A. レーニング著「バクーニンの無政府主義思想」(その3) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

A. レーニング著「ミハエル・バクーニン ― 1870~71年の反国家連邦主義の理論と実践」(その3)

 

 4月18日の会合でヴァレスが読みあげたこの有名な「コミューン宣言」の全文はドレクリューズによって起草された。それは明らかにジャコバン=ブランキ的というよりは、むしろプルードン=バクーニン的といえる綱領であった。それが読みあげられるのを聴いたポール・ラストゥル(Paul Rastoul)は叫ぶ。「これはジャコバン派の首魁によって述べられたジャコバン主義の葬送の辞である」、と。さらに、「宣言」は「パリ市民」による地方に対する単なる譲歩ではなく、基礎のしっかりした政治思潮の表明である」ことを銘記しなければならない。

 バクーニンは1871年4月付のオゼロフ宛ての手紙を通じて、フランスで展開している事実を分析した。

 「おそらくパリ市民は敗北するだろうが、無駄なかたちでは滅びないし、多くの成果を挙げるであろう。少なくともパリの半分を引きずって行くことを望みたい! 不幸なことに、私の許に届くニュースから判断するかぎり、リヨン、マルセーユ、その他の地方都市は、以前と同じく好ましくない状況にある。旧ジャコバン派、ドレクリューズ派、フルーランス派、ピヤ派、そしてブランキ自身(コミューンのメンバーにはなっていた)が私を非常に苛立たせる。p.236 私が懼れるのは、彼らが「頭を刈り取った」財政において倹約を図るという古びた路線に沿ってコミューンを引きずり維持するのではないかということだ。こうしてすべてが失われるであろう。「微細な分子」がすべてを中和してしまい、特に己自身を消してしまうであろう。この革命に価値を付与するものは、労働階級が革命を実行してきたというまさにその事実自体にある。それこそひとつの組織が生みだすことのできるものだ。パリ包囲の期間中、わが仲間たちは自らを組織するための時間と力をもった。こうして彼らは、わがリヨンやマルセーユにおける仲間たちが無駄なおしゃべりしている間も、然るべき力をつくりだしたのだ。パリでは能力とエネルギーを満たした人々があまりに多くいる。彼らが互いに妨げあいをなすのではないかが気遣われる。一方、地方では人間が決定的に足りないのだ。遅すぎないとすれば、パリから地方に対して多数の派遣者と真実の革命家を送りだすことを主張しなければならない。」

 バクーニンは4月25日にロカルノを去り、ソンヴィリエ(Sonvilliers)に落ち着く。そこで一堂はキャンペーン作戦について協議した。オゼロフは、ジュラ地方のミリタンと一緒にフランスで謀反の種を蒔くための武装協議会を組織しようとした。彼らはブザンソンでコミューンの宣言を発する予定でいた。しかし、時はあまりに遅すぎた。やがて彼らには「血の1週間」の犠牲者のための救援活動の課題しか残らなかった。

 コミューンの期間中、当時のバクーニンに最も近いロシアの革命家アルマン・ロス(Arman Ross)はパリに滞在していて、ヴァルランと連絡を取りあっていた。ジェノヴァから彼はドンブロウスキ(Dombrowski)宛てのオゼロフからの書簡を携えてきていた。ドンブロウスキはロシアでもパリでもオゼロフの知りあいという仲だった。4月5日、バクーニンはオゼロフを通じてヴァルラン宛てに書簡を送った。バクーニンはそれを前日に書いたのだが、この手紙を途中で紛失したため、ヴァルランが受け取ったかどうかはわからない。バクーニンは、パリのロスからの先見の明ある手紙を入手した。これによると、自分は当時の事態を非常に悲観的と見なし、この組織化がうまく進展しない革命は不幸な結末を迎えるだろうとみていた。ロスはパリからの逃亡に成功した。大虐殺の最中、彼はヴィルボフ(Vyrubov)の病院に隠れていた。6月10日、バクーニンはジャム・ギヨーム(James Guillaume)に対し、自分はロスから手紙を受け取り、ロスに対して非常に細かい、かつ厳密に真実を極めた日記を書くよう促したと知らせた。「われわれはそれを他のだれよりも親しい友人に説明するであろう。」あらゆる真実を一般公衆向けに述べるわけにはいかないからだ。われわれはこの巨大な事実としてのコミューンの威信を抹消してはいけない。そのため、死んだジャコバンをさえ、この時に最大限の擁護をしなければならないのだ。」不幸なことに、ロスはこの助言に従わなかった。

 バクーニンについていえば、5月前に彼はすでにコミューン擁護論を執筆しはじめていた。これは、彼の最も有名にして最も広範に読まれた著作の一つとなったが、しかし、これは死後出版となった。彼は書いている。「私はパリ・コミューンの支持者である。なによりもそれが国家の大胆で、かつ傑出した否認であったからだ。」その当時の彼の無政府主義的な語彙において彼はコミューンの中にこの「巨大な歴史的事実」を、つまり、完全に国家に敵対的な革命的社会主義の最初の発現をみた。p.237 「共産主義者たち(国家社会主義者=マルクス主義者)」は、国家の政治権力を掌握するために労働者の権力を組織しなければならないと信じている。一方、革命的社会主義者は国家の破壊、あるいはもっと丁寧な言い方をすれば、国家の解体のために自らを組織するのだ。」共産主義者は人類のすべての博士や先生方の深遠な知性に対してよりも、人民大衆の本能的願望のほうに遥かに大きな信頼を寄せているのだ。彼らの信じるところによれば、革命的社会主義者はあまりに長い間統治されてきたのであり、「これらの不幸の源はあれこれの形態の政府にではなく、原理そのもの、政府そのものの事実のなかに見出されることである。」そこに矛盾がある。その矛盾はすでに歴史に現われ、一方の極における科学的共産主義と、他方の極でその最後の結果を推進した、広範に発展したプルードン主義との間に位置する。

 ハーグ会議ののち、マルクスと激しい論争で対決したバクーニンは、コミューンの反マルクス主義的性格の評価にたち戻った。それの重要性を形づくるものは、コミューンが迎えたチャンスと実行という時間的余裕をもった僅かの努力ではなく、それが革命の真の性格および目的の上に投げかけた強力な光の中にある。革命の主要な特徴はコミューンの叛乱であり、国家に対する労働者の連合である。「コミューンの影響はどこでもあまりに強烈だったため、「マルクス主義者」自身 ― その思想の大部分がこの叛乱によりひっくり返された ― すらも、そのために脱帽せざるをえないほどだった。彼らはそれ以上のことをおこなった。単純な論理や彼らの真実の感情に反対して、コミューンの綱領やその目的が自分らのものであったと主張する。それは真の茶番劇的な戯画というべきものである。それは、彼ら自身が圧倒され、見捨てられるのを味わうという罰を受けるほどに強烈なものだった。」バクーニンはここでは自然に『フランスの内乱』のことを指している。

 同時代のあらゆる著作がコミューンについて基本的かつ複雑で、時に矛盾さえも含む現象の歴史的説明をなすことよりも、コミューンの理論的意味を再評価しようとしたことを考慮に入れるにしても、以下のように要約するのは可能かもしれない。すなわち、社会主義理論の見地にとってコミューンはその基本的性格を、生産の国家管理からというよりもむしろバクーニンないしヴァルラン的意味での集散主義化から引きだした、と。それは根本的に連合主義の共産主義であった。マルクスの結論を約束することもできる。つまり、「都市行政のみならず、国家がこれまで行使してきたすべてのイニシアティブは今やコミューンの手中に落ちた。パリ・コミューンはむろん、フランスのすべての大工業中心地のためのモデルとして役立った。ひとたびコミューン制度がパリをはじめとして、それに次ぐ大都市で樹立されるや否や、古いタイプの中央集権化された政府は地方においても生産者の自治に席を譲らねばならない。」

 コミューンを中心国家の絶滅のための試みと見なしたマルクスとまで行き着かなくても、p.238 その経験とその政治的重要性をメンバーの一人ルフランセの言葉を借りて要約することはできるだろう。彼は言う。「じっさい、3月18日の運動の主要な特徴はこうだ。この運動はさまざまな政治的党派の完全な決裂、しかも再び元の鞘に戻ることのない決裂の開始点であった。これらの党派はさまざまな肩書をもち、その時まで革命を代表することを主張していた。」早くも1871年、「コミューン主義」の理論家はそれが「その目的として力を分散させただけにとどまらず、権力そのものを消滅させることを掲げた」と書くことで、コミューンの反国家主義的傾向を強調した。

 これらすべては、マルクスの体系と和解させるのが困難であることは明瞭である。私見によれば、『フランスの内乱』の反国家主義的要素を科学的社会主義と弁証法の理論 ― ここでは機さえ熟せば、政党として組織された労働階級は『プロレタリアート独裁』の名をとる政治制度の手中に生産手段を集中すべく国家を征服しなければならない ― との統合を望むことは、マルクスの業績と思想の戯画化に等しいことになるのではないか。さらに、『フランスの内乱』ではこれらの用語は使われていない。周知のように、「パリ・コミューンを見よ、それはプロレタリアートの独裁だ」と書いたのはエンゲルスである。優れた表現にちがいないが、中身が欠けている。

 コミューンは国家が委縮していくのを待たなかった。国家の廃絶は反対の過程、つまり社会が到達し、優れた生産の形態によって決定される優れた局面の最終的で避けることのできない結果ではないであろう。国家の征服への、そして、それに続く抑圧の前奏曲としてマルクスによって前後に定義された条件のいずれもコミューンは実行しなかった。あらゆる傾向のマルクス主義者 ― エドワード・ベルンシュタイン(Edward Bernstein)、フランツ・メーリンク(Franz Mehring)、アーサー・ローゼンバーグ(Arthur Rosenberg)、カール・コルシュ(Karl Korsch)のような知的完全性や歴史を尊崇する者たち ― はこの事実を認めた。たとえば、マルクスは伝記作家としてのフランツ・メーリンクは『フランスの内乱』についてこう書いている。

 「これらの詳細を取り扱う檄文の方法は優れている。しかし、それらと、4半世紀前にマルクスとエンゲルスが懐いた『共産党宣言』に表明された意見とのあいだには一種の矛盾があった。彼らは将来的にプロレタリア革命の最終的結果の一つは明確に国家として知られた政治制度の解体であるが、この解体は漸次的に展開するはずと考えていた。しかし、それと同時に、彼らは未来の社会革命の、そして、他のなおいっそう重要な目標に到達するためには、労働者階級が特別に組織されたすべての政治権力を掌握しなければならないことを指摘した。p.239 『共産党宣言』に関するこのような見解は、コミューンが寄生的な国家を絶滅しはじめたというパリ・コミューンに関するインターナショナル総評議会の檄文が与えた賛辞とは両立しがたい。

 さらに、ビスマルクの勝利はマルクスとエンゲルスに対して当初はまったく取るに足りない痛惜の情念すらも湧かせなかった。1870年7月20日、マルクスはエンゲルス宛てに書いている。「フランス人は鞭打ちを要する。もしプロイセン軍が勝利すれば、国家権力の中央集権化はドイツ労働階級の集権化によって有用なものとなろう。さらに、ドイツの優勢はヨーロッパの労働運動の重心をフランスからドイツに移すことになろう。また、ドイツの労働階級がフランス人に較べ、組織的見地からいっても理論的見地からいっても優れていることをみるためには、1866年から今日にいたるまでの2国家の労働運動を比較するだけで十分である。世界的水準でのフランスのプロレタリアートに対するドイツのそれの優越は同時にプルードン理論に対するわれわれの理論の優位を示すものでもあるのだ。」

 数週後の8月15日にエンゲルスはマルクスへの返書の中で書いた。「ビスマルクは1866年と同様、現在においてもわれわれの仕事の一部をなしている。」当然のごとく、エンゲルスはその見解の中にドイツの経済的・政治的中央集権化の意向をもっており、これこそマルクスの観念によれば、社会主義の発展にとっての予備条件であった。さらにわれわれは、1865年以降のマルクスとエンゲルスにとってプロイセン軍が達成すべき国民的・進歩的任務をもつことになったことを想起しなければならない。プロイセンのユンカーはドイツの国民的統一に向かうプロイセン軍と同じく進歩的武力を代表した。1866年にマルクスは書いた。「ブルジョアジーを中央集権化するすべての出来事はもちろん労働者にとっても有利にはたらく。」

 『フランスの内乱』の3か月後、マルクスはこれまで自立的連合の同盟だったインターナショナルを集権的な組織に再編するための試みにとりかかった。それと同時にプロレタリアートの組織を政党とし、その政治行動の目標を国家の征服と定めた。われわれは『フランスの内乱』で見出される国家の廃絶に関する語句から外れている。

 マルクスは普仏戦争をヨーロッパ政治の見地から見ている。1870年7月23日の総評議会の声明では、それは防衛戦争の性格をもつと見なしていた。その背景に「ロシアのぼんやりとした姿が現れた」からである。プロイセンの帝国主義的狙いが明瞭になったとき、マルクスは今度はイギリスがプロイセンに、そして同盟国ロシアにも宣戦布告が必要だと確信するようになった。マルクスの考えでは、ロシアがパリ条約〔訳注:クリミア戦争の講和条約〕を破棄したとき、それを為すべき時が訪れたのだ。エンゲルスによって起草され、マルクスによって承認された。こうした線に沿っての決定は総評議会により受容された。ここで、p.240 マルクスとエンゲルスの戦争についての見解や、彼らがインターナショナルを通してフランスの労働者に与えた指令、さらにほとんど影響力をもたなかった指令における奇妙なヴァリエーションを要約することは不可能である。

 恐露論者としてのマルクスが、彼の国家征服概念から導きだしたドイツ統一と中央集権化に向かう傾向をもっているのに対し、バクーニンは同じ発展の中にヨーロッパの「プロイセン=ドイツ化」に向かう危険な傾向を看取した。コミューンの壊滅の後、バクーニンは保守勢力によってつくられ統一されたドイツ国家をヨーロッパに脅威を与える最大の危険と見なした。コミューンに関していえば、バクーニンはこれを。1872年になって再び「国家の歴史的否認」と名づけた。

 

【終わり】