A. ソブール著「フランス革命からコミューンへ 」(その4) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

A.  ソブール著「フランス革命からコミューンへ ー 革命国家の問題」(その4)

 

 共和暦第4年ジェルミナール(1794年3月)初旬、公安秘密総裁政府が樹立された。「人が破壊をもくろむ権力に迅速に取って代わるには、いかなる権力政体が好ましいか」に関する論争が始まる。プロレタリアート独裁の概念にほど遠い起源を明らかにするために、ここではブオナロッティの『平等党の陰謀』を注意深く追跡することにしよう。

 第一の証拠。「叛乱と新しい憲政的権威の樹立までに … 何らかの媒介」を置く必要性が出てきたため、指揮官ないし案内係なしに国民を一時的にせよ放置したのはまったく不注意だった。」ブオナロッティの報告の趣旨はこうだ。フランス革命の歴史と経験は陰謀家たちにとって以下のことを教訓として残した。「自然的秩序からこうも遠ざかる人民は有効な選択をなすことができない。そして、効果的で、かつ擬制的に主権の完全行使が人民にとり可能な状況下では、それに取って代わりうる尋常ならざる手段を必要とする」。それゆえ、平等の自然の敵手の影響から人民を引き離し、共和政体の採用のために必要な意思統一を人民にもたらすために考案された革命的・臨時的権威の必要が生じるのだ。

 このような権威政体は何であるのか? アメルが取りあげた3つの提案が再考される。

 唯一の合法的権威としての国民公会。これはジャコバン的伝統の革命的つながりにおいて登録されている。だが、公会は拒絶された。必要な粛清措置は多くの山岳派とジャコバン派が「テルミドール9日の罪業」に関与したため、非常に複雑な問題を残した。革命的効力という要求は合法性の気遣いに関して粛清を運び去った。

 唯一者に付託され、次のような二重の使命を帯びる特別組織としての独裁はドボン(Debon)とダルテ(Darthé)により定義された。すなわち、「人民に対し平等と主権の真実の行使を約束できる単純にして適正な立法を提案する使命と、国民がその立法を受け入れるようにするための予備的措置を臨時的に指揮する使命とがそれだ。同じように、重要な責務が思想と行動の統一を求める。集団指導体制は忌まわしい結果しか生みださなかった。テルミドール9日の前夜、公安委員会の真只中で生じた亀裂がそれを証明するであろう。あれこれの行政職の行使は明らかに危険な濫用を生みだす可能性をもっていた。これらの濫用はこうした官職の地位にある市民の徳によって、また、到達すべき目的を明示することによって、その任期について前もって与えられた制限によって回避されるであろう。だが、このような論議は秘密総裁政府により拒絶された。総裁政府は選択の困難を、p.17 そしてさらには「克服することが可能であるような一般的偏見」を指摘する。あらゆる形態の個人的権威に対する人民の反発傾向を考慮すれば、そのことは理解するに難くない。

 サンキュロットの線に沿った3番目の解決が残る。それはパリの叛徒による臨時的権威の指名である。この権威にとっては国民の政府に付託することが必然的に必要となる。このような解決法は、人民大衆が心底から願う人民主権の諸原理に調和する。この解決法は革命的効力の必要な保証を示すだろうか? 秘密総裁政府はそれ自体としてこれを疑う。なぜなら、それは提案役の民主主義者に関しても綿密精細な調査を要するのだから。また、革命が達成されたとしても、新しい議会の行為を秘密総裁政府は監視するであろうし、その治績を中途で止めないであろうから。それは何らかの方法でジャコバン的中央集権主義への回帰を意味した。

 これらのコンテクストに限定するにしても、バブーフ主義理論のブランキ的実行を導きだす幾つかの誇張がある。もっと正確な言い方をしよう。1848年当時の選挙延期と臨時的革命的独裁のための宣言によってブランキは当代の政治社会的事件やバブーフ理論に関する入念な分析に関するバブーフ理論を支持した。バブーフと彼の陰謀仲間たちは明らかに、権力の革命的奪取の直後に独裁を実行する必要性を是認していた。彼らはこの独裁の機関について明確な規定するのに成功しなかったように思われる。先行する革命的イデオロギーと比較すれば、それは変化であるにはちがいないが、バブーフ主義は幾つかの局面においてなおまだ、サンキュロットないしはジャコバン的実践から外れてはいなかった。

 結局のところ、19世紀に対するフランス革命の二重の遺贈とはこういうものだった。それはそれぞれの運動に、そしてコミューンそのものに対し、二重性から生じる悲劇的矛盾でもって刻印を記した。人民的行動の特徴としてのサンキュロット的伝統は「新エベール主義」(いわゆるトリドンとその仲間のサンキュロット主義)において最終的に表明するよう命脈を保っていた。絶対自由主義的路線はこうして19世紀の全体を貫き通した。ドレクリューズという新ジャコバン主義に具象化された中央集権的路線も困難をかかえていたことにちがいない。しかしながら、バブーフ主義の遺言としてのブランキ主義が標したその権威主義的実践を通して、その中央集権化された独裁の概念を通して、また、革命の「選良的」概念を通してブランキ主義は同じ革命一家に属するものであろうか?

 大衆の人民的独裁ないしはごく少数者の前衛への権力の集中、フランス革命は19世紀に対して革命国家の問題も遺贈した。コミューンは、或る者が悲劇的に歴史を猿真似した正反対の傾向の間で四分五裂状態となり、明確に矛盾を解消しなかったように思われる。エドアール・ヴァイヤンの言うところによれば、「権力の統率者としての革命的コミューンは思想や行動の統一もなければ、エネルギーも持していなかった。p.18 コミューンは十分な一致をみない審議会のようなものだった。」パリ20区中央委員会、行動の組織体というよりも、むしろ討論クラブについても同じこと言いうるだろうか? 1871年のコミューン史において93年の革命的伝統や共和暦第4年の伝統にたち戻る相続財産を正確に測ることが必要となろう。こうして、コミューンの失敗の原因の一つを強調することにより93年の革命的伝統の気質を推し量ることができよう。

 革命の政治形態はこの二重の革命遺産の重いハンディキャップが克服されたときに初めて遂に発見されえたのである。しかし、この二重の遺産は事物の性質そのもの、人間の性質そのものにあるといえようか?

 

【終わり】