A.レーニング著「バクーニンの無政府主義思想」(その1) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

A.レーニング著「ミハエル・バクーニン ― 1870~71年の反国家連邦主義の理論と実践」(その1)

Arthur Lehning, Michael Bakunin; Theory and Practice of Anti-State Federalism in 1870-71.

 

p.225

 普仏戦争の開戦直前の1870年4~5月、7年に及ぶ投獄・流浪生活ののち1861年12月にヨーロッパに帰っていたミハエル・バクーニンはその後、彼の名前といっしょに関連づけられる思想に明確な形を与えつつあった。

 これらの思想は首尾一貫した統一体を、すなわち彼の革命的実践が密接に関連づけられる社会哲学を構成する。バクーニンは帰還してすぐに革命活動を再開した。彼は1863年以降、来るべき変動があっても油断しないよう気遣っていた。第一インターナショナル結成以前にバクーニンが国際的規模においてミリタンを組織しなかったのは、このような事態に備え、かつ影響を及ぼすことができるようするためであり、こうすれば1848~49年の諸革命が犯した誤謬を回避できると考えた。なかんずく、「新ジャコバン主義の」傾向の裏をかくためであった。フリーメーソン団とカルボナリ党の伝統、その前の40年にも及ぶブオナロッティ(Buonarroti)の追随者、新バブーフ主義の秘密党員およびブオナロッティの30人組、マッチーニ、マルクス、エンゲルス、要するに1820年から1850年にかけての、あるいはそれ以降の国際的社会主義運動の全体の秘密活動家による地下活動がバクーニンを刺激した。彼はスイス、ベルギー、ドイツ(1840年代)に滞在中にp.226 このような活動と親密になり、彼の思想に秘密結社の法規と綱領のかたちを与えた。

 これらの「幽霊」組織 ― その最初のものは1864年に結成され、最後のものは1872年につくられたが ― は短命で終わるか、あるいは実在しないものであったにもかかわらず、バクーニンとそれら組織との関わりには2つの側面があり、そのことを銘記しておいてよい。第一に、綱領・規約・規律を書きたがるという彼のあからさまな習癖をもっていたため、バクーニンはこれらの案文で彼の思想の本質的部分を素描することになったが、その方法はそれらの普及にあまり好ましい結果をもたらさなかった。だが、バクーニンがこれらの核心ないしは中核に固執するという重要性は考慮に入れる必要がある。なぜというに、革命以前とその最中における彼の活動と戦略の検討にとって重要であるからだ。1870年4月1日、彼はインターナショナルのリヨン支部のアルベール・リシャールに次のような内容の書簡を書き送った。

 「政治革命家、表向きの独裁の徒党はひとたび革命が最初の勝利を収めるやいなや、情熱、秩序、信頼、樹立された革命権力への服従といった宥和政策を執ることを勧める。このようにして彼らは国家を再建するのである。われわれはこれとは反対に、あらゆる情熱を助長し、刺激し、解放しなければならないと考える。われわれは無政府的混乱と人々の騒擾の真只中において眼につかない指導者をつくりださなければならない。われわれはいかなる種類の上辺の権力ではなく、すべての同盟者の集団的独裁を ― つまり、名誉の肩書や称号なしに、また、公的権限を帯びずに ― 指揮しなければならない。これは私が承認する唯一の独裁である。しかし、行動できるためには存在することが前提であり、そのためにわれわれは備えがなければならないし、それを前もって組織しなければならない。なぜなら、それはそれ自身において、あるいは討論や原理の議論や人民集会によっても到達しえないであろう。少数の、しかも優れた同盟員、精力的で思慮分別があり、忠実であるとともに虚栄や個人的野心を捨て去った同盟員や、非常にまじめで勇気があり、正しい場所に心臓をもち、空しい外観よりも力の現実を好むような強い男たちが必要なのだ。

 2か月後、バクーニンは同じような長身でセルゲイ・ネカエフ(Sergey Necaev)に書き送る。バクーニンの思想に関するかぎり、あらゆる要素は明瞭である。本質的要素は1900年のマックス・ネットラウ(Max Nettlau)から献呈された伝記によって知られている。われわれはそれにつけ加えて、ここで1870年7月から1871年5月までの間に、われわれの興味を惹く期間をつけ加えるべきであろう。彼の著作はすべて2つの冊子を除いて死後に発刊された。それらの思想が彼の弟子たちにどの程度影響し、そして一般にバクーニンが、1868年の夏以降にメンバーの一人となったインターナショナルのミリタンにどの程度の影響を与えたのだろうか? これは簡単には回答できない複雑な問いである。多くの点でわれわれは十分に知りえているが、p.227 しかし、他の場合には多くの資料が失われ、それは永遠に失われたままに終わるだろう。さらに、この困難な時期の社会運動の正確な歴史にはなおまだ書き足さねばならないことがあろう。それにもかかわらず、利用しうる資料は政治的事件に関するバクーニンの見解を大雑把には跡づけることができるし、彼が唱導した手段、彼が採用しようとした戦略と彼自身の活動も同様である。

 1866年、「革命的教義問答」という名で知られる長文の原稿においてバクーニンは彼の政治的・社会的綱領を発表した。一国家のいかなる政治組織の基礎も完全な自治的コミューンでなければならない。このコミューンは選挙により、そして、必要とあらば、その官職からあらゆる公僕を任命または罷免するであろう。それはそれ自身の立法をなし、固有の憲法を起草する明瞭な権利を有する。地方は自治的コミューンの自由な連合となるであろう。一国家のあらゆる革命権力が一か所に集中するのを回避することにより、革命は「それが農村はむろんのこと、同時に都市における大衆の一斉蜂起に依らないかぎり、けっして成功しないであろう。」

 2年後の1868年、バクーニンは再びコミューンについて語るが、コミューンは国家にとって代わるべきであり、われわれが彼のペンから「バリケード連合」の表現を最初に見出すのはここの時である。コミューンはバリケードの恒久的連合であるだろう。この議会は街路または町内のバリケードごとに1~2名の代表から成るもので、これらの代表はつねに責任をもち、つねに廃止しうる絶対的命令委任を帯びる。換言すれば、武装国民の派遣委員のソヴィエトがこれに当たる。

 1860年代末からバクーニンは第二帝政の崩壊を期待しており、彼の弛みない活動は幾つかの方向に同時になされる。彼が期待していることは以下のとおり。フランスにおける革命がスペインとイタリアの革命運動に影響するであろう。そして、オーストリア、ポーランドのスラブ族とウクライナ人に伝染し、次いでロシアの農民大衆にまで拡大するであろう。大変動の震源地たるフランスでは、最初の蜂起はパリの革命ではなく、地方しかも南東のマルセーユ、特にリヨンの革命に期待をかけていた。リヨンというのはフランスの第二の都市であり、伝統的に革命の中心でありつづけてきた。この「社会主義の都」においてインターナショナルが堅固に移植され、バクーニンの思想はここに深く根を張るだろう。

 インターナショナルの最も特徴あるデモが巻き起こり、ウジェーヌ・ヴァルラン(Eugène Varlin)が指導するのはリヨンでの1870年3月13日だった。バクーニンがここに招かれ、ジュラ連合の代表アデマール・シュウィツゲベル(Adhémar Schwitzguébel)― この人物は1868年以来、バクーニンの親しいサークルのメンバーだった ― に指示を与え、彼の友人に宛てに読まれるべきメッセージを出させた。この時期のものとは日付が定まらない2つの匿名のテストは行動綱領の実質的部分を構成する。その本質はこうである。p.228 「パリ、リヨン、マルセーユ、リール、ボルドー、ルーアン、ナント等々の革命的コミューンは協同して、そして帝政を転覆するための革命運動を準備し指揮することによって以下のごとく宣言する。これらコミューンは、それらが宣言する平等主義的原理の適用により革命の勝利を確保するであろう。その時初めて成就される責務を考慮するであろう」。

 リヨン会議の数週後、バクーニンはアルベール・リシャールに書簡を送った。その書簡中で彼は綱領を示し、リシャールの「ジャコバン的」思想を批判する。バクーニンの判断によれば、リシャールはこう考えたというのだ。つまり、革命がパリで勃発すれば、多くの都市は派遣委員を送って一種の「公安委員会」を結成する。同委員会は革命達成、旧国家の廃棄、社会解体、財産の集散化を宣言し、内外から打ち寄せるいかなる反動も抑圧するのに十分強力な革命国家を組織するであろう、と。バクーニンは自分の考えはこれの正反対だと宣言する。それはリシャールの思い込みというべきものである。革命の発火点がたとえパリであったにせよ、バクーニンはこれをすべて確実なものとは考えない。革命の仕事とはただ一重に国家を破壊し解体すること、その全体的な破産を宣告することである。たしかに、パリはすべてのそのディストリクの革命連合と「連合コミューン」を組織するで自らを組織するかもしれないが、しかし、それはフランスを支配し組織する権利を放棄することにもつながろう。同様に同時に、しかも相互に独立的に蜂起する各州、各市町村からの代表者から成る連合的革命議会は、その使命としてフランスを組織する仕事を請け負うのではなくて、自発的な非国家組織の表現であらねばならない。

 7月半ばまでにバクーニンは普仏戦争が不可避となり、同様にボナパルト派のフランスの敗北が必至であると考えていた。この敗北は社会革命のみを導くことができるし、革命家、殊にインターナショナルの革命派は革命の発展において最も活動的な役割を果たさねばならないであろう。ドイツが戦勝のした一報に接した彼は熱狂して彼の活動をいっそう拡大した。3日間、彼は23筆もの長文の手紙を書き、「フランス人への手紙」を発表した。2つの基礎的思想がこの仕事から記憶されねばならない。バクーニンは「秩序維持」というたった一つの綱領をもつであろう。国防政府の樹立を予想していた。社会革命を解き放つことが必要であり、フランスの安寧は人民の全体的な蜂起に依存するが、しかし、この見地は資本の重みによって支配され圧倒されたフランスでは目新しいものである。この時、真実の革命のイニシアティブを執るのはパリではない、イニシアティブは地方が握るものとなろう。

 スダンにおける仏軍大敗の2日前、彼はなおもペンを執る。「ただ一つの関心、たった一つの考え、すなわち、自己防衛に夢中になったパリはフランスの国民的行動力を指揮し組織することはまったく不可能であろう。p.229 もしパリがこうしたバカげた行為、つまりつまらない要求に耳を傾けるならば、運動は死んでしまうだろうし、したがって、国民的安寧という崇高な利害関係にもとづいてパリに逆らうことはフランスと地方の責務となろう。パリが自己自身の利害においてなすことのできる唯一にして最善のことは、地方の運動の絶対的独立性と自発性を主張することになろう。そて、もしパリがいかなる理由であれ、そのことを忘却ないしは軽視するようなことがあれば、愛国主義的な地方諸州はフランスとパリそのものの安寧のために自発的にパリとは独立的に自力で蜂起し組織することを命じるであろう。これの結果は、もしフランスがなおも救済されうるとすれば、地方諸州の自発的蜂起によってのみそれが可能であるということはまったく瞭然たる事実である。

 彼の見解は9月4日後も変わらなかった。それとは逆に、バクーニンは侵略者に対する戦争を継続し、それと同時に共和主義(ブルジョア的)制度に対する叛乱を継続することが絶対的に欠かせないと確信していた。1792年のダントンの言葉、「進撃する敵軍を前にして諸君は敵を殲滅し、諸君の背後に廃兵を残すべきだ」を引用しつつ彼は言う。「外敵プロイセン軍に対して自信と安心をもって進撃すべく、内部のプロイセン軍をわれわれは打倒しなければならない。」彼は共和主義政府の確立を阻止することを望んでいたのかもしれないし、期待を愛国的戦争の継続と革命的原動力の同時的強化 ― 彼の見解の中ではそれこそが革命のための農村人を引き入れるための唯一の方法だった ― に賭けていたのかもしれない。ただ都市労働者のみが革命側につくことを十分に承知していたため、バクーニンは都市の革命が農民のあいだにも起こりうること、そして、社会革命が可能であり、かつフランスが救済されるのはこうした条件下でのみ可能なことを想定していた。

 このように、政治状況と革命の展望を評価するに際し、バクーニンがインターナショナルの革命家たちのあいだでは唯一の人物であったことは明瞭である。したがって、こうした見解はオーギュスト・ブランキや「新ジャコバン主義」の見解とは対照的であった。すなわち、後者はその態度においてブランキの「敵を前にしてはもはやあらゆる党派間に意見の相違はない」という合言葉に最もよく表現されるし、彼らは10月になるまでずっと国防政府に協力する意思をもちつづけていた。彼らにとっては社会問題のほうが国民的課題に優越していた。バクーニンの見解は状況の的確な評価に基礎をおいていた。つまり、敗北は体制の崩壊に帰着するのみならず、軍事的装置を弱め崩壊させるし、したがってこれを通して国家を弱体化させるであろう、と彼はみていた。したがって、状況は革命のための本質的要素の一つを内包していた。バクーニンはいっさいの「神聖同盟」、いっさいの政府との休戦協定を拒絶する。彼はこうした施策を直ちに反革命行動と評価していた。支配階級が侵略者の敗北者となったのはその支配権と階級利害を擁護するためだった。p.230 国防政府の政策と行為はすべて、「革命から離脱すること」の意向に支配された。バクーニンの態度とブランキのそれの全体的な相違は、バクーニンが以下のように確信していた事実の中にある。すなわち、特にフランスの悲惨な状況は社会革命を霞ませるのではなくて解放を呼び寄せるという確信である。