければならない。彼にしてみれば、政治家間は独裁が歴史的思い出について苦味しか呼び起さなかったのと対照てきに、大衆は独裁に本能的に敵対的だった。したがって、大衆の革命的気質および革命的行動と暴力のマラー流の正当化を調和させる必要があった。

 個人的立場を超えてわれわれの検討に晒されるのはじっさい、集団的・実際的概念のほうだ。革命発展のためにはサンキュロット主義とジャコバン主義のほうがずっと効果的であった。革命国家の課題についての2つの方向の対抗概念は共和暦2年の制度の破滅に少なからず影響した。

 パリの民衆的ミリタンは1792年から1793年にかけて基礎的な社会綱領を思いつくことができなかったが、政治分野において思想と実践の総体を実現した。ミリタンたちは語の完全なる意味での人民主権を長々と述べつつ、自治、諸法律の批准、議員の支配・召喚への権限としてのセクシオンの永続性にふれ、直接統治の実践と、人民民主主義の樹立の方向に第一歩を踏みだした。かくして、共和暦第2年、革命国家の政府の問題についての概念があらわれる。この概念は権限集中と集権主義のジャコバン的実践としての独裁に関するマラー的概念と衝突するにいたる。かくて共和暦第2年以降、19世紀と20世紀のフランスにおける革命的妥協・実践の特異な方向性の一つが姿をあらわれはじめた。つまり、絶対自由主義(無政府主義)と「自発性」の傾向がそれである。

p.7  主権は人民に属する。この原理にもとづいて民衆のミリタンの行為のすべてが生まれる。彼らはそこに抽象物としてではなく、セクシオンの集会における人民の具体的実在として行動し、その権限を全体的に行使する。すなわち、権限の革命的集中が基礎がつくられる。この集中は移譲というかたちをとらない。

 これゆえにこそ、民衆精神の中に個人的な意思は集団的なあらゆる独裁に対する不信と憎悪が宿るのだ。この独裁は簒奪にほかならない。

 人民主権は革命の最中さえも時効にかかることなく不可譲であり、代表できない」ため、1792年11月3日のシテのセクシオンは以下の結論に達した。つまり、「官職に就いたと自任するすべての者は僭主として公共的自由の簒奪者と見なされ、罪状は死刑に値する。」1793年3月13日、パンテオン=フランセの総会で「われわれには一人の独裁者が迫っている」と一市民が叫んだとき、集会は蜂の巣をつついたような騒ぎとなり、皆が拳を振り挙げて以下のごとく誓言した。「あらゆる独裁者、庇護者、護民官、3頭政治執政官、調整者、その他はいかなる名義であれ、人民主権を侵害した者と見なされる」、と。政治的精神のこうした特徴、人民の手中に革命的権限をとどめおこうとするこうした配慮は明らかに、多種多様な状況下で人民の護民官または独裁者を指名しようとした ― エベールとコルドリエグループに向けられた告発として ― マラー提案がほとんど実を結ばず、人民の精神において「大裁判官」を創設しようという考えが失敗に帰した裏の事情を説明する。

 人民主権の行使は制限を受けることはなかった。サンキュロットはそれを全体的に享受するものと理解し、革命の最中にあってもそうであると考える。まず第一に、立法府に関するかぎり、法は人民によって起草され、人民によって承認される場合にのみ有効となる。例外的な状況下でサンキュロットは立法権の行使を効果的に取り戻す。かくて、1793年7月6日の憲法草案の受け入れたとき、また言うまでもなく、蜂起の時がそのような場合である。革命政府の樹立はこれらの要求を失効させなかったように思われる。少なくともジャコバン的中央集権主義が再度強まる共和暦第2年の春までがそうであった。マルシェ・セクシオンは「或る法令が陰謀家たちを苦しめているとき ― こう語るのは穏健派である ― 彼らは言う。われわれが主権者であり、われわれのみが法をつくる権限をもち、したがって、われわれが自分らにふさわしくない法を振りかざすことはない。」コントラソシアル・セクシオンの革命委員ギロー(Guiraut)は1793年の夏、議会でこう宣言して憚らなかった。「各セクシオンが蜂起し、大挙して国民公会に押しかけ、各セクシオンが公会に対し人民のための法をつくり、p.8 しかも人民に似つかわしい法を策定するよう求める時期が、各セクシオンが公会に3か月の期間を区切り、もしこの時になってもそれをなしえぬ場合は公会を刃に欠けるであろうと警告を発する時がきた。」

 人民主権の原理から ― 直接統治の一定の実践まで押し広げられた ― 民衆のミリタンはさらに人民による法の承認を演繹し、裁判の人民的行使、すべての市民の武装の自由までも演繹する。かくて、1792年において革命が危急存亡の事態に陥ったとき、真の人民独裁が表明された。これは革命的政府の樹立の過程においてどれだけ役立ったことか! われわれはむしろ、独裁および共和暦第2年の革命権力の集中についての結果を重視するであろう。

 じっさい、1792年の夏以降、人民の行動と諸要求と、山岳派ないしジャコバン派のブルジョアジーの要求の間に敵対関係が生まれた。すなわち、革命権力は人民の手中に残るべきか、それとも集団的独裁の手中に集中させるべきであるか? これは政治私信の基本問題である。だが、政治そのものは現存の社会力の全体から超然と屹立するだろうか? それはまた権力の二重性の問題でもあった。20世紀の革命運動を語らないために、19世紀のそれに課された問題をだれが認めるであろうか?

 ジャコバン路線での革命政府は1793年の夏から秋にかけてしだいに固まり、次いで安定したが、パリの各セクシオンでの人民的権力の樹立のおかげで主権すなわち権力はほどなくして国民公会に、そして政府委員会に、特に公安委員会に集中した。1792年から93年にかけて最も多用された人民主権の表現そのものは共和暦第2年においては政府の語彙から姿を消していく。平和が訪れるまで革命政府の樹立の宣言の必要に関する1793年10月10日のサン=ジュストの演説においてその用語を探しても見当たらない。共和暦第2年フリメール14日(12月4日)の演説においても同様にない。民衆執権の基礎としての直接民主主義に取って代わり、ジャコバン独裁の基礎としての代表民主主義が現れた。選挙に取って代わる指名がそれを継承した。

  革命諸委員会の発展はこの点において重要である。1793年春の人民的独裁の本質的機関としてのこれら委員会は元々セクシオンの全体集会で選出されたものであり、その存在を恒常化した3月21日法の文言に表現される。その或る部分は自発的にミリタンにより形成された。p.9 1793年9月17日の容疑者法の適用において再び選出され、パリ・コミューンによって粛清された委員会は冬季のあいだに保安委員会の管轄下に入った。共和暦第2年の春、遂にそれらのメンバーはすべての権限を集中する傾向の公安委員会の指名するところとなった。コミューン総評議会の場合も同様であり、これはジェルミナールの後は粛清され、セクシオンには何ら相談することなく公安委員会の権威により仕上げられた。共和暦第2年フロレアル16日(1794年5月5日)、パリ・コミューンの優れたメンバーでロベスピエール派のパイヤン(Payan)はセクシオンに以下のことを想起させた。すなわち、「革命政府の許では予選会は存在せず、総会のみがあり、その主権が革命政府に移譲されたことを認める。そのことはサンキュロットにとって意味深長である。かくて、不可避の発展が成就されたことになる。人民的革命権力の終焉、すべての権力のジャコバン独裁の手中への集中という発展が。」

 この発展についてそれを正しく理解するのに社会的・通史的コンテクストにおいて置きなおす必要があるだろうか? ブルジョアジー、殊に人民との同義という手段によってのみ革命を生き延びた或る分派は高圧的態度を持していた。もし人民権力がセクシオンで支配的だったとすれば、1793年5月31日~6月2日の激闘を準備し組織したのはまさに彼らであった。この大きな人民的騒擾はこの意味でブルジョア的革命的戦闘であった。これらはジャコバン独裁を加速させた。共和暦第3年のジェルミナール、プレリアルの企図と同様、ヴァントーズにおいて孤立したサンキュロット暴動を起こそうとする衝動は悲劇的な挫折をもって清算された。それ自体放棄された民衆暴動がまるごと無残にも捧げられたがごとくに。しかし、民衆権力を剥奪されたジャコバン方面に向かっての革命政府はテルミドール9日から10日にかけての夜のあいだに沈んでしまったのだろうか?

 革命国家の民衆概念とジャコバン的ブルジョアジーの概念の間には究極的に矛盾があった。主権人民の基礎組織を普通の管理下におくべきであろうか? 代表民主主義の原理の名において一つの議会、および究極的には一つの指導的委員会の手中に集中すべきであろうか? 時代の特定の状況下でジャコバン概念がそれを葬り去った。しかし、革命政府に権力をもたらし、ただ一重にそれを支えたのは人民運動をうち壊すことだった。ジャコバン主義はサンキュロット主義よりも生き永らえることができなかった。

 ジャコバン主義、歴史的にそれについて、クラブがその4年に及ぶ存在の最中に発展したとしても、他の正確さがなければ語ることができない。ジャコバン主義を嫌ったミシュレは1792年末に、クラブの中に第3世代が混入していることに着目した。p.10 当時、「93年のジャコバン主義、つまりクートン、サン=ジュスト、デューマ等々のそれが始まった。このジャコバン主義がロベスピエールを損い、また彼とともに衰えたにちがいない」、と。したがって、93年のジャコバン主義はミシュレの表現を借りれば、ルソー主義との協同においてサンキュロット主義(エベール主義)とそれにつながりをもつ諸潮流への憎悪と同様に、伝統主義・反革命の憎悪を固定化させてしまう。同じように、憎悪を懐くプルードンを考察してみよう。彼は「ジュネーヴのペテン師」とし、ジャコバンを「空想主義の変種」と定義した。トリドンを探ってみよう。彼はエベール主義の復活を試みた反面、ロベスピエール主義を呪う。また、テーヌを考慮してみよう。彼は自著『近代フランスの起源』の中で「社会契約論」を詳細に分析したように、「そこにこそ、実践は群衆により曲解された人民主権の理論とドグマを伴い、完全な無政府状態を「サンキュロット主義と人民権力を」首魁によって取り違えられた完璧な独裁を生じせしめた「ジャコバン主義と公安委員会の独裁」にまで発展させたのである。」

 政治的傾向によるのと同じように、ジャコバン主義は一つの革命的技術によっても定義される。

 原理への執着、道徳を説くこの変わりなさと慢心、態度のぎこちなさなどはしばしば教義の曖昧さを隠すことになった。不寛容であるとともに、しばしば党利党略的なジャコバン主義はそれにもかかわらず、矛盾がないわけではないが、統一への希求心をもつ。しかしそこにこそ、サンキュロット主義の特権の一つが宿っていないだろうか? 大衆政治家よりも官房の政治家たるジャコバンは大衆に接したとき容易に途方に暮れてしまったとはっきり述べるべきであろうか?

 ジャコバン主義の革命的技術のメカニズムは久しい前から分解されていた。ジャコバン派は政治方向を細かく定めることにより、そうした政策方針を簡単かつ効果的な合言葉によって具体化をはかることにより、教義を定める限られた委員会の実践を事細かく規定した。選挙は粛清とその必然的帰結としての浸透に改められる。競争は粛清投票により制限される。このような投票は加盟員に対し、その候補者がその委任事項を実行する傾向をもたらすものと判断させた。自由は選挙民に残されている。選挙に取って代わり、制限、新会員の選挙ないしは指名が現れた。市民は「世論の唯一の中心」としての母体のクラブの扇動を受ける同盟組織網で取り囲まれる。公安委員会は政府行動のそれとなる。共和暦第2年のベルヴィルの人民協会のある回覧状が述べているように、「祖国愛の精神を啓蒙し、鼓舞し、沸騰させる啓蒙と活力の特徴」があらわれるのはそこからである。」