J. S. ウッド著「小説の中のコミューン」(その1) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

J. S. ウッド著「小説の中のコミューン」(その1)

J.S.Wood, La Commune dans le Roman.

 

p.69

 あるテーマは日付によって明瞭に区限られている。すなわち、1871年3月18日から5月28日までのコミューンがそれだ。コミューンは主観的であり、フランスおよびパリの歴史において他のいずれよりも暴力的なタイプの内乱であり、数か月ものあいだ2度に亘って包囲されたパリはヴェルサイユと衝突した。まさに死を迎えんとしている敵の瀉血に立ち会ったプロイセン軍が拍手喝采を浴びせる中でのフランスの仲間割れ、これらこそが小説家たちを誘う主題であり、奇異であるとともに劇的な可能性を秘めたテーマであることにちがいなかった。

 われわれは本稿を通じて、このテーマを利用または活用した諸々の小説家を検討してみたい。さらに、事件の追跡と同時代人作家の立場の躊躇を確かめることもできるであろう。コミューンは濁り水をあまりにもひどく搔き乱した。平静さをとり戻す時は第三共和制の政府に任せたほうがよかった。『コミューンの足掻き』の中で「火と血の海のパリ(1871年5月24~28日)を書いたエルネスト・ドーデ(Ernest Daudet)はコミューンの豚野郎と罪人を非難攻撃した。彼はヴェルサイユ政府の、非常に勇敢であるとともに高貴な軍隊を褒めたたえる。ティエールとピカールと同じように、これらすべてのサタンの手先、つまりインターナショナルの所産たるコミューン政府に対して容赦なき弾圧を要求する。1871年刊のこの書物は小説の名に値しない。しかし、コミューンに関して小説家たち自身が沈黙してしまった。エクトール・マロー(Hector Malot)は1870~71年の諸事件に関して4篇の小説を書いた。それを通して彼は鋭い洞察力をもつ観察者であることを示した。p.70 彼は地方で起きた争闘について証言し、そして、これら4部作の中に『或る負傷者クリフトン嬢の追想』(1872年)があるが、それはゾラから激賞を受けた。マローは1870~71年の戦争から霊感を受けた最初の作家であり、戦争を行動の根底とする優れた小説を書いた最初の人でもあった。けれども、コミューンを問うとき、マローは態度を急変させる。彼はコミューン騒動のあいだ、パリを離れフォントネー=オ=ローズの自宅に引き籠っていた。『私の小説の中の小説』で彼はパリからの逃亡者や追放者、ドイツ軍前線に追い詰められた人々について、そして夜空を焦がす火事について感動した気持ちを込めて語る。しかし、『クリフトン嬢』において彼がコミューンに暇乞いをすることは僅か1行で十分すまし、小説『テレーズ』(1876年)ではコミューンについてほんの一部分しかふれていない。マローはコミューンを嫌っていた。彼は黙殺することのほうを選んだようだ。だが、『テレーズ』の行動の日付だけは黙って過ごさせなかった。しかし、彼はマザス監獄で過ごすうちに4篇にのぼる恋愛事件をうまく処理することのほうを歴史的事実を取り扱うことよりもずっと重視していた。敗退し占領されたアルザス=ロレーヌの苦しみと不幸、市民や農村住民が被った試練、フランスによってアルザス=ロレーヌが放棄された経緯、これらがエルックマン=シャトリアン(Erckmann-Chatrian)作『人民投票の歴史』(1872年)と『フレデリック伍長』(1874年)の背景をなしている。しかし、これら作品は「血の1週間」について僅か1ページしか割いていない。オクトーヴ・ミルボー(Octove Mirbeau)の『騎兵隊』(1886年)も同様であり、フランス東部軍に関して手厳しい1章を割いているが、コミューンについてはふれない。

 おそらく、さらにもっと後退する必要があろう。戦争と降伏について意見の食い違いはほとんどなく、帝政の名誉を傷つけんとする作家にとってほとんど危険はなかった。5年後に賠償金は完済されるであろうし、悲劇はすでに解決済みで、人々は未来のことのみを考えていた。しかし、コミューンについてはどうか? コミュナールないしはコミュヌーはロシュフォール港沖に停泊中の廃船に繋がれ、そして、ニューカレドニアに送りつづけられていた。最初の恩赦放免は1879年になってようやく発令された。コミューンはなおまだ血を吹く傷痕でありつづけた。ジュール・ヴァレスの『叛乱者』(1881~85年)を例外として、コミューンが小説の題材として再登場するのを見るためには1世代後、つまり1892年を待たなければならなかったのはそのためだと思われる。その頃になると、ゾラ(Zola)、モンテギュ(Montégut)、エレミール・ブルジュ(Elémir Bourge)が登場し、それから十数年経つと、リュシアン・デカヴ(Lucien Descaves)、ギュスターヴ・ジュフロワ(Gustave Geffroy)、マルグリット(Margueritte)夫妻、タロー(Tharaud)夫妻らが後に続く。1913年、デカヴとレオン・ドフー(Léoon Deffoux)の2篇の物語が現れた。最初の戦争はコミューンに関する沈黙を導いたように思われる。その沈黙は私の知るかぎり、今日までずっと続いている。コミューン百年祭が近づくと、関心は再び蘇る。1970年、G.トゥルード(Touroude)は『憎悪の舗石』を発表し、ジャン=ピエール・シャブロール(Jean-Pierre Chabrol)は『友情の大砲』を著わした。1971年、2篇の小説、アルマン・ラヌー(Armand Lanou)の『大砲のポルカ』とピエールガマラ(Pierre Gamarra)の『黄金と血』が発表された。

 そこにも同様にジレンマが見られた。つまり、史実と小説的想像を特に困難な文脈においてどう結合させるかというジレンマがそれだ。p.71 事実に関してごまかしを犯すことなく、それと同時に読者の心と想像力に訴えることは読者の愛国的自負心を傷つける面がある。なぜというに、それはフランス史の中で最も不名誉な時代であったからである。

 このジレンマをごく少数の小説家しか解決しなかった。たいていの作家は諸々の事情があってそれをやろうとはしなかった。エレミール・ブルジュにとってはコミューンの事件を書くことはなんら問題にならなかった。コミューン、特に「血の1週間」は、人が絶望と死の本と呼ぶことに向けての単なる出発点であるにすぎなかった。ロシア大侯爵の子息であり、主人公にして不可解な人物フロリス(Floris)は生誕と同時に行方不明となった。多くの年月が過ぎ去る。ついに彼は1871年5月24日に生きて再発見された。彼はコミューン軍に入っていた。場所はペール=ラシェーズ墓地、時は宵の11時、これは難解な想定であり、大火災に包まれたパリのワグナー流の降神術である。フロリスは彼を待ち受けている人生の象徴であるのだろうか?

 ギュスターヴ・ジュフロワの『召使』の中ではかなり長い僅か1章のみが戦争とコミューンについて当てがわれた。この章は優れている。中立的スタイルの、ほとんど白紙の ― そうではあっても、控えめな感情が揺れ動いている ― 文体において著者ジュフロワはパリの労働者一家のポミエ家の体験と不幸を物語る。2人の息子は戦う。なぜなら、それが自分らの義務であるものと漠然と感じていたからであり、また、通常の仕事がなくなっていたからである。彼らは戦闘で死に、母は嘆き悲しみ、父は急激に年老いていく。それがその章の結末である。これはまた、本そのものの結末ともなるであろう。なぜというに、この章と残りの章の内容的つながりがきわめて杜撰であるからだ。平和が戻る。ジュフロワはいろいろなタイプのパリ市民を素描することで満足する。そのことにより、われわれは召使となる一家の娘たちの存在をしだいに思い出し、ポミエ家を襲った不幸(父はアル中で死に、娘の1人は売春に身をやつし、もうけた1人の子供も死んでしまい、母は48才で死ぬ)は1870~71年の結末であることを知らせる。

 気の毒さを存分に漂わせる調子で物語が展開する。テロ―兄弟の『秩序の友』(1905年)はその副題に示されているように「コミューンのエピソード」という短篇小説でしかない。『召使』と同じく、これもまた或る家族の悲劇がテーマとなっているが、軽い皮肉を含んだ超脱の精神をもって語られる。コミューンはなおまだ本来の小説家を見出していなかった。

 では、リュシアン・デカヴはどうか? 彼こそは栄誉を受けるべき人物である。ヴァンドーム広場の円柱奪取 ― 1871年5月16日に引き倒された ― が作品『円柱』のテーマである。しかし、円柱はいかなる意味においても統一的なテーマではない。小説的筋立てらしきものはほとんどない。それは会話と対話の体裁をとった本である。登場人物たちは日々の事件について意見を交わし、そのことによってデカヴの見地の大部分を説明する。p.72 登場人物間の会話の幾つかは1789年から1871年までのフランス社会の発展に関して、そして、フランスの政治史の中でも軍事史について長期的発展をわれわれに提供し、政治家一般に関して彼の見解の公式化をデカヴに許すような手法でしかない。作中人物を通して表現されるデカヴの態度は懐疑的であると同時に、醒めきった態度であるともいえる。彼の同情心は、ほとんどの人物の愚かさ、怯懦に対する軽蔑と較べると、むしろ脆いものである。ティエールやヴェルサイユ政府に対して敵愾心を懐くにもかかわらず、デカヴはコミューンに対してそれほど同情的でなかった。オテル・デ・ザンバリード(廃兵院) ― 傷痍軍人、王党派、反コミューン派 ― が彼の同情を惹いた。プロフェット(Prophète)という名の廃兵は幾つかのグループ間における関係を漠然とではあるが利用する。これは、その書物を構成する幾つかのエピソード間の純粋に人為的な外見をとる。たとえば、プロフェットはベルヴィル地区の両親に会いにいく。そこで彼は1軒のカフェに入ると、ほどなくして彼の友人がそこを訪れ、そしてまた別の人が訪れる。その場で、来るべき選挙の話題に花が咲く。これだけのことのために50ページが割かれている。

 終わりになると、デカヴは自著『円柱』と題したことを思いだしたようだ。最終章で円柱は引き倒された。デカヴはそこから象徴的意味を引きだそうとしたが、奇妙なことに、そこでもまたまごついてしまう。明らかに円柱の倒壊は「瀕死の傷を負って朦朧状態に陥った」コミューンの絶望的な最後の行動であるが、しかし、彼はそこでもなお粘る。われわれは彼の考え方をどう解釈してよいかは読者の判断に一任したい。

 「5月16日の午後、立ち上がろうとする努力においてコミューンはヴァンドームの円柱を荒々しく倒した。うごめく病人がテーブルの上の燭台を倒すかのように。そして、ひとつの特異な現象によってもう一つの眼に見えない手がカーテンを払い、部屋に差し込もうとする日の光が瀕死の人に不滅の光線を浴びせ、この蝋燭の燃え滓をほとんどひっくり返しそうになる。」

 これに献呈の辞を付加しよう。そこにおいて彼は語る。「コミューンの英雄たち、その栄光は帝政の天国の旗竿を地面にうち倒すことである。」そして、われわれ想像しなければならないのは、もしコミューンが破壊されれば、それはもっと良い将来を用意したことである。いずれにせよ、それはコミューンについて書かれたほとんどすべての書物から自由になるという意味をもっていた。

 デカヴの2番目の著書『フィレモン、老境の極致 Philemon,Vieu de la Vieille』(1913年)について簡単にふれることにしよう。それは多少の粉飾が凝らしてあるものの、回顧談である。デカヴのお手本は変わらなかったし、彼の饒舌も同じである。著者デカヴとフィレモンの間で交わされる果てしない会話を通して、そしてまた、フィレモンの家に寄り集まってくるグループの会話を通して、われわれはジュネーヴの追放者の生活や「血の1週間」における幾人かの元コミュナールに関してp.73 長々と情報を得ることができる。それにもかかわらず、この書物に関しては新しい要素がうかがわれる。すなわち、2世代間における考え方の違いがそれだ。古い宝石職人であり、その仕事に誇りを覚える職人のフィレモンは、同様に労働者である彼の友人がそうであるように、やはりコミューンに対して一種のノスタルジックな忠誠心をもっていた。ヴァルランのような幾人かは彼らにとっては例外的な人物としてとどまり、大潰走を支配した人民の偉大さを具現するものであった。しかし、フィレモン家での集会において古いコミュナールの息子もここに参加する。彼の口を借りて諸君はコミューンを体験することはないものの、それに引きつづくところの商工業の乱れを通して、体験者の一人の男が考えていることが何であるかが理解される。真実とロマンチズムが交錯する。そして、今度はデカヴの結論はもっと明快である。すなわち、コミューンはそれが欲する事がらを知らないまま、欲しない事がらを知ったにすぎない。明らかにそれは勇敢さの教訓であり、被抑圧階級の運命を改善するための試みでることが判ったとき、それは挫折したのである。

 『コミューン』と題する短篇小説(1913年)のレオン・ドフー(Léon Deffoux)についても言及しなければならないだろう。このコミュナールは80才の元連盟兵に属した好人物であり、永久追放の刑罰を喰らい、平時でも食前酒と食事代わりに暴力的行動を夢見る。これは大雑把な描写であるが、さほど重要ではなく、コミューン小説の中で悪ふざけを引き起こす要因となった稀なケースの一つである。