A. ソブール著「フランス革命からコミューンへ 」(その3) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

A.  ソブール著「フランス革命からコミューンへ ー 革命国家の問題」(その3)

 

 民衆的暴力と組み合わされた政治的技術とこのような革命実践は殊のほか大きな効力を発揮した。p.11 これらは93年に権力の統―、革命政府の樹立、公安委員会の独裁をもたらし、最後に、共和暦第2年春に共和国軍の勝利をもたらした。しかし、こうした実践や技術はサンキュロット主義の政治的実践および革命的行動とは明らかに矛盾していることを明らかにした。こうしてジャコバン主義はその勝利よりも長く生き延びることはできなかった。

 1793年8月以降、革命国家とそれがどこに向かうかという問題が提起された。つまり、人民大衆の独裁か、そうでなければ、中央集権化された独裁か? 国民公会の登場、代表民主主義の原理に従い国民主権の唯一の庇護者としての国民公会の出現および公安委員会の出現は、セクシオンのミリタンがこれの統制を要求したにもかかわらず、ミリタンのほうが服従を求められた。セクシオンのミリタンたちが1793年の夏、一連の運命的方策を課すことに成功したとしても、公安委員会はこうした施策を国益および公安委員気の独裁の境界の方向にふり向けさせた。1793年9月19日に「民衆運動は暴君政治がそれらを必要とするときにのみ正当だった」と『山岳派新聞』の編集者は書く。「幸いにしてパリの人民はつねにこの必要性を感じていた。じじつ、公安委員会は権力を自己の掌中に収めるべく民衆的圧力と民衆的独裁形態においてそれを仕上げようと欲した。

 第一段階は、1793年10月10日、サン=ジュストの報告にもとづき臨時政府は平和が訪れるまで革命的であると宣言したときに果たされた。公安委員会は、軍隊はいうまでもなく、内閣のみならず地方行政にいたるまで執行権については己が優越すると受けとめた。

 第二段階は、共和暦第2年フリメール14日(1793年12月4日)の法令により非キリスト教化法が発令された後に訪れた。この法令は公安委員会の諸勢力に対し、原則的に独裁権を付与することをもって祝聖した。すべての組織体は直ちに公安委員会の直接の監視下に入った。これらは、法律の文字どおりの意味における拡大的・制限的ないしは解釈的な判決をなすことを禁止した。これは人民権力を直接的に政府に振り向ける傾向にとっては一大打撃となった。コミューンの検察官は国の官吏となり、革命国家の単なる派遣委員となり、以後は政府の諸委員会に服属することになった。パリ・コミューンの委員を派遣するという機能は専ら中央権力の諸機関に留保された。これはパリ・コミューンの委員の終焉を意味した。この委員は一時期、革命運動において非常に大きな役割を演じたのだが。

 委員または派遣委員を通じて連絡したり、中央議会を結成したりすることは組織された権力に対して禁止された。これらのことは、パリの諸セクシオンが現におこなっている施策でありその力の根源でもあった。人民協会も同様の措置がとられた。p.12  この協会は今後、委員会ないしは中央クラブというかたちでの集会を禁じられ、それをなせば、政府行動の統一を覆そうとする行為と見なされた。このようにして、権力の独裁的集中に向かう発展が法律のかたちで実践されたことになる。

 総会と革命委員会に固く基礎を据えていた民衆権力はセクシオンの永続性が途切れ、諸委員会が選出された後に、1793年秋にセクシオンの人民協会に集結した。それらは急速に人民的政治行動の指導と統禦の機関となり、このようにして権力と競合関係に入った。もっと正確な言い方をすれば、それらの影響力はジャコバン派のそれと平衡関係に入ったのである。

 陰鬱な戦争が起こったのはこのためである。最初に仕掛けたのは革命政府側からであり、ブリュメール19日(1793年11月19日)以来、ロベスピエールの重要な干渉により宣せられた。公安委員会の文書に書かれ、明らかに1794年の冬以降、政府の意思において確固となった法令が上程された。「第一条:共和国の統一性を維持するため、自由・平等の友の会(ジャコバン協会)と同盟しない新しい協会の存在はこれを認めない。第2条:各大都市の統一性を維持するため、パリの協会と同盟する中央協会と通信しない新規の協会の存続はこれを禁止する。」この法案はジャコバン派に、全協会の支配と指揮権を付与するものである。すなわち、革命政府の掌中における人民協会と位階制的・中央集権的な網状組織化を意味した。

 諸党派が崩壊すると、公安委員会はその目的を達成した。セクシオンの諸協会はサン=ジュストによってヴァントーズ23日(1794年3月13日)以降、外国の手先に関する報告のなかで告発され、次いでジェルミナール21日(1794年4月10日)にコロ=デルボアにより統一と効果の名において再び告発された。それより4日前、これらの協会は世論を「連邦組織化する」として告発された。

 フロレアルとなると、ジャコバン派の内部で議論が沸騰する。26日、クートンはこれら協会を、パリにおける「連邦主義の卑劣な見世物にほかならない」との烙印を捺した。すべての愛国者はジャコバン派に「結集すべく」世論の統一を優先しなければならなかった。同日、コロ=デルボアにとってセクシオンの協会は新たな連邦主義の樹立へのあからさまな傾向をもつものであり、… 各セクシオンを小さな共和国に仕上げる野望と位置づけられた。コロ=デルボアは革命権力の民衆的実践を攻撃し、ジャコバンの集権主義の実践と両立しがたい面を強調した。世論の統一は母なる協会、p.13 つまりジャコバン協会を盾にして復元されなければならなくなった。

 最後に、共和暦第2年のジェルミナールからプレリアルにかけて、39もの協会が解散させられたが、その中で31もの協会がフロレアル25~26の攻撃を受けたのちに、フロレアル25日からプレリアル5日にかけて解散させられた。このことは政策の権威主義的側面を浮き彫りにする。協会はジャコバン派と政府の圧力下で官僚化された革命委員会、あるいはあれこれの公的人物のイニシアティブにもとづいて解散させられたのである。民衆運動の骨格はこうして破壊された。諸党派を打倒し、民衆のミリタンに対し弾圧するという威嚇を与えた後、革命政府は全権力を統一し、そしてあらゆる権力を集中化した。行動の一つの中心と同様、世論の唯一の中心としての革命国家はジャコバンとそれらの支部により支えられた。

 それにもかかわらず、論理的であるとともに硬直したこの構築物は革命権力の社会的ニュアンスを何ら考慮に入れていなかった。力の行使によってそれまで自律的だった民衆運動をジャコバン的枠組の中に閉じ込めること ― その本来の願望、その組織、その民主主義の実践をもっていた ― により、革命的政府はセクシオンのミリタンから距離をおくようになった。サンキュロット主義とジャコバン主義の激しい敵愾心はこのようにして表面化していく。革命的力の分解によりテルミドールへの道が掃き清められた。

 公安委員会のジャコバン独裁はその社会的基礎としての民衆運動の根幹から切断されることによって挫折する。サン=ジュストはメシドールに「革命は凍りついた」と述べた。テルミドール後の革命の危機、共和暦第3年の恐るべき体験は革命派のミリタンをして過ぎ去った経験の重大な試練をなすよう唆した。革命政府の崩壊が1794年の夏から秋にかけて反ジャコバンの反動と新エベール主義、もっと正確にいうとサンキュロット主義の再現を生じさせたとすれば、共和暦第3年のプレリアルの事件におけるサンキュロットの敗北は何らかのかたちでジャコバン的実践を復活させた。新しい革命的実践と新しい革命国家の概念 ― 親和的構成ではなく真実の転移である ― はこの二重の経験から生みだされた。この本質的段階はバブーフ主義によってなし遂げられた。これを通してサンキュロット主義とジャコバン主義、思想と行動の英傑たるバブーフは、革命そのものから生まれた新しい社会の革命的イデオロギーと実践を理解することができたのだ。特に革命国家の独裁問題に関しての彼の批判的考察は奥深い。

p.14  共和暦第4年の冬季おける平等党の陰謀組織は、ジャコバン主義であれサンキュロット主義であれ、それまで革命運動で援用されてきた諸々の方法との訣別を強調している。

 人民的ミリタンの全体と同様に、1794年までバブーフは直接民主主義の支持者であることを公言していた。1789年末以降、代議制度と選出された議会に関して彼は不信の眼を向けるようになった。彼は言う。「人民の拒否権発動はぜひとも必要である」、と。1790年、彼はパリの各ディストリクの自治を擁護した。バブーフの思想はここまでは何ら創造的ではない。彼の思想が「社会契約論」を展開したルソーとのや母子関係にあるのは明瞭で、サンキュロットのパリのミリタンの政治的傾向と完全に一致していた。彼が1796年に彼の陰謀家に採用させた諸原理、組織、方法は驚嘆に値する。

 陰謀の目的は共和暦第4年の冬(1796年)アマール(Amar)の処に設置された秘密委員会の会合で明確に規定された。つまり、第一に共和暦第3年憲法の要素…「これはその根源において合法性を欠き、その精神において抑圧的であり、その意図において専制的である。」次いで1793年憲法の復活「現存の権力をうち倒すために必要な集合点」、最後に、「真実の諸要求の間に旧国家を破壊する必要性、また最終的に樹立しようとする社会制度に到達するために媒介的段階を置くことの必要性、そして、ジャコバン的実践においてけっして現れなかった必要性が出てくる。

 2つの基本的問題がある。すなわち、「共和暦第3年憲法の廃棄という実行手段と「打倒後に、望まれる政体への迅速な移行のための公的形態」がそれらである。

 平等党の陰謀の組織に関していえば、それまでサンキュロット的であるとか、ジャコバン的であるとかいった革命的行動の特徴的方法に関していえば、一般にいわれるほどに明瞭であるようには思えない。特に組織的陰謀が公言された。明らかにクーデタないしは強襲にもとづくのではなく民衆暴動にもとづいて障碍物を除去する。しかし、秘密裡に結成された1792年8月10日の叛乱コミューンにより準備されたものではなかったか? ここには性質というよりも程度の差があるように思われる。秘密の要求は少なからず明瞭に述べられ、その主要な革命メンバーに対する秘密総裁の第一の訓令によって明確に指示された隠密行動の必要な指示があった。…

 したがって、秘密組織の中心部に、集団的独裁の小グループが置かれた。これらの人物は「人民主権の回復に向かうべく、一律に指揮するために民主主義の散らばった意図を唯一の目標に束ねる。」p.15 かくしてジャコバン主義の主要な業績たる集権主義の必要性が是認される。指導的中核の周りに経験豊かな秘密の少数のメンバーがいた。その周りに同調者、愛国者、共和暦第2年の意味における民主主義者がいたが、彼らは秘密的部分ではなく、新しい革命的理想を共有していると思われない部分であった。革命分子は各区において一つないし数個の愛国者の会合を組織し、協働し、民衆派の新聞を読むことによって、また、人民の権利と現況に関する討論によっても公共精神を指導する任務を負った。最後に、その周囲に人民大衆がおり、これら大衆は訓練されなければなかった。組織的陰謀であることは疑いを入れる余地はないが、そこにこそ、大衆と必要な結合の問題が不確実な方法で決められていた。もし「行動命令に関しての指示がメンバーに叛乱大衆の配置を決定したとしても、それに先行する段階はけっして表面には出ることはない。セクシオン段階において「愛国者の会合」と大衆の間の結合をどう規定するかに関してはいかなる文書も定めていない。歴史家ドマンジェ(Daumanget)氏も述べているように、「バブーフの陰謀はとりわけ強力な指導体制を備えていた。」それでもなお、強力に構造化された政党の概念にはほど遠かった。革命的前衛は、それが訓練しようと欲した人民大衆とは切り離されているように思える。こうした特徴はブランキ派の革命組織の特徴と言えなくもない。

 叛乱が勝利し、旧国家が破壊されれば、それに取って代わるべき革命権力の問題が生じる。ここでブオナロッティの自著『平等党の陰謀』に従うと、計画の成功のために貴族権力の崩壊と人民的制度の最終的樹立の間に媒介的段階が想定されていた。すなわち、ブオナロッティによってこのように定義づけられた革命的独裁の媒介的段階がそれだ。例外的に必要な権力。これによって国民はその古い奴隷制から引き継いだ腐敗にもかかわらず、この権力に敵対する内外の敵の罠や敵意をものともせず、自由を完全に掌握できるのだ。陰謀には3つの解決法が予定された。それらは1789年以降の革命の経験が明らかにしたものである。「或る者は国民公会の残骸を思い出すようわれわれを仕向ける。他の者は共和政の臨時政府に対し、叛乱中のパリ人民によって任命された一政体に委託しようとした。また或る者は予め定められた期間内に「独裁者または調整者」といわれる唯一人物に最高権力、共和政を設立する気遣いを付託すべきという意見を表明した。」アマル提案の、粛清された公会の思い出はジャコバン的解決法をかたちづくる。p.16 ドボン(Debon)が提起した独裁はマラー主義の伝統の延長上に表現される。叛乱人民による臨時政府の指名はサンキュロット的(すなわちエベール主義の)伝統上に位置する。