J.R.ショタール著「コミューンと地方のイメージ」(その4) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

J.R.ショタール著「コミューンと地方のイメージ」(その4)

 

 合法的と定義されたものの道に共和派をとどまらせたこうした抑制は政府のプロパガンダにより補強される。このプロパガンダは穏健派の失敗の3番目の原因となる。行政権力は『灯台』紙と他の諸新聞の第一面の冒頭コラムに入れられた政府宣言や公式電報を見届けるという特権から利益を得た。たしかに、論説委員たちはそれを論評したり、諂いをやめて疑問を発したりしてきた。5月10日、パリ市民向けの宣言がこのようなものだった。この宣言中でティエールは共和主義という用語にふれるのを省いている。こうした客観性は明らかに行政長官の威信にとって高くつくものとなった。それは、多くの読者に左派の見解が単なるエピソードとしてしか読者に伝わらないゆえに、右派の見解を定期的に受け入れることを慣らすのに役立った。他方、ジャーナリスト集団がコミューンに向けたティエールの叱責も同様に振り撒くとき、多くの読者は焦慮のあまり、両極端のすべての見解が総じてまちがっているという確信を懐くにいたる。世論はたいてい動揺し、行きすぎが最も顕著にあらわれる2派の意見についていきあたりばったりに断固として非難することになった。「血の一週間」とともに行き着いた先はこれである。

 十分な情報を持ちあわせないジャーナリストたちは意図せずして公式の捏造話をおうむ返しにくり返した。彼らは『ル・タン』紙の小心翼々たる助言を複製するにいたる。『ル・タン』紙は軍隊に対し、即決裁判をやめるよう説いた。しかし、ジャーナリストらはコミューンに関する不愉快な噂を数多くふり撒いた。パリは消耗してしまったのであろうか? インターナショナルと結んだ叛徒たちはかつての帝政の手先、つまり、1851年のクーデタを敢行した連中ではなかったか? このような噂がもたらす苦難の挙句、堪えがたい幾つかの事実がナントの読者の許に届いて追加的な傷を与えた。パリの大火災は真実の驚愕を惹起し、ティエールによる処罰主義裁判への同情を誘うことになった。或る論説委員はコミュナールについて語る。「放火という彼らの最終的行為は絶対に容認できない。あらゆる寛容な措置は手控えて当然である。多くの平和愛好の地方人は明らかにこうした評価を受け入れ、パリ大司教の処刑を知ってのちとなると、なおさら憤激は大きかった。

 『灯台』紙の共和派チームも同じような態度に行き着く。僅かの期間だったが、ティエールの笏杖の命令下に身を置いた。このような自己放棄が計算づくであったことは確かである。ナントの実直なブルジョアはパリ連盟兵の態度によって心底から衝撃を受けたが、しかし、彼らは自分らの目的を忘れなかった。それはその明白な諦めの4番目の原因となるレアリズムである。計算は明瞭である。それは最も急進的な共和派分子を生贄に差しだすことであり、共和政が穏健的体制であることを示すために、p.180 コミュナールによって代表される最も厄介な連中を切り捨てることだった。或る論説委員は5月28日に以下のように書いたとき、この狙いを言い当てていた。

 「清廉にして共和政に忠実な体験をする絶好のチャンスは今をおいて外にない。共和政に尽くすという口実で共和政を辱めた罪人たちは速やかに無力化されるべきである。真正なる共和派、確信に満ち、その史的廉直さがあらゆる疑念の外にあるような共和派だけが残るであろう。彼らこそが多数派である。彼らは熟慮し真理を弁える選挙人の多数を代表するのだ。フランスに対し、フランスにとって最も必要な秩序と安定をもたらすべく尽力しなければならないのは、彼らの原理の適用によってである。ティエール氏はそのような企てをなすことを約束した。」

 『灯台』紙においてしばしば登場する行政長官のこの約束は明らかに、新たな暗黙裡の妥協の割りまえを形づくる。妥協の最後に、地方の共和派はあらんかぎりの故意の言い落しを使ってコミューンの過誤への憤激を受け容れる。その代償として議会の保守派は直ちにその軍事的勝利からあらゆる便益を引きだすことを諦める。それぞれのパートナーはその報酬として、万事手出ししないという現状の総体的な安定性を確保する。それぞれが未来機会に託すことを考えたわけである。そこから一つの主要な結果が生じた。つまり、敗北しておとなしくなったコミューンは国民世論の前において、まさしくコミューンのみが懲らしめられるべき責を負うことになった。新聞に襲いかかる政府検閲制度は今や諸事実を改ざんし公式文書化するという改作に役立てられる。

 それ以降、幾人かの同時代人は現実のこのような変造を見抜いていた。リサガレーはこのことを主張している。そして、事件が進行する最中にさえパリ人権同盟は市議会に宛てに状況を説明した書簡を送る。それによると、「パリの孤立はフランスにおいて1871年3月18日の共和主義運動の原因と性格に関して最も誤った観念が拡がるのを許す」、と。かくて、コミューンの画策者たちは事実の曲解を懼れた。

 地方の新聞の詳細な研究、穏健共和主義と世論の代表たる地方新聞の詳細な研究は過程を十分細かく理解するのに役立つ。その過程に従うと、世論は政治権力により操作されていることが明らかとなる。さしあたって、フランス人大衆は王党派議会の傾向的な解釈に従ってコミューンの諸事件を知った。時間が少し経ち、共和政が勝利を収めたとき、支配的イデオロギーはこの内乱のエピソードについては沈黙したままでいる。1880年内に勝利を収めた共和派は彼らがめざす方向とは異なる政治党派の名誉挽回への気遣いをほとんどしなかった。1871年5月、6月に生起した弾圧に関しての極端な吹聴は階級闘争が一つの神秘的事件ではなかったとの観念を降り撒くのに役立った。p.181 新制度下に国民的統一を強化するために歴史教科書のハンドブックは、その思い出がフランスを分裂させかねない諸事実を過少評価する。その同じ解釈を温存し信用させる。

 ヴェルサイユの反動派は1871年に2つの勝利を獲得した。短命に終わった1つの勝利は道徳的秩序を超えるものではなかった。その償いに2番目の勝利はそれよりずっと確実であった。彼らはフランス世論に対し、コミューンに関する誤った知識を与えた。そうした知識は沈静化の名において今日まで恒久化している。百年後になっても、フランス人の集団的思い出はこうした状況についての悪口を受け入れている。政府は9月4日を祝ったが、しかし、組合と野党のみがコミューンを祀り上げた。1871年3月のパリのエピソードは国民的・歴史的過去における諸事件の部分的隠し立ての実例をかたちづくる。フランスの場合、この現象は際立った明晰さをもって国民世論の2つの敵対的伝統への永続的分断を好例となる。

 

【終わり】