A. レーニング著「バクーニン と無政府主義思想」(その2) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

A. レーニング著「ミハエル・バクーニン ― 1870~71年の反国家連邦主義の理論と実践」(その2)

 

 九月四日革命政府(国防政府)への協力はそれ自体がマルクスの関心事でもあった。マルクスは第二次戦争に関する宣言(1870年9月9日)をインターナショナル総評議会の名において書く。「現今の危機に際し、すなわち敵兵がパリの城門を叩いているまさにその時に新政府を打倒しようとするいかなる企てといえども絶望的な愚挙となるであろう。フランスの労働者は市民としてその義務を全うしなければならない。しかし、それと同時に、彼らはフランスの農民が第一帝政の思い出によって騙されたように、また、1792年の思い出に騙されるようなことがあってはならない。本来の階級組織の責務遂行のために共和主義的自由の機会を改善すべく、労働者を沈着かつ断固として仕向けよ。」総評議会のフランス側担当の通信員ウジェーヌ・デュポン(Eugène Dupont)もロンドンから同じような調子でインターナショナルのフランス側通信員に指示した。彼は、もはや戦争継続する必要はなくなった、「このブルジョア的クズどもがプロイセンと講和をなし、状況のせいであらゆる労働階級の力の組織化を可能にする自由によって利益を挙げるのを放任せよ」と主張した。同じように、インターナショナル総評議会はオーギュスト・セライエ(Auguste Serrailler)をパリに派遣し、蜂起についてのいかなる企てもおこなわぬよう戒めた。

 愛国的傾向に反対することなく国防の維持をしたが、パリ連盟はもっと制限された態度に出たことは明らかなように思われる。総評議会は地方のインターナショナル加盟員に対して通知を送り、革命のフランスを救うべく愛国主義のあらゆる可能な手段を講じて鼓舞すること、さらに、ブルジョア的ボナパルト主義の反動に対抗する精力的施策の採用を説き、そして、共和主義委員会の組織化、すなわち未来の革命的コミューンの萌芽的要素を通して強力な防衛措置の容認を強調した。さらに付加して言う。「われわれ自身の革命はまだ始まっていない。侵略から解放され、われわれが革命的手段によりわれわれが渇望する平等社会の基礎を据えるその時に、それをスタートさせるであろう。」換言すれば、当面は戦争、次いで革命というわけだ。

 宣言の署名者の中で傑出しているのがヴァルランである。彼は数か月前、バール(Bâle)会議で集散主義を力説し、それ以降、バクーニンが結成したグループに属した。1869年12月25日、ヴァルランは書く。フランスはむろん、スペインとイタリアを陥らせ、こうしてヨーロッパの社会革命を意味するような革命を実行するためには、インターナショナルはなおまだ1年おそらくは2年かけてのプロパガンダと組織化を必要とする、と。

p.231   1870年8月30日、バクーニンが「1年前のわれわれは、われわれが(そのうちの幾人かの人々はもっと早く、また、幾人かはもっと遅れて)望んだ革命を準備した。そして、今や盲目な人たちが何と言おうと、われわれは革命の真只中にいるのだ」と言ったとき、これらの言葉が確認された。準備期間は過ぎ去った。「社会革命の諸原理を理論的に発展させる仕事は他者に任せることにし、われわれ自身は大っぴらにそれらを適用することで満足しよう。それらを事実として具体化することに。… 今やわれわれはすべて革命という海原めがけて出帆しなければならず、今後のわれわれはもはや言葉ではなくして事実 ― 最も民衆的で、あらゆる形態のプロパガンダの中で最も強力かつもっとも魅力的な事実 ― によってわれわれの原理を広宣しなければならない。政策、つまり諸原理については沈黙しよう。しかし、われわれはつねにわが事実の遂行について弛みなく首尾一貫するよう努めよう。革命の全体的安寧はその内部に宿るのだ。」モーリス・ドマンジェ(Maurice Dommanget)が極めて正当にも記したように、バクーニンはブランキとは明瞭に異なり ― さらにマルクスとも異なり、とつけ加えておこう ― 彼の鉄のように堅い基礎を革命的水準の上に置き、ブランキ以上に階級闘争の観点から諸事件を分析している。

 1870年9月4日、バクーニンはリヨンにおける彼の仲間に身柄を預けた。同日付のリヨン宛ての書簡中で、彼は採るべき革命戦略をうち出す。彼は書く。「フランス人民はもはやいかなる政府も信用してはならない。たとえそれが革命政府であっても、現存の政府機構が打倒されるとき、人民は蜂起しなければならず、あらゆる面における国家の崩壊を宣言する一方で、(低位から高位へと)公的方向の外側に自らを組織しなければならない。武器を使わないすべての者から武器を没収すべきである。ただ一つの法律のみが力をもたねばならない。外に向かってはプロイセン軍の脅威から、内に向かっては裏切り者からフランスの安寧を図ることがそれだ。武器を使わせないすべての者から武器を取りあげる一方で、すべてのディストリクは臨時政府を結成するため、代表者をパリ以外のどこかへ派遣しなければならない。大きな地方中心地としてのリヨンとマルセーユはこの運動のイニシアティブをとり、しかも直ちにとらねばならない。さもなくば、フランスとヨーロッパの社会主義は失われてしまう。したがって、「ためらいは罪悪である。」

 9月15日、バクーニンは2人の仲間を帯同してリヨンに到着する。1人はロシア人将校ウラジミール・オゼロフ(Vladimir Ozerov)、もう1人はポーランド人のヴァレンティ・ランキヴィエク(Valenty Lankiewicj)である。後者はパリ・コミューンの前哨で斃れることになる。9月17日、フランス救国中央委員会が組織され、これは26日、それより前にバクーニンによって起草され、その翌日にリヨンの町壁に貼りだされた「コミューンの革命的連合」による有名なアピールを集会で採択した。多数の宣言文でそれは以下のように述べる。「すべての現存する市の組織は破壊され、あらゆる権力を人民の直接的支配下におくフランス救国のための委員会により連合コミューンに取って代わらせる。」その失敗がすでに周知のものとなっているこの蜂起の歴史を振り返ることがここでの問題ではない。p.232 にもかかわらず、これらの宣言は国家に向けての最初の公然たる抗議宣言となった。それらは数か月後、パリ・コミューンの綱領において歴史的意味を見出すはずである。

 バクーニンの幾多の活動と同様に、この不成功に終わった蜂起に関し、今まで数多くの批判が寄せられてきた。マルクスはバクーニンをドンキー(ろば)と見なしたが、これはマルクスとエンゲルスの文芸上の巡回動物園における唯一の例ではない。『フォルクスシュタート』紙は語る。「ビスマルクに奉仕するためにベルリンの新聞局におけるよりも彼は首尾よく達成できたかもしれない。」マルクスはロシア人バクーニンが宣言に署名したという事実について批判的だった。だが、マルクスを含め、すべての者が数か月後のパリ・コミューンの諸事件に参画したことを激賞するにいたる。

 マルクス主義歴史家であるとともにバクーニン伝記作家のジュリー・ステクロフ(Jury Steklov)は社会民主党機関紙によってかつて取りあげられたことのあるマルクスの下品な皮肉を批判しつつ、バクーニンの意図を次のような言葉で要約した。

 「社会民主党機関紙において冷ややかに用いられた。そして、バクーニンの勢力はけっしてそれに値しないと言わねばならない。たしかに、バクーニンと彼の追随者で無政府主義思想をもたない者らは『国家の廃絶』なる幻想や机上の宣言を批判する権利と義務を有する。しかし、彼の弱点を無視しても、当時の彼の介入はフランスのプロレタリアートの眠りこけるエネルギ―を覚醒させ、それを資本主義反対闘争に導き、それと同時に外国の侵略者を撃退するための勇気ある努力となった。このことは多かれ少なかれ、6か月後のパリ・コミューンが実施を試みようとしたこと、そして、それに対しては周知のように、カール・マルクスが温かい激励を送った。われわれにとって重要なのは、世界の真正の市民としてバクーニンが世界革命の利害であるように思われるゆえに支援を送ろうとしたことである。1870年のフランスでも同様になさんと試みつつあった。

 バクーニン計画そのものを考察すれば、もしそのものとしてこの計画に不変に結合しているわけではない。その特殊な無政府主義的体裁について浮き上がらせるならば、バクーニンの計画はそれほど荒唐無稽なものではない。バクーニンの考えによれば、彼は戦争が惹き起こした動揺により、ブルジョア的非能率と大衆の愛国的抗議により、さらに彼らの旧態依然で漠然たる社会的願望 ― 大都市の密集住居の一角に決定的干渉を試みるべきであり、次いで他の中心地に拡大し、農民を引きずりこんで最初の世界的社会革命の基礎としてうち固めるべきである ― により利用しなければならなかった。今や、何びとも社会革命の試みにとって機が熟しているとは見なさなかったし、インターナショナル総評議会もその当時はそれを超える良きプランを提起しなかった

p.233   率直に断言する必要があろう。もし大衆のエネルギーを解き放ち、根本的な社会的転覆を達成するのにフランスの敗戦を利用することが可能であったとすれば、バクーニンの計画は他のいかなる計画よりもさらに適切なものとなっていたはずである。リヨンでの最初の未遂に終わった蜂起から6か月後に勃発したパリ・コミューンは、バクーニンが組織した壮大な計画の不完全かつ未完の単純なアウトラインであったにすぎない。バクーニン計画について彼は『現今の危機期に関してフランス人宛ての書簡』の中で細かく述べ、その計画に彼の友人を引き入れようとしたのである。

 さらに、われわれが信じるところによれば、欠陥や失敗があるにもかかわらず、リヨンでの未遂に終わった攻撃は、バクーニンが真に『革命の動揺』、革命の偉人、広い視野と英雄的決意をもった人物であることを証明した。

  市議会選挙時におけるリヨンの解き放たれた革命勢力は、革命があまりに早く到来したため、成功の機会を失ったといって差し支えないだろう。歴史家たちは、歴史はそれが辿った道を踏み外すことなく、そして、もしいかなる場合も機会というものがあるとすれば、それはナポレオン三世の失脚の時だったことを確信する理由がある。「コミューンは6か月遅く来た」というヅブルイル(Dubreuilh)が言うのも尤もである。トロツキーはどうかというと、彼は彼で1921年に書くことになる。「コミューンはあまりに遅かった。9月4日に権力を掌握するなかでチャンスはつねにあったのであり、しかも、パリのプロレタリアートが過去のあらゆる勢力、ティエールに対するのと同様にビスマルクに敵対するための闘争において農村の労働者の先頭に立って一撃で権力の座に就くことが可能であったのかもしれないのだ」、と。

 1870年秋、最初の革命のうねりがあったが、そこではパリは重要な役割を演じなかった。コミューンは9月に地方で、特にマルセーユやリヨンで生まれていた。フランスの南部と東南部で大雑把な連合が出現し、それは後にパリ・コミューンとなるところの本質的な特徴をすでに併せもっていた。もし戦争がそうした連合の関心の中心に位置していたならば、それはそれらが革命戦争になりうると見なしていたはずである。1871年の春、コミューン蜂起はそれらの唯一の関心であった。3月、パリは革命をスタートさせたのだが、このことを正確に言うと、地方にとってはあまりにも遅く、コミューンを再び始めなければならかったのである。